街場の中国論
本は一人の著者を呼び寄せることがある。
私と同じ団塊の世代でほとんど読んでいるのが、この内田樹である。身体知など学者の臭みのない論考が魅力である。いつも取り上げているが、いまは以前とはちがい、新刊では求めない。正月に3冊、入荷メールが入り、すべて即日購入した。
同じ世代、同じフランス文学関係では鹿島茂がいるが、関心が雑学、フランス風俗と古書などに集中している。論説ならばアメリカにこだわりつづけ、思想の基礎を丹念に探求する、佐伯啓思がいる。文明史と時局論の鋭さならば、中西輝政がいる。みなそれぞれの立ち位置がちがう。
論説に節度を保つ、ぶれるのはよくない。しかし、敗戦後、進歩的左翼論者の転向論ほど、悪しき踏み絵はなかったのではないか。皇国思想からの転向者は一切、問わず、もっぱら保守派へのそれには厳しかった。鶴見俊輔、久野収などの概念づけ「国家権力の強制により思想を反対方向に変えた」にも、問題がある。戦前の国家は悪と決めつける愚かしさをもたらした。実はマルクス主義の方が悪でなかったのか。
時流や新たな事態、諸史料の発見により、見方、論が大きく揺れ、変わりうるのであり、それを固定化した彼らの残した罪は重い。この呪縛で自由な身動きが奪われた。
しかし、上記の団塊の世代にはその重しが効かない。自身の関心の赴くままに思考を閉鎖することがない。専門外にも興味を示す。旺盛な読書量である。
以前『街場のアメリカ論』では、彼の立論、国際政治での世間知の危険性、万能観を批判した。そんな甘いスイングでは、ボールがどこに飛ぶかわからないと論難した。それのバンカーに捕まったことがわかり、関連書籍には少し目をとおしても、なおもドライバーショットを変えない、内田樹『街場の中国論』(ミシマ社 2007年刊)を読んだ。大学院での講義録で、その研究者養成の場で専門外のカリキュラムを組むのは否定しない。いまや人気教授で著作も多く、そのブログのアクセス数は驚くほど多いので、敢えてかって出たわけではないだろう。それなりに器用にヘアウェイをとらえる、ウッド、アイアンは持っている。が、前回同様のミスショットの連続である。あとがきには開き直りか、自分のゴルフのスタイルを自慢する。が、本書、前作同様、鋭いという評価は寡聞にして知らない。内田節が好きなわたしでも、バカの壁を真っ先に感じるのだから、そろそろゴルフ場を変えた方がよい。
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