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サイトTOP<幕末_WITH_LOVE玄関<若松コロニーとシュネルシリーズ全体目次
<若松コロニーとシュネル:SERIES(WAKAMATSU COLONY & Schnell) |
シュネルと若松コロニーSERIES詳細編_No.10 |
■各人物、資料編_No.2(=若松コロニーSERIES_No.10) The Wakamatsu Colony: Gold Hill(会津人のカリフォルニア)
Sec.1<・・・<Sec.8<Sec.9<Sec.10:各人物、資料編_No.2(現在頁)<Sec.11・・・ |
この前の部分から読む、 ■現在頁から、各人物、資料編です。 流れ&解説はSec.1から順番にどうぞ。
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現在頁内MENU:若松コロニーとは?概要と事象 |
■このシリーズ全体目次
■桜井松之助と 増水国之助頁はこちら ■日本国内会津藩のその後と、若松コロニーの
動き(略型比較表)
- 若松コロニー:
開始から崩壊 - 場所
- 主な関連人物
(詳細は別途有 - 略経緯
- 土地購買元
- 短命に終わった
若松コロニーの 痛々しい遺品 - 到着経緯
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- なぜ外国人のシュネルが
率いているか?
- 会津藩に於けるシュネル和名
平松武兵衛としての活躍と関連情報 - 若松コロニーの気になる期間
- 運営費用の見込みについて
- 運営行き詰まり原因
- キーマンは誰だ?
知って目を瞑ったのは誰だ? この段階で何が起きた?考察 - 本を出帆した港
- 港に係るシュネル関連人手掛かり名
- 日本脱出時匿った謎の民
- 乗船した船
- 日本の変遷とアメリカの背景
- シュネルの消息不明はいつ?
- 若松コロニーの人数
- 農産実績と予定された商品
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- メンバーの誰かの手記に基づくと
考えられる日本特有古語と発想 - 若松コロニーについて、
発見、保護、紹介、研究等活躍した人物 全米が若松コロニーに着目した発端 - アメリカで、彼らの集団に関して
全米初といわれてる事柄 - ちなみに、この頃在米の日本人は
どれ位居たか? - なぜシュネルはそんなに頑張ったか?
- アカバネ・シュネルと名乗った訳
- 絡むは・・・隣人愛と殉教の地
- シュネルと米沢藩
- なんだか漂う藩士達彼らの家系
- シュネルと庄内藩の「本間家」
- 長岡藩の河井継之助には見えなかった
シュネルの側面
No.76:シュネルと、庄内藩の「本間家」
_本間光美&本間耕曹
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75_若松コロニーとは:概要と事象 |
1 | 若松コロニーとは
スタート▼ 1869(明治2)/6/9~ ラスト▼ 1871(明治4)半ば にて実質崩壊消滅 |
■ アメリカ、カリフォルニア州:エルドラド郡コロマ村にかつて存在した。 (現在も、日系二世達の助力から宅地造成に侵されることなく、保護区画として 過去の面影残す。) ■明治元年(1868)、戊辰戦争で惨敗の会津。翌年明治2年(1869)、
ジョン・ヘンリー・シュネル率いるグループが、活路をカリフォルニアに。 幾つかの小グループに分断されて、順次駆けつけた。 メンバーは、極少人数の 侍と大工、農民技術者。そして、『Gold Hill』にて、桑、お茶、なたね、 けやき等栽培。メイン予定は桑による養蚕、即ち絹だった。 |
2 | 場所 | カリフォルニア州、エルドラド郡ゴールドヒル。 |
3 | 主な関連人物 ・細かくはもっと多有
以下の各枠ご参照
| ■ジョン・ヘンリー・シュネル:コロニーの主であり、主催者。 ■『Jou』=上記シュネルの妻(日本人。会津藩士の娘と言われる)
・女性名前の『Jou』の漢字不明=譲?丞?襄?丈?・・・。国勢調査を調べて みましたが・確かに『Jou』とある。yがjに見えることもあるが、この場合は、
やはり「J」に見えました。 ■子1:フランシス:到着年に於いて2歳とされる女子。 ■子2:メアリー:到着年の国勢調査の7月、生後2ヶ月とされている女子。
・アメリカで生まれた子。 ■おけい,■桜井松之助,■増水国之助
■フランシス・ビアカンプ (当時の人、コロニーの皆を救った隣人1代目。フランクとも呼ばれる)
■ヘンリー・ビアカンプ(二代目跡継。桜井はこの人物にも仕える。) ■ルイ・ビアカンプ(二代目。一代目の子のうち末っ子。ヘンリーの末弟) ■マルコム・ビアカンプ(父親のルイ発言記憶から、先祖より伝わる若松コロニーに 係る稀少な情報を現代に提供してくれた人物:現代の人:但し1989年に故人となる。) |
4 | 超略経緯
全体の経緯は シリーズTOPから どうぞ。 |
- 1869年6月9日(明治2年)。:若松コロニー発足。農場経営開始。
- しかし干ばつ。水不足。金欠。早くも経営に支障。
- 金策の為、皆を置いて再度日本へ向ったシュネルは絶望の様子。殺害説浮上。
- シュネルが返済中の農場地の借金残金の返済に皆、貧困の極み。窮する。
留守番の皆は、財宝を売り払い凌ぐも限界。コロニーは倒産。皆の離散。 残るは、■おけい、■桜井松之助、■増水国之助 - 隣人ビアカンプが皆を救済。シュネルが返済中の農場地の借金を、彼が
肩代わり買い取る。残された上記3名、もしくは当初もう少し残っていた者 もあったかもしれないが、まずは、彼らを従業員として雇い救済。 おけいは養女となる。 - 増水国之助も去る。
- おけい(女性)は病に倒れ死亡。僅か19歳。
- 唯一残った桜井松之助は天涯、ビアカンプ家2代に報恩。従業員として
生涯を終える。 |
5 | 土地購買元
チャールズM. Graner |
■チャールズM. Granerから、シュネルが1869年(明治2年)6月に購入 。
当初、160エーカー(640 約60反)。200エーカーに拡張更新。 しかし、金策の為日本に行ったきり絶望となったシュネル。残金が残っていた。 隣家のビアカンプが買い取る。実質、居残りメンバーの救出。 |
6 | 短命に終わった
若松コロニーの 痛々しい遺品 | ■松平御紋の藩旗、■「松平の名刀」 貧苦の限界、冬寒さに震え、飢えて・・。彼らは全ての財宝を売りつくして、 それでも守り通したのは、上記二つ。今尚保存されている。
(これは泣ける。武士にとっての藩旗とは) |
7 | 到着経緯 | ■日本を去った期日が明確でないが、大体1869(明治2)年4月とされる。 発した港は越後(関連:Sec.3)
■1869年5月27日にサンフランシスコの港到着。 ■その後、川船で、彼らの農場予定地(若松コロニー)の所在地まで移動。
■6月9日、エルドラド郡ゴールドヒル、サクラメントに到着。若松コロニーとして発足。 |
8 | なぜ外国人のシュネル が率いているか? | 武器商人のシュネルにとって、会津藩主_松平容保はお得意さん。容保は彼を
深く信用して、和名、平松武兵衛の名を与え、日本人の妻を彼に娶らせた。 (会津藩士の娘といわれるが、誰の娘かは不明)シュネルは藩士達に砲術指導も 行った。会津の軍事顧問。米沢藩軍事顧問兼務。 |
9 |
会津藩に於ける シュネル
和名 平松武兵衛としての 活躍と関連情報
会津藩家老梶原平馬
| 弟の登場が先 ■会津藩にシュネルが登場するのは、本人=ジョン・ヘンリー・シュネルの前に、 弟のエドワルド(エドワード)が先とされる。
■会津藩は、下枠「長岡藩の河井継之助」の紹介で、エドワルドから銃を購入。 ◇この時の担当藩士:会津藩家老梶原平馬 ◇購入品概略:銃780挺、弾薬(約2万ドル前後と言われる) ■兄・ヘンリー(若松コロニーのTOP=現在SERIESの主人公)は弟の紹介で 登場したことになる。 |
10 |
若松コロニーの 気になる期間 | ■上記のとおり、 スタート:1869(明治2)/6/9~。ラスト:1871(明治4)半ば にて実質崩壊
■崩壊は1871(明治4)、おけいの死亡も同年。ビアカンプの買取も同年とされる。 ■しかし、突き詰めると少々気になる点はある。シュネルが金策の為、再度日本へ 行った時、留守番の皆は、財宝を売って冬を飢えと闘いながら耐え忍んだ表現も。
- ■冬が来て、雪と寒さ。復帰を待っている間に食料を買うために私たちの
所持品の大半を売却した。 ■もはや復帰は絶望状態と悟った時、メンバーは離れて漂流し始めた。
上記からすると、シュネル無し状態で、もう少し長く皆粘ったとも考えられるが、 詳細不明。また、増水国之助の長男をおけいさんが見たらしい話から、増水の脱出が、
前年なのか、おけいさんの死が、本当はもう一年位後なのか、そのへんは、 多少ミステリー。 いずれにせよ、誤差は数ヶ月程度であり、コロニー=短命には変わりない。 |
11 |
運営費用の見込み について | ■日本の絹は上質。桑を栽培して養蚕を行う予定だった。売れる。日本茶も世界で、 かなり人気だが贅沢品。ローコストなればシェア独占も可能。シュネルの手腕
なれば売れる見込み。 【しかし、その前に融資または助成金のルートがあったはず!】 ■キーマンは謎のまま今日に至るが、日本国内になんらかのパイプラインは
当初存在していた。 |
12 | 運営行き詰まり 原因 | 日本からの資金ルートが途絶えたとされる。キーマン不明。
廃藩置県、会津藩士達の斗南藩移住など、日本を出国する段階で予測しきれ なかった事象発生。会津藩による影のバックアップキーマンも、融資可能の財力を 持つ者も身動きできなくなった。
この段階で早々に連絡ルートが遮断されてしまった確立は高い。(下枠参照) |
13 | キーマンは誰だ?
この中で、知って目を
瞑ったのは誰だ?
この段階で 何が起きた?考察
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■ 容保の心の変化、最大の原因は何か?■後継ぎ息子の『父』になった容保
松平容保の姿勢の変化は否定できない。滅んでも、失っても、己が果てても、 断固反骨の容保。ところが、萱野権兵衛の犠牲切腹(明治2/5/18)を成し遂げた 僅か2週間後、側室の佐久が、男児を産み落とした。赤ん坊の容大には家名存続が 許さた!明治2年(1869)6月3日、容大誕生。
行き先は流刑同然の斗南藩には違いないが、赤ん坊の容大には家名存続が許され、ベビー藩主様。 後継ぎ息子の父になった容保。養子の松平喜徳側は、この段階、容保同様、謹慎の身のまま 絶望だったが、なんと、この子には一応ながら「存続」が許された。
この時初に父になったわけではないにせよ、それまでは会津藩主の立場、松平の立場・・・
といった具合で、純然たる父の立場に目覚める暇がなかった容保。(会津戦争の頃、容保は、
妻を失っており、妾は居れど、純然たる妻が調度居ない立場だった。)
万事失って蹴落とされて、ふと父に。一人の男が、 父になった時、それと気付かず、翼は折れる。
どこかで読み知った言葉。 「父とは、即ち挫折と転落の瞬間。無様に陥って、
初に己に父を知る。」・・・とは、どっかで 読み知った西洋人の言葉ですが、なんだか、 ・・・この場合、無関係ではなさそうだ。
恭順派の家臣は、たちどころに慎重になるのは当然。
どっかでドミノがばたばた、連続倒れた!! ドミノ倒しの発端は誰だ!
そして連なる資金キーマンは誰だ。商人は誰だ!
- アメリカでは、松平容保が神主になって、国内在住希望になった為と言われる事があるよう
ですが、神主就任は明治13年。この段階では先の事。
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14 | 日本を出帆した港 | 新潟。戊辰時、シュネルのテリトリーが新潟の港。
新潟の山木商会が窓口&仲介係りの武器販売形跡有。しかし、官軍に接収された。
ついでに軍備施設と武器弾薬の貯蔵も全部奪われた。ところが、人間ネット網は 残っている。脱走予定のメンバーは、密かに民家に匿われて、出帆の日を迎える。 その為、出発した港は、正式な港でなく、奇岩に囲まれた秘密のスペースらしき。 (港に係るシュネル関連人手掛かり名▼:この時関与したかどうかは不明ながら) |
15 |
港に係るシュネル 関連人手掛かり名 | 【この時関与したかどうかは不明ながら、手掛かり情報】 庄内の酒田港近隣:秋田町の永田茶右エ(衛)門(船宿主)。文蔵、清次郎:
シュネルの配下。関連はこちらの頁 |
16 | 日本脱出時 匿った謎の民 | 最低でも2件有る。会津から越後に向ける山間部の家。もうひとつは上記、港へ 向う川船の発信地近辺の家。初期脱走グループは3つ。そのうち2つ目は詳細不明 ながら別地域と思われる。1と3は同一コース。2回に及んで保護して裏切らなかった。 シュネルから充分な礼金を渡されたことは推測できるが、時間差があるにも拘わらず、
転ばないのは、やはり契りの深さ。誰か不明。 |
17 | 乗船した船 | 中国船:シュネルが段取りした。 |
18 | 日本の変遷
アメリカの背景 | 世は在留日本人に対する「排斥」の波風。早期に見切りをつけて立ち去り、 自立に挑んだ者達の存命情報は今日に及んでもまるで皆無。 「排斥」の波風とは:黄色い移民の恐怖。中国人にも恐怖の惨殺事件発生。
後に日本の帝国主義批判で、名指しで日本が排斥され、恐ろしい強制収用時代 到来に繋がる。・・長くなるので、こちらの頁をどうぞ。 ■現在SERIES内: 黄色い移民の受難と差別の嵐、■別件SERIES:帝国主義日本が排斥される頃
労働と生活、写真花嫁、
移民排斥と戦時期の強制収容、リトルトーキョー、 明治から現在までの日系人の苦難 アメリカへの移住:逆境での苦闘
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19 | シュネルが消息不明 になったのはいつ? | ■日本へ向ったとされる期日は複数説があるが、まあまあ4~5月の様子。
◇説1_1871/05/19(明治に換算:明治4/04/01), ◇説2_1871年4月【明治に換算:明治4/2/12~3/11】 (説2は括弧内のとおり、明治和暦に換算すると、2~3月になるが、まあまあ約春。
金策の為、皆をコロニーに残し、再度日本へ向ったきり消息不明。 殺害説浮上。もう少し生きて動いた形跡はあるが、弟側なのか、曖昧情報なのか、
判然とせず、今日に至っても、謎らけ。(シュネルのミステリースポットの頁は 後日別途準備予定) |
20 | 若松コロニーの人数 | 当初24人位。後に単独で密航してきた侍も含め、計40名前後。しかし低迷後、
帰国した者有。他はアメリカ国内で、職を求め放浪離散。 |
21 | 農産実績と 予定された商品
実際農業フェアに 於いてシュネル登場
&アピール | ■絹&絹織物、■米、■菜種油、■米、■日本茶、■竹細工など工芸品 また、「けやき」の木を持ち込んだ理由は、良質建築材料:年月を経ても歪みが 少ない。
これは木材販売を狙ったのではなく、藩主を呼んだ後には、この地に城郭建造に匹敵する大建造の可能性に対して、事前に対処していたためと想定される。
■他に、果樹の苗木 (具体的に何の果物か定かでないですが。推測では葡萄:理由はこちら) ■農業フェア参加実績 ・1869年カリフォルニア州立農業フェア。サンフランシスコ部門から、 絹の繭、日本の茶葉、菜種油の植物を展示。 ■実際、持ち込まれた植物情報:
◇桑の幼木:約5万本と言われる。(これは生後3年目の幼木) ◇けやきの木(現在の現地に数本残る。) ◇お茶は種子で持ち込まれたが、初年度、栽培開始したのは、約600万と言われる。
(サンフランシスコアルタデイリーニュースにそれらの情報が掲載され注目された。 |
22 | メンバーの誰かの 手記に基づくと 考えられる日本特有 古語と発想
登場した古典分野 | 日本語と古語 ・日本人でさえ、現代人なら調べないとピンとこない古典的表現があることから、
明らかに、誰かの手記の断片が残っていた様子と推測できる。以下はその単語例。 リンク先には、古語の解説も入れました。
■TAKENOUCHI_350: 或る日、マツが私に言った。竹之内のように350年生きれるんだぞ。
・これは、病に侵され、弱気のおけいさんに、MATSU(多分、桜井松之助)が 励ました。人は努力しだい、心の持ちようで、いくらでも頑張れるんだぞ!の意味。 ■MIMIRAKU:美彌良久
・これは、日本から脱走して太平洋航海中、荒れ狂う海、遭難を恐れ脅えている様子。 その表現内に登場する言語。不吉な幻の島。一種迷信と幻影。
■他にも ◇oyamatsumi:天狗とか、妖怪とか、物の怪とか広範囲の意味なれば。 ・真っ暗な山道を逃亡する時、不気味で恐ろしかったことと、道に迷いそうな 不安感表現時。
◇AJIROGURUMA:網代車、本来なら牛車だが、この場合は運搬車用に用いた手押し 車的もの。
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23 | 若松コロニーについて、 発見、保護、紹介、 研究等活躍した人物
全米が若松コロニーに 着目した発端
| ■John E. Van Sant:日系人について、及び若松コロニーについて他、著書有=研究家。
- 生産された植物の事、当時の新聞に記載されたこと、松平容保について簡単にアメリカ
の人に解るように紹介したり。
- 侵略に来た日本人でなく、敗れて逃げて来た人々だった事の概ね紹介。
- 当時の新聞に掲載された事柄の内、少々異種の事柄として、シュネル婦人の美しさが、
絶賛されていたことも紹介している。
■下院議員のドリス松井(日系):若松コロニーの保護の必要性を訴え、実際保護活動に貢献 ■竹田文治郎(竹田雪城):1915(大正4)年段階でカリフォルニア在住の記者
- おけいの墓発見の上、世に紹介した人物(この段階で、ビアカンプ家のご子孫を除く
他アメリカの人にとって、かつて若松コロニーが存在した事を知る者は殆ど皆無。 - おけいの墓を紹介=若松コロニーの真相を訴え、人種差別の嵐を浴びた在米日本人
達に対する皆の認識を大幅に変えた。人々は涙した。
■国司為太郎(漢字曖昧):上記1915(大正4)年段階で既に在米の実業家。 ・上記の竹田氏に、日本人女性の墓がある話を語り、その発端を提供した人物。ビアカンプ家に、その墓がある事を聞き知っていた人物。
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24 | アメリカで、 彼らの集団に関して 全米初といわれてる 事柄 | ■米国初の「日本人初の植民地」 、■茶葉(1年目か2年目か不明ながらごく少量生産実績
■米国初、アメリカ生まれの日系人=シュネルの2番目の子(到着早々生まれている)- これも正式に国勢調査に記載された事柄としての初。1613年11月:支倉常長使節の
サンフランシスコ到着の際、日本の不穏な動きに動揺して、支倉に追従せず、そこで
リタイアした者は居る。彼らが無意識に!どこかで種を落とさなかった保証はない。 その後の彼らに係る記録は無い。潜み紛れたのか、密かに帰国したのか、死んだのか? ■米国初、米国の土に眠る日本女性=おけいさん
(男性はもっと昔に既にある。この頃の直近としては、万延元年遣米使節のポーハタン号随伴船
咸臨丸の犠牲水夫達)- 【しかしながら悲しい裏話】
年月日も氏名も墓も不明ながら、もっと早い時期に、実は、騙されて連れ込まれた
日本の娘は居たようだ。詳細不明ながら、中国人ブローカーにひっかかって、 売春宿に放り込まれた日本とモンゴル系の女性が居たらしい。
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25 |
ちなみに、この頃 在米の日本人は どれ位居たか? | ■この1870年国勢調査:全米で日本人55人(ハワイとアラスカ除外)。
33人はカリフォルニア州エルドラド郡。残り22人がコロニー。- El Doradとは&ついでに参考&類似:
◇エルドランド:伝説のアンデスの地、◇ElDoradはブラジルのサンパウロ州 ◇カリフォルニア州にもEl Dorad郡有
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情報が若干残るメンバーについてはこちら |
・メンバー | ■桜井松之助、増水国之助、伊藤(または伊東)おけい ■他メンバー、■手記らしきモノの断片を残した人物として推測される人物 |
26_なぜシュネルはそんなに頑張ったか? |
26 | なぜ、シュネルが そんなに熱心か? ミステリー 【私的考察】 | ■松平容保は確かに、シュネルにとってのお得意さん。奥州列藩のおかげで彼はどんだけ 稼いだことでしょう。巨額の富。それは銃の収益。会津の軍事顧問となり、藩主に和名、 平松武兵衛も、屋敷も貰った身分。妻との縁結びも同様。
しかしながら、この並ならぬ壮大な計画は何に由来するだろう。利益の為になれば、 わざわざここまでマイナス要因ばっかり背負うわけはない。
■彼のカトリック思想と、奥州潜伏の昔の切支丹思想保持者との関連性も感じています。
その訳は、当SERIES:Sec.1から順次お読み頂けますと解ります。また、これ程大掛かりな計画に
於いて、新政府に垂れ込みに転がる者を排出せずに無事実行できたのは、いわゆる政治的主義や 思想だけの集団ではとても難しい。 誰一人口を割らなかったのは、宗教の力がなければ恐らく無理な話。勇猛果敢な侍集団ではなく、
弱い民が殆どのチーム。それでも誰も「転ばない!」となれば、根底を支えるものは宗教確率高い。 利害でもなく欲でもなく、それでも崩れない脅威の力とは、驚くが、「宗教の力」であること多い。 拷問に耐えて、殉教していった者達の世界に似た力がなければ、この時代「垂れ込み」はつきもの。 宗教アレルギーを起こして避けていると、拾い込みを落とす事に気付きました。
歴史のなんでかな?不思議だな?解らんな・・・の多くに宗教絡んでいる事多いです。
■サクラメントのプロシア人達の発端に於いても信心深いキリスト教が強く関係。また、シュネルも 救済者、隣家のビアカンプ家も歴代クリスチャンネームがついているだけではなく、行動を見る
限り、やはり影響していると考えられます。 ■ 或る日突然、シュネルが自分で勝手に名乗った名前は、「アカバネ(akabane)・Schnell」。 まさに爆裂した彼の騎士道。正義感。不義への戦い。
アカバネ(akabane)の名が、彼の熱い決意を万事物語る。 |
27 | アカバネ・シュネル と名乗った訳 |
アカバネとキリスト教:詳しくはこちらをどうぞ。 赤い羽根イコール勇気と正義の象徴です。 アカバネ(akabane)とは、『赤い羽根(Red Feather):真の騎士道精神を持った者』
シュネルの真の姿とは、けっして「死の商人(=マーチャンダイジング)」なんかじゃない。
日本人の発想サイクルについて、多くは古来の仏教や神教だから、「キリスト教と赤い羽」 の関連性がピンとこないけれど、これは、赤い羽根イコール勇気と正義の象徴です。
- 【注】:シュネルは日本語が達者ですが、赤羽という文字を、日本的慣習なれば、アカハネと
発音するより、バネと濁音になる率が高いが、そこまで把握していたかどうかは不明の為、 本人は、おそらく、アカバネでなく、アカハネと発音していたと思います。
当サイトでは、そのへんは、とりあえず、アカバネで統一して書いています。
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28 | 隣人愛と殉教の地
下側本は ズバリ会津戦争では ありません。
なんで殉教の地だの 宗教だの?とピンと 来ない時、だいぶ 時代を遡って考察用 |
シュネルの行動の根本は、恐らく「敬謙なるキリスト教」魂。 不義への戦いを挑んだのだろう。米沢、酒田、会津はずっとその昔、殉教の地。 当時カトリックでは、張本人の日本人よりも、それらの史実をよく把握している。
シュネルは確かにお金儲けが上手だが、一時の加担に留まらず、自ら若松コロニー案に
及ぶ迄命を架けた。その行動原点は「信仰心」と見る。信者の末裔を守り、攘夷を謳う官軍に立ち向う。- 明治早々、浦上四番崩れの民&津和野の大迫害事件
これ、日本国内全体としては、徳川か官軍かの真っ最中で、一部を除き、国民の多くに とって認識は二の次状態。その為、日本人にとっては案外盲点なんですが、当時の カトリックの人にとっては、遠く海の向こう側でさえ、大爆発、大激怒の事件です。
東軍加担だけなれば国益に漕ぎ着け私利へ繋ぐも考えられるが、しかし、コロニー旨は国益に 結びつくモノは無い。勘ぐって理屈つければいくらでもあるが、まずは無関係。となると、やはり信仰心。
(▼括弧内は私的見解でなくて事実) (金銭面に困窮した会津、庄内両藩は当時、北海道に分割領地有。プロシアに売却打診。)
その為、シュネルはこの場合「プロシア」の顔で動き、半信半疑の目で見る幕軍の者(末端 藩士)には、めんどうだから安心させる為にフランス人だと語り、実は内心、プロシアの 為でなく、それに乗じて、心は「信仰心」
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29 | シュネルと米沢藩 | 米沢藩士との関わりは横浜に居た頃の極めて初期。シュネルは十代半ばの少年時代。
維新前後の外交問題(米沢藩の武器購入問題と平松武兵衛(=これ、シュネルの和名) シュネルは会津の軍事顧問。米沢藩軍事顧問兼務。
_ 米沢藩だけに限らずいい内容一杯本。 左)横浜居留地の外国人達一杯。 右)幕末の旗本家の実態。 代官のこと。維新前後の外交問題。
維新と旧幕臣。他。プロイセン公使 フォン・ブラントのことも。
【米沢藩に於けるシュネルとの接点明確な人物例】
■色部久長(=長門:受領名が長門守;米沢藩家老)、■甘粕継成 北越戦争の際、活躍した彼らは、シュネル(弟エドワード)から砲を買い入れ、砲術を学び、
軍指導を依頼しているわけですが、接点は古く、横浜時代の少年時代のシュネルです。 |
米沢藩参謀、甘粕継成の日記 ■シュネルは横浜着いて間もない頃、15歳位。 ■この頃、外国人居留地は、まだ数十人。条約提携が遅れてる国があったから。
その外国人相手に牛乳を搾って売る少年だった。
■平松武兵衛(シュネルの和名)、年の頃、三十歳前後、眉目清秀、日本製の羽織襠高を着、
会老侯の松平容保より賜りし小脇差を、帯し来たる。実に一個の美男子なり
米沢藩のその昔、殉教者と、甘粕継成
尚、甘粕継成は、完全に「隠れ切支丹家」の血をひいています。信仰していたとか、行動していたとかは、 別としても、この家は、まさに、江戸時代初期の殉教犠牲家系。
切支丹として死んだ昔の親族=甘粕右衛門信綱(甘糟景継【1550~1611年】の次男)- 【甘粕右衛門信綱(洗礼名ルイス)】:殉教の日:寛永5年12月18日(1629/1/12)
処刑に際し、上杉家重臣及び、当主上杉定勝が改宗を勧めたが、本人は拒み、家族と共に斬首された。 米沢北山原での殉教犠牲者の一人。
- 尚、米沢藩については、江戸時代初期、猛烈に切支丹の悲劇に関与してしまった藩。
詳しくは、後日、別途専用小特集準備します。
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30 | なんだか漂う藩士達 彼らの家系 | この項目に関しては、裏づけ資料として書けるほど資料キャッチできない為、現在保留。
隠れ集まり隠れ切支丹行動をとるわけでなく、但し、先祖の影響で心に秘めると漂わす 人物は居る。ご子孫がそうだと言ってるわけじゃなし、墓も弔いも普通どおり。それでも臭う! |
31 | シュネルと庄内藩の 「本間家」 | まずは、現在頁のNo.76_シュネルと庄内藩の「本間家」へどうぞ。リンクナビ有り。
【酒田(庄内藩内)のキリシタン:江戸時代初期の布教と殉教痕跡】 1626年(寛永3)年6月、フランシスコ会のパァデレ・ディエゴ・サンフランシスコ管区長が、酒田に入港伝道。
信者数参考:鶴岡約50人、酒田に約30人いたらしい。 |
32 | キーワードは宗教!
▼ 長岡藩の河井継之助 には見えなかった側面
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歴史を騒がした 「ガトリング砲」は、 シュネルから買った! | 国柄&宗教観念上、シュネルの本音が見えず、内心警戒していた河井の様子
シュネルは初対面の長岡藩士(鬼頭正路)に対して、「河井継之助の知人」の たった一言で信用して多額のお金と武器を与えたことがある。大砲硝薬41丁、 後操銃:3000挺他、弾丸類を即座に手配して手渡してもらえた。張本人の鬼頭は
驚き、河井にその旨語った。その時、河井は語った。
大脈▼ 「シュネルという男、器なれば、他に類を見ぬ大器に他ならぬ。されど、油断するな。
狡猾な外国貿易商人なれば、その旨黙して、肝に念じておけ。」- 河井継之助の奮戦烈死に涙しない人は居ないと思う。しかしながら、
これだけは悲しい。河井一人に限らず、日本人の宗教観念では、
この命を懸けて戦いに挑んだ異国人の心は、きっと解り難かったことだろう。
(尚、左BOOKは河井継之助についておすすめ本。 しかし、上記シュネル発言の件は別件。
それは、さておき、かの有名な「ガトリング」は、このシュネルから、河井が購入している。 とんでもない金額。藩費の大半使い尽くして、このガトリング砲2挺を買った話は有名。 ガトリングは当時としては最先端。連続射撃。殺傷能力最高の砲。値段も天文学的。
他に、この時、元込め銃も購入。その数判然としないが、約2000挺。 (折角なのでガトリング頁)
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76_シュネルと、庄内藩の「本間家」 |
■本間光美と本間耕曹の関係=従兄弟、■両者共に若松コロニーのJhon Henry Schnellに関与 |
庄内の『本間家』:シュネルと『本間光美、本間耕曹』の結びつき考察略表
【6代目=本間光美と、彼の従兄弟=本間耕曹の2名にスポットしたPOINT表】 |
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【上記リンク先より、ご参照POINT】
- 本文頁(経緯)はこちらの頁【なぜ、本間家がキーマンの一人か?について解ります。】
■項14_米沢、庄内方面、奥州のアカバネ・シュネルの姿 _アカバネ・シュネルの隣人愛_牛乳事件(シュネルがくれた一杯の牛乳で命拾いした本間光美 ■項15_庄内藩の本間家と、アカバネ・シュネル(_本間耕曹シュネルから銃器弾薬買入。
■項16_その昔、奥州の殉教と、カトリック - 本間光美は庄内の大資産家。従兄弟の耕曹と共に、シュネルとの契りは深い。
ところが、庄内藩は最後に恭順。伴って彼もそれに準ずる。従って、当初の幕軍応援姿勢だったが、 身動きできなくなる。明治政府に大型献金して咎めを免れた身。シュネルが危険を冒して、 日本に金策の為再び上陸した際、他の多くの人物と同様、彼も昔どおりに動けない人の一人。
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Sec.1<・・・<Sec.8<Sec.9<Sec.10:各人物【資料編_No.2】(現在頁)<Sec.11・・ |
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