内藤新宿と夏目漱石
先日、歴史博物館でガイドの勉強をしている時、見学している人から「夏目漱石は子どものころ、とてもかわいそうな人だったのですね」という話がでました。 夏目漱石こと夏目金之助は、夏目小兵衛の5男末子として生まれます。 上に4男3女の兄姉がいました。 年をとっての子ども誕生はということで歓迎されなかったのですね。 生まれてすぐに四谷の古道具屋に里子に出されます。『硝子戸の中』 に書いています。「私はその道具屋の我楽多(がらくた)と一緒に、小さい笊の中に入れられて、毎晩四谷の大通りの夜店に曝されていた」 (この四谷の大通りはどのあたりだろうと気になります。いずれ調べてみます) 「それを或晩私の姉が何かのついでにそこを通りかかった時見付けて、可哀想とでも思ったのだろう、懐に入れて宅へ連れてきた」 しかし、連れて帰ってきても、家に引き取ってもらえませんでした。 父親の夏目小兵衛は、面倒を見ていた塩原昌之助に、養子ということで、金之助を押しつけます。 その頃、塩原昌之助は、太宗寺門前町など周辺の四つの門前町の名主であったようで、屋敷は太宗寺の裏手にあったといいます。 しかし、間もない維新後の混乱期の中で、塩原昌之助は、浅草の方の添年寄りなって浅草諏訪町に移って、それから転々としています。もちろん金之助も一緒です。 そして、夏目金之助が物心ついた頃は、再び内藤新宿に舞い戻ってきて、ひっそりした元妓楼だった建物に住んでいました。 それは、当時一時免職の憂き目にあった昌之助に、夏目家が、空き家になっていた妓楼伊豆橋の管理を任せたからでした。 漱石は、伊豆橋に住んだ思い出を『道草』の中で書いています。 「行き詰りには、大きな四角な家が建っていた。家には幅の広い階子段のついた二階があった。その二階の上も下も、健三の眼には同じように見えた。廊下で囲まれた中庭もまた真四角であった。」 (その位置は内藤新宿のどのあたりかだいたい分かっています)。 その後の金之助のことも書いておくと、 養父昌之助は、旧幕臣の未亡人といい仲になり、家を出る。 金之助は取り残された養母と暮らしたり、養父とその愛人の家へ引き取られたり、たらい回しにされます。 結局、養父母が離縁したのをしおに、漱石は実父母に引き取られますが、それは、明治9年、漱石が10才のときです。 しかし塩原家の籍はそのまま残り、漱石が夏目家に復籍したのは、明治21年、22才のときです。 内藤新宿に即して、漱石の幼少を見ていくと、たしかに「かわいそう」です。 こうした不幸が、漱石の文学にどのような影響を与えているのでしょうか。 内藤新宿の町並を見ながら、いろいろ思いを馳せることができます。