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荒船山にお祀りされている「神様」とは・・?
![]() 木々の向こうに見える荒船山 2006年の5月1日、 「御嶽講」登山に同行した際に撮影。 ユっぴー・コスモスです。 《コスモス街道》を、応援してくださいね♪→ 内山限定の地域新聞『月刊こすもす』 (プリントショップコスモスさん提供)6月号に掲載された、 羽毛田(はけた)卓也さんの歴史・自然エッセイです。 (Web上で読みやすいように、ユっぴーが改行・行空けしています。) ★見てね♪ → ★羽毛田さんの、自然・歴史エッセイコーナー★ --- 荒船山と古代の信仰のはなし その2 貫前神社と荒船山 --- 内山の古代の信仰の話の前に、お隣の群馬県の話をしようと思います。 荒船山に源を発する鏑川の中流域の北側、富岡市一ノ宮(綾女谷)に 上州一宮「貫前(ぬきさし)神社」が鎮座しています。 「貫前神社」は江戸時代に再建された重要文化財指定の社殿と 古代より伝承された数々の神宝や、 古代にさかのぼる神事のひとつである「太占(ふとまに)」が 行われる神社として有名です。 「貫前神社」の祭神は「經津主神(ふつぬしのかみ)」 「姫大神(ひめのおおかみ)」の二柱ですが、 安中から松井田地方で勢力を伸ばしていた古代豪族である磯辺君が この地を支配するにあたり祭政一致を図り、 自らの信仰祭祀(さいし)をこの地方に広め、 それが「經津主神」を合祀(ごうし)したという形で 残っているのだと推定できます。 現在はその後の紆余屈曲を経て「經津主神」が主神となり、 「姫大神」は脇へと追いやられている感があり、 時代による信仰の盛衰を感じます。 「貫前神」とは本来「姫大神」という女神で、 「經津主神」の別名でも後世に混同されたものでもありません。 また鎮座地の「綾女谷」という地名から、 機織(はたおり)の神様だとされていますが、 それも後世に機織が盛んになった頃に付け加えられたことで、 本来は「水」の祭祀を行っていたみこ巫女が神格化したものか水を司る神と 考えたほうが自然でしょう。 つまり「水」を信仰の対象としていたのではないかと考えられます。 「貫前神社」は祭祀を行う上では里宮であり、 奥宮は「荒船山」です。 荒船山は分水嶺で、 太平洋に注ぐ利根川支流の鏑川の水源と、 日本海に注ぐ千曲川支流の滑津川の水源を持っています。 山頂平坦地に水源があり湿地となっています。 ここが水源祭祀を行っていた神聖なる場所と考えられます。 「姫大神」を文字表現違いの「比売大神(ひめのおおかみ)」と捉えると、 福岡県宗像市の「宗像(むなかた)大社(だいしゃ)」の三女神である 「多紀理姫命(たぎりひめのみこと)」 「多岐津姫命(たぎつひめのみこと)」 「市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)」 の意味を持ちます。 この「宗像大社」はそもそも福岡地方の古代海洋豪族であった 宗像君の氏神であったとも言われています。 他に八幡宮の総本宮である「宇佐神宮」のニ之御殿の 「比売大神(同上三女神)」や 出雲大社内筑紫社にも祀られています。 「抜鉾(ぬきさし)」の意味については、 鎌倉時代から編纂が始まり室町時代の14世紀半ごろ完成した とされている「神道集」に 「脇に鉾(ほこ)を挟んで来られたため」とありますが、 鉾を使用した水源祭祀を鏑川の水源である荒船山で行っていたことから 転じたものであることはたやすく推測できます。 また古代「荒船山」は「笹岡(ささおか)山」と呼ばれていましたが、 これも「ささおか」ではなく「逆鉾(さかほこ)」であったと 考えられます。 「神道集」に「貫前神(抜鉾神)」が登場します。 わかりやすく要約すると 「赤城大明神が絹布を織っていたが絹笳が足りなくなった。 好美女(貫前神)は財産があるので絹笳があるだろうと借用して 織ったとこととても具合が良かった。 これほど財産のある君を他国へ移してしまうのは惜しいため、 自分の一宮を好美女に譲り、赤城大明神は二宮となった」 となります。 一宮制の成立は平安時代末期頃と推定されています。 上野国の一宮は「貫前神社」で二宮は「赤城神社」で、 (ちなみに信濃国の一宮は「諏訪神社」、二宮は塩尻の「小野神社」です) 上野国の西端にある「貫前神社」と前橋にある「赤城神社」が 一宮について争ったことがうかがえます。 また「神道集」では「貫前神」を他国の神と断言しています。 上野国の中心地にある 「崇神天皇の皇子で東国を平定したとされる豊城入彦命」 を祭る「赤城神社」を抜いて、 他国神を祭る「貫前神社」が一宮を獲得したのです。 これは普通では考えられないことで、極めて興味深い事象です。 富岡から藤岡にかけての地域は 多量の渡来人が居住していたとされる地域で、 地名や名跡として残存しています。 渡来人は技術を持った集団であり、 それを背景に財力を蓄えていたのでしょう。 渡来人の技術とは、 器を焼く技術・製鉄・製炭・機織・灌漑・番匠・馬飼・石工など 最先端のものばかりです。 それら渡来人達の氏神であった女神が 「貫前神」なのだと考えられます。 物質的にも精神的にも恵まれた彼らが信仰する女神の影響力は 近縁に広がり、 その信仰は人々の心深くにとどまり続けていたのでしょう。 そのため、 磯部君や、上野国を平らげ赤城大明神を氏神としていた豪族上毛野君を 以ってしても、その信仰を変えることができなかったのでしょう。 隣の下仁田町の南野牧に「荒船神社」が存在します。 「經津主神」「建御名方命(たてみなかたのみこと)」の 2柱を祀っています。 「貫前神」ではなく「建御名方命」を祀っています。 つまり「貫前神社」が「建御名方命」を祀りはじめたころですから、 かなり後世である中世頃に、「貫前神」信仰の影響下で、 「貫前神社」と「荒船山」のほぼ中間点に鎮座したものと推定されます。 次回はいよいよ「貫前神」の別名である「好美女」こと 「姫大神」・三女神の登場です。 (文責 羽毛田) 《コスモス街道》を、応援してくださいね♪→ [内山の歴史]カテゴリの最新記事
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