カテゴリ:ジョグ&スケッチ
40年前にパリ20区のGambetta(ガンベッタ)にすこしの間住んでいた。当時は17:00になれば会社から追い出されafter5を100%楽しんだものだ。パリ市内には当時9900の通りの名前があった。taxi運転手はその全てを覚えていないと資格が与えられなかった。ならばこちらもその全てを歩き通すということを目論んだものだ。これは途中で挫折したが当方もかなりの道を足を棒にして歩いたものだ。その当時のパリと現在のパリ(4日しかいないが)を比較してみよう。
交通・・Metroは第14番の路線が増設。その殆どの路線が郊外に伸びている。駅や通路は小綺麗に全面改装された。場合により路線自体も全面改造されたのかもわからない。11番線の終点は地下が深くなったのでは。乗換えも非常に分かり易くなった。以前は地下通路が巣窟のようで一旦地下に潜れば二度と出て来れないかも知れないという恐怖を味わったものだ。特に大きな乗換え駅、例えばRépublique (リピュビリック)駅。各所に付いてあった一方通行のゲートが取り除かれ自由に行き来が出来る。自動改札となったためである。路線毎にfrom,toと路線番号と行き先方向の終点駅の4つの情報が要るがこれだけあればどこでも行けるのだ。格段の進歩。 RERは2路線増えて3路線に。その一つがOrly(南)とCDG(北)を結ぶエアポート路線でmetroともNord駅を初めとしていくつか繋がっているので簡単に空港に行ける。その他はT路線。昔の環状のブルーバードが路面電車軌道に変更された(一部分のみであるが)。ふかふかの芝生が敷き詰められた床を静かに進んでいく。車はその外郭に設けられた専用道路を使う。いたって静かになったブルバード。 人種・・前より色が濃くなったイメージ。黒人男女がかっこよく街を闊歩する。中国人、韓国人が目立ち日本人は影が薄くなった。(どこの国でも同様。いやもともと日本人は静かで目立たなかったのかも。) 信号無視・・ポーランド、ドイツでは全員きっちり信号を守っていた。(そう感じていた。お利口さんの集団のように。)ところがどうだろうフランスでは車が来なければ渡るというスタンスで誰も信号を守らない。これは変わっていない。車が来ているのにすり抜けるように走るのは若者に限るが。 8/6(木) Gambetta(ガンベッタ)にて 8/4にClaye-Souilly(クレイ=スイイ)に向かう運河の端で疲れ果てていたらタンデム(2人乗り)の自転車のアベックが心配して声をかけてくれた。最初から運河沿いの道を進めばよかったものをそま道から麦畑へと大きく迂回したために気分的に疲れていたのだ。少し話す機会を得た。パリからマルヌ運河沿いに39km自転車でこいで来たとスマホの計測ソフトを見ながら言う。これからMeaut(モー)市まで運河沿いに進み電車で帰るのだと。イージーであると笑う。その後何回か写真付きのメールのやり取りがありそして本日18:30にPalais Royalでお酒でも飲もうということになった。 会社は9:00~9:30が始業時間という。ポーランドより2時間も遅い。 お酒は18:30~20:00頃。その後が食事timeのようである。夕食にcafe Restaurant に飛び込んでも19:00までは料理の注文はお預けであり。彼らは話をとことん楽しむ。彼らと20:00頃別れて懐かしのガンベッタへ。昔住んだことがある町を見たい。できれば懐かしのレストランで食事をしたい。今回の旅のもう一つの楽しみでもある。 行き先方向のガンベッタは高台にあるので夕陽がきれいではないかという。さらにPére L'Achaise(ペールラシューズ)公園の端に掛かる三角地帯にbistoroが列をなし、おいしいと。 住んでいた場所の最寄り駅はメトロの3aという支線でガンベッタから一つ目のPelleport(ペルポート)。elevatorで上がる。システムは同じであるが、がちゃがちゃとエレベーターの扉を閉めたものが近代的なものに変わっていた。外は40年前と代わらず同じビル群。仕事をしていた会社の場所は豪華マンションとなり、下宿先は5階建のアパートに様変わりしていた。「ボワラ」といって威勢よく料理を運んでくれたおばさんの居たレストランはどこに? 仕事の帰り道にあったBarは今もって健在。パチンコ台はなかったが。要するにパリ中心街を除いて周辺がじわじわと変わっていくのであろう。パリ中心街はその一階部分(grand floor)は総て綺麗に改装されMacなどが入っていたりする。2階以上は変わっていない。 ガンベッタまで降りお薦めビストロに行ってみた。驚いたことにどの店も300席くらいあ路上テーブルが人で埋まっている。これほど繁盛している店を見たことがない。Les Foudresというbistroで、肉料理に舌鼓。ギャルソンは目の回る忙しさでオーダー受付と料理の支給と勘定をこなしていく。もう神業である。 8/7(金) Auvers sur Oise(オーヴェル シュル オワーズ)にて パリの西北30kmの村を訪れた。ゴッホ終焉の土地である。お墓は弟のテオと共に墓地の最上部にツタの葉っぱでうまっており緑一色の墓となっていた。ラジョン、ゴーヌット、ミュレル、ボッジョ等の画家もこの墓地に眠る。最期の65日に100枚以上の油絵を描いた凄まじいまでのゴッホ。それを表現した立像がゴッホ公園にある。背中に2張りのキャパスを背負い、たすき掛けに身体に括り付けている姿は鬼のようである。これがゴッホ37歳の真実の姿なのかもしれない。ゴッホが描いた「オーヴェールの教会」は12世紀建立の古いものであるが今も同じようにように建つ。ゴッホが見たらこんな風に曲がってしまうのかと思うのは素人の浅はかさでこれが「印象派」の「絵」なのである。我々が描くとただ「描きました」というだけの絵で何の感動や響きも呼び起こさない。コロー、セザンヌなども訪れた村は他のどの村とも変わらないがオーヴェル・シュール・オワズの高台を通る古い道からの眺めは抜群である。ポートワーズでセーヌ川と合流するオワズ川も画家たちを引き寄せたのであろう。 アクセス・・・Paris Nord駅から2つのルートがある。 Gare de Pontise(ポントワーズ)行きに乗りSaint Ouen l'Aumôneで降りてCreil行きの電車でAuvers sur Oise(オーヴェル・シュール・オワズ)で降りるか、Persan Beaumontまで行ってポントワーズ行きに乗り換えてオーヴェル・シュール・オワズに行く。乗換があるので凡そ1時間半。 今日は川沿いも含めて村をくまなく歩いてきた。 パリの”新友人達"にヴェルサイユよりこちらの方が良いのではないかと教えられたものである。観光客はボチボチといったところで大変空いておりお勧めのパリ郊外である。 帰りは夕方となったが食事には時間的にまだ早い。目的のレストランまで時間を稼ぐために歩くことにした。北駅からBoulvard de Magenta(マゼンタ通り)を東南方向に。リピュビリックからヘルヴィル通りを登っていく。向かうはエスカルゴが有名であると教えてくれたその名もL'Eskargot。パリの最後の夜をエスカルゴで締めくくろうとしたのである。しかし夏休みなのかつぶれたのか店は貼り出しもなく閉まっていた。 近くのBarに飛び込みビールオーダー。Foi de veau de bit pueu de Celeri とやらを注文した。驚いたことにオリゴソースが付いたオーブラック(Aubrac)牛のステーキが出てきた。ウエイトレスに聞いたが分からないと言う。コックに聞いたのであろう貴男が正しい。オーブラック牛であるという。な、なんということか。ル・ピュイからモアサックへの巡礼路で会った牛達。パリ3星レストラ御用達の高級牛がこの街角で食べれるとは。今まで食べたどのステーキよりも美味かったことは事実である。 さていよいよ帰国である。では。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Aug 15, 2015 09:14:37 PM
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