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テーマ:Jazz(1961)
カテゴリ:Songwriter
ヴィクター・ヤングは、映画音楽の作曲家として数多くの名曲を生み出し、
今では、それらはスタンダード・ナンバーとして多くの人に親しまれているものです。 また、編曲や音楽監督としても活躍し、自己のオーケストラを率いての演奏も残しており、 ヴィクター・ヤング・オーケストラの演奏する「エデンの東」は、 日本でも驚異的なヒットになりました。 ●ヴィクター・ヤング(Victor Young) 1900年8月8日、アメリカ、イリノイ州シカゴ生まれ。 1956年11月11日、カリフォルニア州パーム・スプリングスで死去。 享年56歳 ---------- ヴィクター・ヤングは、1900年8月8日、アメリカ、イリノイ州シカゴで、 ポーランド系ユダヤ人のオペラ歌手の息子として生まれました。 この父親は、オペラ歌手といっても巡業歌劇団のコーラス員だということでしたが、 音楽が彼に与えた影響は大きいものであったことでしょう。 6歳のころよりヴァイオリンを習い始めますが、 10歳の時に母親が急死したため、ポーランドのワルシャワにいる祖母のところで育てられることになりました。 この不幸が彼に音楽の才能を伸ばすきっかけになりました。 彼はワルシャワ音楽院に入学し、正式に音楽を学び、ヴァイオリンの腕をみがきました。 そして、13歳の時にはすでにワルシャワ・フィルハーモニーに入団し、 ソリストとしてデビューするほどの天才ぶりを発揮しています。 そして、ロシアでコンサート活動をしていたのですが、 第一次世界大戦に巻き込まれて彼の活動予定はメチャクチャになってしまいました。 1920年、やっとのことでアメリカに逃げ帰ってきました。 再びヴァイオン奏者としてアメリカ各地を回りますが、これがあまりパッとしないので、 ロサンゼルスやシカゴのシアター(映画館)のオーケストラのリーダーをつとめますが、 映画は、やがてトーキーの時代に移り、シアターのオーケストラの必要はなくなったため、 彼は、やむなくバンドを解散し失意にくれていたそうです。 そこで心機一転を考え、クラシック音楽界からポピュラー音楽界へ転身することになりました。 ヤングは、アレンジャー、ソングライターとして知られていたポピュラー・バンドのテッド・フィオリト楽団に、 ヴァイオリン奏者兼編曲者として入団します。 当時のバンドはトランペット、サックス、トロンボーンなどの管楽器を中心とするジャズ・バンド以外は、 ヨーロッパ流のカフェ・ソサエティー・バンドの流れを汲んでいて、 ヴァイオリンなどの弦楽器(ストリングス)がメロディーを奏でていました。 1928年より、シカゴのラジオ局で指揮者の仕事を3年ほどつとめ、1931年にニューヨークに移ります。 ここで、放送の仕事を中心に行い、ヤングの名はかなり知られるようになってきました。 そして1934年に、再び自分のバンドを結成して、 当時人気ボードヴィリアンのアル・ジョルソンのラジオ・ショーのバンドをつとめるようになり、 さらにヤングのバンドの人気は高まっていきました。 ビング・クロスビーとの親交もこの頃に生まれています。 これがキッカケで映画界から声がかかり、ヤングは映画音楽の仕事にたずさわることになります。 ヴィクター・ヤングが本格的に映画音楽界に進出したのは1935年、35歳のときで、 その翌年の1936年にはハリウッドのパラマウント映画のミュージック・ディレクターとなります。 1940年、パラマウント映画の音楽監督に就任し、 そこで10年間、映画音楽の編曲、指揮をつとめることになります。 ヤングは親友のビング・クロスビーの依頼で、彼が出演した映画『海は桃色』の編曲を担当し、 注目を集めるようになりました。 そして、ジェームス・ディーン主演の『エデンの東』など、多くの作品の音楽の編曲、指揮を担当しました。 1936年から1956年までの20年間という、決して長くはない間に350本もの作品を手がけ、 ワーナーのマックス・スタイナー、20世紀フォックスのアルフレッド・ニューマンと共に、 映画界の一時代を支えました。 さらに、ヤングはバンド・リーダーとして、自己のオーケストラを率いての演奏や、 ビング・クロスビーなど歌手たちの伴奏者として、多彩な活動を続けました。 ヴィクター・ヤング・オーケストラの演奏する「エデンの東」は日本でも驚異的なヒットになり、 今だにベストセラーを続けています。 しかし、特に映画ファンというほどでもない私が、 なぜヴィクター・ヤングの名前を親しみを持って知っているかというと、 彼は、私たちが親しんでいるスタンダード・ナンバーの作曲者であるからです。 映画ファンでなくても、ジャズ・ファンであれば、彼の曲を聴いたことがないという人はまずいないでしょう。 「Stella By Starlight(ステラ・バイ・スターライト)」、「My Foolish Heart(マイ・フーリッシュ・ハート)」、 「Love Letters(ラヴ・レター)」、「When I Fall In Love(ホエン・アイ・フォール・イン・ラヴ)」、 「Golden Earrings(ゴールデン・イヤリング)」、「Around The World(アラウンド・ザ・ワールド)」 といった曲は、みんなもともとはヴィクター・ヤングが、映画のテーマ・ソングとして書いたものであるのですが、 その素晴らしさゆえに、これらの曲は不滅のスタンダード・ナンバーとして、今でも愛され続けているのです。 ヘンリー・マンシーニも彼から影響を受けた一人で、 「ヴィクター・ヤングは私のヒーローだった」と語っています。 ヤングは、アカデミー主題歌賞、音楽賞に何と22回もノミネートされていながら、 生前にオスカーを手にすることは一度もありませんでした。 それは、徹底したメロディー中心主義で大衆受けしたことが、 1950年代のハリウッドでは認められなかったからだと言います。 しかし、彼の作った素晴らしい曲は、われわれジャズ・ミュージシャンの宝物となっています。 1956年の映画『80日間世界一周』で、1956年度アカデミー賞の劇映画音楽賞を受賞しますが、 授賞式は1957年3月27日のことで、ヴィクター・ヤングはそれを知ることなく、 1956年11月11日に、カリフォルニア州パーム・スプリングスで過労のために亡くなってしまいます。 医者の警告を無視して、酒もタバコもやめなかったことも、その一因であったということです。 まだ56歳でした。 「ヴィック(ヴィクターの愛称)はあまりにも働きすぎた。それが彼を早く墓に送ったのだと思う」 と、ヘンリー・マンシーは語っていたそうです。 映画音楽というと、取るに足りない音楽で、もはや音楽の体をなしていないとまで言われ、 文化的にも音楽的にもほとんど無視されていると言ってもいいでしょう。 しかし、ヴィクター・ヤングの作った映画音楽は素晴らしい音楽であるということに違いないと思います。 コール・ポーター、ジェローム・カーン、ジョージ・ガーシュウィン、リチャード・ロジャース、 ハロルド・アーレンと並んで、ヴィクター・ヤングは、私にとってアイドル的存在です。 ***** ●代表曲 Beautiful Love 【ビューティフル・ラヴ】 (1931) A Ghost Of A Chance(I Don't Stand A Ghost Of A Chance With You) 【ほのかな望みもなく】 (1932) Street Of Dreams (1932) A Hundred Years From Today (1933) Stella By Starlight 【星影のステラ】 (1944)(歌曲として1946) Love Letters 【ラヴ・レター】 (1945) Golden Earrings 【黄金の耳飾り】 (1946) My Foolish Heart 【愚かなりわが心】 (1949) When I Fall In Love 【恋に落ちたとき】 (1952) The Call Of Far Away Hills 【遥かなる山の呼び声】 (1953) Johnny Guitar 【ジャニー・ギター】 (1954) East Of Eden 【エデンの東】 (1955) 《編曲、演奏》 Around The World 【世界一周】 (1956) 【ジャズ】人気blogランキングへ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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