中央西線その後前のページ | ホームに戻る |次のページ 中央西線その後 昭和48年5月6日分の残りと6月の感傷旅行 残りの作品をアップします。 南木曾駅付近ブログ用.jpg 後補機D51351修正ブログ用.jpg コメントなし。D51351号機です。 田植えが近い.jpg いい煙を出していますねえ。これを正面から撮ったらいいのが撮れたと 思うべな。そだそだ。おら、そう思うだ。 うまくいかないものです。遠景を撮れば良い煙。アップにすれば煙なし。 まあ、場所の選定が間違っているわけですけどね。 ここは、狭いながらも田植えの準備がされていた。 車内からブログ用.jpg 帰りのディーゼルカーに乗って松本へ帰ります。D51の貨物が駅で止まっていた。 SLの向こうに木材が見える。上松だろうか? カメラを向けると同じボックスにいた、かわいこちゃんが 「にこっ」 と、笑顔を作って くれた。シャッターを切った僕に「ありがとう。」 にこにこ~、でした。 その心境やいかに。 (わたし、かわいいから写してくれたのだわ。『このあと、写真を送ります。 住所は?』 と、聞いてくるのかなあ。うふっ! ) と期待していたような顔、顔・・・・。 でも、そんなこと思われてもなあ、 ピントは向こうのD51にばっちりです。ごめんね。 「僕はSLを写したのです。あなたではないのです。」と、言いたかったが、 言うと気まずくなりそうなので、黙ってしまった。少しにこっと笑顔を作ってね。 当時はカメラはSLのためのもの。女を写すものではない、という信念だった。 つくづくナンパのできないダメ男でした。「俺は硬派だ~。」 逆に相棒は気楽に声をかける才能があった。うらやましい。少し分けてくれ。 中央西線はこの2日だけだった。5月31日で無煙化された。 この後の日曜日は部活の試合などで、行くことができなかった。残念。 塩尻まで自転車で夜の機関区などを写したい気持ちもあったが、寮内での 麻雀小僧は毎日のようにジャラジャラの音がするところに出没していた。 というわけで、それで、あきらめた。 でも、6月になるともっと他の場所でも写したかったなあと、カメラを持って 「寝覚めの床」まで撮影に行った。 寝覚ノ床DD51ブログ用.jpg 有名な撮影場所です。ここで煙を出しているD51を写したかった。 まだ、完全に電化されていなかったので、DD51が臨客などを引いていた。 高校時代の熱が冷めているのがわかった。 帰りに塩尻機関区の撮影です。これもたった1枚だけ。 塩尻機関区ブログ用.jpg 線路を切り替えるくらいにしか使用されなくなっていた。右に昭和電工の 工場が見える。 今もこの場所は列車の停車場となっている。 おれはこの後も夏休みに九州に行ったりして撮影を続けたが、相棒は東京の 生活が忙しく、この中央西線が最後だったようだ。 次の年に俺が東京に遊びに行ったときに彼が言った。 「おまえ、まだSL写しとんのか?好きやなあ!!!」 2年の時は会津線と北海道に行っている。 どうせ、もうじきSLは終わるのさ。ここまできたら最後まで付き合ってやる。 根性の男でした。 今日は短くするつもりだったのに、つい長くなってしまった。反省。 前のページ | ホームに戻る |次のページ | ジャンル別一覧
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