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カテゴリ:プロ野球(メジャー)
ファンに愛され続け、今季2000本安打を達成した強打者が、 ユニフォーム生活に別れを告げた。たび重なる故障に見舞われながら 常に前向きに歩んできた男が、激動の19年間を自らの言葉で振り返る。 10月19日、CSファイナルステージ第3戦。ソフトバンクが日本ハムに2点リードされて迎えた9回表2死二塁、一発出れば同点の場面で打席に立ったのは小久保裕紀だった。だが小久保は守護神・武田久の投じた3球目を打ち上げ、ショートフライ。その瞬間、ソフトバンクの2012年は終わりを告げ、2年連続日本一の夢もあえなく絶たれた。そして同時に、小久保の野球人生も幕を下した。 「最後の打者が自分になるなんてね。聖一(内川)が出塁して、僕まで回してくれたのが嬉しかった。相手チームの稲葉(篤紀)から花束をもらい、胴上げまでしてもらった。波乱万丈だった自分の野球人生の最後にこんな素晴らしい巡り合わせがあるなんて……自分は本当に幸せ者です」 「(ドラフトで)巨人に入っていたら、もっと早く潰れていました」 出場した2057試合すべてに全力でぶつかってきた小久保の19年間の野球人生。その波乱の幕開けは、ダイエー(現ソフトバンク)を逆指名した'93年のドラフトだった。'92年のバルセロナ五輪の野球日本代表チームにただ一人選出された大学生を巡り、ダイエーと巨人が激しい獲得合戦を演じたのだ。小久保は巨人の攻勢の前に、合宿所から一歩も外に出ず、電話の取り次ぎも断って、ドラフトの日を待ったという。 「まだ22歳の僕には、2球団のうち一つに絞るというのは、しんどい作業でした。ただ、あのとき巨人に入っていたら、19年間も野球はできてないと思いますね。きっと、もっと早く潰れていました。福岡に来て、王会長との出会いがあり、それでやって来られたんであって、あの注目度の中、全国区の巨人に飛び込んでたら、潰れてたと思うんですよ」 1年目のウインターリーグ、小久保のもとを訪れた王貞治の“激励”。 ダイエーに入団した'94年オフ、監督が根本陸夫から王貞治に代わる。ハワイのウインターリーグに参加していた小久保のもとを、王はわざわざ訪れ、「来年、一緒にやろう」と声をかけた。その日のことを小久保は鮮明に記憶している。そして翌'95年、全試合出場を果たし、本塁打王に輝いた。 「あの年は自分の欲が表に出すぎて、周りにはみっともなく映っていたと思います。全部ホームラン狙いで、石毛(宏典=当時ダイエー)さんに『みっともない! 普通にしてたら獲れるんやから』と言われたのをよく覚えてます。でもそりゃ、欲も出ますわな。2年目の若造なんですから」 タイトル獲得後、スランプと出場停止という試練が。 早々にタイトルを獲得した小久保だったが、その翌年、スランプのどん底に沈んでしまう。 「2年目でホームラン王を獲って、『この世は俺のために回ってる』と思うぐらい勘違いしてたんですよ。そこでまったく打てなくなった。このままじゃいかん、と強く思いました。練習量は人よりもダントツ多かったんですが、その練習量だけでは自信を持ってプレーできてなかったんです」 一冊の自己啓発本との運命的な出会いもあり、翌'97年には見事に復活。打点王のタイトルを獲得する。しかし幸せは長続きしなかった。オフに発覚したプロ野球脱税事件で開幕戦から8週間の出場停止処分に。そればかりか、復帰後間もなく右肩の故障で戦線離脱を強いられてしまう。 '03年のオープン戦で大ケガを負ったが「人生に無駄は一つもない」。 '99年には肩痛による不振に悩まされつつも、福岡移転後初のリーグ優勝と日本一に貢献。'00年はリーグ連覇、'02年まで3年連続30本塁打を達成した。ところが'03年3月6日、悪夢が再び小久保を襲う。オープン戦でホームに滑り込んだ際、捕手と交錯。右膝前十字靱帯断裂、外側半月板損傷、内側側副靱帯断裂、脛骨・大腿骨挫傷という重傷を負ったのである。1年を棒に振ることになる大ケガだった。 「あの試合、本当は休みだったんですよね。でも西武戦だったから出してくれって言って出て、信彦(松中)のツーベースでホームに突っ込んだんです。その後、なんでキャッチャー自分の上に乗るんやとか考えてしまった。それまでそういうことで人を恨んだりしたことはなかったのに。でも、あの時はもう『人生に無駄は一つもない』という人生観がある程度できあがっていました。人生で自分に降りかかってくることは必然であり、必要なこと。だから、しんどいときに、いかに自分がベストで前向きな選択をしていくかだと。だから最初はへこみましたが、このケガから何かを学ぼうと思ったんです」 1年間のリハビリ生活が、41歳までプレーできる素地に。 アメリカでの手術を経た長いリハビリ生活の最中に、小久保は大きな収穫を得たという。 「アメリカで、最新のコアバランス・トレーニングに出会ったんです。それで、下半身のリハビリと、1年かけて体幹を鍛えることができた。もしあのままレギュラーで試合に出ていたら、1年間かけて体を治したり作ったりする時間はなかったでしょう。重いウエイトで筋肉をガンガン大きくするトレーニングも改めました。食事面を含めてそれまでやっていたことを続けていたら、たぶん41歳までプレーできていません。だからあの1年間は、いろんな意味で大きかったですね」 まさかの巨人への無償トレードも、競争を勝ち抜き本塁打を量産。 だが、その年のオフ、思わぬ“事件”が起きる。巨人への無償トレードだった。 「巨人に入った時は、リハビリ明けという不安もありましたし、レギュラーの座も確約されていませんでした。江藤(智)さんと競争だってハッキリ言われましたから。夏ぐらいまで膝が非常に痛くて、鍼を打ってごまかしながらやっていました。でも、レギュラーを取りにいくんだという強い思いがあったからこそ、体が動いてくれたんだと思います」 移籍1年目のこのシーズン、終わってみれば自己最高の打率3割1分4厘を記録。本塁打も41本放つなど、好成績を収めた。 「この年のことで一番よく覚えているのは、やっぱり、ケガをしたちょうど1年後の3月6日に打ったホームランですね。ケガをしたのと同じ日にヤフードームでホークス戦があって、一番かわいがってる斉藤和巳が先発で、ホームランを打てた。これはちょっと自分の力じゃないなと思いながら、ダイヤモンドを一周しました。人の目に見えない力の後押しみたいなものを、あの時初めて感じたんです」 ◇ ◇ ◇ 球界の盟主でも持ち前のキャプテンシーを発揮した小久保は、'06年オフ、 ソフトバンクに復帰。'10年の日本シリーズでは史上最年長MVPにも輝いた。 栄光を手にした強打者が「引退」を決意する契機となったのは何だったのか? シーズン終盤の9月30日。本拠地で小久保はその真骨頂を発揮する――。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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