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三人寄れば文殊の知恵

三人寄れば文殊の知恵

非日常の行の世界

「非日常の行の世界とは」

と質問を受けました。
いつもありがとうございます。
記事に困った時に助かります。

しかし、質問されてハタと困ってしまいました。
どう答えたらいいのでしょう(汗)

すなわち行をどう捉えるかという話になります。

ところで、最近ネットで真言宗において僧侶になるための
「行」を予定している青年が、 その道場へ携帯電話を持ち込むこと
について質問していました。

その青年曰く
「携帯電話は持ち込み禁止ということになっていますが
 実際はどうなんでしょう」
「ひそかに持っていっているという話を聞きました」

それに対する答えは皆、否定的です。
行の間ぐらい我慢しなさいということです。(当たり前ですが)

しかし、問題はその青年が何故携帯を
持ち込みたいと思ったかです。
青年にとって行をする目的は書いてありませんでしたが、

多分
「僧侶の資格を取る」
ということでしょう。

普通の学校で資格をとる場合は、その私生活まで
縛られることはあまりないでしょう。
したがって、青年がそこへ自分の日常生活を持ち込みたいというのも
無理からぬことかも知れません。

しかし、建前上とはいえ出家する以上は、世間一般の関係を
一時的とはいえ離れていただきたいものです。

一般社会にはさまざまな価値観があります。
その価値観とは、言い換えればその人の欲望を
具体化したものといえるのではないでしょうか?

家が欲しいという人には、その家を得るための方法が
価値あることになりますし、恋人が欲しい人には、その恋人を
得るための方法が価値あることになります。
最近では健康に対する価値を見出す人も少なくありません。
実際にその方法が有効でない場合でも、その人がそう思うことに
価値観を見出します。

日常生活はそのような価値のあることを行なうことと
いえるのではないでしょうか?
一方「行」はそれ自体何か目的があったりしてはいけません。

行はそのような価値観から離れていなければなりません。
それを行なうことによって何か得をするようではいけないのです。
何故行に価値があってはいけないのでしょうか?

人間は何らかの欲望にとらわれると、それによって見方が
左右されてしまいます。
お金を儲けようとしている人が、詐欺にかかりやすいのは
そのためです。
冷静に見ているようでも、自分の希望的観測が働いてしまうため、
見えなくなってしまうのです。

仏教に戒というものがあるのもそのためです。
戒というものによって、欲望から離れることにより
自由な見方が出来るようになるということです。

ただ、当然疑問が湧いてくるでしょう。
「価値の無いことをすることに意味があるか?」

あるいは、もし人口のある程度の部分が行を行なったら
経済活動は止まるのではないか?

実は奈良時代は国家が公認する以外の人間が
僧侶になることを禁じました。
それは上記の理由です。


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