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◆特撮機関誌大一プロブックHP◆ ★rainbowmaskの日記(コラム・SF)★ ![]() 「七色仮面フィギュア完成品」 私のホームページの顔とも言うべき、 懐かしの正義の味方「七色仮面」の(あまりうまくはありませんが)、 自作フィギュアです。 七色仮面は正義の味方の元祖 「月光仮面」に比肩する、 東映の傑作少年活劇の主人公でした。 「ボクと漫画大将」(物語・作画/たかはしよしひで氏) 昭和30年代ブームの映画には描ききれない本当の昭和30年代が、懐かしい時代の風景が――ここにある ! さわやかでほのぼのとした語り口の、たかはしよしひで氏による、漫画少年の傑作物語『ボクと漫画大将』。目を見張るイラスト付きです ! 第1章最新版に突入 ! 先史時代冒険への第一歩、タイムマシン出発シーンや前世紀に向かって突っ走るシーン満載 ! ご高覧はフリーページ最下段からどうぞ ! ![]() ![]() 巨獣境冒険物語「恐竜境に果てぬ」最新版、第1章『先史時代』第1節・恐竜境へ出発その2「恐竜境へ出発」フリーページ一挙公開 ! (更新日2011年10月31日) 想科さん、いつも迅速で構成見事な『怪獣少年の夢』コーナーへの更新、本当にありがとうございます。これはもはや迅速ではなく、『神速』と形容すべきだと存じております。 また、以上記載のように、フリーページ更新についで、このトップページの『特撮雑誌表紙に託した怪獣少年の夢』ロゴをクリックしますと、最も構成センス豊かな「恐竜境に果てぬ」のコーナーが短時日のうちに更新掲載されます(更新・構成は 想科氏ことたかはしよしひで氏の高度な技術のおかげです)。 「これぞTV版元祖『水戸黄門』主題歌・水戸黄門旅日記」「後藤樹史(ごとう・たつし)氏の『不思議館』」 下のページ作製は、すべて想科良次さんの 神速技術の恩恵をこうむっています。↓ ![]() ![]() 「甥(長男)のサイト」 「第二日記/Hornetの日記」 |
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rainbowmaskの日記(コラム・SF/2003年4月11日開設) [全1705件]
昭和49年(1974)、当時21、2歳の私は実年数5年での卒業ほぼ不可能と推測し、在学年限ギリギリでの卒業も危うい状況下にあった。筑波大学への移転の関係で、一年経つごとに在学年限は一年ずつ減らされ、昭和46年入学の私のときは、年限7年だったと、これは卒業記念の簡単な祝賀会の際に、在籍していた土壌研究室教授から初めて知らされた。猶予一年というかなり際どい卒業だった。 言わば大学の落ちこぼれだった。私の学習能力は高校までで出尽くし、大学の科目のことはほとんど理解出来なかった。 話が長くなるが、別シリーズ『塾をたたむにあたって』の続きがいつになるか、自然消滅のおそれもあるから、思いついたこの時に書いておく。 沼津東高3年になっても、私は大学選びに悩んでいた。この期(ご)に及んでなお、私は受験勉強の延長上に、その労苦に報いるべき社会生活が保証されて然るべきなりと、時代錯誤の考えでいた。 「成らば働かずして生活出来ないものか」などとさえ考えていた。さほど優秀だったわけでもないが、静岡県下有数の進学校である『沼津東高』俗に沼東に進んだのだから、最終学府として国公立大学理科系に進み、卒業さえすれば、卒業後の進路は押しも押されもせぬ安泰の給料とりになれて当然と思っていた。 さらに年来の特撮趣味から、東宝特撮映画の脚本家になれるなら言うことなしとも思っていた。既に円谷英二氏は亡くなっていたが、脚本のみならず、特技手法で、円谷監督の衣鉢(いはつ)を忠実に継ぐ後進の特技監督を育てれば何んとかなるとも思っていた。 我れに返って進学の道をさがすと、どの大学学部・学科も魅力ゼロだった。 とりあえず国立大学に進めば、ネーム・バリューで好条件、好待遇の企業は広き門を広げて待ち望んでいるとまで勘違いしていた。 ただし、「合格可能性の高い国立大学理科系学部学科は見つかる」と判断し、私としては独特の大学探しを行なった。後年、学習塾で高校生を指導しながら、私は「受からなければ話にならない。己の能力・得手不得手を考え、肌に合う入試問題の大学から検討すべし」と、ほとんどの生徒にやや熱弁を奮ったつもりだったが、ハッキリ言って身の程知らずばかりだった。 結果からの偏見かも知れぬが、私の大学受験は当初の作戦・計画通り、成功した。まず旧帝国大学レベルから調べ始めた。たとえば神戸大学などは、過去の問題の難問羅列の凄さに舌を巻いて、早々に退却した。 レベルはたいしたこともないのに、問題だけはご立派な私立理系大学も候補からハズした。 「国立大は高望みか・・」とあきらめかかりながら、今はなき東京教育大学の過去問題集を見た。真っ先に数学を見た。鉛筆を持たずとも解けそうな問題が何題か見つかった。ここで即決した。合格後の家庭教師のアルバイトも引っ張りダコとも確認した。 順番がやや前後するが、理系の中でも農学部が一種の穴場だった。本格の理系学部である理学部などは歯が立たないと既にわかっていた。 この時点で仮にも教師と名のつく仕事に就く気はさらさらなかった。運命の皮肉でもある。 同じ農学部でもたとえば「農学科」という学科は文系だった。兄の勧めで「農芸化学科」は紛れもなく理系であり、人や獣などが飲める薬物を学ぶ「薬科大学または薬学部」ではないものの、害虫駆除などの農薬、あるいは酒類・食品を扱う企業への道が用意されてもいると知って、決意が固まった。これが人生最初の大きな失敗だった。 やや星移って冒頭に書いた昭和49年晩秋から翌50年春へかけてのある時期、かなりの絶望の中にいた。 ある宵、どこかで定食を食べていた。食堂のテレビにアニメ番組が映っていた。 放映当時は低視聴率の『宇宙戦艦ヤマト』だった。 毎週欠かさず見るどころか、テレビをつけて選局して偶然放映している時に見る程度だったが、「割と面白いドラマなのに、なぜ奮わないのか ? 」と、実は応援したい気持ちで見た。 主役と言うべきヤマトは、文字通り旧海軍の巨艦・戦艦大和がよみがえったかのようにスマートなデザインであり、ドラマも地球存亡の危機にひんして、はるか銀河の彼方へばく進する毎回の・・・と言っても書いた如く、たまたまチャンネルが合った時に見た程度だったが、あいだをあけてでもストーリーはつかみやすかった。 「ほかの者共は何を見ているのだろう」と既に流行にだけ乗る風潮に不愉快な思いだった。 その流行に乗れなかった本作品が、私のようやくの卒業年の昭和52年、劇場公開と共に爆発的ヒットになるとは予想もしなかった。 昭和49、50年当時、私は既に「なぜ東宝はこういう映画を特撮で作らないのか ! ? 」と独り憤っていた。 ごく最近、これが同じ東宝で現実となり、興行も成功裡に終わったと知って、「あれから優に30年余りの歳月を過ごした。皮肉なものだ・・・」と曰く言いがたい思いを思ったものだ。 小誌「大一プロブック」1991年新年増刊号特集記事「我が夢の東宝特撮映画」より。 さて、これだけほめ称えた「宇宙戦艦ヤマト」であるが、ここからまるで本作品を裏切る如く、一気に主題歌批判を書く。 熱烈なるヤマトファンのかたがたには、あるいは不愉快極まるものかも知れぬし、私の見解への反論もあるかも知れないが、冒険活劇ドラマの往年の主題歌に聴き入り、それら幾つかのメロディーと歌詞に魅了されて来た年配者による主題歌観とみなし、苦言を諒とされたい。 さて、主題歌には実は4番まであるらしいが、巷間知れわたっているのは2番までと仄聞しているので、私はこの2番の歌詞の不完全さについて書く。 本作品の主題歌、宮川泰(みやがわ・ひろし)氏のメロディーは、シングル盤と共に発売された「交響組曲宇宙戦艦ヤマト」を聴くとなおわかるが、メロディーそのものが見事で、これ以上の主題曲はあるまいと思えるほど勇壮で覚えやすい旋律だ。 だが、あの有名な作詞家・阿久悠(あく・ゆう)氏の歌詞はいただけない。ただし1番は問題ない。 ここに2番の歌詞を掲げる。 ♪ 2.さらば地球よ、愛する人よ、宇宙戦艦ヤマト、 地球を救う使命を帯びて、戦う男、燃えるロマン、 誰かがこれを、やらねばならぬ、期待の人が、俺たちならば、 銀河をはなれ、イスカンダルへ、はるばるのぞむ、宇宙戦艦ヤマト 以上相変わらず著作権無視の全歌詞掲載である。 「宇宙戦艦ヤマト」を少年少女・青年向けアニメとジャンル断定して良いとすると、本主題歌2番は、1番の続きとして、歌詞の言葉が整然とそろった感じでなくてはならないはずだ。 ここで順序逆ながら1番を掲載する。 ♪ 1.さらば地球よ、旅立つ船は、宇宙戦艦ヤマト、 宇宙の彼方、イスカンダルへ、運命背負い、今とび立つ、 必ずここへ、帰って来ると、手をふる人に、笑顔で答え、 銀河をはなれ、イスカンダルへ、はるばるのぞむ、宇宙戦艦ヤマト 以上、1番の歌詞である。 2番の歌詞は、歌詞のリズムが分離して、歌の文句として無秩序なものになっている。 「さらば地球よ愛する人よ」のあとに、「宇宙戦艦ヤマト」という名詞が続くのは不自然だ。あえてふざけた書き方をするなら、「さらば地球よ愛する人よ、今やヤマトはゆくよ」などとすれば、こっけいながらも文として継続性がある。 これは想像するに、『曲先』と呼ばれる作曲のあとに、無理に歌詞を当てはめた結果の破綻である。 歌詞が先に書かれていたら、作曲段階で工夫がなされたような気がする。 もう一箇所、面妖にとれる歌詞がある。「期待の人が俺たちならば」である。 「期待の人」は三人称であり、「俺たち」は一人称だ。これをつなげるのは木に竹を接ぐ如しであると断ずる。メロディーが勇壮・軽快なだけに惜しい主題歌だ。 私の即興のものなぞ、これまた笑止だろうが、文脈を整えることに神経をつかうならば、たとえば以下のようになると勝手に作詞した。 ♪ 2.迫る敵艦、 蹴散らす艦(ふね)は、 宇宙戦艦ヤマト、 死力を尽くせ、 魂燃やせ、 我れは進むぞ、 宇宙(そら)のはてまで、 誰かがこれを、 やらねばならぬ、 期待を背負い、 俺たちは征(ゆ)く、 銀河を離れ、 イスカンダルへ、 はるばる、 のぞむ、 宇宙戦艦ヤマト 前置きが長く、予想外に字数を費やしたので、これでおしまいにするが、一般の歌謡曲にも妙な言葉遣いのものが見かけられる。機会をみて扱ってみたい。 理屈っぽいことばかり言っていますが、ともかく我が旧海軍が建造した、世界に誇る戦艦大和が、憧れの戦艦大和が、実写映像でよみがえったことはうれしいのです。
ブログSF「恐竜境に果てぬ」、最新版フリーページに更新 ! 探検車型タイムマシン遂に時間旅行に出発 ! 昨年2010年更新から優に一年が過ぎてしまいましたが、ようやく最新版の物語が完成しました。 戦車のような大砲を備えた探検車タイプの重量級タイムマシンが、異空間を突き進む物語描写と共に、有史前の数々の挿絵画像もたっぷり用意しました。 どうぞご覧下さい。(2011年10月31日更新) ↓下の画像ないし文字列をクリックしますと、フリーページ最新版物語へ飛びます。↓ 「恐竜境に果てぬ」第1章『先史時代』第1節その2「恐竜境へ出発」
笑ったりしんみりしたりしながら楽しんだTVドラマ「だいこんの花」のシングル・レコードの話を中心にあれこれ書いて来たが、そろそろまとめてみる。 私はつい先日、このドラマのテーマ曲と竹脇無我自ら歌う甘い歌声の主題歌をもう一度聴きたいと思い、ネット通販で何んとか在庫のある1977年発売のシングル・レコードを買った。 前の日記でナレーションの『・・こぼれ散り・・』にこだわったのはこの盤を買ったからだ。 レコード盤は、特に冨田勲のテーマ曲を文字通り堪能出来る構成に録音されているから、余りの懐かしさに涙を流しながら聴き入った。 もちろん竹脇無我のナレーションが初めに入るが、このレコード盤では『・・こぼれ散る・・』とハッキリ言っているのが特徴だ。テレビ放映のナレーションとは異なる。ただし、シリーズ途中からテレビのほうも『こぼれ散る』に変わったのなら、私の間違いだ。 二面ともA面と言いきっても良いレコード盤だ。 テーマ曲は、書いたように、以下のナレーションから始まる。 『人知れず忘れられた茎に咲き、人知れずこぼれ散る、細かな白いだいこんの花』 「堪能出来る」というのは、テーマ曲を二回繰り返すことだ。テレビ放映では言わばワンコーラスて終わってドラマに入るが、しコードでは、楽器の演奏のあと、全く同じメロディーを美しい女声スキャットを交えて演奏しているから、感動がさらに盛り上がる。もう少し正確に言うと、冒頭から女声スキャットが入り、続いて竹脇無我のナレーション、それから楽器による演奏が再び始まり、ワン・コーラスのあとに続けて女声スキャットが混ざるという順序だ。 さて、いよいよ竹脇無我の美声で歌う主題歌である。レコードを裏返して針をおろすと、今度はうって変わってアップテンポのモダンなイントロが始まり、歌が流れる。歌のメロディーは、冨田勲の曲にそのまま歌詞を乗せたものと言える。 少し横道にそれるが「YOU TUBE」はこのごろ余り好きでない。お気に入りに入れてしばらく聴かないでいて、しばらくぶりに聴こうとすると、著作権侵害とやらで削除されてばかりだ。 洋楽の「ABBA」の「ダンシング・クイーン」を長くお気に入りに入れておき、先日久しぶりに聴こうとしたら、削除になっていた。録音技術のある人はいち早く取り込んでいつまでも楽しめるだろうからうらやましい。 さて、「だいこんの花」も今のところは、いろいろ掲載されているだろうが、この運命も怪しい。 そして何より竹脇無我の主題歌がさがした限りでは見当たらない。 冨田勲の世界にうっとり聴きほれるにはテーマ曲だけのほうが良いが、竹脇無我の主題歌の味わいは、美声はもちろんだが、何んと言ってもさわやかでかつ、しみじみしたその歌詞にある。 私は楽天ブログの著作権なぞ知らないから、忠告でもないあいだは、二番まで全部掲載する。 以下の歌詞である。 ♪ 1 .春の日に咲いている、ひそやかな白い花、だれも目をとめないけど、美しく咲いている、いまは亡いかあさんの、やさしさによく似てる あのころはなにも知らず、生きていたぼくだけど、いまもなおその愛に、 つつまれて生きている 2 . 菜の花のかげに咲く、ひそやかな白い花、だれもほめないけれども、美しく咲いている、いまは亡いかあさんの、その姿思い出す 子どもらのかげひなたに、生きていたその姿、いまもなお鮮やかに、この胸に生きている (間奏) あのころはなにも知らず、生きていたぼくだけど、いまもなおその愛に、つつまれて生きている 以上、主題歌の二番までの全歌詞である。 独り、ヘタな歌で歌う時、この軽快なメロディーを、冨田勲のテーマ曲のようにゆっくりと、さらに曲のリズムもそれに合わせて歌うと、また格別の味わいに、自ら感動してしまうのである。 テーマ曲も、幸い半音がないから、ハーモニカで吹いて楽しむことも出来る。 ふと思い出すと、かつて数々のドラマを楽しんだ記憶が、懐かしい場面と共に次々よみがえるが、それらのドラマの中で、全く危なげない、見事な演技で楽しませてくれた俳優・タレントの多くが既にこの世にいないという寂しさも、同時によみがえって、懐旧の情とはつくづく哀愁を伴うものだということもわかる。 「だいこんの花」一つ思い出してみても、元海軍大佐で巡洋艦「日高」艦長だった永山忠臣(ながやま・ただおみ)を演じた森繁久彌、その息子役として余人を候補に考えられないほど、ピタリ息の合った永山誠(ながやま・まこと)を演じた竹脇無我、例を第2シリーズにとってさらに思い出すと、巡洋艦と同じ屋号をつけた料亭「日高」を経営する元部下の相馬京太郎(そうま・きょうたろう)役の大坂志郎、彼の一人娘・相馬麻子(そうま・あさこ)役の武原英子(たけはら・えいこ)、同じく元部下が経営する銭湯の長女・石川高子(いしかわ・たかこ)役の名女優・大原麗子(おおはら・れいこ)など、すぐ思いつくだけでも、これら映画・テレビに活躍した優れた俳優たちが、既に鬼籍に入っている。 なお、料亭「日高」の主人をよく助けてドラマ中、ついに表に出ぬ脇役に終始した板前の善さんこと善吉(ぜんきち)役の服部哲治の、素直で明るい印象も忘れられない。名前の正確な読み方がわからないが、この人も、既に亡くなっている。 この第2シリーズは、誠と杏子の出会いから結婚までが抜群に面白く、そのあとあたりから、まるで森繁が「ホンワカホンワカ、パパパー」と歌っているかのような関西喜劇風のBGMが鼻について来て、面白さ半減する。 だがドラマ全26話を通して、物語自体は誠と杏子のさわやかな恋愛談にしぼられるばかりではなく、川崎敬三(かわさき・けいぞう)演ずる杏子の兄・高柳啓一(たかやなぎ・けいいち)と大原麗子演ずる高子とのコミカルな恋愛劇も二人のベテラン俳優によって、物語に見事に溶け込んで、いったいこのように楽しく見られるドラマは、なぜ今は見られなくなったのかと、残念でならない。 多分、娯楽も私の時代ではなくなったのだろう。昭和の雰囲気のある人間を「昭和くさい」と言うらしいが、私見によれば、私にとって娯楽、特にTVドラマがつまらなくなったのは、「平成」の時代に入ってからである。 美しい女性を美人といい、ハンサムな男性を美男子というが、竹脇無我のファンになった婦人の中には、「何んて美しい顔の俳優だろう」とうっとりしたという人も少なくないらしい。 翻って、今顔立ちの良い男を「イケメン」と呼び、そう評価されるタレントが映画・テレビの主役をやっているようだが、私の目にはいずれもホスト・クラブから出て来たような顔にしか見えない。私のようなブ男でないのは確かだが、決して容貌の整った美男子ばかりではない。 そのタレントたちが演ずる現代のドラマとなれば、内容も異なって来るのも当然だろう。 ともかく私はテレビというものを全く見なくなった。 新式の電波方式に合わせた薄型テレビも、とりあえず設置してあるが、壁に吸い付くように置かれたテレビは、地元の天気予報の画面を出す時、リモコン操作してつけるだけだ。ボリュームはほとんど絞って聞こえなくしてある。 なお蛇足だが、ガンで訪れる死を待つばかりの俳優・入川保則(いりかわ・やすのり)氏は、若者に対するメッセージとして、「人間として生まれたら、もうだめだと思え。どうせそのあとは苦労ばかりで、それを背負って生きると、苦労が楽しみに変わる。そうやって50年も生きたら、大威張りであの世へ行ける」と言っている。 亡き祖母も苦労した人間だったが、口癖のように「この世は苦の娑婆(しゃば)だよ」と言っていた。 母がまだずっと元気だった頃、これも口癖のように「今夜寝て、そのまま明日になっても眠ったままで起きないといいんだけどね・・・」とよく言っていた。 かく言う私も、神経症を抱えて生きて来たような人生だから、とうに厭世主義者である。体調不良になっても、臓器のどこかが悪いのか、生来の神経症なのか、区別がつかない。 なまじ、ある程度の知性を持つ人間に生まれたのが運のつきである。 今回の体調不良が持病の神経症再発ならば、前途への気力ある限り、大学入学時の発病以来、三たびの再発となるから、あるいは回復の見込みもないとは言えないが、それまでがなかなか苦しいものではある。二度の神経症から救ってくれた母には、もはや甘えられない現状となった。 介護職の人々に相当助けられているが、所詮、唯一の介護家族たる私が体調をあるレベルに保たなければ、いずれ何も母を支えられない状況となる。 神経症は誰でもなるおそれがあるというのは、ある意味で正しいかも知れないが、克服に必ずしも医科を必要としない強い人がいるのも事実だ。 かつて『マカロニほうれん荘』という異色のギャグ漫画で週刊誌「少年チャンピオン」に活躍した鴨川つばめ氏は、売らんかなの編集側の非情・無情に嫌気がさし、突然の連載終了を断行した。 その後、心身共にコワレた状態に陥ったが、元来病院嫌いで、しかも強い心身を持っていたがゆえに、自力で回復し、平成8年現在では、一時執筆の机に向かうのも苦痛だった漫画創作の世界に復帰しているという。 平成23年現在の様子はわからないが、たとえば貸本漫画の世界に活躍したのち、すっかり筆を折ってなお、2009年、満75歳で亡くなるまで、自活して生き続けた徳南晴一郎氏(とくなん・せいいちろう、またはとくなみ・せいいちろう。幼児期の大病のため身長わずか140cmで成長がとまる)の、恐らく凄絶な生き方もある。 人間、生まれた以上、衰え死するまで、何らかの方法で生きねばならない。 改めて私にはこの世は生きるに値しないところである。 何を書きたいのか定まらない妙な文章だが、それが私の現在の混迷を象徴しているのかも知れない。 竹脇無我氏も凄絶なウツ病を8年間患い、糖尿病・高血圧を抱えたまま、劇的生涯を終えた。
演技はもちろん、間(ま)の取り方、そして恐らくアドリブやセリフのとちりをも自然なドラマの流れにしてしまう演技力を堪能させた、名優・森繁久彌さんが亡くなった時は、私個人は90を越す見事な長寿を生き抜き全うしたのだから、寂しいけれども、また一人名優が鬼籍に入ったと受け取ることが出来た。 テレビドラマ「だいこんの花」を当時楽しんで見た人の中には、たとえば今発売されているビデオなどで見ると、時代とセリフ・筋運びの古さ、あるいはわざとらしさを感じさせるなど、往年のドラマに厳しい意見を持つ人もいよう。 しかし心をかつての時代にすっかりさかのぼらせて、改めてこの「だいこんの花」を鑑賞するなら、そこにリアルタイムで楽しみ興じた文句なく名作と言えるドラマ全話の世界に戻り浸れるはずだ。 そんなきつい批評を軽々言えるなら、昭和50年代半ばごろに大ヒットした「池中玄太80キロ」も、調子に乗った、悪ふざけのドラマ展開が鼻につくと感じられるのではないか。 私は少なくとも当時西田敏行氏主演のこのドラマを出来る限り録画して楽しんだ。劣化激しいVHSテープはほんの二巻ほどとってある。 どうもこのごろ文章趣味から遠ざかっているせいか、たいしてうまくもない文章をまとめることがさらにヘタになったが、ここで「だいこんの花」について、あれこれ思いつくまま書いてみる。 記憶とは頼りないものであり、恐らく全シリーズ鑑賞したはずの本作品のそれぞれのシリーズの記憶はもはやあいまいだ。 昭和45年(1970)、第1シリーズ放映だから、これは高校三年のいつか見たことになる。 最終シリーズは1977年、昭和52年だとネット検索で知ったが、この時、いしだあゆみさんは、第2シリーズでいう杏子(関根恵子さん)が、永山誠(竹脇無我氏)と結婚したように、同じ夫婦の設定だったかどうかも思い出せない。 もっとも、大学劣等生の私は、この当時卒業が危なく、初めてウツ病になったり、それが変質して、今で言う『統合失調症』のような症状をも発したから、余裕のない体調の中で、シリーズのいちいちをまともに見られなかったかも知れない。 昭和50年(1975)前後から、周期性のない突発性のウツ病が始まり、起きて坐っているのもつらくなり、何んとかとれる姿勢は、大の字にうつ伏せになって、気持ちはさらに床(ゆか)へと限りなく沈み込んで行こうという、当時の表現では『虎の敷き皮』になった感覚である。 この症状に陥って気分が昂揚し元気を取り戻すのに、およそ二週間かかった。 気分回復のきざしはハッキリ脳中に訪れた。 頭につまっていた憂うつの塊のようなものが、前頭部あたりから涼しい風となって、かなりの速度で飛び出してゆく感覚で、これが名状しがたき快感なので、覚えず涙を流していた。 ところが卒業論文用の実験に意欲がわかず、その後もたびたびウツ病に襲われるうち、自覚症状は単なる極ウツではなく、言わば妄想が混じったような不快感へと変わっていった。 昭和52年なんとか卒業だけはしたものの、今度は都内での就職が思うようにゆかず、学習塾を転々としているうちに、気が触れる一歩手前のような不快感に始終さいなまれるようになってしまった。 昭和52年7月28日の日記から要約してみる。 【どうして自分は病魔にむしばまれ続けねばならないのか ! ? 今書いている手が異常に、激しく震えて仕方がない ! ! ! 右手も左手もぶるぶる震えて字が思うように書けぬ ! ! 狂気の業か ! ? もうわからない ! ! いいようもなく不安な考えが間断なく脳裏に去来する。前にも書いたが、これが精神病というものだとするならば、たとえようもなく苦しい ! 自分を励ますなどという以前である。 平常人がずいぶん気楽に、幸福に見えてならない ! 今の自分に「考えが甘い ! 」などの説教じみた言葉は役に立たない。何よりもこの生き地獄から脱出することなのだ ! ! ! ! ! だが、この状態がまぎれもなく、救いがたい精神病症状であるなら、安らかな自然死が、苦しむことなく眠りにつけるような、楽で静かな死がどうしても欲しい・・・ ! ! ! 狂った状態で生き続けるのだけはごめんだ ! ! ! 】 不幸中の幸いと言うべきだろう、私のこの奇妙な変質型ウツ病は、地元富士市へ帰って来て全く自然に神経症の回復が始まり、ようやく当時の学習塾大手の一つである富士進学セミナーで家庭教師登録をすんなり済ますころから、ほとんど起こらなくなり、その後は気分が沈みがちな軽いウツ的な状態はあったものの、抗ウツ剤常用で苦しみ闘う人々より恵まれた安定性が保たれるようになった。 昭和53年、1978年春に帰宅したばかりのころは、ろくに食事がとれなかったが、およそ半年後の同年秋9月には家庭教師を始めるようになっていた。ただし仕事の足は実に自転車である。依頼はしばらくただ一件だった。 運転免許証一つない状態では家庭教師は無理だったので、秋から冬へ季節が移るころには原付免許を取り、さらに急に興味が出たバイクの中型二輪免許も翌昭和54年には取り、家庭教師のアルバイトが己の生活ひいては一家の生活を支えるまでに仕事の運にも恵まれていった。 帰宅してしばらくのあいだ、なかなか治らない苦痛に「死にたい」と弱音を吐きながらも、一方では、「早く何かの仕事をやりたい」という社会復帰願望が決して弱くはなかったのは幸いだった。 生活に余裕が出ると、寝床に臥せりがちだった日常にも飛躍的変化が生ずる。前途に望みのない、半分死んだ状態での帰宅のころは、寝起きがやっとだったが、東京を引き上げる時に急いで支度して持って帰って来た身の回りのいろいろな品物の整理に興味が出た。 ギターコードの載った歌集や特撮関係の本、そしておびただしい数のレコードの有無の確認に熱が入った。 これもある、あれも忘れず持って来たなどと次々整理してゆくうち、どうしても見つからぬものがあった。 TVドラマ『だいこんの花』のシングル・レコードである。 この時、東京で間借りしていた家へ連絡しておけば良かったのだが、今もって不思議なことながら、これを実行しなかった。 あるいは物品の整理だけが生活の関心事ではなく、レコードを聴こうと思いつくたびに、再び三たびさがしては「ない ! 」と、その時だけ妙だと思った程度なのかも知れない。 この紛失したまま遂に数十年経てしまったレコードのジャケットは、多分大学時代に東京で買ったものに違いないが、これもいつ買ったかは思い出せない。 私はシングル・レコードの正しい定義を知らないが、その名の通り真ん中が丸く大きな円形に空いているものをドーナツ盤と言うのなら、私の持っていたレコードは、この形ではなかったかも知れない。 プレーヤーにレコードを乗せるとき、ドーナツ型のものは、アダプターというものをプレーヤーのターン・テーブル中央の突起に差し込まねばならないが、同じ45回転用でも、中央に三つほどの星のように型が取ってあり、そのまま突起に差し込めるタイプのレコードもあった。 それはともかく、私が買った『だいこんの花』のレコードがとうとう見つからなかった。 うっかり東京に置いて来たものはほかにもあり、これらを置き去りにして帰った心残りが当時はかなり強くあったから、まず間違いない。 兄が北海道時代に買った『鉄人28号かるた』などは、兄の性格を表わしたように、折れもせず、しわ一つよらないきれいな状態で箱に入ったまま置きっぱなしで帰って来てしまったから、これも別の趣味ジャンルとして、全く慙愧にたえぬ。 いずれ独り身の老体として衰えるころ、どこかの然るべき施設に託すつもりだった。 今かろうじて持っている月刊誌『少年』本誌も、その宝玉の如き付録の『少年探偵手帳』数冊も、私の死後、無関心な人々によって焼却処分なぞされぬうちに、いずれかへ寄贈するつもりである。 ただし、レコードについては、この考えはない。足腰たつあいだ、懐かしみつつ聴く興味があるあいだは、ずっと持ち続けるつもりだ。 さて、また『だいこんの花』の話題に戻る。当時のドラマは娯楽として楽しむだけの完成度の高いものにあふれていた。このドラマも期待をまず裏切ることのないまたは少ない毎回の見事な筋運びの物語映像と共に、それを裏付けるかのように、ドラマ始まりの部分の音楽や主題歌が耳朶をくすぐって心地よかった。 何んという楽器かわからないが、ビブラートの凄まじいハーモニカのような音色で主題曲が始まると、竹脇無我の澄んだきれいな口跡でナレーションが入る。 なおここからはむしろ親しみを込める意味で敬称を省く。 このナレーションだが、テレビで聞いたときは、以下の語りだったと思う。 「人知れず忘れられた茎に咲き、人知れずこぼれ散り、細かな白いだいこんの花」 『人知れずこぼれ散り』であり、『人知れずこぼれ散る』ではない。私の意見としては『こぼれ散り』のほうが見事な文を完成させていると思う。『こぼれ散る』は連体形なので、『こぼれ散るだいこんの花』と直結するが、『こぼれ散り』には言わば『こぼれ散り・・・』のあとに何かが続く感じがする。 私如きが恐縮だが、たとえばこんな雰囲気を連想する。 『人知れず忘れられた茎に咲き、人知れずこぼれ散り、あっけないながらも健気(けなげ)に咲き、そしてひっそりと姿を消す、細かな白いだいこんの花』 余韻が震える表現と言えようか。そして竹脇無我の澄んだきれいな声のナレーションが終わると、改めて冨田勲の名曲が流れ出す。 テーマ曲は同じ旋律が二回繰り返されて、美しい音楽世界にうっとりし聴きほれるが、二回目の途中に、何か笛のような音色の楽器が入り、これを冨田節とでも呼ばせてもらえるなら、二回目にもかかわらず、美しい旋律に変化を与えて、彼の天才をいやおうなく納得させる。 冨田勲は、シンセサイザーなど、新しいものを積極的にとりいれた音楽家だが、いずれ甲乙つけがたい数々のテーマ曲の中に、必ずある種の日本情緒を思わせる楽器の使い方が特徴であり、この技法は見事である。 NHKのドキュメンタリー番組として有名だった「新日本紀行」でも、「だいこんの花」と似たような笛のメロディーが曲の終わり近くに入って、一時は目頭が熱くなったほどだ。 話が横道にそれるうち、かなり字数を過ごしたようだから、この話、続きを書くかも知れないが、もう少し書いてみる。 私が東京に置いて来たレコードは、最終シリーズの1977年に発売されたものとは異なる。ジャケットの写真などのデザインが全く違う。 竹脇無我の永山誠が、劇中でも良く着ていた白っぽいカーディガン姿で確か正座してジャケットにおさまっていた。そして今一つの私の疑問は、このレコードで竹脇無我が語るのは『・・人知れずこぼれ散り・・』だったかどうかということだ。全く思い出せない。 第2シリーズまで発売されたDVDでは、『こぼれ散り』なのだが、もはや記憶がない。 ―つづく―
死んだ肉親の悪口を言う如きは、あるいは多くに不愉快に映ろうが、私見(しけん)によればほぼ事実だから仕方ない。 母の認知症を早め悪化させた張本人はこの冬風呂場で死んだ父である。 母が軽い物忘れ程度で済んでいた頃は、その記憶の衰えをなじり小ばかにした。 物忘れが進み、つい今しがた言ったこと言われたことを忘れた時は、「こいつは頭がイカレている」と言った。この時の母の顔を忘れられない。日常のよもやまの話は充分出来たのである。気が触れていると言われたも同然の思いに、傷ついたに違いない。 2006年ころのことだ。私はひそかに計画を漠然と立てた。親子の力関係を逆転させる計画だ。 認知症は『アリセプト』なる専門薬を服用し、早期に介護体制を整えれば、進行を遅らせられる。だが早期の治療介護は無理だった。明治生まれの祖母でさえうんざりした父のケチは「ものを大事にする」こととは違っていた。母の早期介護は父のケチにさえぎられた。 私の預金通帳にも目を光らせ、それでいて定期預金だけを私の独り身となったのちの頼みと考えるだけだった。その世間知らずに閉口したが、父が元気なうちは、取っ組み合いのケンカは尊属殺人の危険があり、母のためにも良くなかった。 母の昭和20年代の「随想」に、『結婚の失敗』という一文がある。 母は私たち子供が長ずるにつれ、父との決別をあきらめた。 それだけに私はこの男を許せなかった。 年齢を重ね、もうろくして体力が衰え、強気に出ることが困難になるころをじっと待ち、祖父・祖母・兄など、村松家累代の霊の恨みを晴らさんと機会を狙った。 やや気が遠くなる計画だった。私より誰よりも地元の地理に詳しい父が、2010年冬、車で目的地に向かったまま方角を見失い、明け方まであらぬ方角にさまよい、明るくなって帰宅するようになった。 この男もまた認知症になりつつあると私のみならず、介護関係者全員が疑った。 ある深夜、飴玉を包んだセロハン紙をまるめて車の鍵穴に突っ込み、救急病院へ行くと言ってきかなかった時は、警察官に来てもらって、父の奇行を出来るだけ複数に周知するようにした。 2011年1月、市役所へ行くつもりで出かけたまま、警察の車で夕方帰宅するに及んで、認知症は確定的になった。私が夕刻帰宅した時は既に警察の車は帰ったあとだった。 その夜やや遅く野暮用で外出していた私は、帰宅して一休みしようとしているところへ、何度目かの警察署の電話で父の物損事故の現場に来るよう命じられて、寒空の中、バイクで出かけた。 この夜遅く、同じく警察署からの電話で父の免許証返上の勧告を受けた。 潮時と察した。 ほっておくと、2010年の如く、母に二日分の風邪薬を飲ませて、誤嚥性肺炎を再び三たび招かぬとも限らない。 私一人で親二人の介護は不可能なのが、この世界の常識である。 世間によくあることだが、家人が朝起きると、老親が知らぬ間に息を引き取っている事実がある。 もちろん私はこれを待ち、可能性にかけたわけではない。 だが2011年2月、期せずして同様のことは起きた。 父は毎週日曜日午後3時ごろ入浴の日課だった。この日私は母の介護疲れを耐えて、二階寝室と一階の母の寝室とを往復して、カルピスを飲ませて水分補給を行ない、その都度仮眠を繰り返していた。 父が午後何時に風呂へ入ったかはわからない。父の入浴時間も次第にあいまいになっていた。 午後3時に入浴の準備をしたなら、4時半ごろには出ているはずだが、私が母にカルピスを都合二回飲ませた4時過ぎにはまだ浴室の明かりが点いていた。4時ごろ遅く入ったと察するしかなかった。 勝手に開けて怒鳴られたことがあるから、父の行動に任せるしかなかった。 5時ごろ何度目かの仮眠から目覚めて私は切らしかかったタバコを買いに出かけた。 帰宅した5時半になっても、浴室の明かりが点いていた。消し忘れも以前よくあったから、とにかく二階で一服し、母の様子を見に階下へ降りた。 浴室のそばを通りかかる時、物音一つしないことに異変を感じた。 同時に異変の正体を察した。浴室のドアをゆっくり開ける時、既に察しがついていた。 湯船に浮かぶ父の死体を見た時、正直ホッとした。 父を交えてのここ数年の生活は苦痛の連続だった。 買った食べ物は、平均的な家族の者ならばとうにゴミ出しに処分するものばかりだったが父は5年6年前の食べ物を冷蔵庫に積んで残した。私にとって「もったいない」は憎むべき古い人間の美徳でしかなかった。 事実、母は食事介助を父から受けていた2009年2月1日夜半に食中毒で脱水症状を起こした。 この時から私は強い態度で父に対するよう決心し実行した。 母の介護に関して失態を演ずる都度、強く威嚇して恐れおののかせ、力関係の逆転を見せつけた。 大東亜戦争でアメリカが日本を攻めるように攻めた。 父は2011年の冬のある時、私の前ではっきり「怖い」と、私の叱責へのおびえを口にした。 瀕死の病人の床をはぐほど冷酷なことをしたわけではない。 結果、父はよせばいいものを、ようやくもつれながら歩いて風呂へ入り、勝手に死んだ。 即日、刑事の検案で五時間ほど拘束された私は二日後に父を火葬し、年金事務所、市役所などをかけずりまわって、法手続きをほとんど済ませた。 納骨などを済まそうと思っていた矢先、東北地方で未曾有の大震災が起き、計画停電が始まり、予定が狂って、3月の行動が頓挫した。 4月12日夕刻、母が階段から落ちて動けなくなった。 父の49日までに納骨を済ませたかったが、身体がきつくなった。 母を施設に預け、回復を待つ束の間、私は自宅で独り寝起きした。 それより前、父の死後49日が近づいた3月のある日、私は例によって、二階寝室で仮眠をとっていた。母はデイ・サービスに元気に出かけていた。昼間のことだ。 私は妙な感覚と共に目を覚ました。 目覚める直前、我れにもあらぬ大きなくしゃみをした。その大音が私ではなく父の声または音だった。 日本の昔の怪談映画の特徴的描写の一つに『乗り移る』というのがあり、例えば恨みをのんで亡霊となった者は、束の間別人に重なり、己の顔かたちに姿を変えてしつように殺した悪人に迫るが、恐怖に前後を忘れた悪人の目には、誰もかれも、殺した亡霊に見えるから、思い切り斬りつける。 その瞬間、亡霊は生きている別人の姿に戻り、悲鳴を上げ、血だらけになって絶命する。 こうして悪人は直接罪のない別人を次々斬り殺したのち、ばちが当たって亡霊にとり殺される。日本の怪談独特の凄絶な恐怖描写である。 「今のくしゃみは俺ではなかったぞ・・・親父が束の間俺の身体に入ったのか」と思ったものだ。 さらに49日が過ぎて数日経った。出来るだけ納骨を済ませたかったが、複数の手続きに忙殺されて思うように進まなかった。 3月終わりごろだったか、この日も母は元気にデイ・サービスに出かけ、私はまたも寝室で仮眠をとっていた。 父が夢枕に立ったのがこの時だ。 もうすぐ目が覚めかかる私の耳元に人の息がかかる感覚がした。続いて話しかける声を聞いた。父は脳梗塞後遺症があり、ややろれつの回らないしゃべりかたまでそっくりだった。 「あの・・そろそろ、出かけるからな・・・」 瞬時に父の別れの言葉と判断した私は飛び起きた。無論部屋の中には何者の姿も気配もなかった。父の声の余韻がくすぶっていた。 そろそろ納骨をせねばと思ったが、そんな矢先、4月12日夕刻に、母はどこにそんな力が残っていたかと思うほどの体力で、当日のヘルパーが目をはなしたわずかのあいだに、階段を昇り、降りる途中何かにつまずいて多分滑るように落下した。 納骨どころではなくなった。母の回復のために、施設を二件使って、ショート・ステイさせることになった。 この時私はまだ気が張っていて、ほぼ連日施設の母の見舞いにゆき、母の回復を待った。およそ一ヵ月後、母は肋骨骨折の痛みを訴えぬほどの急速な回復ののち、帰宅し、再びデイ・サービスに元気に復帰した。 8月ごろか9月ごろかもう記憶にないが、父は今度は夜の夢に出て来た。 単なる夢だと思うが、父は私に夢の中で食ってかかった。 「俺の免許証を返せ ! 車がなければ食べ物を買いに行けないだろうが ! 」と、生前の如く怒声を私に浴びせた。 私も夢と悟れない睡眠特有の環境の中で、「運転は危険だ。万一人身事故を起こしたら、今度こそ俺が後始末に奔走しなければならない。その責任を自分で取れる自信があるのか ! ? 」 そのあたりで夢は終わり、以後父の夢は見ていない。 納骨はずっと遅れて、7月初めに済ませた。 私の体調はこのころからすぐれなくなり、タバコがまずくなり、以後やめた。 なお、のどの違和感が気になり、また昨年肺炎が治りかかっていた母が鼻から管を通す内視鏡検査を見ていて可哀想な気がし、私も恐ろしいと思ったが、10月28日、突如決心して近所の耳鼻科へゆき、内視鏡検査した。 耳鼻科の内視鏡は管が細く、吐き気を感ずることもなく終わり、とりあえず喉頭、咽頭などに異常がないことがわかった。 昨年の検査に耐えた母のおかげと思っている。 それでも体調は旧に復していない。空腹を覚えることはありがたいことだと、未だ空腹を心地よく覚えることのない私は思っている。
夕子「今晩は」 村松「今晩は」 夕子「・・・・・」 村松「おや、絶句。あれ、もしかして俺ののどのガンの疑いについて、気遣ってくれてるの ? 」 夕子「なんだ、言われちゃったらしょうがないわ。でも検査受けない決心でしょ」 村松「たとえ最悪の場合でも、今現在、お袋を見捨てることは出来ない。遅いか早いかの時間の問題で、いずれ俺が先に死ぬとしても、動けるうちは動く決意だ。動けるうちに検査・発覚・手術じゃあ、そのかんお袋をほったらかしとなる。いずれ俺が先に死んで、結果お袋を一人ぼっちにすることになるとしても、俺は最後までお袋と生活することを選んだ。ナニ、いずれ死ぬんだ、誰もが」 夕子「わかった。もうこの話、しないわ。いつも通りでいい ? 」 村松「そう来なくちゃ」 夕子「でも・・・ごめんね。一つだけ訊かせて。食欲とか体重とかは・・・ ? 」 村松「食欲ハッキリ落ちたし、顔が今まではジャガイモふかしたみたいに丸っこかったのが、今はあごがとがってる。ほほもこけてる。それから体重はピーク78キロで、これは太り気味だったけど、今75キロに落ちてなお減少中」 ・・・・・話題変更・・・・・ 夕子「あ、そうだ。これ決して変な意味でなくて、あなた、まずまず気に入って満足出来る最後のバイクがそろったって言ったでしょ」 村松「うん。ブログには書かなかったけど、カワサキのナナハン・ホンダの250cc・スズキの125ccスクーターの合計三台」 夕子「ホントは去年夏からめまぐるしく、買い替えしたんだものね。一時は私と同じナナハンと250ccになると思ったけど、250はVツイン、それも同じホンダの三台目だから、恐れいったわ」 村松「某バイク店の店長殿にはいささか申し訳ないが、これで大型・中型・原付二種とも気に入ったのがそろったから、当分節約出来る。だけど、今さらだけどさ、47で大型バイクの免許ようやく取ったと思ったら、もう59が目の前。また同じグチだけど、お袋がいくらか物忘れが出た程度の頃が懐かしい」 ・・・・・ 夕子「ブログ上だと久しぶりだから、しばらく電話もメールもなかったみたいに感じるね。ホントはニュートリノの話も最近の話題になったし。あれね、測定誤差って結論が出る気がしてならない」 村松「でもさ、出たとしてもある種の陰謀が裏にあるかも知れないね」 夕子「そう ! それ言いたかった。でもあの報道を見た人の何割かをバカにするわけじゃないけど、光速をわずかに超えたなんてこと、どうでもいいと思った」 村松「CERN(欧州原子核研究機構)だな」 夕子「アメリカがメンバー国じゃなくてオブザーバー国ってのも、ちょっと引っかかるね」 村松「全くの見当違いかも知れないけど、CERNは隠れみのみたいなもので、アメリカはタイムマシン実現に向けて既に開発中、なんてね」 夕子「ジョン・タイターなんて未来人作り上げたりね。歴史学に詳しいはずなのに、ライト兄弟の初飛行成功の年を大きく間違えたあたり、怪しいな」 ![]() 村松「そう。たとえはレベル違いだけど、『怪獣映画に詳しい』って言っときながら、初代『ゴジラ』公開年を昭和36年って大間違いするようなもんだろ。これはアメリカの陰謀にしても怪し過ぎる」 夕子「ねえ、失礼な質問で悪いけど、高校レベルまでくらいで歴史の質問してもいい ? あなたの得意ジャンルにするから」 村松「うえっ ! ホント、お手柔らかに頼みます。おおぉ、こわい ! 」 夕子「日露戦争の勃発年と日本海海戦の年はいつ ? 出来たら元号と西暦で・・」 村松「良かった、気が利くね。日露戦争は明治37年、1904年。ついでにこの西暦ね、『人食うワシを追い払い』って覚えたの。『1904』を『人食うワシ』って語呂にして。あ、それから日本海海戦は翌明治38年、5月27日。さらについでにこの5月27日は旧海軍記念日だ」 夕子「さすがね。ま、ちょっと前置きが長くなったけど、普通に歴史を学んだだけでもあなたみたいに知識になってるでしょ。タイターの無知はハッキリし過ぎて、『9・11』事件陰謀説よりずっとお粗末よ」 村松「お、出た ! 同時多発テロ米本国陰謀説。でもあの貿易センタービルの余りの貧弱さは、かえって怪しかったよな。あれはビル爆破解体業者のハイテクそのもののように崩壊したからね」 ・・・・・ 村松「ところで・・・またおなじみの質問責めになって悪いけど・・・。万一知識外のことだったら無かったことにするから、気にしないで」 夕子「ってことは、一応あたしに出来そうな数式か物理・化学の範囲よね」 村松「うん。あのさ、列車に乗って車窓の景色見るとさ、近くの景色は凄い速さで過ぎて行くのに、遠くの街並みや山なんかは、かなり走っても一緒について来るだろ。あれがどうしてか、未だにわからない」 夕子「なんか昔の地下鉄の漫才みたいになって来たね。それにムードとしては小学唱歌思い出しちゃった。♪ 今は山中今は浜なんてね。・・・・・。さてと、少し時間ちょうだいね。手描きの図、送るから」 村松「え ! ? わかっちゃってるの、この現象 ? 」 夕子「うん。近くと遠くの景色の錯覚は距離と『視差』の関係なのよ。待っててね」 ・・・若干時間経過・・・ 村松「来たっ ! これがその解説の図か」 夕子「あなたから新しい疑問がなるべく出ないように、形と長さと位置が等しい二軒の家を例に使ったわ」 村松「列車は二両編成なの ? 」 夕子「そうじゃないの、よく見て。一両編成の一台が画面左から右へ走る設定よ。列車と山の中腹の家との距離はもっとずっとあるけど・・・」 村松「了解。理論説明が目的だし、長さに限界があるよな。航空写真みたいな俯瞰だね」 夕子「そう。左右の列車の最後尾に描いた丸が観察者つまり乗客と思ってね。列車は近くの家一軒ぶんの長さを右へ通過したことになるよ」 村松「うーむ、なるほど遠くの家と通過条件は同じだ。なのになぜ遠くの家はついて来るのかな・・・」 夕子「近くの家を通過するときの観察者の通過前の視線と通過後の視線を赤い線で描いてあるでしょ。角度が大きいのよ。この角度を視差と言うの。でも距離以外の位置条件が等しい遠くの家との視線の変化を結んだ線の角度は小さくて、・・・・・言い換えれば観察者から見た家の方角に大きな差はないでしょ。反対に、近くの家は、通過後には視線を後ろへ向けて、多分実際には少し後ろを振り返らなければならないほど変化が明らか・・・だと思うんだけど」 村松「あ、わかった ! 納得 ! 凄いね。俺、年来の疑問が解けた」 夕子「これね、ネットだと『月はなぜついて来るのか』っていう一つの話題ばかりで、日常的な親しみで考えるムードじゃないのよ。月じゃなくて今あなたが訊いた車窓の景色くらいにして、それに図の一つもアップする人がいてもいいのにね。でも、あなた理解がスムーズだったから、バカにつける薬シリーズはやめたらどう ? 」 村松「いいよ、かまわない。しかし、つくづくお前さんは理数系の頭脳だね。恐れ入りました」 夕子「あら。いつものお下劣なオチはなし ? 」 村松「うん。お前さんの涼しい頭の健在ぶりに敬意を表する」 夕子「ふうん・・・。でもそう言えばあなた、12月の誕生日で・・59って言ったわね」 村松「そうです。全く昔の人の言う通り、壮年期を過ぎると10年を節目に、どんどん衰える。俺は60を待たずして一年早く老い衰えそうだ」 夕子「そうすると・・・あなたが平成8年暮れに、一度塾を休業するほど神経壊した時、お母さん69歳だったよね。お母さんだってその一年前に長男を、あなたのお兄さんを病気で亡くしてまいっていたのに・・・あなたをたった二週間足らずの入院で回復させて・・・」 村松「お袋の認知症は兄貴の死のわずか五年後だよ。もちろん初めはごく軽い物忘れだけどね。今はメニエル氏症候群も全く出なくなって、ある意味で幸いだけど・・・決して幸せとは言いたくないね。いや、この話暗くなるからよそう。あ、そうだ思い出した。死んだ親父が何回か夢枕に立ったよ」 夕子「ストップ ! 永久に聞きたくない。ああやだ、こんな時間にいやなこと聞いちゃった。結局あなたのオチは嫌ね。お下劣じゃなければ怖い話だもの」
「読売オンライン」に「発言小町」というコーナーがある。誰か一人が意見を投稿する。この誰かのことを本サイトでは『トビ主』と呼んでいたか。この投稿者に、ニックネームを使ったコメントが洪水の如く寄せられる。 多く、私より若い世代の知ったかぶりが鼻につくので、ほとんど見ないでいるが、たまに「この話題なら、コメントを読んでもいいか」と思うことがある。 今回の内容は当然、私の本文は余り入らない、いわゆる「横取りブログ」だが、ニックネームを伏せて、いくつか無断掲載することにした。 またこれは、私がたまにテーマとする『嫌いな言葉』シリーズとみなしてもよい。 まず初めが「トビ主」の本文である。そのあとに投稿諸氏のコメントを載せたが、ニックネームを削除したので、テキトーな区切りの記号を入れておいた。 もちろんカタカナ英語擁護のコメントは除いた。 【「イラっとするカタカナ英語 」 2011年6月7日 5:37 みなさま、はじめまして。 最近やたらとカタカナ英語が多いと感じています。 先日、ネットで討論会みたいなものを見ていたら日本語で議論しているのに、かなりの頻度でカタカナ英語が出てきて、非常に違和感を覚えました。 その討論会の参加者もたまらず、「あの~レジティマシーってどういう意味ですか?」と発言の主に質問していました。 アメリカのビジネス用語に影響されているのはわかりますが、ちょっと多すぎるよ、と思った次第です。 くだらないトピで恐縮ですが、みなさまの聞いていて「イラっとするカタカナ英語」教えてください! 】 「各コメント」 ★「○○へのオマージュ」って・・・。○○さんの「リスペクト」も同感です。「敬意を表して」っていう日本語知らないのかしら??? ★ ★カタカナ英語ではなくても、英単語を会話に挟むことに不自然さを感じます イラッとくるのは ポテンシャル モチベーション リネン リベラル ユーティリティ セカンドオピニオン マスト リリック コミュニケート 他の方も挙げてらっしゃいましたが リスペクト …私もこれを真顔で言われた日にゃ人格疑います 同様に コラボレーション フューチャリング 冗談を言ってるのかと思います★ ★未だに、ママ、パパの呼称が、いらっとは来ませんが イヤです。 何人?と思います。 ★ ★私は「マニフェスト」が嫌です。 子供の頃学校で習ったときは「公約」でした。 ニュースで聞くと「なんで公約って言わなくなったの?」と思ってしまいます。 「公約」っていうより守らなくても良さそうだから? ★ ★アラフォー、Dinks、ワーキングマザー、ママ(自称)、スキル、キャリア、スイーツ(笑)等々。 いわゆる小町の決まり文句です。 スキル、キャリアはいいんですが、投稿内容がまったく伴わないため言葉だけが際立って浮いてしまうんですね。 バリキャリとかはもう勘弁してもらいたいです。 ついでに言うと “イラっとする”という言い回し。 これも大嫌い。 ★ ★ある大学の先生が、外国語を習得した方の母国語に与える影響を研究しています。 その方のお話によると、IQが低い方ほど母国語を話すときに外国語の影響が多く出るそうです。 私のまわりにいる方々をみても、先生のいわれるとおりに思えます。 トピ主のおっしゃっている方々は・・・ いかがでしょうか? ★ ★スイーツ カフェ ↑これは単純にイラつくだけですが マイノリティー マジョリティー ジェンダー ↑これは何か鳥肌がたってきます。 フューチャリング ↑これはその言葉を聞くのが恥ずかしい! ★ 以上無断掲載。 言い訳めくが、私もブログという言葉を使うし、本文でもカタカナ英語は極力避けた上で使う。 以上のコメントの中で最も共感したのが「ママ、パパとの呼称がいやだ」と書いたかたの文である。 古い話になるが、特攻隊員のかたがたの遺書を読むと、覚えず涙がこぼれてくる。 大学時代、一年ほど所属した「少林寺拳法部」で、五大学の試合があった時、私も少林寺拳法の型の集団演武に参加した。 五大学とは、我が在籍大学から列挙すると、東京教育大・東大・東京芸大・横浜市大・横浜国大である。会場は文京区本郷の東大武道館だった。 試合終了後、各大学有志学生が、かるわざなどの特技を披露する余興があった。 私の大学からは初め誰も名乗り出ないので、ほとんど衝動的に私が前に出て、とっさに座布団回しを見せた。 これはただ座布団を回すのではなく、空中高く座布団を回転をつけて投げ上げ、水平に落下して来るのを人差し指で受け止めて、さらに回転を増しながら回し、今度は回しながら人差し指を真上へ突き出して座布団を再び宙に放り投げ、受け止めてさらに真上へ放り投げ、ということを二、三回繰り返してまた受け止めて回すという、少しは変化をつけた技を見せた。 御殿場中学時代に、私がクラスでハヤラセたものだったが、元々は兄が沼津東高でハヤッていたものを私に教えてくれた遊びだった。 話がそれて長くなったが、座布団回しでは足りないと感じ、テレビ放映された軍歌特集番組の中で読まれた、一特攻隊員の遺書を暗記していたものを声張り上げて誦(しょう)じた。さらにそのあとに歌謡曲「九段の母」をワンコーラス歌った。 実は集団演武の時に、私一人だけ余計な動作をしてしまった。余興は罪滅ぼしのつもりでやったものだった。当時のOBの拳法名手の人が「今の余興は受けた。これで本日の失敗は帳消しにしてやる」と笑顔で言ってくれたのが忘れられない。 少林寺拳法関東大会の乱捕り(空手でいう組手)個人の部で、二位の記録を持つ名手だった。 またも話がそれたが、特攻隊員の遺書で「ママ、パパ・・・」などというのは皆無てある。敵性語だからではない。我が国は『日本』なのだ。 また、敵性語についても、当時厳禁していたのは戦後のでっちあげで、ウソである。戦時中の東京六大学野球でも、ピッチャー・バッター・ストライク・アウトなど、使っていたことがわかっている。 |一覧| |
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