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昨日、関さんから新詩集『植物地誌』(七月堂)を頂いた。今日はその半分ほどまで読んだ。あの夏の異常な暑さが虚構のように思える秋雨の降る静かな日曜日。 この詩集は植物たちを強引に擬人化するのでもない、また観察者の気持を強引に植物たちに押し付けるのでもない、絶妙なバランスのうえに28個の植物たちが主人公になり、28篇の作品を関 富士子という詩人に「書かせている」。植物たちは稀有な自らの代弁者を見出したのか?そうでもない。そう植物たちが思うであろうところでは、彼ら彼女らは必ず裏切られる。植物たちとの思い出の底にあるもの、それはこの詩人が追求してきた「死」のイメージと思考である。すべての「傲慢」な想像を打ち砕くように「死」は植物と人の両方に働きかけるのだから。 ―… たくさんの草が人の形に倒れている。足先を中心にして、放射状に四つの方角に倒れた四つの人の形。死体は今片付けられたばかりだ。 四人はまた一列に並ぶ。来たときと反対側の角に向っていく。草を漕いで畔に上がる。今日のレッスンはおしまい。明日の朝、レンゲソウはすべて起きあがっていて、死体の形はあとかたもない。四人は何度でも、身投げの練習を繰り返すのだ。― (「レンゲソウ」の最後より) 一面のレンゲソウ畑は四人の(この四人とはまさに四人であり、四人の少女でも人間でもない)身投げのためのレッスンの場に変化する。「これはほんとうの身投げではない。練習だ。いつか身を投げるときのためのレッスン。でももしほんとうに死んでしまったら…。」 きみがレンゲソウ畑に横たわるとき、それは身投げのレッスンである。でも、もしほんとうに死んでしまったら…。関富士子の詩の魅惑はそこから始まる。そこから生の喜びも官能の棘のような疼きも始まるのだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 3, 2004 11:12:44 PM
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