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ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

第一次世界大戦(37)~(50)

第一次世界大戦(37)

革命の発生

ウィルヘルム2世の退位問題は、支配階級の分裂を招きながらも、なお支配層内部の問題として扱われていました。

皇帝の退位がなければ、支配階級全体に敗戦の責任が及ぶと考えた資本家や議会指導部は、退位を公然と求め始めます。他方でユンカーや軍部は、古い帝政を維持することが、将来の復権に繋がると考えて、退位に反対したからです。問題はあくまで、ウィルヘルム2世個人の退位の是非であって、帝政の否定ではありませんでした。

この問題を一挙に大衆化し、帝政そのものを吹き飛ばしてしまったのが、水兵の反乱を契機に、一挙に全国化した国民の意志でした。

水兵の反乱は、10月28日にキール軍港で突然始まりました。休戦交渉を有利に進めようと考えた、海軍首脳部がイギリス海軍に対する最後の決戦を敢行する決意を固め、この日出航を命じたのです。

兵士達は休戦交渉中であることを、噂で知っていましたし、イギリス海軍との力の差を、今までの海戦の経験から、十分弁えていました。それゆえ、大勢を挽回することなど全く不可能な海戦のために、自分達の命を捨てるのは、あまりにも馬鹿馬鹿しい。将軍たちのメンツのために、自分達が犠牲になるのは、もうこりごりだと考えたのでした。

こうして水兵達は機関の火を消して、出航を拒否したのです。命令拒否の水兵600人が逮捕されましたが、仲間の水兵たちは逮捕者の釈放を要求して、将官たちと衝突、キール軍港は騒然たる状態になりました。この火を完全に消さない限り、もう出航どころではありません。日に日に情勢が険悪化する中、11月3日の日曜日には、兵士と労働者がスクラムを組んだ、大デモがキール市内を練り歩く騒ぎとなりました(その数は8万人とも10万人とも言われますが、定かではありません)。反乱は市民に拡大したのです。

陸軍が出動し、デモ隊に解散を命じたのですが、聞き入れられなかったため、発砲してしまい、婦人や子どもを含む死傷者を出したことが、デモ隊の怒りを爆発させました。水兵たちが応戦し、流血を引き起こした将校をその場で射殺してしまいました。

出航命令の拒否に、上官の射殺が加わったのですから、明確な軍に対する反逆です。軍の規律で言えば、参加者の死刑は間違いないところです。こうなっては、もう引き返す道はありません。反乱に勝利しない限り、残された道は死罪なのですから。

翌日4日、4万人の武装した兵士達がキールを支配し、全ての軍艦には赤旗が掲げられました。5日以降、反乱は、兵士や市民の連絡網を通じて、急速に北ドイツの港に広がり、西ドイツや東ドイツの大都市でも、労働者や兵士の評議会(レーテ、ロシア語のソヴィエトにあたります)が次々に結成され、都市における支配権を握っていきました。7日にはミュンヘンでも革命派が勝利し、労働者・兵士評議会が支配権を握りました。

この反乱の全国化の過程で、市当局も軍も革命運動にほとんど干渉しませんでした。というより出来なかったのです。兵士や部下が革命に同調的で、革命側に参加しているものも多く、鎮圧命令はただちに我が身の危険に繋がったからです。

こうして8日になりました。この時点で、軍部や皇帝の側に残されていたのは、大本営のあるスパーと首都のベルリンだけになっていました。

第一次世界大戦(38) 

ドイツ革命の進展…1、ベルリンの情勢

ドイツ革命の進展の中で、ロシアを除く、当時のヨーロッパで最大のマルクス主義政党であったドイツ社会民主党はどうしていたか。

当時の社会民主党は、選挙を通じ議会で多数を握ることで、社会主義者が権力を握ることが可能だと考える、当時「修正主義」者と呼ばれた穏健派が多数派を形勢していました。エーベルトやシャイデマンらのグループです。これに対して、ロシア流の社会革命を考える左派の革命派は党内では少数派でしたが、民衆の革命化の流れに乗って、急速に勢力を拡大しつつありました。左派の中心はリープクネヒトやローザ・ルクセンブルクらでした。

革命情勢の進展の中で、社会民主党多数派は、民主派や自由派と結んで、皇帝と皇太子を引退させて、皇帝の次男を即位させることで、帝政を救い、何とか社会革命を回避しようと考えていました。

休戦交渉中に革命が起きれば、敵に足元を見られて交渉に響くと考えたのです。そのためには、一刻も早い皇帝の退位が必要である。そうしないとベルリンに向けて押し寄せてきている、革命の大波を避けることが出来ない。こうも考えていました。

エーベルトと密かに会談した、ルーデンドルフの後任の参謀次長グレーナーは、エーベルトの主張を理解しましたが、誰が皇帝に退位を迫るかが問題でした。エーベルトらは、この上政府支持の態度を取り続ければ、民衆の支持を左派に奪われてしまいかねないと警戒し、政府に最後通告を突き付けました。

そこには、24時間内に皇帝が退位しなければ、我々も革命運動に加わると宣言したのです。情勢はここまで進展していました。宰相マックス公も、電話で何度も皇帝説得を試みましたが、情勢を理解しない皇帝は、頑なに説得を拒みました。

こうした情勢で、11月9日がやってきました。この日午前9時になっても、皇帝の退位は実現しませんでした。ここに社会民主党多数派も、革命の戦列に加わりました。閣僚になっていた社会民主党議員は、閣僚を辞任したのです。9日に行動を起こすことは、レーテ(評議会)が決めていましたので、傍観して左派に労働者や兵士の運動に対する主導権を、みすみす手渡すわけには、いかなかったのです。

午前9時、ベルリン全市でゼネストが始まりました。武装した労働者のデモ隊が、あちこちの工場から隊伍を組んで街頭に登場し、市の中心部に向います。市民もこれに合流し、市の中心部はデモ隊に埋め尽されます。

警官隊は全くの無力で、ただ事態を傍観し、革命鎮圧を期待して、集められた近衛連隊の兵士もまた、デモ隊に加わるか,中立を表明するかのどちらかであった。政府も鎮圧をあきらめ、流血の事態を避けるように命令を出し、昼までには、ベルリン全市が労働者と兵士の手に握られたのです。

社会民主党多数派の幹部は、正午に首相官邸にマックス公を訪ね、政権の引渡しを要求、マックスは全く異論を挟まずに、政権を譲り渡したのでした。
ここに、ドイツではじめて皇帝の任命によらない政府が誕生したのです。

しかし政権を握ったのは、革命派ではなく、議会の多数派である穏健派社会民主党でした。政権は議会主義者が握ったのでした。

第一次世界大戦(39) 

ドイツ革命の進展…2 スパーの大本営

ベルリンの革命が進展し、皇帝の任命した政権が、議会民主派の政府に交代した頃、スパーの大本営は何をしていたのか。

大本営も手をこまねいていたわけではありませんでした。何か手を打たなければならないことは理解していたのですが、軍部の発言権の後退の中で、皇帝側近達は、いたずらに昔の栄華にしがみ付き、打つべき手を見つけられずにいたのです。

11月9日午前、西部戦線の10個師団から、軍の実情に明るい連隊長級のメンバー39人が大本営に集められました。彼等は、「皇帝が軍の先頭に立って、ベルリンに進撃することで、革命を鎮圧することができるだろうか」と問われたのにに対し、38名もが否定的に答えたのです。肯定の答えを返したのはたった1名でした。最高司令部付きの幕僚将校達も、2名を除く全員が、軍は革命に対抗して皇帝のために戦うことは出来ないと回答し、新政府との交渉で君主制を救うことに全力をあげるべきだ、皇帝は犠牲となって退位すべきだと答えました。

ホーエンツォレルン王家の権威は、軍部の専横を許して、勝ち目のない戦争を続けて、国民や兵士の犠牲を放置してきた罪を問われて、国内においても前線においても、崩れ落ちてしまったのです。

10時に始まった御前会議の席では、情勢を理解しない皇帝側近の老臣達が、武力鎮圧の強硬論を頑なに主張しますが、これには内乱と流血の衝突を避けたい皇帝自身が反対の態度を取りました。

こうして議論が錯綜している時に、皇帝退位の要求はベルリンからやってきました。マックス公の電話が、ベルリンの情勢を報告し、皇帝がすぐに退位しない限り、君主制を維持することも不可能になるという、彼の判断を伝えてきたのです。

そこに前線指揮官達から聴取した情勢報告が齎され、軍に皇帝に対する忠誠心が完全に失われていることが告げられました。ことここに到って、皇帝もようやくドイツ皇帝の座を降りることを決断します。しかし、何と言う茶番でしょうか、ウィルヘルム2世は、老臣に知恵をつけられて、
「ドイツ皇帝としては退位するが、プロイセン国王の座には留まる」と宣言したのです。

彼は、プロイセン王として、プロイセンの軍隊と共に、ベルリンに帰還する積りだったのです。しかし、そんなことは不可能でした。

第一次世界大戦(40) 

ドイツ革命の進展…3 共和制の誕生(1)

スパーの大本営が小田原評定を繰り返している間も、ベルリンの革命情勢は時々刻々と動いていました。

ベルリンの街頭は、急進派=革命派の大群衆によって埋め尽くされているのです。内閣を引き継いだエーベルト、シャイデマンらの穏健派にとって、指導権を確保するには、革命派の先手をとって、街頭の群衆の支持を得ることがどうしても必要でした。それには民衆が納得する思いきった手が必要でした。

宰相の座をエーベルトに譲ったマックス公も帝政の維持に必死でした。マックス公は正午前に、「ドイツ皇帝としては退位する」という非公式の内意を聞くと、もはや猶予はならずと判断して、独断で「ウィルヘルム2世は、ドイツ皇帝及びプロイセン王の地位を放棄し、皇太子は皇位と王位の継承を断念した。摂政がおかれることになり、後任宰相にはエーベルトが推薦された…」というニュースを、ヴォルフの電信局から一斉に流したのです。

このニュースは正午過ぎには、ベルリン中に知れわたりました。大本営ではウィルヘルム2世がプロイセン王の資格で、軍を指揮しようとしていた時間に、ベルリンでは全く異なる既成事実が進行していたのです。しかし、マックスのこの決断も、既に遅きに失していたのです。

穏健派社会民主党は、民衆の支持を我が手に確保するための、思い切った手を打たなければならない状況にありました。その点で穏健派に躊躇いはありませんでした。それは、1年前に革命派によるソヴィエト革命に成功していたロシアの穏健派の敗北を分析した結果として、得た結論でした。ロシア=ソヴィエトで、多数派だった穏健派のメンシェヴィキが、何故に民衆の支持を失ったか。それは、民衆の最低限の要望すら満足させる事が出来なかったからだ。彼等はそれを知っていたのです。

第一次世界大戦(41) 

ドイツ革命の進展…4 共和制の誕生(2)

マックス公が独断で宣言した、皇帝の退位と皇太子の引退がベルリン中に知れ渡ってしばらくした、午後2時頃のことでした。穏健派社会民主党を支持する労働者や兵士の一団が、議事堂の食堂で想を練っていたシャイデマンの下へやってきました。

あちこち探しまわってようやく見つけた風情の彼等は、「革命派のリープクネヒトが、間もなく王宮のバルコニーから大演説をやるらしい」という情報を持ってきたのです。「革命派に先手を打たなくて良いのか」と言いた下名様子だったと、後年シャイデマンは回想しています。

言われるまでもなく、シャイデマンはすぐに立ちあがりました。弁の立つリープクネヒト(彼はドイツのトロツキーと呼ばれる演説の名手でした)に王宮のバルコニーから、ドイツ版ソヴィエト共和国の設立宣言でもやられたら
大変なことになる。こう考えたシャイデマンは、王宮に駆けつける時間を惜しんで、議会議事堂の図書閲覧室の窓から、眼下の大群衆に向って、次ぎの3点を盛り込んだ短い演説を行いました。

(1)全社会主義政党による労働者政府の樹立
(2)君主制の崩壊
(3)ドイツ共和国万歳!

鳴り止まぬ拍手と怒涛のような万歳の声が津波のようにシャイデマンに押し寄せました。彼の咄嗟の演説が、労働者や兵士の気分を見事に表現していたからです。穏健派社会民主党の会議を経て案を練ったとすると、おそらくこうはいきません。様々な意見を集めて1つにまとめる過程で、大衆の気分はどこかに置き忘れられることが多いからです。

私的なアジ演説が公式の見解を遥かに超えた影響力を発揮したのです。喜んだ民衆は、成果を伝えるべく王宮へのデモに移りました。シャイデマンは見事に革命派の機先を制したのです。

「全社会主義政党による労働者の政府」とは、当然穏健派(多数派)社会民主党と革命派(少数派の左派)社会民主党の連立政府を意味しますから、この提案に革命派も反対するわけにはいかなかったのです。

そして、中立的なブルジョワ諸政党との連立しか考えていなかった、エーベルトら穏健社会民主党内の右派勢力もまた、革命派を除外した連立政府では、事態の収拾が難しいことを認めざるをえなかったのです。

こうして、ベルリンでは夕方までに、シャイデマン演説の線で、事態は収拾に向ったのです。

スパーでは、午後2時過ぎ、マックス公の独断によって皇帝の意に反して、プロイセン王としても退位させられたことが伝わり、一同が仰天しているところへ、さらに追い討ちをかけて共和制が布告されたことが伝えられたのです。皇帝の役割はもはや何もなくなっていたのです。残された問題は、民主的共和制を維持できるか、それともロシアのようにプロレタリア独裁に移行するかどうかの、1点にかかっていたのです。

スパーにおいては、なお皇帝を大本営に留めておくべきか、それとも亡命すべきかが、最後の課題となったのでした。

第一次世界大戦(42) 

休戦の成立

革命で成立した新内閣にとっても、帝政が破綻し革命に動揺する参謀本部にとっても、もはや戦争の継続は、考えられない選択肢でした。

9日夕方、連合軍が伝えてきた苛酷な休戦条件を参謀本部は受諾するしかなく、11日ようやく休戦が実現しました。
(1)西武戦線の全兵力を、15日以内にドイツ国境内に撤収すること
(2)休戦後31日目までに、ライン右岸(東岸)10kmの線まで全軍を撤退   させ、西ドイツいったいを戦勝国に保障占領させること
と言った内容でした。

他方で、東部戦線では、ドイツ軍が急速に引き上げれば、そこにソヴィエト軍が入ってくるのが確実なので、戦勝国の体制が整うまで、しばらくの間、ドイツ軍が東欧諸地域の占領を続けることになっていたのです。

参謀本部次長グレーナーには、ドイツ軍部が解体することなく,従来の体制を維持し続けられるようにする、仕事が残っていました。

そこでグレーナーは、11月10日夕方、ベルリンの官邸に居る新首相エーベルトに電話し、秘密協定を申し入れたのです。
「軍隊は新政府を支持する。新政府は軍内部における秩序と軍規の厳守を支持する。また将校団は新政府がボリシェリズムと戦う事を求め、その戦いに際しては、,喜んで新政府の命令に従う」

エーベルトはグレーナーの提案を承認し、ここに新政府と軍部の同盟が成立したのです。ここにドイツ軍部とりわけプロイセン軍国主義は、新しい共和国の中に生き延びる道を見つけたのでした。

第一次世界大戦(43) 

大戦の終結

11月10日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世はオランダへ亡命しました。ドイツ代表団がパリ近郊のコンピエーニュの森で、休戦協定に署名したのはその翌日11日のことでした。

ここに1914年7月28日に始まった第一次世界大戦は4年3ヶ月余、1568日目にして、ようやく終りを迎えたのでした。

戦争は、史上初めて前線と後方を区別しない、徹底した相互破壊戦となったため、民間人の死者が異常に膨らむという悲惨な結果を齎しました。その傾向は、第二次世界大戦では、焼夷弾で都市を焼き尽す(東京・大阪など)という悪魔のような戦術を産み、さらに広島・長崎への原爆投下に帰結しました。昨今のイラクその他への攻撃はミサイルとナパーム弾による破壊へと、さらにエスカレートしていますが、こうした非人間的攻撃の原点が第一次世界大戦にあったことは、忘れてならないところです。

この戦争に、連合国側は4200万人の兵士を動員し、ドイツら同盟国側も2300万人を動員しています。双方合わせた戦死者は850万人、負傷並びに行方不明者は2100万人を超えるものと推計されています。ここには大戦末期に大流行したスペイン風邪(インフルエンザの一種)による死者は含まれておりません。

敗れたドイツを例にとると、人口およそ6000万人のドイツで、1100万人が兵士として動員され、死傷者は600万人を超えていたと推計されています。人口の10人に1人が傷つくか死亡するという、とんでもない被害があったのです。

この戦争が植民地民衆をも巻き込んでいたことも、忘れるわけにはいきません。インドから150万人、エジプトやアルジェリアなど北アフリカ地域からも100万人を超える若者が、兵士や労働力としてヨーロッパの戦場に狩り出され、その多くが若い命を落としていたのです。
戦争は終っても講和の問題が残されていました。

第一次世界大戦(44) 

14ヶ条の原則

第一次世界大戦の講和問題を考える時、そのベースとなったのは、米国大統領ウィルソンのいわゆる「14ヶ条の原則」でした。

ウィルソンは、17年4月の参戦にあたって、「米国は世界の平和と自由、民主主義のために戦うのであって、征服や領土獲得、さらには物質的利益を目指すものではない」との宣言を発表していました。

ところが、17年11月の革命で政権を握ったロシアのボリシェヴィキ政府は、英・仏両政府とロシアの帝政とが、戦後における領土の分配に関する秘密協定を結んでいたことを、暴露してしまいました。

こうして英・仏・米などの諸国は、戦争の目的や平和への原則を国民向けに発表せざるをえなくなったのです。ウィルソンの14ヶ条原則も、18年1月に世界と米国民に向けて、再度米国の戦争目的を述べ、それが宣戦布告の時期と少しも変わっていないことを表明した後で、14の具体的目標を掲げたものだったのです。

そこでは、私的契約を排除して、全てを公開の平和契約とすることが先ず宣言されていました。次いで、戦時・平時を問わない航海の自由(海洋自由の原則)、通商における障壁の除去が提示されていました。

さらに、各国が安全確保に必要な最低限まで、軍備を縮小すること、植民地問題を解決する事が提示されていました。しかし、同時に「主権の問題を解決するにあたっては、関係各国住民の利害が同じ比重を持つべきである」とも指摘されていました。ここに植民地宗主国の既得権にも、一定の考慮が払われることになったのです。民族自決の原則は、ボリシェヴィキの提案のように、全面的に掲げられたわけではなかったのです。

14ヶ条は、これらの一般的な原則の後に、さらに戦場となった諸地域に関する具体的な提案を含んでいました。諸勢力のロシア固有の領土からの撤退、ベルギーの主権回復、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還、イタリア・オーストリア間の国境問題の解決などが掲げられていました。

またオーストリア=ハンガリー二重帝国内の諸民族の自立、ルーマニア・セルビア・モンテネグロなどの諸問題の解決、オスマン帝国(トルコ)の主権確保、ポーランドの国家としての独立なども主張していました。

いずれもアメリカ合衆国に直接関わる問題ではないにも関わらず、戦争の終結のためには、是非とも解決しなければならない問題でした。そして14ヶ条の最後に記されていたのが、諸国家間の連合の問題、国際的平和機関の設立構想だったのです。そこにはアメリカ合衆国が世界平和の主役を担おうという意欲と意志が示されていたのです。
しかし、事は順調には運びませんでした。

第一次世界大戦(45) 

3人の政治家…その1

14ヶ条原則を引っさげたアメリカ合衆国大統領ウィルソンは、12月14日パリに到着しました。パリ講和会議は翌19年1月に、戦勝27ヶ国によって開始されました。ドイツなどの敗戦国は招かれませんでした。先ずは戦勝国側の意見を合致させることが優先されたのです。

また戦勝27ヶ国の会議と言っても、米・英・仏・伊・日の5ヶ国が重要事項を決定する最高会議のメンバーとなっていて、他の国々は、自国の関係する問題の会議に参加するだけでした。またイタリアと日本も、直接利害の関わる問題以外には関心を示さず、ほとんど発言もしませんでした。

こういうわけで、パリ講和会議は実質的に米・英・仏三国によって、実質的に進められたのです。

フランス首相クレマンソーは、1870年の普仏戦争期に、既に急進派に属した若手政治家であり、1871年のヴェルサイユ講和条約の審議に際しては、アルザス・ロレーヌのドイツへの割譲に抗議して、反対票を投じた経歴の持ち主でした。彼と同時代を共有する政治家はほとんどが鬼籍に入り、彼は71年の屈辱を知る唯一の生き残りでした。その老虎クレマンソーが、国家存亡の危機に際して、挙国一致内閣を率いる重責を担い、そして今講和会議のフランス全権として、ウィルソンに対峙したのです。

イギリスの首相ロイド・ジョージも挙国一致内閣の首相として、大戦後期のイギリスを指導した人物でした。彼はアジテーション能力の高い、民衆の支持を基盤とした政治家でした。27才で下院に議席を占めたロイド・ジョージは、この時55才、ボーア戦争に大反対した議会演説で、あやうく議会から追放されかけた経歴を持つ彼も、今や壮年の政治家として、現実との折り合いのつけ方に長け、クレマンソーとは別の視点を持ちながらもイギリスの利益を主張すべく、ウィルソンを待ちうけていたのです。

第一次世界大戦(46) 

3人の政治家…その2

アメリカ合衆国大統領のウィルソンは、政治学者出身の学究で、プリンストン大学の総長から、1910年に政界に転じ、民主党の支持を得てニュージャージー州知事となった清新な人物でした。

選挙戦の最中、銀行家との会合で「銀行業は道徳的基礎の上に築かれるべきであり、利潤の法則以上に、崇高な法則のあることを理解してほしい」と述べた逸話で知られる理想家肌の人物でした。

当時の米国内では、反独占の空気が強く、国民の間では政治的にも経済的にも改革への期待が高まり、冨と収入の不公正な分配を正さない政治に対する改革,改善要求が強まっていました。いわば革新主義の空気の強い時期でした。

その空気を敏感に察知した民主党は、1911年の大統領選の候補者として、政治経験のほとんどないウィルソンこそ、その理想家肌の弁舌と、清新な印象から、革新主義の風潮が強まる中での最良の大統領候補と判断して、彼を候補者として推薦したのです。

この作戦は大成功を収め、当時の48州のうち、ウィルソンは40州で勝利する圧勝で、大統領に当選、1912年に大統領に就任したのです。就任早々ウィルソンは、平均40%だった関税率を26%に引き下げました。消費者の犠牲によって、重要産業に高い利潤を保障しようという大資本の論理に、彼は妥協しなかったのです。米国ではじめて所得税に累進課税を適用したのも、ウィルソンでした。いまや多くの日本人が知っている連邦準備制度(その理事会がFRBと呼ばれます)を確立したのもウィルソンでした。

当然、就任当初のウィルソンと大資本の仲は、かなり険悪なものでした。この両者の関係を改善したのが、ヨーロッパに発生した大戦争だったのです。理想家肌のウィルソンは、当然戦争に反対し、世論の支持も得て中立政策をとります。戦時経済に傾くヨーロッパ諸国への日用物資の輸出、次いでドイツの商船攻撃への反発としての英・仏側への傾斜と借款の提供、やがての参戦と大資本との関係も改善し、大資本もまた消費需要の拡大による国内市場の拡大を受け入れるようになり、革新主義は一定の成果をあげたのでした。

こうした成果をバックにパリ講和会議で、フランスのクレマンソー、イギリスのロイド・ジョージという2人のヴェテラン政治家の前に立ったウィルソンですが、政治経験や外交術という点では,大きなハンディを負っていたのです。

第一次世界大戦(47) 

3人の政治家…その3

フランス首相クレマンソーは、急進的左派の出身でした。普仏戦争後、アルザス・ロレーヌの割譲に反対して、講和条約に反対票を投じ、パリ・コミューンとヴェルサイユ議会との仲裁に動き、その後は流刑となったコミューン戦士の特赦に奔走した経歴の持ち主でした。

クレマンソーが政界で大きな地歩を築いたのは、対独復讐をバネに軍事クーデタを計画したブーランジェ一派との果敢な戦いと、国家主義的反動の犠牲とされようとしていたドレフュスの弁護を通じてでした。2つの事件に共通するものは、共に19世紀末のフランスにおける、軍国主義に対する激しい敵愾心でした。ここにクレマンソーの真骨頂がありました。

クレマンソーは国内の右派との戦いに情熱を燃やしてきた政治家でしたが、その彼も、外敵のために祖国フランスに危機が迫っていたがゆえに、右派をも巻き込んだ挙国一致内閣の首相を引き受け、右派の将軍たちとも手を組んだのでした。

講和会議の席においても、クレマンソーの最大の関心事は、将来における自国フランスの安全確保であり、ドイツとの力のバランスをどうとるかでした。そこにウィルソン的理想主義が入り込む余地はなかったのです。問題はドイツの脅威からフランスの安全を守ることに尽きていました。

ロイド・ジョージもまたイギリス政界の革命児でした。大戦勃発前に蔵相を務めた彼は、ドイツの軍拡に対抗するため、軍事予算を組まざるをえなくなった時、上院の強い反対を抑えて、富裕階級に限定した増税案を可決,成立させることに成功したのです。そこには、アイルランドの自治を約束して、アイルランド国民党(後のシン・フェイン党)の協力を取り付けたり、社会政策の継続による、労働者階級の支持を得たりといった、彼独特の政治的判断が働いていました。

当然、2人の政治家にとって、夫々寒暖の差はあったのですが、ウィルソンの14ヶ条提案は、到底そのまま認めることの出来るものではなかったのです。

第一次世界大戦(48) 

講和会議とロシア

ドイツが休戦を申し入れ、事実上降伏を受け入れたことで、第一次世界大戦は終了しました。しかし、戦闘は間もなく再開されていました。

パリで戦勝諸国が講和条件を話し合っている最中にも、ロシアの革命政権に対する干渉戦争が行われていたのです。

講和会議では,その冒頭ロシア問題が討議されていました。ロシアの革命政府は1918年末に、ブレスト・リトフスクの講和を破棄して、連合国との講和を改めて提案していたのです。そしてパリ講和会議には、旧ロシアを継承する正統政府として、代表を送る権利があると表明していたのです。

連合国は、こうしたロシアの革命政府の提案を黙殺した上に、新たに軍隊を派遣して革命に対する干渉戦争をしかけ、経済封鎖の続行を決めていたのです。なおロシア国内に残っていた反革命派グループは、代表をパリに送って、自分たちを正統政府と認めること、ソヴィエト政権をボイコットすることの2点を働きかけていました。

講和会議の内部でも、対露方針に関する意見は割れていました。武力干渉や経済封鎖は、かえってロシア国民をボルシェヴィズム支持に結びつけてしまって逆効果であると、ロイド・ジョージらは主張したのです。そこから、ロシア各派の代表を一同に集めて、内戦終結のための円卓会議を開く構想が産まれました。しかし、反革命派が拒否したため、この会議は実現しませんでした。

3月に入ると、ボリシェヴィキの社会主義政府を抹殺したい欲求を持つ、各国政府の支援を受けた反革命派の攻勢が強まり、干渉戦争も積極化します。しかし、4年余の戦争に疲れ、ひたすら平和を望んでいたのは、ドイツやロシアの兵士ばかりではありませんでした。

4月には黒海に遠征中のフランス艦隊で反乱が起き、連合軍はオデッサからの撤退を余儀なくされました。北部ロシアでも英・米連合軍の兵士の反乱が起き、駐留の継続は連合軍兵士をボルシェヴィキ化させかねない危険を持つことが明らかになったのです。

こうした兵士や世論の出兵反対の声が、干渉戦争の継続を困難にしました。こうして講和会議は、「連合軍のロシアからの撤退と、ロシア国内の白衛軍(反革命軍)へのあらゆる援助の継続」を決議するに到るのです。

連合軍のほとんどは、こうして20年夏までにロシアから撤退したのですが、1人日本のみは、約7万の兵力を22年6月までシベリア駐留を続けたのです。この一方で、反革命勢力に対する軍事的・経済的支援は続けられ、アメリカからは1億ドルを超える借款が、イギリスからも5千万ポンドを超える借款が提供されたのです。

講和会議のこのような方向から、やがて登場するヴェルサイユ体制が、反社会主義に基礎を置く、ロシア(後のソ連)社会主義の封じ込めを狙った大成となることは、予測できることでした。

第一次世界大戦(49) 

ヴェルサイユ条約へ

パリの講和会議は間断なく続けられましたが、成案が出来、有無を言わせずドイツに連合国案を押しつけ、そのまま認めさせたのは、6月下旬のことでした。

講和会議で意識された無併合・無償金の講和原則は、その姿を留めることは出来ませんでした。

フランスの安全確保を最大の目標としていたクレマンソーは、アルザス・ロレーヌの返還はもとより、ライン川を独仏間の自然国境とするための、ライン左岸(西岸)の英・仏による15年間の占領を認めさせ、さらにザールの炭田地帯の同じく15年に及ぶ国際管理も認めさせたのです。

ライン右岸(東方)も、その50キロメートルの地点までを非武装地帯とすることも決まったのです。また東方では、ダンツィヒは国際連盟管理下の自由都市となり、再興なったポーランドが外交権と関税徴収権を持つことになったのです。

ドイツ領植民地は、そのアフリカ植民地は英・仏が、南洋の島嶼は日・英が、そして中国山東省は日本が、委任統治を行うことになったのです。

こうしてドイツは、ヨーロッパにおいて、ザールという重要工業地帯を含む領土の6分の1を割譲し、植民地と国外の権益の一切を失う事になったのです。

さらに、ドイツの戦闘能力は大幅に制限されることになり、徴兵制は禁止され、陸軍兵力は10万人までとすること、性能の高い最新兵器の保有禁止、空軍保持の禁止,海軍兵力は1,5万人まで、艦船の保有は10,8万トン、潜水艦保有の禁止などとされたのでした。

第一次世界大戦(50) 

ヴェルサイユ条約へ…その2

講和条約における領土問題では、フランスの強硬姿勢が際立っていました。それはドイツに対するフランスの怯えと裏腹の関係にありました。

クレマンソーを初めとするフランス代表団は、仏・独の緩衝地帯としての中立国の役割に期待できないこと、ベルギーやルクセンブルグの存在が、第一次大戦では全く役に立たなかった現実から出発していたからです。

彼等はフランスが、ドイツと戦える物的・人的な軍備を備えた国家になることが必要であると主張したのです。ドイツ領をライン右岸に限定しても、なおドイツの人口は6千万人となるのに、ライン左岸を加えても、フランス、ベルギー、ルクセンブルグの人口は5,5千万人にしかならないので、なおドイツが優位であると指摘して、ライン左岸のドイツからの引き離し、さらにライン右岸50キロにわたる非武装地帯化を要求したのです。

昨日の(49)に記したパリ講和会議の結論は、こうしたフランスの主張と、ドイツに強硬な態度を取り続けることは、ドイツにおける共産勢力(ボリシェヴィズムを指す)の伸張を許す事になるとする、英・米の反対との妥協の産物でした。

ことが賠償の問題、無償金での戦争終結の問題となると、領土問題では対立していた英・仏は微妙な対立点を含みながらも、ウィルソンのアメリカに対して協調姿勢を取りました。対立点は、その北部地帯が対独戦争の激戦地となり、国土の一部が灰燼に帰したフランスと、都市部や工業地帯に艦砲射撃による被害はあっても、地上戦が行われたわけではないイギリスとの違いにありました。

戦争被害に対する賠償ばかりではなく、戦費負担の一切をドイツに負担させようとするフランスと、戦争被害に対する保障のみを要求するイギリスとの違いでした。そして両国とも、米国の政府や民間から巨額の借款を得ている点で共通していました。米国は大戦を通じてヨーロッパに対する債務国から債権国へと変貌を遂げていたのです。

つまるところ、フランスとイギリスの主張は、ドイツからの戦争賠償んあしには、自国の経済復興もままならない。それでは対米戦債の返還も覚束ない。返還を免除してくれるならともかく、返還に応じるためには、ドイツからの賠償金によって,経済復興を図る必要がある。と言うものでした。

それでもウィルソンが、賠償金総額の巨額さに首を縦に振らなかったために、賠償総額は講和条約には盛り込まれず、暫定的に戦前の金平価で、200億金マルクとされ、2年後のロンドン会議で、正式に1320億金マルクという天文学的数字になったのでした。


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