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冒険する事は無邪気で在るためのレッスンである
怒りだとか悲しみだとか、それは人としてあってしかるべきもの。 人が人であるために天が与えた必要不可欠のものだから、自分の 内なる部分にそれらの感情がある事を疾しく感じたり、恥ずかし く感じる事はないわけで、むしろそれらの感情(天分)をネガテ ィブなものだと定義付けたり、必要以上にエネルギーを注ぎ込ん でしまう事自体が問題なのだと私は考える。無防備でボーっとし て内(狭まれた空間)にいると、自動的に怒りや悲しみに視線が 集まって、そこにエネルギーを注ぎ込んでしまうのは、それだけ 僕らが子供の頃から教育だとかマスコミによって洗脳されている 証だ。怒りや悲しみに焦点を合わせるか、情熱や喜びに焦点を合 わせエネルギーを注ぎ込むか、常に僕らの立ち位置は中立で、選 択権は僕らが握っていてしかるべきなのに、それが自然本来のあり 方だったはずなのに・・。私が自然の中を冒険するのは、無邪気で あるためのレッスンなんだ。何かを覚えようとか吸収しようとして 自然の中を散策するわけではなく、内なる部分に溜め込んだ余計な もの(いらないもの)を捨てる(忘れる)ためにただひたすら冒険 してる。 http://cafe-echo.net/
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状況に応じてエネルギーを変えたり、操ったり
出来るのが癒しのプロで、それを自然(天為) は常に常にしているのだ。例えば人生で苦手な 人に出会ったら、相手の態度や言動は許す必要 がないとしても、あるいは何が適切で的確な ‘解放’の為の手段なのかすぐに的確な答えが 見いだせないにしても、それは魂のデトックス (溜めに溜めてきた感情の解放)という意味で は絶好の機会が与えられていると考えてみる事 は大切だ。結果として怒りだとか罪悪感だとか、 劣等感だとか、自分の成長にとって益の少ない 副産物がついてまわる悪しきサイクルを断ち切 る力が自分にはあるのだと気づかせてくれるの だとしたら、彼や彼女(苦手な相手)は悪魔の 顔した天使かも知れない。 占いの窓 恩太郎 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015.05.05 23:15:09
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