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写真1 台東区 写真2 千代田区 写真3 中央区 今から65年前の昭和20年は、日本が欧米連合軍に負けた年です。この年、東京は四回に及ぶ米空軍による焼夷弾空襲で焼野原になりました。特に3月10日未明の空襲は大規模な空襲で、8万人を越える焼死者が出るなど被害は甚大で、東京大空襲と呼ばれます。 米空軍は、木と紙で作られた日本家屋を焼き払うために、爆発力より燃焼力を主体とした新たな焼夷弾を開発して大量に投下しました。その投下範囲も、関東大震災で焼けた地域が火災に弱い地域であると研究した上で、重点的にその下町を攻撃しました。 そのため、関東大震災で焼けた地域と、東京大空襲で焼けた地域は、かなり重複しました。しかし、関東大震災で焼けたけれど、東京大空襲では焼かれなかった街というのは僅かですが台東区、千代田区、中央区などに残りました。(写真1、2、3) そこが何処かを知るには、関東大震災後の昭和初期に建てられた「看板建築」の商店を探すことです。「看板建築」の様式は、建物の前面(ファサード)に看板と共に銅板が貼ってあることです。 関東大震災では本格的な土蔵造りは焼けませんでしたが、薄塗りの土蔵造りは土壁が剥がれて木造部がむき出しになり燃えました。そこで、関東大震災の後、建物を火災から守るため表面を金属で覆う「看板建築」が採用されたのです。 銅板は酸化すると錆び(緑青)て緑色に変色します。街を歩いていて建物の前面が緑色の銅板で貼ってあったら、それは昭和初期の看板建築と見て間違いはありません。そして、その建物は幸いにも東京大空襲を免れて焼け残ったものです。 銅板貼り建物は、古くなっても深緑の統一した色で覆われており、戦後建てられた新建材による建物より貫禄があります。ただ、「看板建築」は昭和初期の建物ですから、殆どが既に数十年は経ています。手入れの悪い建物は朽ちかけているものもあります。 東京でも大きな有名ビルについては保存運動が起こり、維持修繕を施されて原形が残される場合があります。京都の町屋や地方都市の由緒ある通りや建物が保存されています。東京の「看板建築」についても、昭和の歴史の記憶として保存することを検討する時期に来ています。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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