3456541 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

日本仏教の七宗派-禅の教え

以前僧侶になる前、お遍路をしていた時の話です。

高野山大学院卒のお坊さんと同行になりました。
その方は何を聞いても教えてくれる
生き字引のような方でした。

その方に禅問答の話を聞いたところ、
教えてくれたのが「拈華微笑」の話です。

それはこんな話です。

「お釈迦さんが説法していた時に、突然
金の蓮を「くいっ」とひねりましました。
説法を聞いていた弟子達は
その意味がわかりませんでしたが、
摩訶迦葉(迦葉尊者)だけが微笑んだというのです。」

そのお坊さんに、

「何で摩訶迦葉だけが笑ったんですか?」

と聞くと

「それが禅問答の答えです。
詳しくは禅宗のお坊さんに聞いてください」

お遍路を終えてから、
私の実家の旦那寺の禅宗寺院で
和尚さんに聞きました。

「何で摩訶迦葉だけが笑ったんですか?」

「それが以心伝心ということだよ。
言葉を言わなくても心から心へ伝わるという・・・」

「そうなんですか!
 ところで何で摩訶迦葉だけが笑ったんですか?」

「いろいろ理由があるな」

「いろいろってなんですか?」

「座禅をやったらわかるということや」

「どう判ったんですか?」

「・・・・・」

キチンと答えてもらえませんでした。

あれから15年ぐらい経ちました。
今は意味がわかるような気がします。
ところで、こんな話があります。

ある禅僧の弟子が毎日座禅をしていました。

師僧は聞きました

「何のために座禅をしているのだ」

「仏になるためです」

その答えを聞いた師僧は
落ちていた瓦を拾って磨き始めました。

弟子はビックリして尋ねました。

「何をなさっているんですか」

「瓦を磨いて鏡にしようとしている」

「瓦を磨いても鏡にはならないと思いますが」

「では、座禅をして仏になれるのか」

曹洞宗を開いた道元禅師の座禅は
まさにこれに答えたものです。

瓦を磨いても鏡にはなりません。
もともと鏡だからこそ磨いたら光り輝くのです。

それと同じように仏でないものが座禅をしたところで、
仏になることはできません。

すなわち自らが仏であるからこそ
ただ坐禅にうちこむことが
最高の修行である(只管打座)

という結論に達しました。

曹洞宗については想い出があります。

只管打座というのは何も考えずに
ただ座る(座禅)だけの教えなので、
ある曹洞宗の僧侶に

「曹洞宗は座るだけの教え」

と言ったところ、

「座るだけではありません!お経も唱えますし、
作務(掃除など)もありますし、食事の作法もあります。
いろいろありますよ!」

と怒られてしまいました(汗)

再びお遍路をしていた時のことです。
ある寺院をお参りしたところ、
和尚さんからお菓子をいただきました。

お礼に境内を掃除させていただきました。
その後本堂でお参りしようとしたところ、

「本堂はお参りしなくてもいいですよ」

「何故ですか?」

「私のところの宗派は生活すべてが修行です。
境内を掃除をしていただいたので、
本堂をお参りしていただいたのと同じです。」

仏となるにはどうしたらいいか?

経典を読んだり、座禅したり、
念仏を唱えるだけでなく、
普段の生活自体が修行であると
捉えた宗派があります。

それが臨済宗です。

禅宗といえば禅問答のように思われますが、
昨日お話した曹洞宗は禅問答を行いません。

一方臨済宗では公案という問題を使って
禅を行います。

一昨日お話した「拈華微笑」も
その公案です。
公案というのは回答のない問題です。

結論から言えば、先日の「拈華微笑」も

「なぜ摩訶迦葉(迦葉尊者)だけが笑ったか?」

については全くわかりません。

そのように判らないことを、座禅しながら考えると
答えが浮かぶかも知れませんし、
浮かばないかも知れません。

不思議なことに、回答のないはずの答えに
それに対する答えがでてくることがあります。

答えが出てきた場合が
いわゆる「悟り」です。

答え自体には意味がありません。
そうではなく、自分の仏性に気付くことに
意味があります。

このような話をある人にしたところ

「自分で答えが出るだけですか?」と問われました。

「いえいえ、禅宗では師家という人がいて、
その「悟り」が正しいか見るんですよ」

「どんな答えが出るかわからないのに
 どうやって確かめるんですか?」

「人を見ればわかると思います」(推定)

「・・・」

絶句されてしまいました。


© Rakuten Group, Inc.