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 藤維夫のブログ

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2009.05.28
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どの詩も感性の表現があって、個性的な強さ、ことばの原理が浮き出すたしかさが感じられた。

山本さんの「冬の日溜まり」はあまりかまえてないところ、かた苦しい印象がぬけおちていて読める気がした。
なにがなしに母子のかつての情愛がつたわる。
 
 母はもういないのに
 冬の日溜まりに許されて
 また母を見る   「冬の日溜まり」

ここには時間的な隔たりがうっすらとしてやわらかな時間をおいたところで書かれているので、
冬の冷たさや孤独とははなれて時間の滴があった気がした。
行間にもムリがないだけ山本詩のおだやかな表情がある。


「冬の島唄」

世界がわからない中で哲学的思考の世界がひらいたとすれば、
かつての友とのウィトシュタゲンの書は現在によみがえっており、
島唄が啓示のように思われるのかと思う。
この詩のメモリーが貴重に思われる詩であろう。
「時代にすぎぬ時代のこと」の重さを感じとる。

「夕焼け序曲」

前2篇にない語彙の表情がややかたく一方通行の危機意識があって磁性の反撥に苦悩を見る思い。
フレーズすべてとは言わぬが、負の砦的な重い隠喩のつづきは
解放性の面ではけっしてこれまでの詩からは脱却できていないと思う。
「実存の歯軋り」とは妙を得ていて、やはりこれが山本詩の詩宇宙なのかと、思った。

森永さんの詩では3篇がそれぞれ詩風の性格を際立たせていて内面ばかりか、
物語風の枝葉へと培養されていく根が育っていて、面白いと思う。
「モヒート」がそうであって、かるい酔い心地すらほのかシンメトリーを反芻した。
黒猫がこの場面ではけっこうな役者のように変身して、飼い主のおじいさんとともに笑わせて退場したように見えた。

愛は偽装かもしれないと思ったとき、「嘘は愛なのです/ならば/愛は嘘なの?」
おんなじ問答に追いつめられるのが愛というものかもしれない。
からっと乾いた青春の愛? それとも熟年の愛?どちらでもいいが、
「ああ、花はさかり/愛はみちて/この世は春/」ですね。そう「けなげな春」である。

「おびただしい鳥」は第1連では原爆投下のイメージにとらわれて、くらい予感の象徴が鳥だった。
第2連は聖書の世界を想像し再生するヨブをかってにかさねて、暗黒の時の流れに見立てたりした。
時代の局面を思わせる異和と葛藤の世界は憂鬱な世界だった。

福間さんの「絵空事」と「プチ・ラ・パン月光草」の2篇はともに闊達でしゃれたさわやかさと構図にひかれた。
しかも食の快楽もありあかるい風通しがモダニズムの詩であると思った。
「プチ・ラ・パン月光草」というのはレストランの名前だろうが、そんな名前のお店で食事したいものだ。
シェフの一家の出来事もさりながら、お子さんの旅人さんと月日さんも祖父母も集まってくる。
「旧約聖書のヨブほどには不幸ではない」にしても快感の後味のフレッシュさをいいなと思う。

掲載順からさいごになってしまったが平野さんの「鳥」は、
詩か小説のわくぐみどちらでもない酒を飲む時の奇抜な脱線話のようなストーリーがあって、
頭で考えたことを訴えておられるようで奥がみえて面白い。
さいしょから話に加わったご本人も異人アラブケも酒場の親父も逸脱を楽しんでいっときを飲みはじめたようである。
そもそも鳥の赤い鶏冠がくっつくというトリカブト症候群という老いらしい病気が出て発端が奇病なのではなかろうか。
しかし論議はこれで終るのでなく、発症したら鳥ばっかりになって文化どころか
終末の禍々しい鳥が鳴きながらいっせいに降りたのか、と思った。

「umbra」という詩も妖怪的な浴室の微細な描写で終り、花の影も手の影もひとの声すら影づくめの下にあるというほど、
奇怪な入浴中の影にみたされているようだ。

                       






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最終更新日  2009.05.28 20:36:12
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