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クラシック音楽は素敵だ!!

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おさるのイタリア漫遊記

<おさるのイタリア漫遊記>



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OsaruFamily
おさるファミリーです





 日記での「おさるのイタリア漫遊記」がいつの間にか10回を越えているので、こちらに順番に整理しておこうと思っています。

 これは遥か35年前に、ローマの小学校、「Gesu Maria学園」に通っていたおさるのお話しです。現在では世界各国の主要都市に日本人学校があり、子供達はそこへ通うことが出来ますが、35年前のローマにはまだその影も形もありませんでした。
 もちろん、日本人自体もまだ殆どイタリアには居ませんでした。日本人が強力な円のパワーでブランド買いに押し寄せてくるのは、もっとずっと後のお話しです。
 そういう意味で、イタリア滞在は非常にユニークな体験でした。言葉の通じない学校に通ったおさるも災難でしたが、史上初めて東洋人を迎え入れた学校側もさぞかし面食らったことでしょう。当時は非常にのんびりとした時代で、双方が「まあなんとかなるさ」とおおらかに構えていたから出来たのだと思っています。 
 そんなのどかな時代背景を思い浮かべつつ、おさるの体験を一緒に楽しんでいただければ幸いです。

 お話しはほぼ全てノンフィクションだと思っていただいて結構なのですが、自分で読み返してもフィクションのような気がしてきます。本当にのんびりとした時代のお話しです。






Osaru
<お調子者のおさる>




<Vol.1 <おさる イタリアへ行く> 2004.4.12



イタリア滞在、とはいっても話はなんと35年以上前にさかのぼる。ある日、父親の仕事の関係でイタリア赴任が決まった。父親から「イタリアに家族で行くぞ」と言われた時、おさるには「イタリア」とはどこのどんな国なのかさっぱり見当がつかなかった。なにせまだ6歳である。駅だって赤羽駅と浦和駅くらいしか知らないのに、イタリア!?それって食べものか?くらいにしか思わなかった。

35年前というと1969年頃である。今でこそイタリアと言えばブランド大国、サッカー王国として有名だが、当時の日本人にとってはまだまだ馴染みの薄い国、スパゲティナポリタンくらいにしか認識されていなかった。大人でもそうなのだから、頭の悪いおさるに分かれといっても無理な話だった。
幼稚園を卒園して6月くらいにイタリアに出発した。その前後のことは殆ど覚えていない。飛行機に乗って初めて心細さが込み上げてきた。ルートは今はなき南回り。
若い人は知らないだろうが、昔はアジア→インド→中近東→ヨーロッパという航路が一般的だった。ジャンボジェットのような高性能大型旅客機はまだなかったので、トランジットを繰り返し、給油しながらイタリアを目指すのだ。たしか30時間くらいかかったような気がする。(注:この辺はおさるの記憶なのでいいかげん)おさるは途中のシンガポールかどこかでフルーツを腹いっぱい食べられたので満足だった。でも長い機内生活に退屈し、電気を消して寝ている赤の他人の外人さんの電気をつけてあげて怒鳴られたりして遊んでいた。

イタリアに着いて、ホテル住まいをしながら家を探し、なんだかんだやっているうちにあっという間に10月が近づいてきた。親はちょっと困っていたらしい。この遊んでばかりいるおさるを学校に入れなければならない。でももちろん日本人学校なんてまだない時代。他の日本人駐在員の子弟は皆英語のインターナショナルスクールに通っていた。おさるもそこに通うと思っていた。ところが、親が選んできたのは、ごく普通のイタリア人が通う学校だったのである。

「おまえ、来週からイタリア人と一緒に学校いきな!」これには毎日能天気に遊んで暮らしていたおさるもびっくらこいた。なぜって、当然ながらまだ全然イタリア語がしゃべれなかったからだ・・・


                     


roma.jpg

ローマ:サンタンジェロ城






<Vol.2 <名前と住所と電話番号>  2004.4.13



さて、親が選んできた小学校は、何故か私立の「JESU MARIA学園」(直訳するとイエス・マリア学園)という小中一貫教育の学校だった。歩くと20分くらいかかるのでスクール・バスが送り迎えをしてくれる。ここでまず問題が発生した。「行き」は朝来たバスに乗ればいいからおさるにでも出来る。しかし、帰りは何系統かあるバスの中から、正確に自分の家方面に行くバスに乗らなければならない。これはまだ言葉が話せない六歳児には結構難易度が高い。ただ、最初は案ずるより生むが易しで、担任の先生が毎回バスまで連れていってくれたので助かった。

それはいいとしてイタリア語である。おさるが登校した初日、学園はパニックになった!なにせ35年前のイタリアには東洋人という種族がまだ殆どいなかった。学園の子供達も、日本人など写真でも見たことがなかった。そこに、彼らから見れば猿にしか見えないような奴が服を着て現れたのだから反響は凄かった。

初日は親も挨拶の為に付いて来たのでさあ大変!学園に猿の親子がやってきた、とばかりに全校生徒に囲まれた。みんな笑いながら口々に何か語りかけててくるが、もちろんこちらはなーんにも理解できない。親が帰り、教室の机に座っても、他の教室から見学者が殺到して授業が始まらない。先生が追い散らしても追い散らしてもまたすぐに見に来てしまうのだ・・・そしておさるがトイレに行く時にも大名行列のごとく付いてくる。これには本当にびっくりした。

 休み時間も凄い。おさるの机をみんなで取り囲んでいろいろ話しかけてくる。でもおさるにはチンプンカンプンである。そこでおさるは、前夜に「これだけは覚えろ」と親に特訓されたイタリア語三つを披露した。みんながどっと笑い、凄い受けた!やったとばかりにおさるはそれを連呼した。めちゃくちゃ受けた。
まぁ笑われるはずである。その三つの言葉とは、

1 名前、苗字
2 住所
3 電話番号


をイタリア語(名前はそのままだが)で言うことだった。

これしか知らないから仕方がないが、「お名前は?」と聞かれると
名前・住所・電話番号を答える。「どこから来たの?」と聞かれても名前・住所・電話番号、「楽しかった?」と聞かれても・・・・
とおさるはひたすら呪文のように三点セットを唱えつづけた。それでも当時はこれで精一杯だったのである。

後年、仲良くなったイタリア人達に「あの時のお前は本当に面白かった」といつまでもからかわれた・・・いやはや恥ずかしいのなんの。


 

                                      

Osaru4
<やさしく厳しいおさる母>


<Vol.3 <おさる学校へ行く> 2004.4.14



おさるの両親が学校を選ぶ際になぜそれまで一般的だったアメリカン・スクールではなく、現地校を選んだのかはどうも未だにはっきりしない。それまでの赴任者たちの師弟はまず間違いなくアメリカン・スクールに通っていた。

 一度父親に聞いたことがあるのだが、「まあその方が楽しかろうと思ってさ」と笑って言われただけだった。スパルタなんだか深く考えていなかったのか、どうもはっきりしない。
 今にして思えば楽しい思い出も、その当時は大変だった。学校へ行き始めてしばらくは、毎日が上野動物園のパンダ(さる?)状態だったからである。イタリア人にとっては、最近TVで活躍中の「チンパンジーのモモちゃん」が突然おらが学校へ来たのと同じだったろう。

 見てくれはサルそっくりなやつが衣服を来て毎日登校してくる。机に座ると一応筆記具と教科書を出して見せるが、そのノートに書く文字は彼らから見れば象形文字みたいな不思議な文字だ。何度話しかけても返ってくるのは名前と住所と電話番号。飴でも食べるかと差し出すと喜んで食べるし、時々聞いたこともない言葉を口にする。まさにモモちゃん状態。面白くないはずがない。
 と言うわけでモモちゃんじゃなかった、おさるは一躍学園の人気者になった。イタリア人は子供の誕生パーティーを盛大に行うのが好きなのだが、おさるはあちこちのパーティーによくお誘いを受けた。

 今から考えると面白いアトラクションの一つと思われたのかもしれないが、ご招待を受けてよくご馳走になった。その代わり、おさるの家にも大挙して遊びにやってきた。おさるよりもイタリア語が分からない母親の気苦労たるや大変なものだったろう。でもこの母親はついに帰国の日まで殆どイタリア語会話を解さないままだった・・・「これ」「あれ」「それ」と数字さえイタリア語で言えれば、日常の買い物には事足りたからである。商店街の人々も皆非常に友好的で、おさる母さんをよく助けてくれたようだ。

 さて、それではイタリアの小学校の授業風景とはどんなものだったのだろうか?これも当然ながら日本とはずいぶん違っていたのである・・・


                        


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<Vol.4 <ローマの小学校> 2004.4.15



小学校最初の授業がなんであったのか、もちろんおさるは覚えていない。というのも最初は言葉が分からないのでただ座っているだけだったから。

 当時イタリアの小学校は5年まで。しかも5年までずっと午前中しか授業がない。午後は希望者のみの補習だけ。どう考えても日本の授業量には到底及ばない。4年の三学期に日本に帰ってきたおさるは、算数の授業があまりにも差があるのに驚いた。イタリアではまだ小数の割り掛け算をやっているのに、日本ではもう図形の面積とか角度をやっていた!おさるはあまりの違いに算数を永久に嫌いになってしまったくらいだ。

 あと日本の小学校との大きな違いは音楽と体育、図工の時間がなかったこと。
 これは驚くべきことだが、結局の所こうしたものは個人でやりたい者が金を出して個人的に習えばいい、ということらしい。まあ考えてみれば、音楽にしても体育にしても、明治時代に西洋列国に追いつくため、富国強兵策の一環として取り入れられた歴史があるのだから、当のイタリアには必要のないモノだったのかもしれない。

 さらに給食という物もなかった。午前中で授業が終わると、午後希望して学校に残る者以外は皆家で食事する為に帰る。補習を受けたり遊んだりする連中は学校に来る業者からパンを買って食べた。
 体育も音楽も図工もない、となるとだいぶ余分なものが減って午前中だけでもいいのかもしれない。ちなみにどんな科目があったかというと、国語・算数・理科・社会はやっぱりあった。さらに社会は現代史と古代史に分かれていた。なんといっても古代ローマ帝国から始めなければならないので話が長い。さらに英語が4年から、ラテン語が5年からプラスされた。

 あとは、私立の宗教法人の経営だったらしく、学園内にしゃれたチャペルがあり、宗教(キリスト教)の時間もあった。おさるも見よう見真似で協会で祈ったり懺悔したりしたのである。キリスト教徒でもないおさるの相手をしなければならない牧師も相当困ったであろうが・・・牧師様、あいすみませぬ。
 
そう、最後にもう一つ、飛び級制度があった。優秀な奴はおさるにも分かるもので、「あいつは頭いいなあ」と思っていると、いきなり次の年次をすっ飛ばして行く奴が何人かいた。その一人、ガッローニ君との友情物語はまた今度ということで・・・
 今日はおさるの出番がありませんでしたが、明日は出番たっぷりの国語の授業について触れてみようかな。


                       
 


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<Vol.5 <次は必ず英米に勝てる!?> 2004.4.16




 今日はイタリア人気質についておさるが感じていたことなどを。
奇跡とも言うべきか、おさるは学園で「いじめ」の類を受けたことが一度もなかった。よく喧嘩の類はしたけれど、実に皆スカッとしていて、あとに尾を引かない。

 今にして思えば教師達のお陰もあっただろうが、学園生活と人間関係は非常に良好だった。日本では、転校生が来るとよくいじめを受けたりするが、概して彼らは小さな紳士達だった。たとえばなにか言い争いが起きると、必ずおさるの味方をしてくれる連中がいて、場をうまく抑えてくれたりした。
 
例えばおさる親子が街角で行く先が分からないで困っていると、「なにか困っているの?」と尋ねてくれる人が必ずいた。助け舟を向こうから出してくれるのだ。そしてちょっと言葉が通じると「おい、このおさるはイタリア語が話せるぞ?」と言って見知らぬ人達が自然に集まってきて井戸端会議になってしまうのだ。これが始まるとなかなか抜け出せずに困ったこともあったが・・・どこの街でもイタリア人は非常に人情味に溢れ、親切だった。

 こんなこともあった。ある町で花祭りがあり、家族で道路に面したBARで食事をしていた。すると身なりの立派な初老の紳士がやってきて、「日本人か」と聞くので「そうだ」と答えると、「私は先の大戦で陸軍に居た者だが」といっていきなり椅子に座った。そのあと約20分ほど、「日本軍がいかに勇敢で優秀だったか、よく聞いていた、今日はその日本人に初めてお目にかかれて嬉しい」みたいな話を一方的にし、最後にさっと立ち上がっていきなり敬礼、「今日は嬉しかった。次はドイツ抜きでやろう。そうすれば必ず今度は英米に勝てる」と笑いながら言って、去って行った。

おさる親子はいきなり日伊同盟を申し込まれたみたいな出来事にあっけにとられてしまった。
 そうそう、イタリア人は非常にドイツ嫌いである。「あいつらは図体ばかりでかくて暗くて頭が悪い」というのがイタリア人の平均的なドイツ人評であった。ドイツ人からは「忍耐力がなくてスパゲティばかり食ってる国民」とけなされていたが、まぁどっちもどっちかなあ。






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<Vol.6 <イタリア人気質>  2004.4.20




 イタリア人気質についてもうひとつ書いておきたい。
在学時代、おさるは絵を書くことが好きだった。どんな絵かというと、それは「戦争画」なのだ。

 父親の仕事、テレタイプ(今のFAXのようなもの)の機械に使う紙(縦20cmの横数十メートルのロール紙)の余りを使って、よく映画とかで見た印象を書きなぐった。時には横幅が5メートルくらいの長さに延々と小さい兵隊達が戦闘しているシーンが書かれているのだ。簡単に言うと「絵巻物」なのだが、ご想像いただけるだろうか?

 題材としては
・トラ・トラ・トラ(真珠湾攻撃)
・トラファルガー海戦
・ナポレオンのロシア遠征
・ミッドウエイ海戦
・戦艦大和特攻
・十字軍
・カエサル対ゲルマン族

 等々、およそ歴史上の有名な戦いを選んでよく書きなぐった。兵隊や戦車、戦闘機はボールペンで線を書き、色は色鉛筆やサインペンだから、絵の具などで地色を塗っているわけではなく、結構荒い。
 正直今見ると絵としてのレベルは低いものだ。
でもイタリア人の反応は凄かった。彼らは皆、人にないユニークな才能を尊ぶ姿勢を子供の時から身につけていた。毎回新しい素材の絵を書く度に、クラス中の子供達が「今度のお話はなんだい?」と応援してくれ、休み時間中に書いていても、教師は書くことを奨励してくれた。学園の芸術祭では、学園で3人しかもらえない賞の一つ「ブロンズ賞」までいただき、主要な作品が校内の壁に飾られた。受賞理由は「非常にユニークで独創的な作品に」ということであった。

 おさるはすごく誇らしく、これからもずっと絵を書いていこうと思っていた。しかし、日本に帰国してすぐ止めてしまった。それは一体なぜかというと・・・


                           



<Vol.7 <狭量な日本人>  2004.4.21




イタリアの学校で賞までいただいた「戦争絵巻き」の制作を、帰国して何故やめてしまったのか?今日はその背景を記してみたい。

 4年の三学期も途中から、おさるは帰国して日本の学校に通い始めた。当時まだ珍しかった「帰国子女」ということで今度は日本の子供達に囲まれることになった。そこで昼の休み時間に、おさるは例の絵巻を取り出して制作に入っていた。周りの子供達になんと聞かれるだろう?おさるはドキドキしていた。

 「なんの絵?」女の子が聞いてきた。「戦争の絵だよ」とおさるは答えた。すると周りで見ていた連中が、
 「ヘタだね」
 「色がへん」
 「馬はこんなんじゃないよな」
 「顔が書いてないよ」
と口々に批判した。極めつけなのはたまたまそばに居た担任(女性)に、「おさる君、絵というのはきちんと顔を書かないと駄目よ。あと、色はサインペンだと雑だから絵の具でないとね。それに、こういうものはおうちで書くようにしましょうね」と言われた事だった。おさるはすっかり意気消沈し、その日以来絵巻物を書くことをやめてしまった・・・

 今思いだしても、絵は決してうまくはなかった。ただ、周りに似たようなものを書く人間はもちろんいなかった。イタリア人(子供も大人も)はそれをユニークな個性と感じ、賞賛した。日本人(大人も子供も)は絵の常識にそぐわない下手な絵として批判した。ここに両方の国の「異質なるもの」への対応の違い、度量の広さの違いが非常に鮮やかに現れていると思う。
 
子供は誉められれば頑張るし、けなされれば萎縮してやる気をなくす。間違った行為は別にして、今ではもう親になったおさるは、子供をなるべく誉めてあげるようにしている。






<Vol.8 <真の天才を見た!>  2004.4.22




 前に、イタリアの小学校には「飛び級」があったと書いた。おさるには縁もゆかりもない制度だったが、そのおかげで、すごい奴を目撃することが出来た。
 
彼の名はガッローニ君といった。非常に物静かで、見るからに頭が良さそうな顔をしていた。おさるにもいつも親切にしてくれ、おさるは彼が大好きだった。

 ある時国語の時間に、アミチスのクオレ物語(だったと思う)の朗読があった。朗読とはいっても、宿題で20ページくらいの範囲を記憶してきて、そのどこかを先生に指定されて暗誦しなければならないのだ。一言一句間違わないのはイタリア人でも相当難しい。
現に何人もの生徒達が失敗し、先生は苛立っていた。

 「ガッローニ君、では最初から」「はい、先生」と言ってから、ガッローニは語り始めた。つっかえたり間違えたりしたらその場で終わりである。ところがガッローニは間違わない。5ページが過ぎ、10ページが過ぎても間違わない。間違うどころか会話シーンでは情感さえこもって、まるで芝居を見ているようなのだ。15ページを過ぎたあたりから先生も生徒も固唾を飲んで見守った。「全ページ完全暗記か?」みんなの緊張をよそに、彼は目をつぶって、気持ち良さそうに語っていく。
 遂に終わった。やった!完全暗記だ!

 その瞬間、教室には割れんばかりの拍手と大きな歓声が響き渡った。みんなものすごく感動していた。先生までもが拍手していた。おさるは本当にびっくりした。こういうのを天才と言うのだ、と幼い頭で驚いていた・・・
当のガッローニはえらぶる様子も見せず、ニコニコ笑っていた。

これは国語の授業だったが、他の授業においても彼は常にその才能を発揮させていた。そして、3学年が終わる時、5年生に飛び級していった。それほど優秀だったのだ。

 日本ではこういう時必ずやっかみ等が出るものだが、ガッローニの場合、誰もが認める天才だった。生まれながらの才能の差、それをごく自然に体得させてくれた人と制度。人はそうやって、自分の能力を自覚していけるのではないだろうか。

 彼は今、どこで何をしているのだろう。おさるは時々、あの授業を懐かしく思い出すのだ。





Venezia

ベネツィア




<Vol.9 <修理に来ない修理屋?> 2004.4.23




 よくイタリア人はのんびりしている、と言われるが、これはおさるもその通りだと思っている。そんな事例をずいぶん見たが、極めつけはTVの修理屋だった。

 ある日、おさるの家のTVが映らなくなった。昔も今もTVは重要な娯楽なので、父さるが早速電気屋に電話した。

 父:「TVが映らなくなったからすぐ来てくれ」
 修理屋「OKOK、すぐ行きます!」
 というので、父は待っていたが、夜になっても来ない。まあイタリア人だからのんびりしているのだろう、と思って翌朝電話。
 
「きのう待っていたのだが、どうした?すぐ来る、ということだったが・・・」
 「申し訳ない。先約の仕事があったので。これからすぐいく」
これからすぐ、と言われたので父はまたもや律儀に待っていた。(土日だったのだと思う)しかし、夜になっても来ない・・・
 もともと短気な父は遂に堪忍袋の尾が切れて、18時頃怒りの電話を入れた。
 
「ずっと待っていたのになんだー!」
 「17時を過ぎたので、きまりで今日はもう働けないんだ。あした伺う」
 「ふざけるな、今すぐ来い!」
 「もう今日は遅いから無理だよ、旦那。もうすぐ夕食の時間だし
 父親は諦めるしかなかった・・・ 
 
翌日。ここで日本ならば翌朝一番で駆け付けて来る所だが、イタリア人はそんなことはしない。悠々と昼過ぎに現れた。今度は母親が、
「どうしてこんなに遅かったの?」と聞くと、
「え?遅くないよ。お昼ご飯を食べてからでないと、力が出ないからね」と修理工。
「三日も待ってたのよ?」
「みんな忙しいんですよ、奥様。三日で済めば早い方でさぁ」
これにはさすがに母親も苦笑するしかなかった・・・

彼らは別におさる親子をおちょくっているわけではない。ごく自然に話しているのである。ちなみにようやくやってきた修理工は、ちょっと中を空けて調べ、「プラグがない」といって帰っていき、その日は終わった。なんやかや言って再び映るのに一週間近くかかったのだ。さすがに現在はここまでのんびりしてはいないだろうが・・・

ということでこの事件?は今でも、おさる一家の伝説になっている。

 







Osaru3
<昭和ヒトケタの頑固者・おさる父>


<Vol.10 <だから言ったのに!> 2004.4.25




イタリア在住時の失敗談には事欠かないが、その中で最も記憶に残っているお話をお一つ。
 おさる一家は学校が休みになる7月下旬~9月(休みがなんと2ヶ月以上もあった!)の間に、よく旅行をした。イタリアの夏は暑い。その中を、当時だからクーラーのないワーゲンに乗って、東西南北物見遊山に出かけた。
 
イタリアに渡って一年目の夏だったと思う。ナポリへ出かけた事があった。おさるは一学年も終わり、もう日常会話程度ならイタリア語が話せるようになっていた。なので、旅先での食事の注文やお宿の手配・交渉程度はおさるの担当だった。

 今でもはっきりと覚えているが、蒸し暑い夕方、ナポリのピザ屋さんに入った。おさるも妹もピザが食べたかったのでうきうきしていた。でもまだ時間が早かったせいか、他のテーブルには人影がまばらだった。それに、いつものことだが、店のボーイは奇異の目でおさる一家を眺めた。学園の皆と同じく、このボーイにとっても日本人を見るのは初めてだったろう。
 
おさる父がおもむろに、「では、このピッツア・ペスカトーレを4枚頼んでおくれ」と私に告げたので、おさるはそのままオーダーした。すると、ボーイは首を振ってのたまった。「ウチのピザは大きいから4枚もいらないよ。2枚で十分さ」
 なるほど、とおさるは思い、おさる父に告げた。「父さん、大きくて食べきれないから2枚でいいって言ってるよ」
 「なんだと、2枚でいいだと?」おさる父の顔色が変わった。

 実は、おさる父は真面目&頑固を絵に描いて服を着せたような性格だった。彼はこのボーイの回答を、相手が自分達をおさるだと思って馬鹿にして、金も無さそうだから2枚で十分、と言っていると思い込んでしまったのだ!こうなるとおさる父はテコでも引かないから始末が悪い。

 「本当にウチのピザは大きいんだってば!」ボーイは何度も説明したし、おさるも彼が嘘を言っているとは思えなかったので、2枚にしておいた方がいい、と説得したのだが、おさる父は指を4本、高々と掲げて「クワットロ(よっつ)」と宣言した。ボーイは渋々引き下がった。おさる父は、日本人の威厳を示せたとばかりに腕を組み、ご満悦であった。
 
しばらくしてボーイが焼きたてピザを運んで来た。おさるはそれを見て腰を抜かさんばかりに驚いた。巨大な円形の物体が4枚、運ばれてきたのだ・・・

 普通のピザは大体大きくても直径が30センチくらいである。しかしその店のピザは有に軽く直径が45センチくらいあり、直径30センチくらいはある皿から完全にはみ出して垂れ下がっていた。
 海産物がどっさり盛られたそれが4枚、ドドーンと運ばれてきたのだ。しかもよせばいいのに、おさる父はサラダやパスタまで余計に頼んでいたのだ・・・。
 それからが地獄だった。皆黙々とピザを食べた。大人でも一枚食べきれるかどうか、というシロモノである。それが4枚。両親はともかくとして、おさる7歳、妹4歳。食べきれるわけがない。しかしおさる父の無言のプレッシャーが降り注ぐ。おさるは死ぬ思いで食べ続けた。
 普通、腹が減って死ぬということはよく聞くが、その逆はないだろう。しかしおさるはあの時、腹がはちきれるのではないかと本気で思った。残しでもしたらえらいことになる、と必死に食べた。
それでも食べ切れなかった・・・

 結局一枚を食べ切れたのはおさる父だけだった。しかし彼にしても、他を助ける余裕は全くなかった。ボーイはちょっと離れたところから、気の毒そうに首を振って見ていた・・・ああ、人の忠告を素直に聞いておけば良かったのになあ。
 
 おさるは今でも、「海の幸のピザ」を見るとあの時のことを思い出す。しかもアンチョビが多すぎて、やたら塩辛かった味までも・・・







<Vol.11 <ネギをしょったサル?> 2004.5.11




 イタリアに住んで2年目の夏休みだと思うが、家族が一通りイタリアに慣れ、おさるも言葉を話せるようになってきたので、おさる父は初めての家族旅行を計画、敢行した。ローマからナポリ、ナポリからずっと下がってパレルモまで、シチリア半島も横断していく10日程のマイカー旅行だ。

 いくらイタリアはムッソリーニが作った高速道路網があったとはいえ、この大旅行は結構無謀だった。まず、昔の車にはクーラーが無かった。真夏の酷暑の南イタリアでこれはきつい。郊外の道を飛ばしているうちはしのげるが、街中に入って渋滞に巻き込まれるとどうしようもなく暑く、車中は蒸し風呂のようになってしまうのだった。また、車はワーゲンだったが、やっぱり冷却水が蒸発してよく止まった。とにかく「快適な旅」とは無縁だった記憶がある。

 で、旅の後半、最終目的地のパレルモに着いた。夕暮れ時、もう皆くたくたで、おさる父も地図を頼りに予約したホテルに向かって、細い路地の入り組んだ市内で車を走らせていた。
 おさるは運転席と助手席の間に首を乗っけて前を見ていた。車は40キロくらいで走っていたのではないか。その時、いきなり車の前に7~8歳くらいの少年が歩道から飛び出してきた!

 「あっ!」おさる父は慌てて急ブレーキを踏んだが、そのせいでおさるの頭は車の天井にぶつかる羽目になった。止まった車の前に少年がうずくまっている。「やっちゃったかー!」と言っておさる父が車を飛び降りようとした瞬間、「ピリピリピリ~」という笛が鳴り、向こうから警官が駆けて来た。その姿を見るや否や、それまでうずくまっていた少年はいきなり立ち上がり、走って群衆の中に消えてしまった!

 なにがなにやら分からないおさる父に警官が早口で話し掛けてくるのだが、おさる父には理解できないので、結局こぶが出来てしまったおさるが頭をさすりながら話を聞いたところ、どうやらその少年はこのあたりでは有名な「当たり屋」だったらしい!カモの車の前に身を投げ出し、難癖をつけては金を巻き上げる連中で、警察も目を光らせていたとか・・・そこにたまたま通りかかったおさる一家の車が文字通りぶち当たってしまった、という訳だ。

 これって文字通り、カモがネギしょって、じゃなくて、猿がネギしょってよたよたパレルモの町に現れた、とあの少年には見えたんだろうなぁ。
 それにしても「当たり屋」って、本当にいるんだな、しかも自分と同じ年齢くらいの少年がやっているなんて・・・と、少年が消えた人ごみを見つめてしばらくおさるは茫然としていたのでした。






<Vol.12 <サラミは最高!> 2004.5.14




 おさるがイタリアに行って一番うまいと思ったのはなんといってもサラミだった。日本でも最近はイタ飯屋でうまいサラミが食べられるようになったが、35年前はまずいハムしかない時代だった。

このサラミ、ローマにはローマの、ミラノにはミラノの「ご当地サラミ」があり、それぞれ大きさ、しょっぱさや油っぽさ、辛さが皆違うのだが、とにかくどれを食べてもジューシーでうまい!おさる一家は毎日2~300グラムは食べていた。朝はイタリアの固いパンにはさんで頂くのが毎日の楽しみであった。

 夏休みのある日、おさる母が私と妹を呼んでお使いを頼んだ。その中にサラミも入っていた。15分ほどてくてく歩いて買い物をすませ、最後に肉屋へ。サラミはパックにすると鮮度が落ちるので全部スライスしてもらう。200グラムほどスライスしてもらって店を出た。
 悪いことに昼食前で、おさるは腹が減っていた。買い物かごの中にスライスしたてのおいしそうなサラミが入っている。おさるは道端に座り、「一枚くらいなら食べてもいいだろう」と、そ~っと包み紙を開いて一枚だけ口の中に入れた。うまい!なんでこんなにおいしいんだ!とその時、横にいたおさる妹が「おにいちゃんずるい!私にもちょうだい!」とのたまった。「一枚だけだぞ」もう一度包み紙を開いて、一枚を妹の口の中へ入れてやった。

 サラミは20枚ほど、互い違いに包みの中に入っていた。「少しずらしておけば分からないだろう」おさるはもう一枚、口にれた。それを見た妹も手を伸ばし一枚、口の中へ。ああもう4枚も食べてしまった。これはすこしずつ動かしておかないとばれてしまう。と思ってサラミをいじっているとまた食べたくなってもう一枚。それを見て妹ももう一枚。

 「これはいかん、もう互い違いは無理だ。仕方がないから一枚一枚二列に並べておこう」と思っていたら、大きめで薄いスライスだったので指に絡みついてしまってもう一枚。それを見て妹ももう一枚。さらに食欲に火がついてまた1枚・・・結局正気に戻ったときは、20枚以上はあったサラミがたった4枚になってしまった。

「とりあえず間隔を空けて4枚を正方形のように配置しよう」ということにして、帰宅して冷蔵庫にいれ、知らぬフリを決め込んでいたが、当然バレてこっぴどく叱られたのは、言うまでもない。
それにしても、あの時のサラミはなんておいしかったのだろう・・・

 
 

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<Vol.13< <蜂に刺されたらアンモニア?> 2004.5.17



Osaru5  あれはおさる家族がローマの動物園に行ったときのこと。
一家四人で檻の中の動物たち以上に注目を集めながら(服を着た猿だ!みたいな)確か象の檻の前にさしかかった時のことだったと思う。
 突然おさる妹が頭を押さえて泣き出した。何が起きたのかおさるにはさっぱり分からなかったが、おさる父が「蜂に刺された!」と叫んだのでパニックになり、あわてて木陰に隠れた。すると、おさる父が「おさる!おさる!こっちへこい」と呼んでいる。

 恐る恐る近寄ると、いきなり「おい、おさる、ここで小便しろ!」と言うではないか。周りにはおさる妹の泣き声を聞きつけて大勢の見物人が集まっている。とてもこんな環境で立ち小便など出来る物ではない。
 「なんでだよ、おしっこなんて出ないよ」というと、「いいか、蜂や虫に刺された場合はアンモニアが効くんだ。このそばにはアンモニアがないから、おまえのおしっこでそれに替える。おしっこはアンモニアが多く含まれているからだ。だから早くしろ!」と恐ろしい形相でおさるに迫った。
 その形相に押されてか、おさるの悲しさ、やれといわれるとなんとか出してしまったのである!

 さすがに見物人の前ではいやなので、ちょっと木陰に行ってハンカチに含ませて戻ってきたら、おさる父がそれを妹にあてがって、「さあアンモニアが来たからもう大丈夫だ!」と言った・・・そのあと、その傷がどうなったのか覚えていないが、おさる妹はいまだに元気ではある。今思えば全くとんでもないことをしたものだ・・

 ちなみにものの本によると、確かに小便にアンモニアは含まれてはいるものの、他の雑菌もふんだんに含まれているので、傷口の消毒等には適さない、とのことである。
 物のない時代に育った昭和ひと桁はほんとにコワイ、とおさるは思ったのだった。


 


 Pisa

ピサの斜塔
 



<Vol.14 <ウルトラセブンはどこにいる?> 2004.6.16




 おさるがローマの小学校に通っていた頃は、イタリアでの日本の印象は、今とは比較にならないくらい貧弱だった。日本を表す言葉としては「ホンダ」「サムライ」「カミカゼ」くらいであった。なにせ地図でみると、イタリアを中心としたヨーロッパからは、地図の右側、切れ目近くの端っこにあるのだから無理もなかった。

 ところがある日、イタリアのTV局(当時は1チャンネルしかなかったが)が何を思ったか、三日連続でゴールデンアワーに「子供向け日本映画特集」を組んだのだった。一日目が「ウルトラセブン」二日目が「ゴジラ対ヘドラ」、三日目は残念ながら覚えていない。

 初日の「ウルトラセブン」は確か第一話と第42話「ノンマルトの使者」だったと思う・・・数年ぶりに見る日本の映像に家族ともどもかぶりつきで見た。そして翌日、学校は「ウルトラセブン」の話題でパニック状態だった。なにせ当時のイタリアではああいう「怪獣特撮物」は皆無であって、想像の範囲を遥かに超えていたのだ。もう朝から大騒ぎ。一チャンネルしかないTVでやったのだから、視聴率は軽~く80%くらいはあったのではないか。

 朝、席に付くとクラスメートが群がってきて、
「おさる、昨日見たぞ!」
「ウルトラセブンって本当にいるのか?」
「日本には怪獣が住んでいるのか?」
「あの頭から飛ばす刀(アイスラッガー)はなんだ?」
「手から出した光(ワイドショット)はなんだ?」
「人間がどうやってウルトラセブンになるのか?」

等々質問の嵐。担任までもが地図を持ち出して、
「ウルトラセブンってどこにいるんだ?」(担任はおちゃめな人だった)
と聞く始末。まともに答えるのもばかばかしいが、おさるは一生懸命お答えした。その日は全く授業にならなかった。もちろん、「ゴジラ」を放送した翌日も凄かったが・・・
おさるはクラスメート達はもちろん、イタリア人に日本のことを知ってもらえてちょっぴり鼻高々だった。その知られ方はちょっと普通ではなかったけれども・・・

数日間、イタリア人の度肝を抜いてTVの前に釘付けにしたことは確かだった。





私も持ってます!
まるで昨日見たかのような鮮明画像!
DVDウルトラセブン 全12巻セット
DVDウルトラセブン 全12巻セット






<おさるのイタリア漫遊記・番外篇「おさるソ連邦に立つ」(2004.9.13)




 昨晩のアシュケナージの恐ろしい話を見ていて、おさるも一度だけモスクワ空港にトランジットした事を思いだしたので書いてみます。

 まだソ連邦が健在だった頃ですから今から20年ほど前、日本に帰国していたおさるは、大学の卒業旅行で久しぶりにイタリアに行ってみようと思い立ち、モスクワ経由でイタリアに向かったのでした。

 3月に入ったばかりとはいえ、空港は雪に閉ざされているやに見えました。数時間のトランジットで、乗客は強制的に空港に下ろされます。モスクワ周辺のどの空港かは忘れましたが、空港ロビーに降り立った時、おさるは愕然としました。夜だったこともあってか、広大なロビーは殆ど真っ暗。所々にぼんやりと蛍光灯がついているだけだったのです。

 照明を落としている、というのではなく、ほとんど全体が真っ暗なのです。僅かに免税店の辺りだけが明るいので、乗客は皆仕方なく、光を欲する蛾のようにその周りに集まります。そして周辺を見渡してみると、銃を肩に担いだ兵隊がさりげな~く立っているのです。いやぁ怖いのなんの。

 怖かったり寒かったりしたのでおさるはトイレに行きたくなりました。良く見ると、トイレに行く道筋にはぼんやりと灯りが点いています。しかしトイレに入ってみると・・・やっぱり!
 ないだろうな、とは思ってましたが小便器の横の壁はやはりありません。つまり隣の人と遮る物はナシ。そして個室は・・・当然、紙はありません。さらに便座もありませんでした。そして・・・鍵ももちろんありませんでした。ここで一体どのようにして用を足せばいいんだろう・・・と思いつつ、おさるは小の方をしました。

 やっぱりこの国では鍵がかかるような個室は無理なんだな、と思いつつ、真っ暗なロビーに座っているのも怖いので、おさるは免税店に向かいました。
 その店でいくつか買い物をしてレジに並ぶと、これまたすごい光景に出会いました。5~6人が並んでいるレジが二つあって、両方とも30代くらいのかなり恰幅のいいお嬢さんがレジ担当だったのですが、驚いたことに二人とも椅子に片方の立膝をついて座っています。二人ともスカートですから時折パンツが見えますが、本人達は全く意に介していないご様子。しかも一人はタバコを咥えたままで思いっきり迷惑そうな顔をしてレジを打っていたのです・・・さすがは労働者の国!

 さてレジに並んでいると、案の定一悶着ありました。私の前に並んでいた商社マンが、7~8個の品を買いましたが、どうも計算が違っているらしい、というかお嬢さんが桁を間違っているらしい。商社マンは丁寧に電卓を見せながら英語で合計金額を見せて説明するのですが、お嬢さんは毅然とした態度で「ニエット(ノー)、私が正しい」と仁王座りで一歩も引きません。
 大した物なのはこの商社マンで、「いつものことだから」と言いながら、辛抱強く説得を続けました。するとお嬢様はいきなり叫び声(みんな集まって頂戴!だと思う)をあげると、隣のレジのお嬢さんや店の中にいた5~6人(全員、女性でした)が一斉にそのレジに集まって会議が始まりました。
  商社マンも中に入って一品一品電卓で足し算をしてあげました。その間約15分。最後の計算が終わると皆一斉に「ダー(イエス、の意)」と首を縦に振り、ようやく計算終了。

 でもお嬢さんは全くその商社マンに謝ることなく、再び立膝をつき、「終わったんだから早く行け」のような素振りでした。いやあ、さすが労働者の国、売る方が買うほうよりも偉いんだな、とおさるは理解しました。

 その後問題なく飛行機に乗ることが出来、無事社会主義国から離れることが出来たのですが、あの暗いロビーと兵隊さん、そして立膝をついたレジ係の光景はいつまでも忘れることが出来ない光景でした。あの光景を思い出す度に、あのような国に生まれなくて本当に良かった、とおさるはしみじみ思うのでした。






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