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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

臓器移植を考える

先日慶次2000さんの脳死についての記事に
「勝手に仏教界代表」として書き込みをしたところ、
私の意見をぜひ記事にして欲しいと言われましたので、
及ばずながら書きたいと思います。

バシ9119さんのコメントに対する
答えにもなると思います。

まず脳死とは何か?

まず、生きているということはさまざまな器官がおのおのの
役割を果たして活動している状態でしょう。

このバランスが崩れるのが病気の状態であり、
コントロールできない状態になり各器官が活動を次第に停止して
すべての器官が活動していない状態が死んでいる状態です。

問題は完全に生きている、または完全に死んでいるという状態は
わかりやすいのですが、その間の状態が問題になります。

かつては心臓を停止した状態を死としていましたが、最近では
すべての活動を脳がつかさどるということで、脳が死んでいる
状態を持って脳死とする考え方がでてきたようです。

その背景には臓器移植の問題があるようです。
人間が死に至っても、臓器は死んでいないものがあります。
その臓器が臓器に障害を持つ人に移植できるならば
その人は救われるということです。

しかし考えていただきたいのです。
人間はまだ生死に対して全くといっていいほど科学的な
回答を持っていないのです。

その証拠に死を伸ばすことはできても、死んでいる人を
よみがえらせることは科学にはできません。

死ぬ理由が判らないのです。逆に生まれることも同じです。
受胎ということも科学的にはわかりますが、どの時点で一個の
意識を持つのかも判っていません。

脳死にしても心臓死にしても意識は本当にないのでしょうか。
その時点で臓器を取り出すことによってその人が耐え難い苦痛を
受けていないと誰が言えるでしょう。

このことについては臨死体験談もありません。

最近某ホテルが本来障害者のために使われるべきスペース
を改造して別の用途に使っていたことが問題となっています。

また最近は駐車場には車椅子用のスペースが設けられています。

当然入り口に近いところに設けられていますが、明らかに
障害者でない方がしばしば使用しているのを見受けます。

何故でしょう?

また、点字ブロックの上に平気で駐輪・駐車しています。

私はこれらのことを非難するために書いたのではありません。

障害を持つ方に生きる権利はあるのでしょうか?
当然あります。

当たり前だろうといわれるかも知れません。

しかしもし五体満足の方が障害を持ったとき
どう思うでしょうか?

最近はガンも告知されるようになり、余命数ヶ月と
いわれることも珍しくありません。

私の知り合いの方もそう宣告されました。

あと、数ヶ月しか生きられない人に
生きる権利はあるのでしょうか?

当然あるでしょう。

でも自分が宣告を受けたらどう思うでしょう?

臓器移植を必要とする方も同じです。

同じように生きる権利があるのです。

自分が臓器移植を受ける立場に立ったら?

自分が当事者になるのと
傍から見ているのでは全く違います。

同じ状況におかれてもとてつもなく
苦しむ人と楽しめる人がいます。

私は今までに身内の葬式を数回経験しております。

僧侶としてはそれを遥かに上回る数の葬式に立ち会いました。

いずれの遺体で在ってもそれを傷つけようと
思ったことはありません。

たとえその体内に千金値の宝があろうとも
取り出したいとは思いません。

僧侶としてはあるまじきことではありますが、思い出すだけで
腹が立つ人間が亡くなって、その遺体を前にしたことが
あります。

言いたいことは山ほどあったのですが、
不思議とそんな気持ちは消えていきました。

遺体には何故かそのような尊厳があります。

完全に死に至った遺体ですらそうなのです。

まして、まだ温かく動いている肉体を切って中から臓器を
取り出すことができるのでしょうか?

自分はそれによって助かるかも知れない。
でも臓器を取り出された人は確実に死ぬのです。

人間の寿命はいつ何時、どのような理由によって終わりを
告げるのか判りません。

また明日という約束をしても明日があるという保障など
どこにもありません。

余命何ヶ月と宣告されたら、本人は何故、衝撃を受けるのか?

自分が明日も明後日も、来年も再来年も生きていると
思っているからです。

考え方を変えれば、余命を宣告されたほうが
充実した日々を送れます。

風景までが今までと違って見えるのです。

寝たきりになったらゆっくり考えましょう。

世間のことに煩わされることなく
仏になるための修行ができるのです。
仏教者は喜んで手を差し伸べてくれるでしょう。

仏教が嫌いならば別の宗教でもかまわないし、宗教が嫌いなら
社会に対して寝たきりの人がどう関わっていけるかを
考えるのはどうでしょう。

障害を持っていない人は障害をもっている人の
気持ちを考えられません。

だから障害を持っている人でなければ障害者のことは
考えられないことが多いのです。

だからすべての人は死ぬ瞬間まで生きる意味があるのです。


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