カテゴリ:essay
当然のことながら祖母がいた。父方の祖母、母方の祖母。ここに書くのは、母方の祖母のこと。夫と別れ、母たち三姉妹をなんとか育てた。大島紬を一生織った。豚を飼っていたときもある。家などはなかった。その弟の家のそばの小さな小屋みたいなものに住んでいた。晩年は母に引き取られたが、それまでは毅然として一人で生きた。島の中では珍しく字も読めるし、自らの貧しさよりも人のことを気にかけて生きてきた人だ。部落の特定郵便局で働いたりもした。ぼくは、この祖母のおかげで人間になったようなものだ、と確信している。離れて暮らしてはいたが、いつでも手紙を書いてくれた。祖母から叱られた思い出はひとつもない。なんでも、ぼくのすることを許してくれた。小さな頃、祖母に抱かれて寝たこと、島の夏、祖母はぼくが寝付くまでいつまでも、ものいわず団扇で風を送り続けた。織り機の椅子に祖母とともに座りながら、その永遠に続くようなバタン、バタンという音を聞いたこと。これが永遠に続けばいい、とぼくはそのときも思ったし、今でも思う。そういうことを祖母に面と向かって語りたかったが、語らなかった。
今でもだが、一番苦しいと思うような局面にあたると、おもわず祖母を呼んでいるようなことがある。こういう無私の人に、ぼくにとってだけだったのだろうか、それはぼくの思い込みなのだろうか、会ったことはない。祖母は神様なのである。無神論のぼくが、すがりたいときにだけすがりつく神様である。でも、彼女にこよなく可愛がられたという思い出だけが、ぼくを曲がりなりにも人間として生きさせたこと、これだけは、ぼくにとっての一番大切な真実である。 祖母自身の人生について、その喜びや悲しみについて何も知らないことに愕然とする。少しは知っている、しかし臨終間際のベッドで、ぼくを見つめた祖母の眼は何か言いたげであった。大丈夫、大丈夫と言い捨てて、ぼくは東京に戻った、その死を見取ることさえしなかったのだ。それから13年経過した。 祖母の腰は曲がっていた、若いときから足が悪かったのだ。祖母の父が、神山といわれているところの樹木を伐採したから、その罰が私に当たったと、ずっと後年に手紙に書いていた。彼女には開明なところもありながら、島のユタやノロのような雰囲気もあった。弟と、彼女のことを「をなり神」(姉妹神)と規定したことがある。これは南島を含めて島尾敏雄のいわゆるヤポネシア圏までをカバーする太平洋の島々に見られる、兄弟を守る姉妹の神話のなかの一類型である。 そう思い込むことによって、祖母自身の大切な生から、ぼくは限りなく逃亡していたのだと今は考える。 その13年祭は、ささやかな転機になるかもしれない。島に行くのだ。13年以上も島には行ってない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 21, 2007 09:39:44 PM
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