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2015年05月02日
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カテゴリ:鹿児島の市電
電停名変更

 鹿児島市市電の4電停名が以前のたばこ産業前空地に市立病院と市交通局の局舎と車庫が移転したために以下のように変更となり、拙サイト「鹿児島の市電と街」にも新たな手直しが必要となりました。

   市立病院前→甲東中学校前   
   交通局前→二中通
   たばこ産業前→市立病院前
   神田→神田(交通局前)
 
 たった4電停名の変更ですが、久しぶりのホームぺージ作成だけに先月下旬からいろいろ時間が掛かり、今日やっと一応アップすることができました。また機会を得て移転先の新しい建物も載せていきたいと思います。
    ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/tramcity.html





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最終更新日  2015年05月03日 09時17分23秒
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2015年04月30日
カテゴリ:鹿児島の市電
見送り式

 今日4月30日の午後4時30分から、高麗町の交通局構内で「市電最終出庫便見送り式」が開催されました。高麗町の市電車庫は民営の鹿児島電軌時代に設けられたものですが、施設の老朽化に伴い局舎と市電車庫が上荒田町の日本たばこ産業(JT)工場跡地に移転することになり、高麗町交通局の103年の歴史に幕が下ろされることになりました。私が見送り式に間に合うようにと到着した時には、もうすでにたくさんの鹿児島市電ファンが集まっていました。式では福元修三郎局長の挨拶や見送られる最終電車に乗る徳永良二運転士への花束贈呈があった後、森市長の出発の合図とともに見送り式から「ありがとう高麗町」と書かれたヘッドマークを付けた501号車がゆっくりと旧車庫から外の電車通りに動いて行きました。

二中通

 なお、現在の鹿児島市交通局の局舎前の電停名が「交通局前」から「二中通」に変更される理由はつぎのことから来ていると思われます。高麗本通りから甲南中学校の横を通り、交通局前で電車通り(谷山街道)とつなぐ通りはいま「二中通り」と呼ばれています。「二中」とは明治39年(1906年)に誕生した鹿児島第二中学校のことで、七高内にあった二中が現在の上荒田町(現上之園町)に移転後、その校舎前の通りは「二中通り」と呼ばれて地元に親しまれて来た地名でした。二中と鹿児島県立第二高等女学校が1949年に統合されて甲南高等学校として発足後も商店街の街灯には「二中通り」の文字が書かれています。
 
 新しい局舎と車庫の使用は5月1日から開始するそうですが、上荒田町の新しい局舎前の電停名は「神田」から「神田(交通局前)」に変更されるそうです。








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最終更新日  2015年05月02日 09時42分30秒
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2015年04月25日
カテゴリ:落語
志の輔

 昨日(4月24日)は鹿児島市民文化ホールで立川志の輔独演会があり、夫婦で大いに楽しんできました。

 独演会の幕が開くと最初に立川志の輔師匠のお弟子さんの立川志の麿さんが「つる」、立川志の太郎さんが「元犬」を演じ、その後に立川志の輔師匠が高座に上り、まず「スマチュウ」を演じ、中入り後に「江戸の夢」を演じました。

 立川志の輔師匠の「スマチュウ」は、まくらのネタに首相官邸屋上に落下したドローンのことや北陸新幹線の富山開通のことなどを取り上げて軽妙に笑いを取り、つぎに志の輔師匠が故郷の富山に飛行機で公演に出かけたとき、悪天候のために到着空港が変更になり、出迎えの女性スタッフが大わらわとなって途中のコンビニでスマホを雪の中に落したが、お弟子さんが着信させて発見したというハプニングを面白可笑しく語って観客を大爆笑させた後、本題の新作「スマチュウ」に入っていきました。

 新作「スマチュウ」の意味はスマホ中毒のことで、ネジ工場社長のところに大学生の甥が卒業旅行の費用を借りに来るのですが、この甥が会話している間ずっとスマホをいじっており、こんなスマホを肌身離さず常に持って操作している甥の態度に社長が腹を立てて叱り出します。ところがこの社長がどこかに置き忘れていたスマホを奥さんに見つけられ、奥さんに隠れて付き合っている女性からのメッセージを読まれて大慌てするという噺です。オチは社長がスマホは肌身離さず常に持つべきだと実感させられるというものですが、現代社会に無くてはならなくなったスマホを主題にしたなかなかの傑作でした。

 中入り後に高座に上った志の輔師匠は、がらっと雰囲気を変えて時代物の人情噺「江戸の夢」を語り出しました。この噺は六代目三遊亭円生が高座に掛けていたものだそうです。庄屋の娘のおはるが奉公人の藤七が好きになり、母親は氏素性も判らない藤七を婿にすることに反対しますが、父親の庄屋は気立ては良く、よく働いて品性も良い藤七ならと祝言を挙げさせます。その後、庄屋夫婦は江戸見物に出掛けることとなり、藤七から彼が大事に育てていたお茶の木から作ったお茶の葉を浅草の奈良屋に寄ってその出来栄えを鑑定してもらいたいと依頼されます...。

 なお、この「江戸の夢」は、元々は宇野信夫が昭和十五年(1940年)に六代目菊五郎と初代吉右衛門のための歌舞伎として書いたもので、昭和四十二年(1967年)に宇野自身の手で圓生のために落語化されたものだそうです。






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最終更新日  2015年04月25日 17時47分21秒
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2015年04月21日
カテゴリ:テレビ
今日、『天商七十年史』(創元社、1982年11月)を見る機会がありました。「天商」とは大阪市立天王寺商業高等学校(現在は大阪ビジネスフロンティア高等学校)のことなんですが、同書に同校前史(明治年間)が載っており、そこに大阪商業学校付属科のことが出てきます。同校史に載っている前史を要約するとつぎのようにまとめられます。

 1880年(明治13年)に大阪商業会議所会頭五代友厚が中心となって住友家・鴻池家・藤田家の代表も加わり大阪商業講習所が西区立売堀北通に開設。
 1881年(明治14年)に経済的理由で大阪府に移管、「府立大阪商業講習所」として西区江戸堀南通へ移転、授業再開。
 1885年(明治18年)、前年に「商業学校通則」が公布され、「府立大阪商業学校」が開設、「大阪商業講習所」の一切を継承、
  1888年(明治21年)本校規則を制定し、予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く。
 1889年(明治22年)に大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更。
 1892年(明治25年)に学制改革を行い、北区堂島浜通2丁目に新校舎落成。
 1901年(明治34年)に「市立大阪高等商業学校」が開設、「この大阪高商に附設された3年制の甲種商業科が後の甲種商業学校に継承されることとなる」。
 1909年(明治42年)の「北の大火」で堂島校舎は全焼。
 1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転。
 1912年(明治45年)に甲種商業科を廃し、新たに「市立大阪甲種商業学校」を大阪高商内に開設。
 1919年(大正8年)に「大阪市立第一商業学校」と改称。
 1920年(大正10年)に「大阪市立天王寺商業学校」と改称。
 1948年(昭和23年)に「大阪市立天王寺商業高等学校」として発足。

 鳥井信治郎が明治23年(1890年)満11歳のときに進学した学校の名称が「大阪商業学校」でしたが、この名称の学校が同書前史の1885年(明治18年)に「府立大阪商業学校」として開設されたとして初めて出てきます。この「大阪商業学校」は1889年(明治22年)の大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更されています。また1888年(明治21年)には同校に予科(2年)、本科(2年)、付属科が置かれたことも記述されています。それから鳥井信治郎が入学した当時の同校所在地は西区江戸堀南通だったようです。

 なお、1884年(明治17年)に公布された「商業学校通則」によると入学資格は年齢十三年以上なんですが、この「市立大阪商業学校」の入学者に鳥井信治郎が誕生した前年に生まれ、彼が「大阪商業学校」に進学した翌年に入学した人物がいます。

 野村グループの公式サイト中の「創業者野村徳七の経営理念」によると、野村徳七(信之介)は明治11年(1878年)8月7日生まれで、小学校高等科3年のとき(明治24年すなわち1891年)に市立大阪商業学校の入学試験に合格、「苦学力行ともいうべき勉強が続いたが、28年の夏に肺炎にかかり、予科修業のまま本科進学を断念した」とあります。野村徳七(信之介)は満13歳(数えで14歳)で市立大阪商業学校予科に入学し、病気のために本科進学を断念しているのですね。

 鳥井信治郎は満11歳で「大阪商業学校」に進学していますが、年齢から考えてこの「大阪商業学校」とは市立大阪商業学校の「予科」ではなく「付属科」であろうと推測されます。

 この『天商七十年史』の記述を参考にして鳥井信治郎の学歴を「西区江戸堀南通の市立大阪商業学校付属科」に訂正することにしました。併せてウィキペディアも同様に訂正しておきました。

 さらに後日、『有恒会七十年の歩み』(有恒会、1960年発行)という記念誌を調べることができました。「有恒会」という組織は、大阪市大の文系4学部(商・経・法・文)関連の同窓会名です。この記念誌の5頁に片岡清という明治32年(1899年)に堂島の市立大阪商業学校を卒業した卒業生が寄せた「六十年前の母校を回想して亡き面影を偲ぶ」という文章中に、当時の大阪商業学校の「学級制度は、補習科一年、予科二年、本科二年を正科」としたと記すとともに、「尚簡易科として普通商業校程度の別科が、設けられてありましたが、これも数年にして廃止と記憶します」と書いています。片岡清は大阪商業学校の予科に明治29年(1896年)3月に入学し、同校本科を明治32年(1899年)に卒業していますから、その数年前の明治23年(1890年)に鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」とは、片岡清が記す「普通商業校程度の別科としての簡易科」のことかもしれませんね。しかし、前掲の『天商七十年史』(創元社、1982年11月)ではその当時「予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く」としていますので、それに従ってウィキペディアも更に新たに変更することはせず、鳥井信治郎の進学先を「大阪商業学校付属科」のままにしておきました。





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最終更新日  2015年05月02日 20時49分06秒
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2015年04月05日
カテゴリ:テレビ
 朝の連続テレビドラマ「マッサン」に、初めてウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)がマッサンを高額で醸造技師として招く話が出てきます。この鴨居商店の鴨居欣次郎は実在の人物である寿屋の創業者である鳥井信治郎をモデルにしています。

 この鳥井信治郎の生誕と学歴について、ウイキペデアの2015年4月8日以前に書かれた「鳥井信治郎」に関する記事中にはつぎのように書かれていました。

「1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学  
 1892年(明治25年) 13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出た。」

 ウイキペデアに以前書かれていた記事によりますと、鳥井信治郎の最終学歴は大阪商業学校(現・大阪市立大学)ということになります。確かに大阪商業学校という名前が大阪市立大学友恒会の公式サイトの歴史のなかに記述されており、それを要約するとつぎのようになります。

 大阪市立大学の源流となった大阪商業講習所が1880年(明治13年)に五代友厚等大阪財界有力者十六名によって最初は私立学校として発足、すぐに公立化して1889年(明治22年)には「市立大阪商業学校」へと発展。1901年(明治34年)に同校は「市立大阪高等商業学校」への昇格が実現し、1928年(昭和3年)に「大阪商科大学」と大学に昇格し、1949年(昭和24年)には新制総合大学である「大阪市立大学」が発足。

 ウイキペデアに以前書かれていた記事中の鳥井信治郎が「1890年(明治23年) 大阪商業学校入学」とする記述には問題はないと思われますが、1884年(明治17年)に公布された「商業学校通則」によると入学資格は年齢十三年以上とありました。鳥井信治郎は満11歳(数えで12歳)のときに大阪商業学校に進学していますが、これは入学資格が尋常小学校卒以上の実業学校(中等教育レベル)に進学したのであり、可能性としては同じく大阪商業講習所にルーツを持つ市立大阪商業学校の付属科に進学したものと推測されます。この大阪商業学校の後進として大阪市立大学以外に大阪市立天王寺商業学校(現在は大阪ビジネスフロンティア高等学校)があり、同校の同窓会が出版した『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の同校前史(明治年間)にも大阪商業学校付属科のことが出てきます。同校史に載っている前史を要約するとつぎのようにまとめられます。

 1880年(明治13年)に大阪商業会議所会頭五代友厚が中心となって住友家・鴻池家・藤田家の代表も加わり大阪商業講習所が西区立売堀北通に開設。
 1881年(明治14年)に経済的理由で大阪府に移管、「府立大阪商業講習所」として西区江戸堀南通に移転、授業再開。
 1885年(明治18年)、前年に「商業学校通則」が公布され、「府立大阪商業学校」が開設、「大阪商業講習所」の一切を継承。
 1888年(明治21年)本校規則を制定し、予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く。
 1889年(明治22年)に大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更
 1892年(明治25年)に学制改革を行い、北区堂島浜通2丁目に新校舎落成。
 1901年(明治34年)に「市立大阪高等商業学校」が開設、「この大阪高商に附設された3年制の甲種商業科が後の甲種商業学校に継承されることとなる」。
 1909年(明治42年)の「北の大火」で堂島校舎は全焼。
 1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転。
 1912年(明治45年)に甲種商業科を廃し、新たに「市立大阪甲種商業学校」を大阪高商内に開設。
 1919年(大正8年)に「大阪市立第一商業学校」と改称。
 1920年(大正10年)に「大阪市立天王寺商業学校」と改称。
 1948年(昭和23年)に「大阪市立天王寺商業高等学校」として発足。

 鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」の名称が、1885年(明治18年)に「府立大阪商業学校」として開設されたとして出てきます。また1885年(明治18年)には同校に予科(2年)、本科(本科)、付属科が置かれたことも記述されています。この「大阪商業学校」は1889年(明治22年)の大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更されていますが、鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」とはこの大阪市立の「大阪商業学校」付属科のことかもしれませんね。 では鳥井信治郎が進学したこの商業学校の当時の所在地はどこだったのでしょうか。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)に山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史が載っており、その71頁に鳥井信治郎の学歴がつぎのように紹介されています。

「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ。
   (中略)
 四年制の高等小学校にも二年しか在籍していない。北区梅田の大阪商業学校に進んだ。当時の学制は、まだアイマイなものであって、信治郎の成績がずば抜けていたためにこうなつたものかどうかという証拠はない。ただ、後年の信治郎から推察して、才気換発の腕白小僧ではあったろうと思われる。
 大阪商業学校は、年代から考えて、私塾から発展したものだろう。この学校に二年在学はしている。
 明治二十五年、十三歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。『丁稚一名を求む』という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。」

 同上書によれば「大阪商業学校」の所在地は大阪市北区梅田とされていますが、森杉久英『鳥井信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫、1983年)の13頁~15頁にも鳥井信治郎の生誕と学歴が載っており、それを要約するとつぎのようになり、ここでは鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地を「北区梅田出入橋」と記しています。 

 明治12年(1879)1月30日、大阪市東区釣鐘町で両替商を営む忠兵衛の次男として誕生。
 明治20年(1887)、大阪市東区鳥町の北大江小学校尋常科入学。
 明治21年(1888)、同小学校で4年飛び越えて高等科に編入。
 明治24年(1891)、同小学校高等科4年卒業後に北区梅田出入橋の大阪商業学校に入学し2年間在学。
 明治25年(1892)、数え年14歳で親の家を出て道修町の薬種問屋の小西儀助商店に丁稚奉公。

 なお、この杉森久英「美酒一代 鳥井信治郎伝」に付けられている「鳥井信治郎年譜」では、誕生年月日を「明治12年1月30日」とし、大阪商業学校入学年を「明治23年4月」としています。やはり満11歳で「大阪商業学校」に入学しているのですね。

 ただし、大阪商業学校の当時の所在地を山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』は「北区梅田」としており、森杉久英『鳥井信治郎伝 美酒一代』は「北区梅田出入り橋」としていますが、前掲の『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の天王寺商業高等学校前史(明治年間)によれば、大阪商業学校は1892年(明治25年)以前は西区江戸堀南通にあり、同年に北区堂島浜通2丁目の新校舎に移転しています。鳥井信治郎が同校に入学したのは明治23年(1890年)ですから、当時同校は西区江戸堀南通にあったようです。

これらの資料に基づけば、鳥井信治郎が入学したのは大阪商業講習所をルーツとする市立大阪商業学校の付属科と思われます。ですから2015年4月8日以前に書かれたウイキペデアの「鳥井信治郎」に関する記事中の「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」の( )内の「現・大阪市立大学」は削除するか訂正する必要があるようです。それで、私が2015年4月8日にそのことに関連する事項を幾つか追加して訂正することにしました。

 しかし、ウイキペデアの以前の「鳥井信治郎」に関する項目中に「1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」と誤って記述されていたこと(11歳でこの学校に入学ということに疑問を持たなかったのでしょうか)がネット内に拡散し、「鳥井信治郎」に関連する様々なサイトで「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」とされています。ものごとを調べるのに確かにウイキペデアは便利ですが、なるべくそのまま引用することは避け、少しでも疑問があればやはり著者等がはっきりしている文献等で確認する必要がありますね。





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最終更新日  2015年04月23日 11時47分22秒
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2015年03月31日
カテゴリ:テレビ
 昨年9月に開始されたNHK朝の連続ドラマ「マッサン」は今年2015年の3月28日に終了しましたね。私は、これまでNHK朝の連続ドラマを視聴することがほとんどなかったのですが、このドラマの主人公がウイスキーづくりに情熱を燃やす竹鶴政孝とその妻リタの実話をもとに創作されることになったと知ってとても興味が湧き、ほぼ全話を毎朝楽しむことになりました。また、竹鶴正孝『ウイスキーと私』(NHK出版)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里 『ヒゲのウヰスキー誕生す』 (新潮文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等も購読したものです。

 テレビドラマでは、マッサンこと旧制の大阪高等工業の醸造科で学んでいた亀山正春(玉山鉄二)が住吉酒造に就職後、社長の田中大作(西川きよし)の命令でスコットランドに留学し、ウイスキー醸造を学ぶとともに同地でエリー(シャーロット・ケイト・フォックス)と恋におちいって結婚します。ドラマは、妻のエリーを連れて日本に戻ったマッサンが第一次大戦後の不景気のために住吉酒造ではウイスキー作りが出来ないために退職しますが、妻のエリーに励まされてウイスキー造りの夢を捨てず、日本で初めてのウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)に高額で醸造技師として招かれることになります。

マッサンの妻エリー役を演じる女性は、約500人が参加したオーディション から選ばれた米国出身の女優シャーロット・ケイト・フォックスですが、エリー 同様に慣れない異国で懸命に努力する姿がとてもチヤーミングで、このジャパニーズ・ウイスキー造りのドラマの大きな魅力となっています。

 ドラマを視聴して、これまで日本ではほとんど知られていなかったウイスキー醸造業の大変さがよく分かりました。ウイスキーは醸造後に熟成するのに最低5年はかかるため多額の資金が必要ですし、値段は他の酒類に比較して高額ですし、味はウイスキー独特のピート臭が煙っぽいと日本人になかなか受け入れられなかったようです。

 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立が次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。

 マッサンは自分の納得できるウイスキー造りを目指して鴨居商店を退社し、北海道の余市に工場を設立します。しかし、マッサンの工場から出荷されたウイスキーはなかなか売れないようで、戦前は日本海軍、戦後は駐留軍に買い上げてもらってなんとかウイスキー醸造事業が続けることが出来たようです。こんなジャパニーズ・ウイスキーの誕生の物語にエリーというスコットランド生まれの外国人妻が、慣れない日本での生活にもめげず夫を励まして「人生はチャレンジ&アドベンチャー」をモットーにして明るく前向きに生きる姿が加わって強く心を打たれました。

 私は、独身時代、寝酒にウイスキーを少量生で飲むことがあったのですが、結婚後は夏の暑い季節に夕食時にビールをグラスに一杯程度飲むようになり、腎不全で健康を害してからはほとんど酒を断っていました。それがテレビドラマ「マッサン」を見るようになってからまたウイスキーを楽しむようになりました。竹鶴正孝『ウイスキーと私』(NHK出版)によると、実在人物のマッサンはウイスキーを毎日飲むような人はウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、そこに氷を一個落として水をその2倍ほど注いで楽しんでいます。


マッサン(竹鶴正孝)略年譜
1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。
1916年 旧制大阪高工(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。
1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。
1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。
1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。
1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。
1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。
1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。
1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。
1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。
1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。
1961年 リタ64歳で死去。
1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。
1979年 85歳で死去。





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最終更新日  2015年04月04日 18時54分00秒
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2015年03月24日
カテゴリ:鹿児島
指宿 

2015年3月下旬、大阪に住む次男が連休を利用して鹿児島に帰省したとき、私たち夫婦と明石に住む長男に呼びかけ 、3月22日から翌日のお昼に掛けての指宿一泊二日の旅をプレゼントしてくれました。次男 に言わせると「親のお蔭でいまは社会人として元気にやっているが、親孝行をしたいときに親は無 し、なんてよく言われるので、いまのうちになにか親孝行がしたい」とのこと、ウルウル。大喜び で彼の好意を受け取ることにしました。

 家族4人揃っての旅行と言えば、次男が小学校2年生のときの沖縄旅行以来となります。振り返りますと、1992年8月初旬の2泊3日の奈良・大阪旅行、1993年8月下旬の4泊5日の東京・鎌倉旅行、1995年8月初旬の3泊4日の北海道旅行(登別・小樽・札幌)、1996年中旬の2泊3日の沖縄旅行(那覇の首里城、糸満の平和記念公園)等の旅行で懐かしい思い出を作っています。また鹿児島県内でも、霧島、指宿に宿泊したことがあります。

 朝食後、次男の運転で自宅を出発し、まず知覧にある薩摩英国館に立ち寄りました。館内には主として生麦事件から薩英戦争に関する絵や写真が展示されていました。同館内には喫茶店が併設されており、ミンティという紅茶を楽しみました。

家族

後で知ったのですが、この薩摩英国館の設立者は大阪の森口生まれの田中京子さんという方で、 1967年に知覧町で開業医になる夫とともに同地に移り住み、92年に薩摩英国館を設立された とのことです。知覧と言えばお茶の産地として有名ですが、紅茶の本国、英国の”The Great Taste Awards 2007″に於て、田中さんが生み出した「夢ふうき」が受賞し、その後紅茶部門で何度も金賞を受賞しておられるそうです。

 お昼は知覧の武家屋敷通り内にある高城庵(たきあん)で郷土料理を楽しみました。この高城庵は 店主の生まれ育った家をそのまま開放して藩政時代からのお膳で出しているそうです。

 その後、知覧の特攻平和会館を見学しました。太平洋戦争末期、この知覧の特攻基地を主軸基地とする全国の特攻基地から1036名の特攻隊員が飛び立って戦死しており、この会館では陸軍特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。なお、私の母方の叔父(1928年生まれ)が旧制中学在学中に親の反対を押し切って予科練(海軍飛行予科練習生の略。海軍の航空機搭乗員の大量養成をねらいとして開設。太平洋戦争末期には特攻隊要員の訓練を行なった)に志願し、松山海軍航空隊に入隊し、17歳の青春を投げ打って厳しい訓練を受けている最中に幸いにして終戦を迎えています。

 知覧の特攻平和会館見学後、日本本土内のJR最南端の駅「西大山駅」にまわってから指宿白水館に宿泊し、 同館の懐石料理を大いに満喫しました。私自身は身体のために食事の内容と量に気を付けなければならない人間なのですが、新鮮なお刺身や豚骨料理、黒牛のシャブシャブなどに魅せられてついつい完食してしまい、翌日の午後に出掛けた病院で体重オーバーでみっちり膏血を絞り取られてしまいましたよ、トホホ。

 指宿旅行二日目は鹿児島の一之宮である枚聞神社(ひらききじんじゃと読みますが、かつては新田神社と一之宮争いをしたそうです)にお参りした後、薩摩富士と称される開聞岳を車内横手に見ながら池田湖湖畔まで廻り、その後は指宿スカイラインを利用してお昼までには鹿児島市に戻りました。
なお、今回のエッセイを拙サイト「やまももの部屋」の下記のページに「次男が一泊二日の指宿旅行をプレゼント」と題してアップしておきました。
             ↓
   http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#ibusuki






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最終更新日  2015年04月07日 22時26分34秒
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2014年11月29日
カテゴリ:鹿児島の市電
来年、日本たばこ産業鹿児島工場跡地へ鹿児島市交通局局舎と電車部門が鹿児島市立病院と共に移転することが決まっていますが、今朝の南日本新聞を開きましたら、鹿児島交通局の新局舎の来年5月運用と4電停名変更の記事が載っていました。

 同紙の記事によると、「鹿児島市交通局は28日、上荒田町で整備を進めている新交通局局舎と電車施設について、2015年5月1日から運用を始めると発表した」とのことで、4電停の名称が以下のように変更されることも伝えています。

  交通局前→二中通
  神田→神田(交通局前)
  たばこ産業前→市立病院前
  市立病院前→甲東中学校前

 なお、現在の鹿児島市交通局の局舎前の電停名が「交通局前」から「二中通」に変更される理由はつぎのことから来ていると思われます。高麗本通りから甲南中学校の横を通り、交通局前で電車通り(谷山街道)とつなぐ通りはいま「二中通り」と呼ばれています。「二中」とは明治39年(1906年)に誕生した鹿児島第二中学校のことで、七高内にあった二中が現在の上荒田町(現上之園町)に移転後、その校舎前の通りは「二中通り」と呼ばれて地元に親しまれて来た地名でした。二中と鹿児島県立第二高等女学校が1949年に統合されて甲南高等学校として発足後も商店街の街灯には「二中通り」の文字が書かれているそうです。

 電停「神田」が「神田(交通局前)」と変更されるのは、「神田」は地元の人になじみの深い地名なので残し、新たに同電停近くのたばこ産業跡地内の一部に鹿児島市交通局の新局舎と電車部門が移転されるから( )内に「交通局前」の文字を加えるのでしょう。

 電停「たばこ産業前」が「市立病院前」と変更されるのは、同電停近くのたばこ産業跡地内の一部に新たに鹿児島市立病院が移転されるからです。

 電停「市立病院前」が「甲東中学校前」と変更されるのは、同電停近くにあった鹿児島市立病院がたばこ産業跡地に移転した後、付近に存在する目立った大きな公共施設としては甲東中学校があるからでしょう。





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最終更新日  2015年03月24日 17時57分48秒
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2014年11月23日
カテゴリ:鹿児島
今日(11月23日)、次男が3連休を利用して鹿児島に帰省したので、彼の運転で紅葉の美しい霧島山麓に位置する霧島神宮までドライブに出掛けました。

霧島01

 霧島02

 秋の季節になっても鹿児島市内ではモミジの紅葉を楽しむことはできません。鹿児島市内では秋になっても夜間の急激な冷え込みがなく、そのためにモミジの紅葉風景を楽しめないのです。しかしテレビの二ュースなどで、鹿児島市から北東に62キロ離れた標高460mの場所に位置する霧島神宮の紅葉の美しさが紹介されており、紅葉狩りを楽しもうと同神宮に出かけることにしたのです。

 連休の二日目なので霧島神宮は参拝者で大いに賑わっていましたが、同神宮とその周辺では鹿児島市内では見られない紅葉の風景を大いに満喫することができました。また帰りには坂本龍馬、お龍夫妻が新婚旅行の際に18日間滞在したといわれる塩浸温泉に立ち寄り、竜馬夫妻の銅像も撮影することが出来ました。





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最終更新日  2014年11月27日 10時56分35秒
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2014年11月18日
カテゴリ:カテゴリ未分類
 先週、大阪市立大学の同窓会鹿児島支部の総会がありましたので参加して来ました。

 私の卒業大学は大阪外国語大学の中国語学科なのですが、大阪市立大学大学院の文学研究科(修士課程2年、博士課程2年)に4年間在籍していたことがあります。

 同大学院への通学は、自宅があった奈良市の近鉄駅から乗車し、国鉄阪和線に乗り換えて杉本町駅まで計約一時間少し掛け、そこから大阪市立大のキャンバ内の研究室にほぼ毎日テクテク歩いて行ってました。この大学の素朴で真面目な学部学生たちと一緒に過ごした4年間の勉学一筋の大学院生活がいまとなってはとても懐かしいものがあります。大学のプールでもよく泳いでいました。


 鹿児島市在住の大阪市立大学同窓生のNさんから最近になって同大学鹿児島支部が成立し、11月15日にその総会があるとの案内メールが届きました。ほとんど同窓会と名の付くものに出たこともない私ですが、2年前に退職後、外に出ることもめっきり少なくなり、しゃべると言えば妻か病院のお医者さん、看護師さんぐらいに限定され、人恋しさが募り、この機会に一人でもお知り合いになりたいものだと思い、鹿児島中央駅近くの東急インで開かれた同同窓会に出掛けることにしました。

 当日の大阪市立大学の鹿児島支部総会には18名の方が出席されており、そのうち5名が来賓(副学長と全国同窓会関連者)で残り13名の方が鹿児島在住の卒業生でした。会場でお会いした17名の方たちはみなさん全員初対面の方ばかりでしたが、それがかえって気楽にお話ができ、特にお隣に座ったHさん(医学部卒)とは親しくお話しすることが出来ました(あれっ、この方もお医者さんだった)。この同窓会に出席してとても楽しくて有意義な2時間を過ごすことが出来ました。

 なお、当日の総会に渡された資料のなかに「大阪市立大学同窓会報」第5号があり、鹿児島支部発足の記事も載っており、そこに発起人の人たちに「鹿児島出身者88名の卒業者名簿」が渡されていたと書いてありました。大阪から遥か離れた鹿児島の地に住んでいる同窓生たちですが予想より多い数ですね。

 おっと大阪市立大学の前身は明治13年(1880年)に創立された大阪商業講習所であり、この創立者は薩摩の英国留学生の一人であり、大阪財界の父と言われる五代友厚ですから、鹿児島と大いにゆかりのある大学であり、鹿児島からもっと多くの卒業生が輩出してもいいですね。

 ところで、同会報に載っている奈良支部だよりには、私が生まれ育った「奈良県には大阪府に次ぐ6000人以上の市大卒業生がいる」とあり、奈良県内には鹿児島県とは比べものにならない数の卒業生がいることも初めて知りました。交通の便から考えて当然のことと言えば当然なんですが、鹿児島では圧倒的少数派ですから、この縁をこれからも大切にしていきたいと思いました。





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最終更新日  2014年11月21日 13時41分48秒
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