ちょっと補足
えーっと、質問が多いので少しだけつけつわえときますと、、知性を通すけれども『観つづける』ってのは知性の動きをとらえつづけながら、さばかない(知性の動きを善悪に分類しない)かつ意味づけにとらわれない(判断してしまわない、わかったと思いこまない)ということです。もう少し、進めば少し変化する可能性もありますが、とりあえずこれが最低条件。考えないは観ないに等しいので、ちょっと違う。数十年生きてきた過程で知性的活動につけてしまった、強力な方向性を解くことを目的としているものです。これができないと、上の層のエネルギーはほぼ使えない。一瞬つかっているように見えるものもあるんですが、ほとんどが知性層のエネルギーもしくは肉体層のエネルギーですね。知性層のエネルギーをたくさんつかっているものの代表は『願い』です。いわゆる神社とかでもそうですし、妄想的なものもそうですが、思い込みの力です。強力ですね。びっくりするくらい。しかも、物や空間に固着します。(敏感な人はとりつかれたりするので注意しましょう)どのくらい強力かっていうとそれだけで生きていけるくらい強力です。頼りたくなるのも十分理解できます。こういったものの特徴は、自己完結しないことです。自己の内的な活動でおさまっていてくれると無害なのですが、大体、他人にも同じような思い込みを強制してきます。これをなぜ、推し進めようとする人が多いのか?はよくわかります。小さなものも、たくさん集まるとすごいことになるからです。自己実現の一環なので、その人だけをみていると一見よさそうに見えるんですが、大枠でとらえてみると大いなる災いになることが多いように思います。いわゆるエゴの塊ですから、、そんなものが大きくなっても、、。別に、だれがどんな考えをしてもいいんですが、人に強制するのはやめましょう。そうならないといけない、とか、そうであるべき、とかが、どれほど無執着から離れているものか?はわかるでしょう。ま逆なので完璧にハート層(愛)とは打ち消しあいます。自己を正しいと思い込んだ人は、強烈なまでの攻撃性をもちます。(最近だと教育などのクレーマーとかがそうかもしれません。戦争とかもこの力をつかいますね)自己を悪と思い込んだ人は、知的意味や、正しい(答え)ということ探しつづけたり、他人の目がきになってしかたなくなります。(悪というより、裁くことのほうが多いですが)たとえば、『人生の意味を探している』って人がいるとしましょう。でも、人生はすでにあるんですよね。生きている限り、人生を今もってリアルタイムに感じ続けているわけですから、意味をわざわざ持たせようが持たせまいがあるんです。これまでの人生に意味があったか?なかったか?あろうがなかろうが、今、生きてるんですね。だから、これからの人生に意味をつけようが、つけまいが、どっちにしたって人生を生きていくんです、命尽きるそのときまで。ようは、知性はそんな答えがしりたいんじゃなくて、別の何かを知りたい、解決したいってのをそんなものに転用しているっていう動きを観ようってことなんですが、、、文章では複雑になってしまってうまく伝えられませんね。言葉にするとこの状態は複雑すぎて、理解するまえに飽きてしまいます。で、話はもどりますが、結局は、知性の動きをとらえつづけながら、さばかない(知性の動きを善悪に分類しない)かつ意味づけにとらわれない(判断してしまわない、わかったと思いこまない)です。そうすると自動的に動いていた知性の動きを意識できるようになります。さらに、それを続けていれば動きの『もと』も探れるようになってきます。でも探るとこは別に目的でも結果でもないです。ただ、自己というものの深さ、自分を理解するということの本当の意味なんてことや、そこに脈々と流れている『愛』みたいなものを発見していきます。そう、ただ発見していくだけです。ほんとうにただ発見していくだけです。冗談ではないですが、発見していくだけです。うそのように、ただ発見していくだけです。なのにそれが、感情的、知性的な問題を解決しうる強力な存在なのです。(とーぜんのように理屈ぬき!!、、、いいんですかね~)そりゃ、執着なく観れるならそうかもしれないけど、それって楽しいの?なんかそれを突き詰めてもいいことにはならないんじゃない。そーですね。そんなきもしますねー。ただ、表面的に表れている欲求は、予想以上に簡易に解決できます。大体ですが、ないから欲求するという状態のはずなのに、よくよく観ていくとすでにもっているっていうパターンが想像以上に多いからです。いわゆる失って初めて気づくパターン。よくありますね~これ、ほんとに。(青い鳥パターンとでも呼びましょうか、、)これできるだけでも、ずいぶん違う気がします。頑張った結果得られても、それがいらないものだったり、その過程で失ってしまったり、、悲しいですね、でも物語としては楽しめますが、、。執着しないと、またやってくる?だから、執着なく手放そう?違う、違う、すでにあると気づくんです。(無論、ないときもあるでしょうけど)無いと思うから欲しがる、有ると思うと手放したくなくなる。(失う恐怖がでてくる)でも、いつ失っていいように『今』があることも知る。そんな感じでしょうか。しょーもない文章につきあっていただきありがとうございました。毎度ですが、あくまで参考にして、自己と現実で進んでください。あとすいませんが、書き込みには返信してないのでご了承ください。理由はないんですが、なんとなくそのほうがいい気がするからといったわがままですが、すいません。