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縄文時代には、赤坂、溜池の辺りの内陸部まで海水が深く入り込んでいました。江戸城の和田倉門辺りまで海であり、日比谷は入江の海でした。この入り江は溜池まで繋がっていたと言います。ここは排水状態が悪く、また河川から流入する水もあって、江戸時代でも今の溜池一帯には、その名の通り大きな池が残っていました。江戸城の外濠を建設したとき(1636年)この池は外濠の一部として使われました。
赤坂は、東は国会議事堂、西は青山、北は赤坂御用地、南は六本木という台地に囲まれている低地です。昔から花街と言うものは、街の中心地からやや離れた川の畔や池の端に作られるものですが、この大きな溜池の畔にあった赤坂もその例外ではなく、先ず花街が生まれ、やがて大きな歓楽街として発展するよう運命づけられていました。 明治時代になり赤坂付近にあった旧藩邸跡地には公的建物、高級ホテル、大学が建てられたことは既に述べましたが、旧藩邸跡地ではなかった低地の赤坂の池の周辺は、商店街や料理屋、更には花街へと発展していきました。今、弁慶堀の外側に密集する飲食店街の素地は既に明治時代に築かれました。 しかし、赤坂が本格的に歓楽街として発展するのは昭和に入ってからです。関東大震災で赤坂の歓楽街は焼けましたが、国会議事堂に近かった赤坂は、政治家や新興財界人の奥座敷合として利用され、震災後に料亭街や花街は賑わいを回復し、昭和の頃には日本橋や新橋の下町の繁盛を凌駕する勢いだったと言います。 その後、東京大空襲で壊滅した赤坂一帯は、戦後の経済復興と共に回復しいていき、銀座と並び称される高級歓楽街として復活します。赤坂の歓楽街は、北の青山通りと東の外濠通りに囲まれた、赤坂3丁目から5丁目辺りまでのかなり広い範囲です。この地域が歓楽街として最も華やかだった時代は、高度成長の始まった昭和30年代からオイルショク前の昭和60年代でした。 この時代に、現在の一ツ木通り、みすじ通り、田町通りという三本の通りの姿が出来上がりました。その繁盛を支えたのは高度成長を達成した企業の社用族でした。その三本の道筋に建ち並んだ、コパカバーナ、ミカド、月世界など有名なバー、キャバレー、ナイトクラブには接待と称して会社の経費で飲む社用族で賑わったのです。 (写真1、2、3)
赤坂サカスは、坂のある地形を巧みに使って、周辺の既存の市街地や高級住宅地と自然に繋がるように設計されていて、今までの赤坂繁華街とは違った垢抜けした地域になっています。池の畔に生まれた繁華街の赤坂は、伝統的な歓楽街に加えて、もう一つの近代的な繁華街に発展しようとしています。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.11.03 22:30:03
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