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2007年10月06日
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カテゴリ:クラシック
 ミューザ川崎シンフォニーホール  18:00~
 4階中央

 先日の定期演奏会に対して、こちらはミューザ川崎の主催公演。土曜日の夕方なのに、空席がかなり目立ちました。埋まってはいるんだけど、360度囲んでいる形式なので(ワインヤードとはちと違う)後ろ側は入れないにせよ、両サイド方面が全然入ってない。恐らく、2千人くらいのホールで、1200人あったかどうかじゃないかな?まぁ確かに、3連休の初日だし、今日はベルリン国立と被ってると思うし、とか理由はあるにせよ。

 会場の雰囲気は、先日の定期演奏会とはやや違う風ではありました。
 演奏そのものは、決して悪くはないと思います。それなりにきちっとやってるし。一応ロ短調ミサをちゃんとしたレベルで演奏出来るだけでも立派と言えば立派です。先日感じた「違和感」は、実はロ短調ミサの場合、「そもそもこれは宗教音楽としてどういう前提で書かれているか」からして怪しいし、曲自体もあまりそういう面で考えさせられる傾向が低いので、気になりません。


 ただ、個人的には、やっぱり駄目だなぁ。これは音楽的に、ということなんですが.......
 確かにいい演奏ではあります。ただ、技術面に於いては、決して器楽セクションの演奏技術は最高レベルとは言えないし、合唱も、よくやってはいるけれど、アンサンブルの揃い加減ははっきり言ってよくない。これ、ソロイスト兼任も含めて20人でこれですからね。
 厳しい言い方をすると、演奏する側も聞く側も、共犯的に「ピリオド演奏」に胡座をかいてる気がするのですね。

 そもそも、バロック以前の音楽の場合、いわゆる古楽器演奏が猖獗を極めた結果、基準と言うべきものが壊れてしまっているという現実があります。このことの是非当否は今は置きますが、結果として、バロック以前の音楽演奏は、少なからずある種の自意識を原動力にして成立しているという面があると思います。というより、自意識過剰気味に自己主張しないと音楽が作れない、と言った方がいいのかも知れません。
 で、それは実は結構鬱陶しい状況を創り出しているとも言えます。ある程度古楽器演奏として完成されたものを目指そうとすると、そこには土台となるスタンダードが無いので、必然的に、自分で何か作らなきゃいけないことになります。平たく言えば、私が私である根拠を常に実証しなければいけない、ということかも知れません。何故このピッチを選択するか、何故この音律法を用いるか、何故この楽器を選択するか、何故この楽器編成で演奏するか、何故この奏法で演奏するか、何故この版の楽譜を用いるか、何故ここでこのような弾き方を選択するか.......これらは、別に古楽に限ったことでなく、全ての音楽について言えることかも知れません。が、古楽器演奏は、それを主張することから始まった音楽活動なのです。今時は「ピリオド演奏」といい、今回のBCJのプログラムには「オリジナル楽器」という言い方をしていますが、それらは本来実証不能なフィクションなのです。結局どう頑張ったって、それが作曲者が想定していた楽器、実際に使用されていた楽器と同じ音を出しているとは限らないし、そもそもそれを鳴らすのは21世紀日本の近代的 - 鳴り過ぎの - ホールですから。同じとは実証出来ない。それを「同じだ!」と言い切る所から始まっている。
 今は、やる方も聞く方も「そうじゃないんだ、"これがいい"と感じる所に従ってるだけなんだ」とか言い出して、「もうピリオド楽器と殊更に言う時代ではない」などと言い出していますが、何、要はスタンダードを持たずに走ることにいい加減疲れたということ。でも忘れちゃいけません。「××の作品はこのような奏法で演奏されるべきだ」とかいう思想がある限り、その発想の根底にあった亡霊はいつまでも無くなる訳は無いのです。
 逆に、スタンダードが無く、一応某か理由をつければ俺がスタンダード、というのは、それで送り手と受け手が一致してしまえば、何でも通ってしまいます。

 BCJの演奏、決して悪くはありません。でも、聞いていて「何故こうなのか」についての納得の行くものではないのですね。その意味で隘路に陥ってはいないか。その、最後の点で、どうもすっきり得心の行くものではなかったのです。






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最終更新日  2007年10月07日 00時23分18秒
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