カテゴリ:ジョグ&スケッチ
ポーランド徒然
どの都市も小学校から高校生までのツーリストで町が溢れかえっている。---学期末の旅行であるという。泊まりの場合は夕刻遅くまで街中を闊歩している。日本からすると少し異様にも映るが、これがポーランド流なのであろう。さてポーランドの人は今回の旧都市はドイツ的という。クラクフこそがダブルポーランド(ポーランドのポーランド)と評価していた。 三つ子の都市(tricity) Gdańsk グダンクスにて マルボルク城を後にしてポランド鉄道(PKP)でTczew(トチェフ)へ向かった。Euro-Intercityという特急で一駅 11分。各駅停車もあったがまぁどんなものかと。ジュース一本のサービスが付いた。ここの民宿風の家は驚いた。閉まっていたのである。今までの夢のような旅からpoorな貧乏旅行に戻る幕開けか。 看板にあった電話番号に連絡すると暫くして宿屋の主人が車でやってきた。普段は人がおらず旅行客が来たら鍵を開け部屋や台所を使わせるというタイプで「民宿」のカテゴリーに入っていたものである。600円とべらぼうに安かったのはこんな理由からだ。昨日の豪華なホテルから一転奈落に突き落とされた感じ。近くの食料品店で材料を買ってきて食す。 さて翌朝は5時スタート。グダンクスまで37kmもある上、会わなくてはならない人が2人もいる。途中時間切れとなった場合はバスの利用を想定。道は簡単。R91を北上すればよいだけ。炎天下2時間歩行30分休憩のペースでついにグダンクス市内に入る。時間は2時。運河沿いを進み末端にあるhostelへ。近くにはヒルトンがあり、運河に向かってBarの野外席を広げている。 グダンクスのガイドMariusz(マリウス)がレストランを訪ねてくれる。16:00待ち合わせだったが洗濯などしなければならなかったため時間を繰り下げてもらったのである。運河沿いのスケッチポイントを捜していたらレストラン(Pod Bandera)の入口近くで倉庫風景のview-pointを見つけた。レストラン側と交渉し食事を予約してからスケッチ。店の前で描くときは少し気を使う。その間Mariuszが現れる。実に名調子で市内を、特にSt.マリア教会を案内。St.Mariaの塔は高さ80m、400段の階段で登れるという。レンガ建築では ヨーロッパ一大きい (ケルンの大聖堂も大きいが石造りという)ここにもサンティアゴ・デ・コンポステラに纏わるホタテやヤコブの像があった。スタンプは明朝9時に登場するコンシェルジェに頼めと。明日のSopotまでの20kmはかなり遅いstartになる。途中にあるオリバ教会でのオルガン演奏を聴くには都合がよいかも知れない。hostelの朝食サービスも7:30であることだし。 次なるはグダンクスに住む2人の女性の登場。Długi(ドゥギ通りにあるネプチューン像の前で落ち合った。ここでガイドとお別れし港湾見学へ。 グダンクスフィルのホールなども詳細に。ポーランド語の事を色々聞いてみた。 なぜ「ヂェン ドブルィ(Dzień dobry こんにちは)」のことを「ジンドーブル」或いは「ドブリュ」「リュ」と発音したり返えしたりするのかと。早く発音すると「ジンドーブリュィ」となるが人によっては最後の巻舌が「ブリ」と聞こえたり「ブル」ときこえたりするが「bry」は速く発音されるの聞こえ方によっては「ル」「リュィ」と。なるほど。これからそのように発音してみよう。 「50」(pięćdziesiąt)をピェンヂェショントと発音するが、ピョンチヂェショントのようにćの部分をチと発音ないのは何故だろうと。曰わく。 ピョンチヂェショントとすると舌を噛みそうになるため省略されるのであると。 チェンストホバ詣でのことを聞いてみた グダンクスからチェンストホバまでは438km。7月下旬Długi(ドゥギ通り)にあるホーリー教会がstart pointであるという。 それを16日かけて歩くという。個人旅行ではなく1,000人規模の団体旅行であるという。各地からも出発するため経路が重ならないようにルートが決まるようである。R91を南下など。宿泊は学校の体育館などという。 三つ子の都市 2つめ Sopot(ソポ)にて ここは逗子マリンと軽井沢を足したような驚愕の町である。不夜城のように若者がオールナイトで闊歩する。ヨーロッパ一の1kmにも及ぶ桟橋が名物。 Oliwa教会(Archikatedra Oliwska) パイプオルガンの演奏が13:00から始まるというのでミサに参列した。Sopo(ソポ)へ行く途中に寄り道。そこに行く大通りで女性に抱きつかれしまった。facebookに小生の事が載っているという。それを見た女性なのであろうか。「貴男なのね。歩いている人って。」と。バナナを一本頂戴した。 さてSopoのhostel.に14:00に着くも固く門を閉ざしてしまっているではないか。netで調べてみるとチェックインは15:00となっている。これが原因でだれも応えないのかと思ったのだ。別の入口を当たってみたがこれも固く閉じられている。つぶれてしまったhostelなのか? 後で分かったことは全てこちらの早合点であったことだ。一度は扉に張り付いていたベニヤ板を剥がそうとしたのも間違いであった。そこは以前入口であったものをレイアウトを変えたために使わなくなっただけであると。ベニヤ板を引きはがしていたら住居侵入で逮捕されていたかも知れない。別の入口が閉まっていたわけではなく少し固かっただけで押せば開いたということを。 15:00までの時間で桟橋を見学したりやることは多い。この機会に理髪してしまおうと考えた。日本にいるときから前回理髪から3ケ月目のこの日はSopotのBarbarを利用する積もりでいたのだ。 Rashiku czyste lato(夏らしく、短く)とタブレットに喋らせてヘアカットが始まった。Befor Afterと言って鏡にうつる姿を写真に撮る。店内が大笑いである。普段は3cmほどcutであるがポーランド人にはスキンヘッドも多いので強めの5cmのcutにしてもらった。出来上がりはやけに短くなり変装したのかと言われるほどの驚きの姿となってしまった。hostelに戻ってもベニヤ板は閉まったままである。仕方なく明日会う予定のGdyniaのガイドに助けを呼ぶため「私はホームレス」というメールを打ち込んでいたらhostelの人がタバコを吸いに外に出てきた。そこで何をしているのか?と聞くので「かくかくしかじかで助けを呼ぶためメールを打っていたところだ」と応えると、hostelはさっきから開いているという。ドアを押せば開いたという。ベニヤ板は通れないように封印をしただけだという。今までの苦労は何だったのかと聴きだい。 ul.Bohaterów Monte Cassinoの通りの延長線上案橋があった。歪んだ家も建ち 観光スポットである。朝の早朝runで再び桟橋へ。そこで徹夜をしたのであろうか20歳の青年たち5人が語りかけてきた。彼らはポーランド北東部のSuwałki(スバウキ)から車でやってきたのだと言う。そこは湖がおおkyfishingのメッカであるという。釣った魚を見せてくれた。深さ108mの湖もあるという。 三つ子の都市 3つ目 Gdyniaグドゥニアにて Sopoから幹線では10kmしか離れていないため到着は11:00。ここは早すぎて玄関のベルを鳴らしても応答なし。 netで調べて電話すると出てきた。14:00からというが12:00 にここで人と会う約束をしているためシャワーだけでも使いたい旨伝えると「問題ない」と玄関まで迎えに来た。集合住宅になっているためシステムテムが複雑である。7#1234などの番号を押して玄関ドアを開けよ と。この#の部分が鍵マーク。一体何の合図なのか? 裸足で不用意に外に出てしまった。1234を押しても応答なし。7を押してから1234を押したりと。うんともすんともいわず。時間は迫ってくる。悪戦苦闘していると下の階のご婦人が外出する機会を偶然得た。ここでご婦人がやり方を教えてくれた。カギのマークも特別のキーがあるのでそれを押さなければならなかったのだ。hostelの人はそんな事教えてくれなかったが常識なのであろう。 さて定刻より早く11:30にはガイドがhostelを訪ねて来てくれた。海岸近くの博物館の屋上にあるレストランでインタビューアと会い弾丸のように飛ぶ質問に応えた後に昼食をご馳走になった。魚料理で美味。 ガイド、メディア、インフォメーションの3人の女性に囲まれて主にメディアの質問を受ける感じでmeetingが続いた分けであるが、矢張り多いのが巡礼の国として何故ポーランドを選んだのかという質問である。シェンゲン規定から32kmx80日で2500kmを得ることと、パリから逆算するとポーランド・クラクフを起点とし、ヴィスワ川沿いにS字を描くように旅を立案したと応えるもやはり最大の理由はまだ見ぬ国であることである。「今回の旅行で何か特別な訓練をしたのか」には毎日が明日への鍛錬になっていると応えておいた。 昼食と市内案内の接待を受けた。 三つ子と呼ばれるのは旧都市のことを差して言われるが、Gdynia自身は1989年に「市」としてスタートしたばかりの町である。新都市は2025の完成を目指すという。壮大な模型(これでも1/5のエリアだという)は見事なものであった。実にきれいな町であった。 日本が負けているという感じである。失礼。 総集編その1に飛ぶ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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