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― R ’s  Bar ― 癒し系バーの威圧系バーテンダーのつぶやき・・・

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カクテルの流行と変還




カクテルの流行と変還

古代ローマ人により始まったカクテルの歴史は、中世の寒冷化したヨーロッパでのホット・カクテルに続き、19世紀後半にはコールド・カクテル(冷たいカクテル)を誕生させた。
1870年代初頭、ミュンヘン工業大学のカール・フォン・リンデ(Carl von Linde, 1842~1934年)教授が、アンモニア高圧冷却木の研究で業績を上げ、1879年にはリンデ製氷機製作会社の社長となり人口の製氷機が出現した。それまでは、冬季に川や湖の畔に住んでいた人が氷結したものを使うか、一部の長裕福階級が、氷結木の氷を表室に保存すること以外では不可能だった氷の使用が、四季を通じて氷を使用することが可能となったのである。

さらに、カクテルをシェークしたり、ステアしたりしてつくる技術が登場し、現在、われわれが知っているサイドカーやマンハッタンなどのきりっと冷えたカクテルがつくられるようになったわけで、現在、よく知られているカクテルカクテルが生まれてからせいぜい100年ちょっとしか経っていないことになる。

しかし、その100年の間に、カクテルはさまざまな変還を経験することになる。
文学史的にとらえた言葉、「世紀末」の19世紀末期、パリではカクテルでなくアブサン(Absinth)が飲まれていた。また、アメリカの都市ではそろそろまぃーに矢マンハッタンといった、アルコール度数の強いカクテルも飲まれだした。

当時のカクテルは、まだ大衆の飲み物でなく、主として上流階級の、それも男性の飲み物で、しかも飲む時間はディナー前の食前酒としてだったので、どうしてもアルコール度数の強いものが多かった。
また、この時代にはまだジュースが企業化されていなかった(1869年、ウェルチのグレープ・ジュースが商品化の最初)ため、酒だけでつくるマティーニを王様、マンハッタンを女王といったのである。

いまや時代の変わった現代では、カクテルを作成するために、さまざまな酒や副材料を苦労せずに手に入れることが出来るのだから、キングもクイーンも時代に合わせて変わってもおかしくない。
ところで、19世紀末から20世紀初頭にかけて、カクテルが花開いたのはアメリカにおいてだった。

20世紀初頭のアメリカは、歴史的にも、文化的にもまだ若く、また国民が多民族で構成されていたため、飲酒文化も伝統やしきたりといったものにとらわれることなく、新しい飲み物や、新しい飲み方を作り出すことに積極的になった。
そうした風潮や行動が、第1次世界大戦に際して、ヨーロッパへ派遣された軍人によってヨーロッパにも伝えられ、アメリカン・スタイルのバーやカクテルを促し、カクテルの普及の原動力となった。
つまり、現代のカクテルは、アメリカで旬日がなされ、アメリカ人達によって第1次世界大戦とともに世界に普及していったのである。

さらに、ヨーロッパでのカクテルブームに拍車をかけたのがアメリカの禁酒法(1920~1933年)だった。この禁酒法は、カクテルの世界に2つの流れをつくり出した。

ひとつは、この間、アメリカの都市には、地下もぐり営業の酒場(スピーク・イージー,Speakeasy)続出し、官憲の目を逃れてカクテルを楽しむ風潮が生まれた。家でこそ利飲むために、本棚そっくりのカクテル・ツール(ホーム・バー)がつくられ、同時に、アール・で子・スタイルのバー・ツール(アイス・ペール、シェーカー、ソーダ・サイフォン、スイズル・スティックなど)やグラス・コレクションを揃えた楽しい時代でもあった。
一方で、禁酒法に嫌気のさした良心的なバーテンダーたちは、アメリカを捨て、ヨーロッパに職を求めて渡り、ここでもアメリカン・スタイルの飲酒文化を広めていった。
1920年代のヨーロッパは、ロンドンにナイト・クラブがオープンし、若者たちは夜遅くまでジャズや酒を楽しみ、1889年にオープンしたサボイ・ホテルでも、アメリカン・バーが導入され、昼間からバーが開いていてカクテルを楽しむことが出来るようになった。
カクテルブックのバイブルといわれる「サボイ・カクテル・ブック」(1930年)を出版したハリー・クラドックがいたのもこの時代だった。

そして、飲酒文化におきたそれ以上の変化は、酒場空間への女性客の進出だった。それまで、パブは男性の独占的な空間だったが、男女客の勢力地図に変化がおき始めた時代でもあった。

こうして、徐々に、カクテルの世界は自由奔放なアメリカン・スタイルと、アメリカの飲酒文化を取り入れながらもヨーロッパの伝統を持ったヨーロピアン・スタイルの二台潮流をつくり出していく。

当時のカクテルは、ウイスキー、ブランデー、ジンなどがベースの主役で、カクテルの創り方もステアかシェークで、味のほうも材料そのものの味は前面に出さず、渾然一体とした、まるっきり別の味に仕上げてしまうカクテルが殆どだった。
スタイルもカクテル・グラスにつくるショート・カクテルが圧倒的に多かった。

第2次世界大戦が終わると、再びヨーロッパ、特にフランスとイタリアがカクテルの世界で力を発揮し始める。
まず最初に登場したのが、1945年につくられたキール(Kir,このカクテルは1960年代、スィンギング・シックスティーズと呼ばれた時代に流行した)やマッカ(Macca)、マラガ・ミスト(Malaga Mist)などのワインやリキュール・ベースのカクテルや、イタリアのベリーニ(Bellini)やゴールド・ベルベット(Gold Velvet)などのスパークリング・ワインやビールをベースにしたカクテルで、ライト・タイプでありながら甘味をしっかりと持ったものがつくられるようになる。

一方、アメリカでは1950年ごろ、ミキサーを使ったフローズン・カクテルや使う酒の味を出来るだけプレーンに出したバーボンやテキーラ・ベースのカクテル、ライトしこからウォッカ・とニックやワイン・クーラーなど、口当たりのさわやかな、アルコール度数の低いカクテルが多く見られるようになる。

これはシー・ブリーズ(Sea Breeze)やケープ・コッダー(Cape Codder)など、現在のウォッカ+フルーツ・ジュースというパターンへも受け継がれている。

1980年代に入ると、アメリカではシェープ・アップやヘルシーダイエットが叫ばれ、酒離れが始まると思われたが、反比例するようにピーチ・ブームが起こり、リキュールがカムバックし、ジュースやソーダ割り、あるいはリキュール同士をミックスしたシューター(Shooter)などの新しい飲み方や、新しいタイプのリキュールが続々と登場、新しい飲酒層を開拓し始めるようになる。

日本には、明治初期の欧風化の波に乗り、比較的早くから、カクテルが渡来している。鹿鳴館の時代には、すでに元老達に飲まれていたようである。
東京に市民の間で、カクテルという名前が知られるようになったのは、大正元年(1912年)ごろ、下町にバーというものが出現してからである。
また、昭和の初期は、国産洋酒は殆どなく、輸入主も限られていたため、カクテルも限定されていたし、カクテルを楽しむ余裕があったのは都会の洒落た階層の人たちに限られ、カクテルもジン・ベースのマティーニなどが代表格であった。

そして、品格的なカクテル・ブームが訪れるのは、第2次世界大戦が終わってからで、昭和24年のバー再開と共に、日本人の手による創作カクテル「青い珊瑚礁」と共に急速にカクテル・ファンを増やしていった。

昭和40年代になると、女性の飲酒経口が強まり、カクテルの人気の大きな力となり、さらに、昭和50年代には海外旅行ブームも影響してトロピカル・カクテル・ブームが起こり、昭和60年代にはカフェ・バーや本格的なバーでスタンダード・カクテルの新しい飲酒層を開拓した。そして今までウイスキーの水割り一辺倒だった飲酒ファンに新風を起こし、カクテルを明るい陽の光の中へ引っ張り出した。
カクテルは酔うための飲み物から、自分の生活空間を楽しませる脇役や、生活をエンジョイするための小道具へと変化したのである。
しかし、現在のカクテルの主流は、日本でも欧米でも「伝統回帰」ともいえるシンプル・イズ・ベスト(Simple Is Best)路線のものに集約されてきている。
ロンドンでも、ニューヨークでも、そして日本でもドライ・マティーニ、ジン・トニック、ウォッカ・トニック、カンパリ・ソーダ、ブラッディー・メアリー、スクリュー・ドライバー、ソルティー・ドッグといったものが安定した力を保持している。そこには長い流行と変還の果ての安定感がある。

さらに、2000年代になると、日本でもフレア・バーテンダーの人口も増え始め、バー業界もさらに多様化してきている。



フレア(Flair)・・・自己表現といった意味である。
フレアの最古の記録は、1849年アメリカ、サンフランシスコ、エルドラド・サロンのバーテンダー、ジェリー・トーマス氏のブルー・ブレイザーというカクテルの開発から始まりとされています。
彼は19世紀後半、アメリカで活躍した伝説的なバーテンダーで親しみを込めて”プロフェッサー”と呼ばれトム・アンド・ジェリーやマティーニの考案者として噂される人物です。ブルー・ブレイザーとは、まず大ぶりの銅製マグを2個用意し、その一つにワイングラス1杯分のお湯と、もう一つの温めたスコッチに火をつけ、燃えさせたまま、お湯の入ったマグに注ぎ込み、またもとに戻す。これを4~5回、青い炎が流れるのを繰り返すというもので、これがフレア・バーテンディングらしき事をやっていたという最古の記録と今の所されている。

後にアメリカのバーテンダー、マイク・ワーナー氏によりフレア・バーテンディングという言葉が使われたと思われる。FLAIR”フレア”とは”アピールや自己表現”といった意味があり、バーテンダーがカクテルなどお酒をサービスする過程でグラス、ボトル、ティン・カップやストロー、ガーニッシュ、アイスなどをスピンさせたりフリップさせたりし、お客様を楽しませる事を”フレア・バーテンディング”と呼んだ。

マイク・ワーナー氏は初めてゴリラの衣装を着てバーのカウンターに現れ、お客様の前でボトルやバーツールを回転させたりし、それらを巧みに扱い、火喰いショーまでやってみせて以来、フレア・バーテンディングの人気はうなぎ上りに高まったという。

フレア・バーテンディングが世界の人たちの目に飛び込んできたのは、1988年、トム・クルーズ主演の映画「カクテル」によって一躍知られるようになった。この映画の舞台になったバーがニューヨークのT.G.I.フライデーズで、トム・クルーズのフレア・バーテンディングの指導者になったのもサンフランシスコのT.G.I.フライデーズのフレア・バーテンダー、ジョン・バーンディー氏である。
1965年、T.G.I.フライデーズの1号店がニューヨークの63番通りファースト・アベニューにオープンして以来、現在世界に650店舗以上チェーン店を広げている。

アメリカを中心に世界でもフレア・バーテンディングは広がり、フレア・バーテンダー人口が増えた1997年、ニューヨークのトビー・エリス氏とラスベガスのアラン・メイズ氏を中心に、FBA(フレア・バーテンダーズ・アソシエーション)の計画が進められる。 その後、アメリカのケン・ホール氏、ジム・アリソン氏、イギリスのステファン・ノートブーン氏、オランダのフィリップ・ダフ氏、カナダのディーン・サニール氏、イタリアのファビオ・ミラニ氏などのフレア・バーテンダー30人が集まって力になり世界にネットワークをつくり1998年にFBAとして世界のフレア組織を統括する協会が誕生した。





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