宇賀神像の横に石灯篭がありますが、「紫燈篭(どうろう)」と呼ばれます。
京都の「京紫」に対抗してできた「江戸紫」によって江戸の染め物産業が栄えたことを感謝して、寄進した神田の紫根問屋・紫染屋が奉納したものです。
江戸時代の正徳のころ、吉祥寺村に近い松庵新田の豪農杉田仙蔵は、京都知積院の僧円光と知合い、京紫の存在を教えられて魅了されました。
二人は協力して江戸紫の開発をしたといわれます。
紫という色は、推古朝の官位十二階に定めに紫色を最上位としそれは「徳」をあらわす色とされて以来、尊貴の地位を保ち続けてきていました。
天平時代は古代紫、平安時代は京紫として尊重されて、一般的には、手が出せない色でもありました。
染料として用いられていたのは、「紫草」の根でした。
原料の紫草の根、「紫根(しこん)」そして、染色に使う灰汁(あく)は椿の葉を焼いた灰が良いということで、いろいろ研究を重ね、紫草の産地は南部盛岡にあることを突き止め、南部の農家に作男として数年住み込んで紫草の栽培法を学びました。
ちなみに、武蔵野の名は紫野からくるという説があるくらい、実は、紫草はかつて武蔵野を代表する花ではあったのです。
そうして、何年もかかって紫草の白い花を咲かせ、さて染の水に雨水や多摩川の水では合わず、井の頭池の水を使ったものが、とびきり鮮やかな青みを帯びた紫色に染まったといいます。
奈良・平安の昔、貴族たちが高貴な色として尊重した「京紫」、それは、少し赤みがかったむらさきでしたが、青みがかった紫は「江戸紫」と呼ばれて江戸庶民の間で大ヒットしました。
歌舞伎十八番の中のひとつ「助六由縁江戸桜」。助六が、黒羽二重の小袖に紅絹(もみ)の裏地、紅色のふんどしと、目を見張る派手な格好で、蛇の目傘片手に花道からさっそうと登場します。その助六が頭に病鉢巻を巻いているのが、青みがかった紫の鉢巻、これがまさに、江戸むらさきです。
病鉢巻は文字通り病人が巻くもので、紫草(ムラサキ科ムラサキ属の多年草)の根には解熱、解毒の生薬としての薬効があり、これで染めた鉢巻を額に巻くことで病状を和らげられると考えられていました。
ただし、助六の鉢巻の結び目は右で結ばれています。この結びが右にあるときは健康でしかもパワフルさを表すこととなっていて、病人は左にあります。
とにかく江戸紫の流行で、紫草の根を扱う紫根問屋や染め物業者らは、繁盛しました。そして、そのお礼に、「紫燈篭」を奉納したのです。
紫燈篭は、江戸紫の染物問屋と紫根から薬をとった薬種問屋が江戸末期に寄進したものです。