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顕正会の誤りについて

顕正会の誤りについて

平成7年度夏期講習会第2期

第2期 観心本尊抄、観心本尊抄文段、三大秘法抄
平成07年06月11日



    『観心本尊抄』
 「今末法の初め、小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前 せず、諸天其の国を棄て之を守護せず。此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。『謗に因って悪に堕つは、必ず因って益を得』とは是なり。我が弟子之を惟へ、地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり。寂滅道場にも来たらず双林最後にも訪はず、不孝の失之有り。迹門の十四品にも来たらず本門の六品には座を立ち、但八品の間に来還せり。是くの如き高貴の大菩薩、三仏に約束して之を受持す。末法の初めに出でたまはざるべきか。当に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(御書 六六〇頁)

    『観心本尊抄文段』
 「文に云く『当に知るべし此の四菩薩』等文。問う、応に『四菩薩折伏を現ずる時は、聖僧と成って』というべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ賢王というや。
 答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く『法華折伏、破権門理』の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く『正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし』等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云」(日寛上人文段集 五四六頁)

    『三大秘法抄(三大秘法稟承事)』
 「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是なり」(御書 一五九五頁)

 第二期の講習会に、遠路のところ、皆様ようこそはるばる御登山でございました。

 この講習会は、いろいろと当事者において良く案を練られ、理想的な日程で行われるように私は思うのであります。その中で、ある程度の講習内容を盛るためには、やはり一泊登山ということがどうしても必要になってまいります。

 ところが、伝え聞くところによりますと、創価学会が最近までに総本山に来ておった状態の中で、総本山になるべく行かせまいとする脱・日蓮正宗の底意が、はっきりといろいろな形で出て参りましたが、そういう中で、ちょうど新幹線等の乗り物の整備も含めて、日帰りで行けるというような形から、常に日帰りを慫慂しておりました。そういう在り方が、法華講の皆様の中にも、学会から見えた方もおられるので、知らず知らずにそういう形の中で、「お山へ行くのは日帰りがいいんだ」という観念に閉ざされてしまっている方も、あるいはあるかと見えまして、この一泊の講習について、どうも「一泊なんて時間がもったいない」というようなことを申される方があるそうであります。できればぜひ、こういうお考えは改めていただきたいと思うのであります。

 身・口・意の三業ということが、仏法においての修行であります。これは毎日の我々一切の人々の生活において、身体と口と意、身口意ですね、この三つは必ず具わっているものです。このうちで、口で喋ることは、お互いに聞いたり、話したりしまして、自分の意識の中において非常に善悪の行動が自分自身にも認めやすく、人もまた評価がしやすいのであります。

 それから頭、意が働きも当然、意が色々な形になって現れてきますから、したがって、この意ということも自分自身でも、見やすい意味があります。

 ところが、この身ということだけは自分自身が判らないのですね。本当に身体ということに対しては、大事なんだけれども、それをうっかりしている意味がありますが、仏道増進の功徳を進めていく上においては、この身体ということは大事なのです。

 何しろ、この身体で行っていくことにおいて、過去のいろいろな悪業・善業が全部体のところへきているわけですから。生まれてきて病弱な人、病気ということを一口に挙げても、肉体的な病気がその人その人によって、千差万別、様々であります。これは何かと言うと、みんな過去の業によるわけです。この過去の業が、体に出ているわけなんです。したがってこの体に、福徳を積んでいくことが大事なのです。それが、例えば今度の講習についても、日帰りでさっと帰ってしまうよりも、この講習は一年にただ一回ですから、そういう機会に総本山において、この霊気に浸って、自己の過去以来の謗法罪障を集めた身体を大聖人様の、御戒壇様の霊気の満つ総本山で一泊を過ごすということが、非常に意義のあることなのです。「時間がもったいないからすぐ帰ろう」などという考えが甚だよろ
しくない。ぜひその点は、お考え願いたいと思うのであります。

 今日は、只今拝読いたしました『観心本尊抄』のこの部分と、それから次の『文段』についてお話しいたします。

 文段というのは、『観心本尊抄』の文についての科段という意味でありまして、『観心本尊抄』全体の中で、ここはどういうことをおっしゃっているか、ここはどういうこと、というように区切り方があるのです。この区切り方がいい加減になると、天地顛倒、みんなひっくり返ってしまいます。身延派の人たちは『観心本尊抄』でも、どの御書でも、この区分け方の根本が違っているから狂ってしまっておるわけです。分け方というのは大事なんです。『観心本尊抄』の正しい分け方によって、大聖人様がこの御書において、どういうことをお示しであるかということを正しく解釈することが、科段のたて方によってあるわけですね。文段というのはそういう意味であります。

 この文段の内容がここに在ります、これらについて、申し上げていくわけですが、何故こういう形を選んだかと言いますと、少し難しくなるのです。現在、折伏・再折伏ということが、宗内で言われております。

 折伏ということは、新しい方に対する下種そして教化・折伏ですね。再折伏というのは、学会員ですね。学会員の頭の中に入っておる大きな問題の一つとして、「池田先生は、大聖人様の残された一切のことをなさった、大聖人様と同じような立派な四菩薩の仏様である。『この四菩薩当に折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責』するという、この賢王であり大聖人様と肩を並べる聖人である」と。それでもって、これだけの広宣流布が出来たんだ、ということで会員を洗脳しているわけです。

 大聖人様の御一生の振る舞いは、釈尊が説かれた法華経の一切をことごとく身に当てて行ぜられたものであり、そのことごとくの正義・正理を束ねた、妙法蓮華経の是好良薬を正しく末法に弘通あそばされ、そして身口意の三業において刀杖瓦石の難に遭われ、流罪・死罪等の大難に遭われて、法華経の文々句々ことごとくを実証あそばされたお方でありますから、その日蓮大聖人が出現されなければ、釈尊や多宝如来、それから十方分身の諸仏等の証明も、ことごとく全部嘘になる。これが大聖人様の御出現によって証明されたことによって、この法華経が勝れ、また一代仏教が結局、全体が正しいことが判るという意味は、たしかにあります。これは大聖人様の御書の中にも御指南であり、私共も常に皆様方にお話をしておるところであります。そこまではいいのです。

 それがさらに、大聖人様の広宣流布の予言は、池田大作が出て初めて出来たんだ。だから池田大作は絶対の四菩薩の賢王だということを洗脳されたのが、学会員の頭にこびりついているのです。だから、池田先生から離れたら地獄だと、ちょうどオウム真理教の麻原を信じている信者がいますね、あれと同じなんです、実は。いろいろなところがよく似ています。

 そういう意味もありまして、これは全部狂った洗脳であり、間違いなんですから、きちんとしておかなければいけないと思いまして、少々難しいかもしれませんが、今日はこの『観心本尊抄』乃至『文段』、最後の括りとして、『三大秘法抄』を挙げたわけであります。

 この『三大秘法抄』は、実は解釈はいたしません。「『三大秘法抄』は解釈すべきではないのです。広宣流布の事相をこの文においてお示しになっておりますから。他の文のところはまだいいにしても、この文だけは、あの大学匠であられた日寛上人様が、『六巻抄』をはじめ、あれだけ各御書の文段を書かれましたけれども『三大秘法抄』だけはお書きになっておられないのです。そして、『三重秘伝抄』のなかで「事の戒壇とは、即ち三大秘法抄に云く」この文ですね。戒壇の文を上げられただけなんです。解釈のかの字もない。これは、深い意味があるのです。簡単に、広宣流布の事相を凡夫がこうだ、ああだなどと言ったり、考えたりすべきではないのです。まして、池田大作などというあんな者が、やるべきでないことをやってしまったのです。これについては、後で申します。そういうことから、今の学会員が途方もない洗脳を受けている意味があるのです。今は、それだけ申し上げておきます。

   謗法の時に約す

 まず、この始めから読んでいきます。

 「今末法の初め、小を以て大を打ち権を以て実を破し、東西共に之を失し天地顛倒せり」

 このところは、謗法の末法という時代において、初めてこの地涌の菩薩が出現することを示される中において、まずはじめに、この大聖人様の時代、今もそうなのですが、小乗という劣った教えを以て大乗を打ち、大乗に背き、権教という劣った教えにおいて実教に背反・破る、そこに大きな誤りが在ると。それによって、衆生の貪・瞋・癡の意の三毒が途方もなく出てまいりまして。それによって、あらゆる八万四千の心病が起こって来るのです。

そういうことから、天地顛倒した、狂った状態があるということをお示しであります。

 次に、
 「迹化の四依は隠れて現前せず」

 これは、迹化の四依というのは、観音・薬王等が、南岳・天台等と示現し出現して、迹門を以て表となし、本門を以て裏となして、法華経の迹門ですね。十界互具・百界千如・一念三千その義を尽くせり。そういうことを大聖人様は、『観心本尊抄』において、おっしゃっているように、像法の時代に法華経の迹門の義が弘まって、その時代の人々を救ったという意味があります。しかし、その徳のある方々も今末法に来たって、全く隠れてしまって、その方々の説いた迹門の法華経の教えも、意義は存在するけれども、その効果・功徳が全く無くなっておるという意味であります。

 「諸天其の国を棄て之を守護せず」

と。

 こういう謗法の国になった日本において、大聖人様の御出現の時に、実に大きな天変地夭が起こったわけです。仁王経の七難・薬師経の七難・大集経の三災七難などのあらゆる問題が、全部起こって来た。特に七難の最後の二つ、日本開闢以来、未だかつて起こったことのなかった、しかも大聖人様の時だけに起きた大難が「他国侵逼難」であります。これについても『立正安国論』、その他の御書に大事な意義が説かれるように、大聖人様が当に末法の一切衆生を救う御本仏であらせられることが、明らかなのであります。

 ともかく、諸天がこの国を捨てておるということの実相を、ここにお示しになっておられます。

 「此の時地涌の菩薩始めて世に出現し、但妙法達華経の五字を以て幼稚に服せしむ」

 ここが、末法謗法の時に地涌の菩薩がまさしく出現することを、はっきりと顕わされた文であります。「此の時地涌の菩薩……出現し」ということは、妙法蓮華経をよく弘める人である。即ち、実は、この上行菩薩様の内証は、久遠元初の自受用報身如来という仏様であり、その意義を持って大聖人様が、御本尊様をお顕わしになったのであります。

 ただ、「妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」、これを題目と思ってはいけませんよ。これは、御本尊なんです。だから、『観心本尊抄』という題があるでしょう。『観心本尊抄』は、最初に観心が説かれているのです。大きく分けますと前の半分が観心なんです。

 観心ということは、心を観ずる。すなわちまた、皆さん方の命の中に備わるところの心のもっとも尊い部分としての仏性が、はっきり顕れて、成仏の当相が、功徳ですね、そこに顕れる。不思議な功徳、信心の強い人は過去の罪障が速やかに消滅して、いろいろな涙も流れるばかりの功徳を体験された方もおありと思いますが、やはりそうなんですね。その修行の姿が観心を示されるところの修行なんです。修行と、正しく心を観じて得るところの功徳であります。それを得るのは何かというと、本尊によるわけですから、だから本尊が次に来るわけですね。そこでこの妙法達華経の五字は、本尊であります。

 この本尊を信じて唱えるところの南無妙法蓮華経が、本門の題目であります。これが次の「幼稚に服せしむ」という文なんですね。飲まなければだめなんです、薬は。そうでしょう、皆さん方がいつも折伏のときに言うとおりですね。折伏のときも、その他信心に退転した人にも、「あなた、飲まなければだめですよ」。こういうふうに言ってあげてください。「お題目をしっかり唱えなさい。不思議な功徳があるんです」と。これは心の功徳、それから体の功徳、両方ありますから。

 慢性病が酷くなる人は、眼が見えなくなったり、その他いろいろあるんですよ。それから、肝臓へ来たら肝臓がどうだ、腎臓へ来たら腎臓がどうだと、いろいろな所へ出るんです。ところが、こうして皆さんにお話ができるように、私は、慢性病をもっているけれどもどこにも出ないんです。基本的なところでは病があるのだけれども、具体的には出ないんです。時々、足が少し痛くなることがあるけれども、大したことではない。二日か、三日休めば治るんです。これはやはり、私のこの体に、お題目の功徳をいっばい戴いているからなんです。

 それより大切なのは、みんなの心の中にある心の病、貪・瞋・癡の三毒の病ですね。この心の病、八万四千の心の病に戴く功徳がまた大きいのです。ですから、そういう意味で、やはり大事なんですね。

 次に、

 「謗に因って悪に堕つは、必ず因って益を得」

 これは、天台大師が不軽菩薩の故事について、不軽菩薩が、

 「我深敬汝等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏」(開結 五六七頁)

という二十四字をもって、あの当時の増上慢の衆生に対して、折伏をしたんですね。礼拝行です。

 それに対して、怒った者たちが、不軽菩薩を軽んじ、様々な迫害をなしました。それに対して、その罪によって、千劫地獄へ堕ちたという。地獄へ堕ちたけれども、その正しい法に縁して、正しい師に縁して、正しい師を謗り、正しい法を謗ったために、逆にその功徳によって地獄に堕ちた後、救われたということが『不軽品』の中に説かれてあります。これはその謗りによって、地獄に堕ちたけれども、正しい法に縁したために、またその功徳によって必ず利益を得たのであるという意味であります。

 これは、大聖人様が末法に御出現になって逆縁のためには、妙法蓮華経の五字を、身心の病の良簗を下種される。それに対して、謗る者がたくさんいましたが、地獄に堕ちるが、必ず救われるのであるというこの意義の大段であります。

   地涌出現の所以

 その次からの文が実は、地涌の菩薩が必ず出るぞということをおっしゃっているのですが、これが非常に深いものなんです。その最初の部分が、「我が弟子之を惟へ」とありますでしょう。これが、大事な文なのです。「我が弟子たちよ、この深い意義をしっかりと惟いなさい」と。つまり、弟子たちの正しい考えをここに喚起し、呼び起こして、そして地涌出現の意義は、地涌が必ず出るということは、「実はかく言う日蓮が末法に出生して、地涌上行として、大法弘宣するのであるぞ」ということなのです。その意義を含めて、ここに「我が弟子之を惟へ」と仰せですから、簡単な字のように思うけれど、実に大事なことをここでおっしゃっているのです。弟子とは自分だけではなく、日本国一切衆生もそう
いう意味であるわけですからね。ここに仏法の本当の上行出現の意義をこの文によって、端的に示されているということが、拝されるのであります。

 「地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり」

 これは、久遠元初の教主釈尊の弟子としての地涌千界、上行等の菩薩という意味であります。因果を縦に並べて、本因の久遠名字の釈尊に対して、その次にだんだんに段階が進んで、「本行菩薩道」の上行菩薩という形の因と果を縦に並べる場合には、初発心の弟子の時からの弟子であるという意味であります。

 これが今度は、「因果倶時不思議の一法」という横に因果倶時一時に並べれば、久遠元初の自受用報身如来の御当体に、一念に具わるところの十界互具であります。その本有の十界の中の上行菩薩様であります。ですから最後のところは因果倶時の一念でありますが、ここは菩薩と仏の関係を、前後の形で示されておるとも拝せられるのであります。

 「寂滅道場にも来たらず」

 この寂滅道場というのは華厳経の時ですね。釈尊がインドに出現して最初に悟った後、三七日の間、華厳経を説いたところが寂滅道場であります。

 次の「双林最後」というのは沙羅双樹林という、「沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことはりをあらはす」という言葉を聞いたことがあると思います。双林すなわち、釈尊が跋提河の辺の純陀の家で亡くなったというところから、涅槃経のことをいうのです。

 「最後にも訪はず、不孝の失之有り」

 つまり一応、上行菩薩は菩薩で、釈尊の弟子という形からするならば、釈尊が亡くなったのですから何を置いても駆けつけるのが、弟子としての道です。

 ところが、それにもかかわらず、上行等の菩薩は出られなかった。これは不孝ではないかと。大聖人ご自身がおっしゃっているんですね。これは大きな仏法の化導の意義から言って、応身の釈尊の一代の化導においては、その折にいちいち現れることは必要はないという意味があるんですね。法華経は法報応三身に本有常住の本仏の立場からの立て分け、進退ですからね。

 そして、

 「迹門の十四品にも来たらず」

 法華経迹門の、『序品』から『安楽行品』まで十四品の間にもまったく来ていない。

 それから、『涌出品』において初めて来られた。『涌出品』『寿量品』『分別功徳品』『随喜功徳品』『法師功徳品』『常不軽菩薩品』『神力品』『嘱累品』と、この八品の間だけにおいでになっておるのです。そして『嘱累品』が終わると、次の『薬王菩薩本事品第二十三』には、もう席を立っていなくなられた。それを、

 「八品の間に来還せり」

と仰せであります。

 「是くの如き高貴の大菩薩」

 特にここに高貴ということは、『涌出品』を読めば、どれほど地涌の菩薩の出現の相が高貴であったかということが判ります。深い修行の姿、境界、さらに外相ですね。あらゆる点からいって実に高貴の方であります。

 「高貴の大菩薩、三仏に約束して之を受持す」

 高貴の方は、必ず約束を守るのです。したがって、

 「末法の初めに出でたまはざるべきか」

ということをおっしゃっているのですね。この部分が一つの区切りをなしているのです。その次が今日の一番大事なところです。

   摂折適時

 「当に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」(御書 六六〇頁)

 これは、実は大変難解な文であります。難しい文であります。それでこういう部分を利用して、おかしなことを言って、自分の都合のいい解釈をする人が出てきた、それがまさしく創価学会、池田大作であります。

 この四菩薩というのは、上行、無辺行浄行、安立行です。これは

 「有る時には一人に此の四義を具す」(御書 一七六四頁)

と言いまして、上行菩薩様にその四菩薩の用きと、その徳の一切が具わるという意味があります。その、

 「四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」

 賢王というのは、賢い王様、折伏を行ずる時である。愚かな王、民衆に不幸をもたらすところの王を戒め、責めると。つまり、これは折伏の姿ですね。そういう形があるんだということをここにおっしゃっておる。次に摂受を行ずる時は、僧侶の形をして現れてきて、正しく正法を弘持する。ここについては、後の文段の方で解釈がありますから、そちらを拝読いたします。

 では『観心本尊抄文段』。この文段もずいぶん長いんです。そのうちこの部分は、流通分の一番最後の所です。いよいよ地涌が末法において出現するという文証を挙げられる所です。法体を挙げられる本尊の意義内容、特に五重三段のうちの第五番目の文底三段の、序・正・流通の法体を挙げられるという大変に深い法門であります。その中で、きちっとけじめをつけながら、示されてくる意味がありまして、これが長いのです。それからだんだんきて、流通分の最後のところでこの地涌の出現という、地涌がどういう時に現れ、どういう働きをするかというところで、括りをされておる意味があるわけであります。そのところだけを今、文段から挙げてあります。




   法体の折伏

 「文に云く『当に知るべし此の四菩薩』等文。
  問う、応に『四菩薩折伏を現ずる時は、聖僧と成って』というべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ賢王というや。
  答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く『法華折伏、破権門理』の如し。蓮祖の修行これなり。二には化儀の折伏。謂く、涅槃経に云く『正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし』等云云。仙予国王等これなり。今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり。或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云」(日寛上人文段集 五四六頁)

 「文に云く『当に知るべし此の四菩薩』等文」(日寛上人文段集 同頁)

 先の『観心本尊抄』の、「此の四菩薩」とありますね。つまりこれから、この上に挙げてある文について解釈されるというわけですね。

 「問う」と、まず質問を構えられて、

 「応に『四菩薩折伏を現ずる時は、聖僧と成って』というべし。即ち蓮祖の如し。何ぞ賢王というや」(日寛上人文段集 五四六頁)

 これは、ふつうの考え方から言いますと、仏法はだいたい僧侶が弘める。特に末法において大聖人様が御出現になって、その一期の御化導を拝すれば、これは折伏を主体としておられるわけですね。『立正安国論』の、時の幕府に対する国諌の呈上もです。その他、あらゆる面で念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊、これはまさしく折伏ですよ。悪をはっきり破折して、その道理・文証・現証を示して、その悪を打ち破るというところにあるわけですからね。ですから、我々も、折伏といえば大聖人様の化導と思うわけです。その意味からの質問であります。

 「蓮祖の如し」

 大聖人様の如くであるはずだと、四菩薩が。折伏を行ずる時は、大聖人様の如きお振る舞いでなければならないというのがふつうではないかと。それを、なぜ賢王というのか、という質問ですね。これは当然のことです。

 それに対する答えとして、

 「答う、折伏に二義あり。一には法体の折伏。謂く『法華折伏、破権門理』の如し。蓮祖の修行これなり」(日寛上人文段集 五四六頁)

 法体の折伏というのは、法華の立場から権門の理、爾前経の不完全な教えを折伏する、という意味がまず第一に、釈尊の教えの中にもあるわけです。

 それから、迹門、本門とずっと入ってくれば、末法の弘通の法体を正しく取り出だして化導あそばされる上からは、さらにもう一段深く本迹相対、種脱相対というような形からも、折伏をしていくわけですね。要するに、蓮祖の修行であると。まずこの法体の折伏という、仏法の法の上から、権を実において破し、実経の中で迹門を本門において破すというような意味です。そして、最後に取り出されるのは、本門の下種の法体としての三大秘法であります。本門の本尊、題目、戒壇という三大秘法に帰するわけであります。



   化儀の折伏

 次に、

 「二には化儀の折伏」

と。法体の折伏に続いて、化儀の折伏という言葉を仰せです。

 「謂く、涅槃経に云く『正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず、応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし』等云云。仙予国王等これなり」(日寛上人文段集 五四六頁)

 この涅槃経の文は『立正安国論』に引かれてありまして、『金剛身品』という、涅槃経の品であります。

 まず、正法を護持する者は、在家の場合、特に国王の場合を意味するのです。国王というのは、在家の一般の人よりも力を持った人を言います。正法を護持する者は、必ずしも五戒を受けなくていい。そういう枝葉末節にとらわれるよりも、根本の法を、正しく守ることが一番大事であるということであります。

 そして「威儀を修せず」、威儀というのは戒律の威儀であります。戒律において、いろいろな三千の威儀ということを言いまして、いろいろな煩鎖な戒律をことごとく守って持戒清浄という意味での修行をしていくという面でのことです。それに対して、

 「応に刀剣弓箭鉾槊を持すべし」

 刀を取り、弓を取り、鉾を取って悪人を打ち平らげよというのですね。その後、『立正安国論』に『金剛身品』の文の後に続いて引かれてある文が有徳王・覚徳比丘の姿であります。

 有徳王という方は、遠い昔の話において倶尸那城に、歓喜増益如来という仏様が出られた。その仏様が亡くなられ、涅槃の後、無量億歳という長い時期が流れて、その間、仏法の中で非常に堕落が起こって、その仏法を間違って悪く解釈し、悪くつかんで、謗法を行う僧侶がたくさんあったのです。それを覚徳比丘という方が折伏し、正法正義を述べたわけであります。涅槃経にはこの内容がもっと詳しく書いてありますが、『安国論』ではそこは省略してあります。

 とにかく、悪人の比丘を打ち破るために覚徳比丘が法を以て折伏した。ところがこの悪人の比丘共が、覚徳比丘を恨んで迫害した。殺そうとしたんですね。その悪人と軍勢が周りに非常に多かったわけです。その時に有徳王が身を捨てて、覚徳比丘を守り闘って、ついに体の中で傷を受けないところが一ヵ所もないというように、全身に傷を受け、亡くなるわけであります。

 覚徳比丘はそのように守られたわけですけれども、その時に、「汝必ず無量の宝器とならん」ということを覚徳比丘が述べて、その後、覚徳比丘と有徳王は阿仏という国に生まれて、それぞれ第一、第二の弟子になったという故事が涅槃経の『金剛身品』に説かれてあります。

 そのときの有徳王が、今現在の自分であるということをお釈迦様が涅槃経でおっしゃっているわけです。この我が仏の身は、この時に有徳王として法を命を捨てて守った姿であるということです。これを挙げられているわけであります。

 次に、

 「仙予国王等これなり」

と。仙予国王はやはり『安国論』の中で、『聖行品』という品が、『金剛身品』より先に引かれているのです。その中において、仙予国王という方の故事が説かれているのです。この方は、婆羅門に対して長い間供養をしてきたけれども、大乗を誹謗するという悪事をなした婆羅門の命を絶ってしまった。この命を絶った功徳によって、むしろ今後全く地獄に堕ちることがないという意味のことが涅槃経に説かれてあるのであります。

 これは人と法の中では、法を守ったわけです。大乗を誹謗した者を破る。それから、有徳王の場合は、覚徳比丘という方を特に守ったわけですから、人を守ったわけですね。

 法と人ということが、仏教の中で非常に深い、大事な意義があるのです。法は必ず人によって弘まるということですから。しかしまた、法から離れた人は全く邪義に堕ちていくという意味があります。

 そこで、

 「今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり」
 (日寛上人文段集 五四六頁)

 賢王となって愚王に対して折伏を行ずる、それから摂受を行ずるときには僧となる。

 大聖人様の折伏も、法体の折伏はなお摂受であると。つまり、鉾を取り刀を取って直接悪人を打ち破るというような強い折伏のことを折伏という場合には、それに対して僧侶の化導はたとえ内容的に折伏であっても、これは摂受とする。という立て分けをここに言われております。

それから、その次が問題なのです。

 「或はまた兼ねて順縁広布の時を判ずるか云云」(日寛上人文段集 同頁)

 これは、どういう意味か判らないでしょう。後でまた申しますが、これが日寛上人が大聖人様の御書を正しく拝され、その上から深い意義を以てここにおっしゃった言葉と私は拝するのであります。

 何かと言えば、「順縁広布」です。ところが、大聖人様は、『法華取要抄』においても、その他の御書においても、

 「我が門弟は順縁、日本国は逆縁なり」(御書 七三六頁)

と、はっきりおっしゃっているんです。あの当時、大聖人様が御出現して御一期の化導の中においては全部逆縁ですよ。身延にお入りになる時だって、この辺の、富士一帯が全部、鎌倉執権幕府の関係者の領土ですから、その者たちから、実に様々な迫害があり、これが亡くなるまで続いたのです。このように大聖人様の御一生は、まったく逆縁の中での、忍難の御生涯だったわけです。

 では、ここで順縁というのはどういうことかというと、大聖人様の御書にこの順縁をお示しになっていらっしゃるのは、『三大秘法抄』の「王法仏法に冥じ(乃至)有徳王・覚徳比丘云云」の御文なのです。ですから、

 「兼ねて順縁広布の時を判ずるか」

という、この順縁広布ということは、大聖人様が『三大秘法抄』の戒壇に示されておるところの、未来の真の広宣流布の時の実相、実態を指されたものですが、これは、『観心本尊抄』の、

 「当に知るべし、此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し」

との仰せが、まさにそれに当たるのです。その時の賢王が、真の広宣流布の時、順縁広布の時が来た時に、その時に当然起きる大波乱、邪法との対決といい、一切を救う根本の形から、はっきりと決まってくるわけですから。そういう愚王を誡責する姿が当然現れるのである、ということと両方を兼ねて順縁ということをおっしゃっておる意味があるのであります。

 ところが、皆さん方も聞かれたことがあると思うんです。創価学会は、『観心本尊抄文段』の最後、

 「また兼ねて順縁広布の時を判ずるか」

の、広布という言葉を取ってですね、法体の広宣流布と、化儀の広宣流布ということを言い出したんです。

 こんな言葉は、どこにもないのです。大聖人様が、折伏を現ずる時は賢王だ、摂受を現ずる時は僧となって、とおっしゃっている。日寛上人は、これを受けて「今化儀の折伏に望み、法体の折伏を以て仍摂受と名づくるなり」あるいは「兼ねて順縁広布の時を判ずるか」ということであって、この「兼ねて順縁広布」ということは、『三大秘法抄』、『一期弘法抄』に示されておる真の広宣流布の相が現れた時のことなのであります。それよりもずっと手前において、本尊流布を勝手に法体の広宣流布などと言う。第一、よく考えてみると意味が判らないのです。法体の広宣流布だとか、化儀の広宣流布などというのは、学会が作った言葉です。これは、本来は法体の折伏、化儀の折伏というのが日寛上人の指南なんです。

 学会は、「順縁広布の時を判ずるか」という、この言葉を捉えて、「日本はもう順縁だ」などと言うのです。何が順縁ですか、こんなに謗法が多くて。そこに、彼等の解釈のすり替えがあるのです。その点を、正しく解決し、解釈をしなければいけないのです。それを、彼等は勝手に、法体の広宣流布などと言ったのです。その次には今度は、化儀の広宣流布だ。「化儀の広宣流布をこれだけやったのは創価学会だ。創価学会の功績は全部池田先生の功績だ。だから池田先生がいなければ、学会がなければ大聖人様は嘘の仏様になるんだ」と。さらには「全部証明したのは、我々なんだ、池田先生だ。だから、池田先生は大聖人様以上だ」と思っているんです。本当に思っているんですよ。こんな狂った仏法の解釈がありますか。

 そういう点で、学会流の誤った解釈は、他にもあらゆる法門でいろいろと多くあるのですけれど、この問題が一番大事な部分に対する拡大解釈であり、捏造解釈であり、 自分だけを中心とした自画自賛の池田大作をどこまでも高めるという解釈なんです。その考え方を根底として、大作が、正本堂を作ったとき、あの正本堂をどうしても『一期弘法抄』『三大秘法抄』の戒壇にしないとまずかったのです。だから、何とか『三大秘法抄』の戒壇としようとしたわけです。その証拠があります。私は、学会が問題を起こした時に指摘してあります。その頃の『大日蓮』に出ていますが、池田大作は正本堂着工大法要のときに、『三大秘法抄』の文を挙げて話し、そして、「この正本堂」と受けている。まさしく正本堂は『三大秘法抄』の戒壇だという意味になります。ということは、だから広宣流布は達成したんだと。そういうインチキなことを簡単に言ったのです。こんなに謗法が多く、こんなに塗炭の苦しみに喘いでいる人間が、末法において無数におるのですよ。そうすると、大聖人様の大慈大悲の広宣流布は、大作によってすり替えられて、あそこのところまでになってしまう。そんなばかげた話があるかと言うんです。

 そのような組織の中で洗脳されて、とにかく池田先生は偉いんだ、偉いんだということを頭にたたき込まれているのが、創価学会の可哀想な人たちです。だから、この人たちを一人でも多く再折伏をしなければならないということであります。

   戒壇建立の意義

 では、次に移り、『三大秘法抄』。

 「戒壇とは、王法仏法に冥じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ち」

 ここまでは、まさしく順縁広布ですね。明らかでしょう。王仏冥合して王臣、王様と一切の国の重要な立場にある人、ことごとくが三大秘密の法を持つということはまさに順縁広布の時であります。しかしその後が、

 「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」

というのは、ここが全く反対の意味があるわけです。つまり、末法濁悪の時代ですから、この有徳王、覚徳比丘の身命を捨てた仏法の守護外護があって初めて、こういう順縁広布が現れる。順縁広布の含む内容において、また有徳王・覚徳比丘の出現が必ず存するという。これは重大な文であります。ここのところを以て寛師は、文段において、

 「順縁広布の時を判ずるか」

と言われた。また、以て翻って、大聖人様がこの『観心本尊抄』において、折伏を現ずるときは賢王となって愚王を誡責するとおっしゃっているわけですから。この筋目をきちんとしなければいけないのです。

 それが、そこまで来ないうちに、まだ日本の国民のわずか十分の一もいってない。そんなことで、創価学会がやれ広宣流布しました、広宣流布しましたと。それでもう全部が出来ましたなどと。これほど大聖人様を愚弄し、法に背くことも甚だしいことはないのです。そこから、あの洗脳が来ているということであります。

 「其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下し」

 このことは、いろいろ解釈上の問題もありますが、時間がありませんので一切省略いたします。

 「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ね」

 ここはもう、富士山ということは明らかなんですね。ですから、日興上人への相伝の『一期弘法抄』には、はっきりと霊山浄土に似たらん最勝の地というのを、今度は「富士山に」とお示しになっているわけです。

 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」

                    (日蓮一期弘法付嘱書・御書 一六七五頁)

 この「富士山」ということは、この大石寺を意味するわけであります。

 皆さん、富士山をぐるっと回ってみたことのある方。どこが一番立派ですか。大石寺でしょう。これは、本当に不思議なんです。この場所に南条さんがおいでになったということが、また仏法の因縁からみて不思議ですね。富士山のどこを見ても、ここから見た富士山ほど立派な姿はありません。やはり、不思議な因縁があると思うのであります。

 「戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」(御書 同頁)

 この御文のところは、また深い意義については先ほども申しました。また、『三大秘法抄』のこの戒壇の御文は、私が喋々と論議すべきではないのです。一字一字の文は、多少解釈をする場合もありますけれども、本義はあくまで、広布の事相ですから、御仏意によるものであります。それを簡単に、「もう時が来た」とか何とか言って、いかにも仏様であるかの如き言を弄し、それによって自分を上げようとするのは、大変な間違いであると言わなければなりません。

 とにかく、法体の折伏によって、末法下種の三大秘法が建立された。これはもう、お判りですね。そこが根本なんです。化儀の折伏といっても、四菩薩が賢王となって現れるといっても、これは大聖人様が、根本の上から法体の折伏をあそばされたことによるのです。ですから摂受とか折伏というのは、この『観心本尊抄』のその文だけにとらわれていてはいけないのです。根本は法体の折伏の意義に存するということ、それによって顕された『三大秘法抄』にあるということであります。

 ですから、化儀の折伏ということは、末法万年の正法広宣流布の上に考えなければならないことであります。これはまた、そのまま法体の三大秘法を正しく末法万年に伝えていく意味から、大聖人様から日興上人、日興上人から日目上人という下種の三宝の在り方を無視しては、全くあり得ないことであります。

 また一つは、量と質の問題。今の時代は、量も大切だけれども、創価学会は量、量と、量にとらわれています。指導者がおかしいから、その入ってきた「量」がみんなおかしくなってしまった。これからの法華講と僧の僧俗一致の広宣流布は、量と質、特に質が大事ですね。質がきちんとしてはじめて、量のほうへ展開できるのです。元の質がおかしくて、いくら量ばかり多くなっても、結局みんなおかしくなってしまうのです。この辺は、池田大作と創価学会が、よく前例を示してくれましたから、我々はそういうことのないように、これから質を根本としてそこに真の展開をしていくことが、大事だと思います。

 それから、賢王となって出現するという、広宣流布の時のお方であっても、この方は正法正師を命がけで守ることが本来の姿であります。有徳王がそうでしょう。また、仙予国王もそうであります。

 ところが、池田は下種三宝を誹謗し、日蓮正宗を誹謗しておる。これは全く百八土度反対の、正法に対する敵対行為です。ここに大きな矛盾があるのです。そういう姿でありながら、自分が賢王でありたい、仙予国王でありたい、有徳王でありたい。自分が有徳王だと言っているのです。ぜんぜん正反対のことを考え、やっていながら、宗門を利用し、大聖人様の仏法を悪用していながら、そういうことを言うわけですから、これは、いかに狂っているかということであります。

   有名無実

 次に、申し上げておきたいのは、池田は相変わらず「学会は広宣流布の団体、広宣流布をやるんだ」と、今でも言っています。では、彼等は何を広宣流布するのでしょうか。

 広宣流布は、名前だけですね。虚しい以上に、実体がないのです。大聖人様の大法は本門戒壇の大御本尊様、三大秘法であります。これを誹謗している創価学会が、何をもって広宣流布するというのですか。皆さんも大いに考えて、学会員の再折伏のときにその辺の矛盾も、ついてください。

 つまり、有名無実なんです。広宣流布という名前はあるけれども、実体がない。「創価学会の広宣流布は有名無実」と、はっきり断言してください。それから、御書根本だとか、大聖人直結だとか、いろいろなことを言うけれど、池田が勝手に言っている考え方なんです。その一番根底において、大聖人様をばかにしているのですから。ばかにしていることは、いろいろな彼等の言動から考えられます。したがって、その根本がなくて、今、形だけ御書根本だというようなことを言っているわけですね。本無今有の失があるわけであります。ですから総じて実体・実質のない戯言であるということが、言えるのであります。

 もう一つは、池田に広宣流布の功績があるとか、八百万世帯の折伏を池田がやったとか言うでしょう。私に言わせれば、創価学会の在り方は、戸田さんが全部組織作りの基本形態を作り、また実践したんです。七十五万世帯と言いますけれど、これは戸田さんが作ったものです。そのような形が出来上がった後、池田はその上に乗っかっただけにすぎないのです。その池田が乗っかった後に入信した人が多いから、すべては池田先生が作ったもの、池田先生、池田先生と思っている人が多いけれども、歴史を調べれば判ります。

 私は、学会のことも古い牧口さんの時代からよく知ってるんです。また戸田さんは、本当に命がけで広宣流布をする、その志が尊かったと思います。池田はどうも我見ですね。一番最初から我見、我欲、自分中心であったと思います。とにかく、池田は戸田さんの作ったレールに乗って、要領だけよく、見せかけだけまとめた、それだけのことなんです。

 当時の終戦後の日本は、建国以来の精神的支柱たる皇室、天皇は現人神というような国体思想とか、そういうものが一挙になくなり、何をどうしたらよいのかという時代でした。そこであらゆる新興宗教が出たという時期の中にあったわけです。とにかく戸田さんが引いたレールの上をずっと突っ走ったんですから、これは何も池田の力ではないのです。

 要するに池田の一切の策謀、言動、行動を見ると、非常に頭はあります、狡猾でずるい。非常に上手ですね、人心収攬は実に巧みです。ただし、言えるのは、「一心欲見仏・不自惜身命」の信心がないということであります。心から大法尊重の念がないんですね。法よりも我が身のほうが大事なんです。自分の我見・我欲が中心です。結局のところ品性下劣であり、慈悲がなく、敵だと思うとその憎悪の根性が実にすさまじい姿があるようです。私のことを針金でふん縛って頭をぶったたくとか、最近何かに出ていました。私一人ではありません、彼に憎まれた者はたくさんおります。その受けた憎悪というのはひどいのです。やはり慈悲がないんですね。その根底にあるものは我欲・我見であります。故に目的のためには手段を選ばない。徹底した嘘を言う、謀略で人を陥れる、白を黒と捏造する、世間の虚栄的名誉を常に求めておる。だから、あっちこっち策略をつかったんだか、何を持っていくんだか知らないけれど本をたくさん寄贈したり、あとはまあ言いませんが、いろいろやってその国の人たちの歓心を買って何をもらうか、勲章をもらうのです。勲章乞食という言葉を聞いたことがあるでしょう。それで、世間の名誉を手に入れている。こんなことで本当の仏様の子と言えますか。しかも謗法の世界、みんな謗法でしょう。謗法の連中と仲良くし、愚王を誡責するのではなく、戒めるのではなくて、何か変なことをして、それで勲章をもらってくる。これが地涌の菩薩のやることだと思いますか。思いませんね。

 それから、これは「慧妙」に出ていたことですけれど、何十億の別荘だとか、全国に数え切れぬ程の施設を作って、それら一つ一つに池田大作の専用の設備ができているというが、こういうことも全くおかしいですね、考えてみれば。宗教法人法ということから、会計の問題、その他いろいろと識者がこういったことについても取り上げておるようですが、要するに不自惜身命の賢王の姿は一切、まったくどこを見てもありません。

 しかも池田は、おこがましく、自分が四菩薩の賢王、あるいは有徳王たるべく、その仏法的な背景を実相に逆らい、大聖人の御言葉の意味を捏造し、作り替えて、無理矢理に正本堂を『三大秘法抄』『一期弘法抄』の戒壇としようとしたのであります。こういうときにおいて、いろいろな問題が起こったのです。正本堂の意義付けの内容について、学会はどうしてもこうしても承知しないんです。最後に、正本堂は未来において、『三大秘法抄』の戒壇たるべき大殿堂ということで、一応おさまりがついたのです。しかし、正本堂は建物ですから、本当に三大秘法の実相が現れるのは三年後か五年後か、十年後か百年後か、末法万年ですからね、その中において何時かということを簡単に凡夫が決めるなどという考えはおかしいのです。もし、広布の時が来る前にあの建物が壊れれば、皆さん方の御供養によってもっと立派な物を建てればいいのです。

 あのような問題が起こったことは、池田大作が厳正なる仏法をねじ曲げた結果であり、自分を有徳王として、大聖人様と肩を並べ凌駕するごとき偉い者であるとみんなを洗脳したところに大きな、大聖人様を見失わせる罪があるのです。ときどき変なタレントの女性たちがテレビに出て、池田先生は人生の師だなどと言っている。この人たちは、そういうことを言っているうちに、大聖人様ということをすっかり忘れてしまっているのです。

 そこが大きな仏法の誤りで、一人どころでなく、何百万人がその誤りをまだ知らないのです。法華講の方々は、本当に敬うべき末法の主師親三徳の仏は宗祖日蓮大聖人様であらせられるときちんと判っていらっしゃる。創価学会は日蓮正宗の大法厳護の僧侶を心の底からばかにしていた。大作が、日達上人のことも、私のことも影でなんと言っていたか。みんな聞いています。徹底的に「坊主が」と言ってばかにしていたわけです、大作は。しかし、法の上から間違っていれば、間違った実相というものが出てくるのです。

 厳正なる仏法の万年広布においては、その本来の在り方を、理想的な僧俗一致の真の団体を作ること。先程も言いました量より質という意味から、その精神を根本として進めていかなければ、真の広宣流布は決して出来ません。それを行っていくところに我々日蓮正宗僧俗の姿があるということを申し上げます。最後に皆様のいよいよの御精進を切にお祈り申し上げまして、本日の話といたします。


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