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2016年01月24日
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カテゴリ:news
鹿児島の大雪

気象台によると、1月24日から25日にかけ鹿児島県内は強い冬型の気圧配置となる影響で、薩摩地方を中心に平地で20センチ、山地で30センチの積雪が予想されると報じていましたが、24日朝午前8時の鹿児島市内の我が家の庭も一面真っ白の雪景色となっていました。

 県内では2010年12月31日、上空1500メートルに氷点下8.3度の寒気が流れ込んだ影響で、鹿児島市で観測史上2番目となる最大25センチの積雪を記録しましたが、今回の寒気も、これに匹敵する積雪をもたらす恐れがあると予測されましたが、1月25日に鹿児島県内の伊佐市大口で氷点下15.2度の観測史上最低気温を記録しました。また鹿児島市内で氷点下5.3度、12センチの積雪がありました。

 なお、下の写真は2011年正月に撮った我が家の庭の雪景色です。
      ↓
 http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201101010000/






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最終更新日  2016年01月26日 11時07分29秒
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2016年01月17日
カテゴリ:台湾
 毎日新聞2016年1月17日の東京朝刊に「総統に蔡氏 8年ぶり民進政権 対中融和見直し 」と題された記事が載りました。
   ↓
  http://mainichi.jp/articles/20160117/ddm/001/030/137000c

 同記事によりますと、台湾の中央選管の最終開票結果はつぎのようになりました。

 蔡英文氏 6,894,744(56.12%)=民進党
 朱立倫氏 3,813,365(31.04%)=国民党
 宋楚瑜氏 1,576,861(12.84%)=親民党

 蔡英文氏は16日夜に記者会見し、「台湾人は1票で歴史を書き換えた」と勝利宣言したそうです。また同時実施の立法院(国会、定数113)選挙でも、民進党が68議席と大勝し、同党は初めて単独過半数を獲得し、国民党は64議席から35議席に大幅減したとのことです。

 なお、争点の対中政策を巡って蔡氏は「現状維持」を掲げていますが、ただ民進党は、中国と国民党が交流の基礎に位置づける「一つの中国」の原則を確認したとされる「1992年合意」を認めておらず、もし今回の選挙結果を背景に民進党政権が「92年合意」に対して否定的な姿勢を続ければ、「中国が一転して強硬な対台湾政策を実行に移す可能性があり、台湾海峡を挟んで中台が緊張することも考えられる。一方で、求心力を増す蔡氏を相手にする中国は、民進党政権が長期化する可能性を見据え、台湾政策の再検討も迫られそうだ」としています。

 また毎日新聞のサイトの2016年1月17日00時48分に「歓喜の声を上げる民進党支持者たち」と題された記事が載りました。         
  ↓
 http://mainichi.jp/articles/20160117/k00/00m/030/148000c

 同記事によると「立法院(国会、定数113)選挙(小選挙区比例代表並立制)では、民進党が現有40議席から68議席に躍進し、悲願である初の単独過半数を確保した。国民党は64議席から35議席と大幅に数を減らした」とし、「今回の選挙では、長年続いてきた国民党、民進党の2大政党に対し『第3勢力』と呼ばれる新政党が存在感を示したのも大きな特徴だ。学生運動参加者らが結党した新政党『時代力量』は初参戦ながら5議席を確保した。一方、李登輝元総統を精神的指導者に仰ぐ台湾団結連盟(現有3議席)は議席を失った 」と報じています。

 そして、「14年春の対中経済協定に反発した学生運動を経て「公民意識」が社会に広がり、多くの学生や社会運動団体が政党を結成して政治に参加し始めた。比例の政党数は過去最多の18に上った。王業立・台湾大教授は「以前の小政党は『統一』『独立』といった路線の違いを背景に、国民党から分離した。新興政党は対中協定反対や環境保護といった目標から出てきたので全く異なる」と分析し、「時代力量は1987年の戒厳令解除後に生まれた若者らが多く、民進党よりも独立志向が強いとされる。国民党の馬英九政権の対中融和路線に反対する立場が一致した民進党と時代力量は、一部選挙区で選挙協力した。 /時代力量は民進党への対応について、政策ごとに是々非々で臨む姿勢を示しており、民進党政権の『監視役』になる可能性もある」としています。






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最終更新日  2016年01月17日 15時35分02秒
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2016年01月05日
カテゴリ:新年
2016年もよろしくお願いします。

張九齢の有名な漢詩に「照鏡見白髪(鏡に照らして白髪を見る)」と題された次のようなものがあります。

宿昔青雲志(宿昔 青雲の志)
蹉跎白髪年(蹉跎たり 白髪の年)
誰知明鏡裏(誰か知らん 明鏡の裏)
形影自相憐(形影 自ずから相憐れまんとは)

   hideo

左右ともに最近撮った私自身の写真ですが、まさに「形影自ずから相憐れむ」の感を覚えます。左の写真は意識的に解像度を落とし、右の写真は縮小して載せることにしました。

 ところで、この張九齢の「照鏡見白髪」と題された漢詩を井伏鱒二が和訳しているのですね。そうです、于武陵の「勘酒」と題された漢詩「勧君金屈巵 満酌不須辞 花發多風雨 人生足別離(君に勧む金屈巵 満酌辞するべからず 花發すれば風雨多く人生別離足る)を大胆にも「コノ杯ヲ受ケテクレ ドウゾナミナミ注ガシテオクレ 花ニ嵐ノタトエモアルゾ 『サヨナラ』ダケガ人生ダ」と意訳した優れた文学者です。この井伏鱒二が張九齢の「照鏡見白髪」をつぎのように和訳しています。

 シュッセシヨウト思ウテキタニ
 ドウカスル間ニトシバカリヨル
 ヒトリカガミニウチヨリミレバ
 皺ノヨッタヲアハレムバカリ

 ではこの井伏鱒二訳を参考にして、私自身が年老いた写真を見ての感慨を詩にさせてもらいます。

 出世なんてどうせ他人事だと思ってはいたが
 いつまにやら馬齢を重ね
 独り撮った写真をそっとながめて見れば
 玉手箱を開けてビックリ皺くちゃ爺さん






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最終更新日  2016年01月06日 18時52分36秒
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2015年12月13日
カテゴリ:エッセイ
     箸の源流

 日本の食文化の特徴の一つに箸の使用がありますが、大昔は手掴みだったそうで、6、7世紀頃に中国から箸が渡来し、次第に普及していったと言われます。では中国ではいつ頃どのような理由で箸が誕生し、食事に使う道具として普及していったのでしょうか。

 そのことについて太田昌子著『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が詳しく調べています。同書は、中国古代文献から箸使用の定着について考察するだけでなく、さらに中国の考古学界の発掘成果から箸の出土を考察し、さらに箸が発生し普及した理由等について食器具類・食事様式・居住環境の変化と関連させて考察を加えています。

 太田昌子は同書の50頁から57頁において、二本の棒でものを挟みあげる用具としての箸は、はるか三千年前以上前の殷代の遺跡から銅製の箸が発掘されているが、これらの箸は熱いものを挟み取る冶金か調理の道具であったろうと推測しています。そんな箸が食事用の道具として普及する過程については、同書の242頁から243頁につぎのように要約しています。

 「まず住居と食事様式の 変化、特に手食から箸使用への変化との関連について考察してみた。
 それにさきだち、新石器時代から春秋戦国時代ごろまでの住宅建築の発達状況を見ると、貴族階層の住む住宅は殷時代頃より次第に発達して、戦国時代には瓦葺きの高層建築も見られるようになった。このような広壮な貴族階層の住宅では、例えば調理は奴婢たちが別棟の厨房において行い、主人側の家族は別棟に運ばれた食物を、従者の介添えを受けながら食べていたと思われる。それに比べ一般庶民の住居は、戦国或いは漢時代においてさえ、萱葺き屋根の粗末な作りで、大きさも一と聞か二た間程度の狭小なものであったようである。従って調理と食事の場も分離せず、調理された食物はただちに家族たちに供せられたと思われる。そしてこのような環境であってこそ、元来調理用具であった箸がそのまま食事の場にも取り込まれて行く可能性があったと考えられる。
 一方食事作法についての意識には、中国古代の支配者階級の中で重んじられていた伝統的儀礼に束縛されていた貴族たちと、それとは全く無関係の一般庶民との間に、大きな差異があったと考えられる。貴族たちは、自らの地位と権威の保全のためにも伝統的な礼法に忠実であることを要求されたに違いない。したがって礼法で定められていた直接手で食べるという食事様式を、新しく箸を使用する方法へ変えるという発想は、全く生まれなかったと考えられる。一方庶民階層の人たちは、窮屈な礼法の埒外に置かれていたために、因習に縛られることもなく、便利でしかもよりおいしく食事を楽しむ方法をひたすら追い求めたと思われる。そしてこのような自由な雰囲気の中でこそ、元来は調理用であったと思われる箸のような用具でも、さほどの抵抗感なしにごく自然に食事の場へ取り込まれていったのではないかと考えるのである。
 そしてこのような食事様式の変化をよりいっそう促進させた要因として、春秋から戦国時代にかけて次第に人口が増加し、商工業も発達していった都市という環境の影響が大きかったと考える。その理由の一つは、材料の入手もまた加工も比較的容易で、値段もさほど高くはなかったと思われる箸は、早くから商業ペースに乗り、市場でかなりの数量が売買されたと考えるからである。
 そしてまた、当時は酒や塩、干し肉などの食品が市場で売られたのみならず、調理品も売られるようになり、街頭で食事を楽しむという習俗も生じつつあったようであるが、このように家族という閉じられた場から公共の場へと食事が開かれた時、新しい 箸使用習俗の定着と普及は大いに促進されたと考える。
 さらには、街頭において一定の値段で提供された調理品は、恐らく碗のような比較的小型の食器に盛られていたと思われるが、小型の碗は手では食べにくく箸やスプーンの方が適しているので、このような小型の食器の使用が広がるに従って箸使用の習俗もまた広がっていったことも考えられる。」

 太田昌子は、春秋戦国時代(紀元前770年に周が都を洛邑へ移してから、紀元前221年に秦が中国を統一するまでの時代)の社会的、経済的大変動の時期に、手食から箸使用の食事へと変化したことはほぼ間違いなかろうとしています。

 ところで、『箸の源流を探る』の著者の太田昌子は私の母で、息子の私から太田昌子の経歴と彼女の古代中国の箸の起源と普及の研究のかかわりについて紹介させてもらいます。

 母は、1993年3月に鳴門教育大を定年退職し、父と一緒に私の家の近くに引っ越してきました。私が両親の家を訪れますと、いつも母は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ってくれました。母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマに愛情を注いでいたのです。また、中国古代史がご専門の奈良女子大名誉教授の大島利一先生から箸の研究についていろいろアドバイスのいただいておりましたが、その大島先生からお手紙が届くと、いつも恋人からの手紙を見せるように嬉しそうに私に見せてくれました。私もよく母から箸の研究の原稿についての意見を求められ、根がヤクザな私は「もっとはったりを利かせて読者に興味・関心をもたせないと駄目だよ」なんて言っていましたが、生真面目な母にそれは無理な注文だったように思います。

 母の箸の研究を纏めた『箸の源流を探る』は残念ながら遺著となってしまいました。母が亡くなる前日の朝、私は両親の家を訪れているのですが、そのとき母は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、私に暖かいコーヒーを出してくれました。その後いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるとは想像もしていませんでした。翌日には解離性大動脈瘤破裂のために突然あの世に旅立ってしまったのです。

 母の葬儀も全て終わり、父と一緒に両親の家に戻ったとき、母の書斎の机の上に愛用の広辞苑が開かれたままになっているのが目に入り、突然なんとも言えぬ寂寥感に襲われ、胸に熱いものがこみ上げて来ました。

 私の母は、1923年5月17日に日本統治時代の台湾の台北市大和町に市川實雄、まつよの次女とて生まれ、1943年に奈良女子高等師範学校の家政科を戦争中のために3年半で繰り上げ卒業し、戦後まもなく奈良女子大文学部附属高等学校・中学校で家庭科の教諭となりました。本来は食物学を主な研究領域としていたのですが、1960年代末頃から独学で中国の古文(漢文)のみならず現代文を習得して古代中国の箸の起源とその普及に関する研究を開始し、同校の校長をされていた奈良女子大の大島利一先生(甲骨文や金文に造詣の深い中国古代史の研究者)から激励されたこともあり、同研究に没頭するようになりました。そして、かつて奈良女附属高校の同僚だった奈良女子大の中塚明先生(日本史研究者)の紹介で研究成果が汲古書院から出版されることとなりました。しかし、その原稿が脱稿し、校正も初校を終えた後、『箸の源流を探る 中国古代における箸使用習俗の成立』(汲古書院、2001年9月)が出版される直前の2001年1月19日に解離性大動脈瘤破裂で急逝しましたので、同書は母の遺著となりました。享年77歳でした。

 なおこの拙文に加筆して拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページに「母の遺著『箸の源流を探る』」と改題して新たにアップしましたので、興味がございましてらご覧ください。
           ↓
   http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#hasi







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最終更新日  2015年12月25日 20時39分44秒
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2015年12月06日
カテゴリ:エッセイ
 今年(2015年)、台湾でドキュメンタリー映画「湾生回家」が興行収入1億円を超える異例のヒットとなったそうで、そのことについて野嶋剛が「東洋経済 ONLINE」に「今なぜ台湾で『懐日映画』が大ヒットするのか」と題して興味深い論評文を書いています。なお映画の題名にある「湾生(わんせい)」とは、戦前、台湾で生まれ育った日本人のことを指します。
         ↓
  http://toyokeizai.net/articles/-/94829

 野嶋剛はこの評論文で、従来は「台湾では国民党の『国民化教育』によって日本への思いは『皇民意識』として克服すべき対象となった。日本でも、台湾統治という植民地領有行為そのものが批判の対象となった。/その結果、国家の領有や放棄というレベルとは本来別次元であるべき湾生たちの『人間の歴史』までが忘却され、軽視されてきたのである」としながら、近年になって台湾では「中国は中国、台湾は台湾」という認識が完全に定着し、「愛台湾(台湾を愛する)」というスローガンが政治的党派の違いを超えて共通のものなり、「その意味では、この湾生回家のヒットは『日本人も愛した台湾』という点が、より台湾の人々の涙腺を刺激するのだろう」と結論づけています。

 ところで、私がこの野嶋剛の評論文で最も印象に残ったコメントは、「記憶は環境によって育てられる面はある。台湾における日本時代への懐かしみは、国民党の苛烈な統治や弾圧が強化したものであろう。/日本での湾生たちの台湾思慕も、敗戦によって焦土となった日本は当時の台湾に比べてはるかに暮らしにくかったことや、日本で引揚者が受けた差別的視線なども関係しているはずだ。戦前の台湾経済水準は、日本の地方都市を大きくしのぎ、給料面でも東京に遜色ない金額を得ることができた。日本に戻った『湾生』たちが台湾での生活をより一層懐かしんだことは疑いようがない。(中略)映画で湾生たちは、口々に『私の故郷は台湾』と語っていた。そして、戦後の日本でずっと他人に語れない『台湾の私』を抱え込んで生活してきた。その感覚を映画の主人公のひとりである老婦人は『自分がいつも異邦人のような気持ちだった』と明かしている」という箇所でした。

 ああ、そうなんだ、私の母も「湾生」として「異郷の地」に生きる複雑な思いを子どもの私にだけ繰り返し語っいたものでした。私の母は自分のことを「湾生」と呼称したことは一度もありませんでした。しかし「自分のふるさとは台湾だ」といつも言っていましたし、私が幼い頃、彼女は問わず語りに彼女のふるさとの街と生まれ育った家庭のことを何度も何度も楽しそうに語ったものでした。母のふるさとの台北の街は大きく、道路や建物は立派で、沢山の人々や車がとても賑やかに往来していたとのことで、住んでいた家も大きく立派で、お手伝いさんが沢山いて、ピアノもあり、何不自由のない生活を送っていたそうです。私は何度も何度もそんなことを聞かされて育ちました。

 幼い私は、母のこんな想い出ばなしを聞きながら、その想い出ばなしと比較して、自分が今住んでいるふるさとの町はなんてちっぽけなんだろう、自分たちはいまなんて恵まれない境遇にあるのだろうと思わざるを得ませんでした。

 幼い私には、人間の屈折した心理など皆目分からなかったのです。だから、彼女が語る話の表層に出ているものを素直に受け取るだけでした。母がその想い出ばなしの奥の方にどんな複雑な想いを託していたのかなんてことは全く理解できませんでした。

 私はそのことを拙サイト「やまももの部屋」の「やまもものエッセイ集」に「母のふるさとの街と家」と題して載せています。
    ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#furu
 
 私の父は奈良市で生まれ育った人間ですが、日本統治下の台湾帝大(現在の国立台湾大学)で学び、戦後も国民党政権が必要とする「留用者」として一時台湾で教鞭を執っています。そんな父は「俺は蒋介石から給料をもらっていた」と子どもの私に言っていたものです。台湾が日本の統治から中国の国民党の統治となった様子もよく聞かされました。

 そのとき、台北の台湾人は「光復」(祖国復帰)と言って歓呼の声をあげて「中国軍」を歓迎したそうです。ところが台北の街に入ってきたのは敗残兵同様のみすぼらしい兵隊たちでした(実際、中国大陸で共産党軍との内戦に敗れた国民党軍でした)。彼らの文化程度は低く、水道の仕組みも分からず、水を飲むために蛇口だけを壊して持っていこうとしたそうです。国民党政権の役人も腐敗しており、日本人資産の接収だけにとどまらない「略奪」まがいの行為や官庁・企業の役職の独占、賄賂等が横行し、治安も悪化したそうです。

 台湾人の失望は怒りとなって学生たちを中心とする抵抗運動が起こり(1947年2月28日に起こったので二二八事件と呼称されています)、父か教えていた学生たちの多くがこの抵抗運動に参加し、根こそぎ逮捕されていったそうです。この抵抗運動への徹底した弾圧は、その後の台湾に外省人と本省人の間に深い溝を作ったそうです。

 そんな体験を戦後の台湾でしている父ですが、台湾から故郷の奈良市に帰った後も青春時代を過ごした台湾を懐かしみ、よくアコーディオンで「夜来香」(イエライシャン)、「雨夜花」(ウーヤーホエ)等を奏でながら歌っていたものです。その後、仕事の関係で奈良市を離れ、松江市や鳴門市に移転した父でしたが、定年後に私が住んでいる鹿児島市に家を建てて晩年を過ごしています。自分が生まれ育った奈良市に帰る気は全くなかったようです。

 そんな私の両親は、いま錦江湾の海上に屹立する桜島の全景を眺めることのできる高台の墓地に静かに眠っています。

 なお、拙サイト「やまももの部屋」のエッセイのページにこの拙文を一部書き直して「私の両親の懐かしの台湾」としてアップしています。







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最終更新日  2015年12月09日 15時25分57秒
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2015年12月03日
カテゴリ:台湾
    中華民国の台湾化と中国

 台湾のひまわり学運と議会占拠について、浅野和生編著『中華民国の台湾化と中国』(展転社、2014年12月)に基づいて、台湾住人の「台湾人意識化」の増大とサービス貿易協定の問題点ついて補足しておきたいと思います。

 まず、同書によると台湾に住む人々はつぎの4グループに分けられるそうです。第一グループはマレーポリネシア系の先住民族、第二グループが17世紀から18世紀に主として中国南東部の福建省から移住した閔南人、第三グループがそれより少し遅れて広東省や福建省の山岳地帯から移住した客家人、第四グループが1945年以降に大陸中国から移転した人々で外省人と呼ばれるそうです。なお、第二グループと第三グループを併せて一般に本省人と呼びます。

 これらの四グループに分けられる台湾住人の「台湾人意識化」の増大について、同書の33頁~34頁に台湾の国立政治大学が2014年6月に実施した世論調査に基いてつぎのように紹介されています。

「戦後の台湾からは三十数万人の日本人が退去して、それと入れ替えに九十万人といわれる中国人が台湾に流入してきた。戦後の国民党政府は、台湾の脱日本化と中国化のために教育政策他を進めたが、今日まで五十年を超える大陸との断絶期間のなかで台湾に居住する人の構成比では、外省人一世が減少する一方なのに対して、第一世代とは意識が異なる外省人第三世代が増え続け、無論、この間に本省人も増加した結果として、台湾では中国人意識は台湾人意識に置き換えられつつある。
 また、八〇年代から経済発展を続けて台湾が豊かになるとともに、九〇年代に李登輝政権の下で政治的民主 化と、教育の台湾化が進められたことの影響と相まって、しだいに台湾に誇りをもち台湾人アイデンティティをもつ人々が台湾では増え、それを堂々と表明する人々が増えるようになった。
 こうして台湾化教育から十年あまりが経ったころ、国民党馬英九政権が誕生すると、急速に中台接近が進み、人的交流が一般化した。すでに述べたように、台湾の人々は現実の中国人との接触を通して、自分たちは中国人とは異なる台湾人だということを改めて皮膚感覚としてもつようになり、六割が中国人ではない台湾人としての意識をもつにいたった。これに『中国人でも台湾人でもある』という人を加えると、今日の台湾では実に九割以上が台湾人意識を抱いているという状況になった。つまり、台湾の人々のアイデンティティの台湾化が進んだのである。」

 また同書の143頁~145頁には「中台サービス貿易協定の問題点」についてつぎのように解説しています。

「同協定が台湾の世論において懸念された点は以下の通りである。
 中国側の開放リストによると、合資による証券会社を設立する際、中国における適用範囲は上海、福建、深センの三都市に限られ、電子商務については、その拠点は福建省のみに適用される内容である。また、資金力に勝る中国企業が本格的に台湾に進出した場合、民間の中小企業が多い台湾は到底中国企業に太刀打ちできず、台湾の市場構造が中国企業に取って代わられる危険性がある。
 出版業界を例にとると、言論・表現の自由が保障されている台湾では、どんなに政治的に偏った本でも自由に出版することができる。しかし、中国に進出する台湾の出版社は、中国当局の言論統制と出版物の検閲を受けるため、中国共産党に批判的な書籍、あるいは台湾独立や李登輝元総統に対して肯定的な記述のある書籍を出版することができない。また、現在、台湾には数千社の出版社があり、その大半は中小企業であり、中国に進出して事業展開する資金力はない。一方、中国の出版社は数百社で、すべて中国共産党が管理している。もし中国の出版社が本格的に台湾に進出した場合、台湾の出版社は太刀打ちできない状況である。
 通信に関しては、中国の通信機器メーカーなどが台湾国内の通信網 やデータセンターなどのメンテナンス業務を担った場合、一般市民の通信や通話が盗聴され、金蔑関を含む企業の業務用データが流出し、サイバー攻撃のリスクも高まる。さらに、個人情報や個人のプライバシーの保護が軽視される危険性が高まる。
 最大の問題は、台湾に進出する中国のビジネスマンが一定の金額を台湾に投資した場合、あるいは台湾に投資して会社を設立した場合、一件の投資につき会長、管理職や技術者など四名とその家族に台湾の居留ビザを与えることである。居留ビザは無制限に更新できるだけでなく、居留ビザを取得した後、四年後に市民権を付与する仕組みになっている。さらに、家族の子供に子孫が誕生した場合、当然その子も台湾の市民権を獲得することができる。すなわち、数年間台湾に定住して市民権を取得した後、台湾の総統選挙、県市長選挙や立法委員選挙に投票できてしまうのである。したがって、香港、チベットやウイグル自治区と同様、中国人が次々に台湾に入り込み、最終的に台湾の政治を牛耳ることが可能になる。しかも、中国人が台湾に移住した後、直ちに台湾の国民健康保険に加入することができるため、日本や台湾のような健康保険や医療制度が整っていない中国にとって、非常に魅力的な話である。
 以上の諸点が、各種マスコミやネット上で指摘された。」

 こんな危険な問題点を持つ「中台サービス貿易協定」の内容が次第に明らかになり、台湾人としてのアイデンティティが強まっていた台湾住民の反発が増大し、「ひまわり学生運動が広範な台湾住民の支持を得ることになったのですね。

 なお拙サイト「やまももの部屋」の「台湾の『ひまわり学生運動』と議会占拠」と題した新たなページにUPしましたので、興味がございましたらご覧ください。





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最終更新日  2016年01月17日 15時35分55秒
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2015年11月30日
カテゴリ:news
インターネットの「リテラ」に「『NEWS23』でキャスター岸井成格の降板が決定の情報!「安保法制批判は放送法違反」の意見広告にTBSが屈服?」とのタイトルで、うすら寒くなるような記事を見つけました。
          ↓
    http://lite-ra.com/2015/11/post-1718.html

 
 同記事によると、11月の14日の産経新聞と翌15日の読売新聞に「私達は、違法な報道を見逃しません」とする意見広告が掲載され、9月16日にTBS『NEWS23』でキャスター岸井成格氏が「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言を取り上げ、放送法第四条の規定に対する重大な違法行為だと批判し、その後、『NEWS23』の降板が決まったというのです。

 この広告の出稿主は「放送法遵守を求める視聴者の会」だそうですが、同記事によると「呼びかけ人には、作曲家のすぎやまこういち氏や評論家の渡部昇一氏、SEALDsメンバーへの個人攻撃を行っていた経済評論家の上念司氏、ケント・ギルバート氏、事務局長には、安倍首相の復活のきっかけをつくった安倍ヨイショ本『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)の著者・小川榮太郎氏など」の安倍政権応援団の人々が名前を連らねているとのことです。

 なお、下に掲載した画像は11月15日の読売新聞の意見広告です。

意見広告





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最終更新日  2015年11月30日 20時34分22秒
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2015年11月26日
カテゴリ:台湾
 2014年3月に台湾で起こった「ひまわり学生運動」の指導者・林飛帆は、親中派として知られるメディア王の蔡衍明による大手ケーブルテレビ買収に反発し、「反メディア独占」を掲げて2013年9月に大規模デモを指揮した人物です。この台湾の「ひまわり学生運動」について、東京外大の小笠原欣幸氏の「中国と向き合う台湾―激変する力関係の中で」(『ワセダアジアレビュー』 No.16 ) が的確に纏められており、幸い同論文が「小笠原ホームページ」にUPされていましたので、同稿が触れているこの学生運動のことを下に紹介させてもらいます。
        ↓
  http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/analysis/wasedaasiareview16.pdf

 「馬政権は二〇一三年六月、中台の市場開放・経済協力をさらに進める『サービス貿易協定』を締結した。ビジネスチャンスが拡大する業界は歓迎したが、対中経済依存を警戒する諸団体が反対した。また、協定の内容が非常に複雑で事前の説明も不足していたので、影響を受ける業界も不安・不満を表明した。立法院での協定批准審議が民進党の妨害で九箇月たってもまったく進まない中、国民党は二〇一四年三月、審議打ち切りの挙に出た。それに抗議する学生らが台湾の国会にあたる立法院の本会議場を三週間にわたり占拠したのが『ひまわり学生運動』である 。三月三〇日には学生らを支援する大規模抗議集会が台北市中心部で開かれ、一〇‐五〇万人もの市民が集まった。抗議行動がこれほど大きくなったのは、馬政権の対中政策の進め方に不安を抱く人が増えていたことが背景にある。
  ひまわり学生運動は、(1)反馬英九、(2)反中国、(3)反グローバル化(格差を広げる自由市場経済の拡大への反感、ここには中台の巨大資本への反感も含まれる)、(4)反体制(若者が閉塞感を感じる社会と既成政治への反感、ここには国民党だけでなく民進党への不満も含まれる)の主張が綯い交ぜになったものである。学生らの行為は住居侵・不法占拠・業務妨害にあたるが、多数の民意の支持を得て政権から一定の譲歩を引き出すことに成功し、平和的に立法院の議場から退去した。台湾のひまわり学生運動は、アジアにおいて学生運動が何らかの成果を生み出した数少ない事例であると言ってよいだろう。」

 シールズ関連で関心を持った高橋源一郎の『ぼくらの民主主義なんだぜ』(朝日新書、2015年5月)を読んでいましたら、書名と全く同じ「ぼくらの民主主義なんだぜ」というタイトルでこの台湾の「ひまわり学運」について高く評価する評論文が目に入りました。高橋源一郎はつぎのように書いています。

「3月18日、台湾の立法院(議会)は数百の学生によって占拠された。学生たちは、大陸中国と台湾の間で交わされた、相互に飲食業、金融サービスなどの市場を開放するという内容の『中台サービス貿易協定』に反対していた。占拠の直接のきっかけは、その前日、政権を握る国民党が協定発効に関わる審議を、一方的に打ち切ったことだった。
 立法院を占拠した学生たちは、規律と統制を守りつつ、院内から国民に向けてアピールを続けた。中国に呑みこまれることを恐れる国民の強い支持を受け、占拠は24日間にわたって続いた。

 この運動について、中国に批判的な立場からの、彼らを支持する意見を、それから、運動に共感しつつも、学生たちの思想の未熟さを指摘する意見を、読むことができる。けれども、わたしは、もっと別の感慨を抱いた。

 占拠の一部始終を記録したNHK・BSの「議会占拠 24日間の記録」にこんな光景が映し出された。

 占拠が20日を過ぎ、学生たちの疲労が限界に達した頃、立法院長(議長)から魅力的な妥協案が提示された。葛藤とためらいの気分が、占拠している学生たちの間に流れた。その時、ひとりの学生が、手を挙げ、壇上に登り『撤退するかどうかについて幹部だけで決めるのは納得できません』といった。

 この後、リーダーの林飛帆がとった行動は驚くべきものだつた。彼は丸一日かけて、占拠に参加した学生たちの意見を 個別に訊いて回ったのである。

 最後に、林は、妥協案の受け入れを正式に表明した。すると、再度、前日の学生が壇上に上がった。固唾をのんで様子を見守る学生たちの前で、彼は次のように語った後、静かに壇上から降りた。

 『撤退の方針は個人的には受け入れ難いです。でも、ぼくの意見を聞いてくれたことを、感謝します。ありがとう』

 それから、2日をかけ、院内を隅々まで清掃すると、運動のシンボルとなったヒマワリの花を一輪ずつ手に持って、学生たちは静かに立法院を去っていった。
 
 この小さなエピソードの中に、民主主義の本質が浮かび上がったようだった。民主主義は『民意』によって、なにかを決定するシステムだ。だが、『民意』をどうやってはかればいいのか。結局のところ、『多数派』がすべてを決定し、『少数派』は従うしかないのだろうか。

 学生たちがわたしたちに教えてくれたのは、『民主主義とは、意見が通らなかった少数派が、それでも、「ありがとう」ということのできるシステム』だという考え方だった。
彼らが見せてくれた光景は、彼らが勝ち取った政治的成果よりも、重要だったように、わたしには思えた。それは、わずか数百の参加者で、たまたま「直接民主主義」が実現されいた場所だから可能だったのだろうか。」

 そして高橋源一郎は、「民主主義の原理を記した、ルソーの『社会契約論』には、不思議な記述がある。ルソーによれば、『表意志』(「民意」と考えていいだろう)は、意見の違いが多ければ多いほど、その真の姿を現すことができるのである。そこに垣間見える民主主義の姿は、わたしたちの『常識』とは異なつている。/もしかしたら、わたしたちは、『正しい』民主主義を一度も持ったことなどないのかもしれない。『民主主義』とは、ドイツの思想家、ハーバーマスの、想像力を刺激することばを用いるなら、一度も完成したことのない『未完のプロジェ クト』」なのだろうか」と結んでいます。

 この高橋源一郎の評論文にも紹介されていますが、NHK・BSの「議会占拠 24日間の記録」がyoutubeのつぎのURLに記録されています。
        ↓
  http://www.at-douga.com/?p=13771

 なお、「りんご学生運動」の指導者・林飛帆が今回の台湾の議会占拠を決意した理由を知りたくて、「Yahoo奇摩 台湾」で検索しますと、「蘋果日報」2014年03月20日の「反骨林飛帆 社運屡見身影」と題された記事で、つぎのように語っていることが分かりました。
      ↓    
 http://www.appledaily.com.tw/appledaily/article/headline/20140320/35713064/#


 私なりに林飛帆の発言を和訳するとつぎのようになります。

「サービス貿易協定に反対する団体の不満を引き起こし、この行為は違法、違憲で民主的な手続きのやり方に違反しており、根本的に密室政治的手法で進めるやり方であり、ここに黒色島国青年戦線(やまもも注:2012年に台湾の大学生、大学院生らが中心となって結成した学生運動団体)は立法院に攻め入ることを決定した。」
「馬英九政権のやり方に天は怒り人は恨んでおり、いま各界は私たちを支持しており、馬英九政権としては全面的にに検討せざるを得なくなった。」
 
 ところで、私がこの台湾の学生運動で一番に疑問に思ったことは、なぜ立法院を占拠した学生たちを警察がただちに強制排除しなかったということです。ネット検索で判明したことは、どうも与党の国民党内で総統の馬英九と立法院院長の王金平との権力争いがからんでいるようです。しかし、国民党内にそのような内紛があったとしても、立法院(国会)が学生に占拠されたのですから、立法院の院長(議長)として黙認できるとは思えません。

 学生の立法院占拠に対する王金平の表向きの発言を知りたくなり、「Yahoo奇摩 台湾」をあれこれ検索し、なんとか台湾唯一の国営通信社である中央通訊社の2014年3月20日の記事に「王金平:学生を保護し追い払わない」と題された記事を見つけました。
       ↓
       ↓
http://www.cna.com.tw/news/FirstNews/201403205003-1.aspx



 同記事によると、立法院に院長(議長)として最高の権限を持つ王金平が立法院占拠後3日後の午前中に官邸の外でメディアが警察の力によって学生を追い払うのかどうかとの質問に対しつぎのように答えたそうです。

「王金平上午在官邸外受訪,媒體詢問是否會動用警察權驅離學生?他說,國會自主對象是立法委員,但目前在議場裡的不是立委,所以不是警察權問題,而是社會治安問題。目前還是保護學生為主,不會強制驅離,並叮嚀學生及抗爭群眾,天氣轉冷要多保重身體健康。」

 私の中国語能力の不足のためだけでなく、同じ中国語とはいっても台湾語で使われている公用語の北京語は大陸の北京語表現と微妙に違っているので、意味がよく分らないところがあります。それでも恥を忍んで自己流に和訳すると以下のようになります。

「国会が自主的に行う対象は立法委員ですが、いま議場内にいるのは立法委員ではありません。ですから、警察の権限とは関係なく、社会治安問題です。いまはやはり学生を保護することを優先し、強制的に追い出したりはしないし、さらに学生や抗議する大衆とは穏やかに接したいと思うし、天気も急に寒くなったので健康にはくれぐれも注意してもらいたい。」

 流石は海千山千の政治家ですね。おそらく後で揚足を取られないようにこんな意味不明のことを言ったのだと思います。ただ、立法府の最高責任者として立法院を占拠した学生たちを強制排除しないということだけは分りますね。そのような王金平の態度が学生運動に幸いして長期占拠が可能となり、4月6日には王金平が議会を占拠する学生たちに「在兩岸議監督條例草案完成立法前,將不召集兩岸服務貿易協議相關黨團協商會議(中台の議案を監督する条例草案が立法化されるまで、中台サービス貿易協議に関する国会議員による審議は行わない)」と約束するような成果を挙げることが出来たのですね。台湾のこの学生運動から学ぶべきことは多々あると思いますが、日本でも国会占拠の戦術を真似ようなんてことは考えないで下さいね。






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最終更新日  2016年01月17日 15時36分56秒
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2015年11月12日
カテゴリ:映画鑑賞

       kano

 鹿児島市天文館のマルヤガーデンズ内にあるミニシアター「ガーデンズシアター」で台湾映画「KANO」を観てきました。映画の「KANO」という題名は、戦前に日本が植民地として統治していた台湾に実在した嘉義農林学校(かぎのうりんがっこう。現在の国立嘉義大学)の日本語読み略称「嘉農」(かのう)から由来しています。

 この嘉農は、1931年8月13日から8月21日まで甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会に台湾代表として初出場し、いきなり準優勝を果たし、一躍注目を集めました。その後も1932年夏、1935年春と夏、1936年夏と甲子園に出場しています。

 私の父は、日本の植民地時代の台北帝大出身者ということもあり、よく子どもの私にカギノーリンが甲子園で活躍した話をしてくれました。オヤジの話ですと、カギノーリンには高砂族(台湾の少数民族)出身のものすごく足の速い選手たちがいて、その足の速さを活かして甲子園で大活躍し、当時の日本でもすごい評判になったとのことでした。

 私の父は1921年生まれですから、このカギノーリンこと嘉義農林学校が台湾代表として甲子園に初出場していきなり準優勝した1931年は、父がまだ10歳の頃のことで、最後に台湾代表として甲子園に出た1936年のときでも15歳ですから、オヤジが生まれた奈良市でその評判を耳にしたのだと思います。しかし、台北で学ぶようになったこともあり、足の速いカギノーリンの高砂族の選手の話は父にその後も強い印象を残したのでしょう。

 そんなこともあって、マルヤガーデンズ内にあるミニシアター「ガーデンズシアター」で台湾映画「KANO」を観ることになったのですが、観終わって思ったことは、近藤兵太郎(永瀬正敏)というアニメ「巨人の星」の星一徹のような人物に鍛えられて弱小チームが甲子園で準優勝するまでになるという典型的なスポ根映画は、野球の実況シーンはとてもスピーディで迫力に富んでおり、それなりに面白かったのですが、嘉南大圳とこの水利施設建設に大きな役割を果たした八田与一のエピソードが不自然に挿入されているところ等に疑問も感じました。

 この映画が台湾でヒットした理由の一つに、日本統治時代の再評価と言うことがあると思います。間違いなく、日本の統治により台湾からペスト、コレラ、赤痢、発疹、チフス、腸チフス、ジフテリアなどの伝染病の脅威がなくなり、大型水利設施の建設により荒れ地や沼地が豊かな田畑に生まれ変わりました。しかし、戦後になって大陸から入って来た外省人による国民党統治時代にはそのような日本統治時代の成果が評価されませんでした。それでも本省人(戦前から台湾で生まれ育った漢民族)には、外省人の国民党統治より日本植民地時代の方が汚職なども少なかった、治安もよかったとする親日の雰囲気が残っていました。

 1996年以降の台湾民主化によって日本統治時代のことも次第に知られるようになり、その頃まだ子どもだった人がいまは20歳以上となり、この「KANO」という映画で初めて嘉義農林学校が台湾代表として日本の甲子園で大活躍した事実も知り、特に嘉義農林学校を率いる近藤兵太郎監督の「民族の違いがなんだ。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人、俊足の台湾原住民、それぞれの強みを生かしたらいい」との指導方針によるサクセスストーリィに痺れたのだと思います。

 ただし、今年亡くなられたミステリー作家の陳舜臣さんが『青雲の軸』で生まれ育った台湾で受けた民族差別の体験を語っていますが、日本統治時代の光と影を正しく見つめることが必要だと思います。

 私の父は台北帝大で農学を学んでいたので、日本人技師による台湾の大型水利施設の重要な役割を強調していました。しかしまた、当地の日本人の台湾人に対するあからさまな差別的言動に非常な違和感を覚えたことも正直に語っていました。

陳舜臣さんの『青雲の軸』でも、日本で一緒に受験した李騰志という台湾人が作者に「日本に来て、ちょっとふしぎに思ったことがあるんだ。こちらの人間には、あの日本人の目がない。意外だったなあ」と言っています。「あの日本人の目」とは、台湾での日本人の目に表れる台湾人に対する差別的態度のことです。

  なお、平田宗興さんがご自身のfacebookに5月に台湾の嘉義を訪れておられ、そのときに写真に撮られておられますので、紹介させてもらいます。

       ↓

  https://www.facebook.com/okihirata/posts/891964700865462?pnref=story

      https://www.facebook.com/okihirata/posts/891962307532368?pnref=story

 

 それから、他の方がこの映画についてどのように評論されているか知りたくなり、ネットをいろいろ検索し、ナドレックさん運営の「映画のブログ」に「『KANO 1931海の向こうの甲子園』は親日映画なの?」と題された「KANO」についての映画評論があることを知り、読ませてもらいました。
        ↓
  http://movieandtv.blog85.fc2.com/blog-entry-522.html
  
 ナドレックさんによると、この映画が台湾で2014年2月27日に封切られ、「そこから3ヶ月ものロングランになったが、この時期は『ひまわり学運』、すなわち立法院を占拠した学生運動の時期にピタリと重なる」とのご指摘があり、大いに納得させられました。

 2008年に台湾の中華民国総統に就任した馬英九の親中政策により、台湾が「中国の経済植民地」になるのではないかとの懸念が「ひまわり学運」の学生運動となり、世論も学生を支持するような状況下でのこの映画の大ヒットが生まれたという視点を新たに得ることか出来ました。

 そういった視点からこの映画を見直しますと、大ヒットの理由は単に日本統治時代の再評価ということではなく、嘉義農林学校を率いる近藤兵太郎監督の「民族の違いがなんだ。守備に長けた日本人、打撃力のある台湾人、俊足の台湾原住民、それぞれの強みを生かしたらいい」との言葉にあるように、中国大陸による中台一体化の併呑の危機を感じた台湾の人々の外省人、本省人、少数民族の枠を超えた多民族主義的な台湾ナショナリズムの高揚と重なったからと言うべきかもしれませんね。






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最終更新日  2015年11月17日 09時15分53秒
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2015年11月08日
カテゴリ:エッセイ

 退職後サンデー毎日の私ですが、10月31日の土曜日と昨日11月7日の土曜日と同じ土曜日に2週続けて同窓関連の楽しい出来事がありました。

K君のお嬢さんの結婚式に参加

 10月31日の土曜日には大阪外国語大学中国語学科の同級生K君のお嬢さんの結婚式に招待されて出席しました。以前このブログに「大学同級生のK君との44年ぶりの再会」と題してアップしています。
     ↓
   http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201509130000/

 東京で長年暮らしていたK君が鹿児島に移り住み、大学の同窓会名簿で私が鹿児島市内にいることを知って電話を掛けて来てくれ、それから以降、電話やメールで何度か連絡を取り合っているうちに、今度は鹿児島中央駅隣のアミュプラザ4Fで会おうということになり、9月中旬に大学卒業後44年ぶりに再会いたしました。

 その日、別れる間際にK君から彼のお嬢さんの結婚式が来月末にあるので参加してくれないかと招待され、再会で意気投合したその勢いで快諾したのですが、帰宅後冷静になって考えるとK君のお嬢さんのみならず彼の家族の方と全く交流がなく、正式の招待状を受け取ったとき、慌てて下記のような辞退のメールを送りました。

「口頭で招待を受けたときは、光栄です、喜こんで参加しますと言いましたが、よく考えるとK君のご家族とはこれまで全く交際はなく、新婦の父親としてのK君の友人として招待を受けるに相応しい方々は他におそらくたくさんいらっしゃることと思います。/それで、光栄なことにご招待状を受け取った後で大変失礼なことだと思いますが、今回はやはりご辞退させていただきます。本当に申し訳ありませんが、どうかご理解下さい。」

 しかしK君からすぐに返信メールが届き、結婚式場には新たに連絡を取って席を用意した等のことが書かれており、それをむげに断ったらそれこそ本当に失礼な話だと思い、当日参加させてもらうことになりました。

 当日は秋晴れで、陽光の輝く式場のガーデンテラスでまず人前式がとりおこなわれ、その後140人以上の人々が参加する披露宴が開かれました。つぎつぎと心ろのこもったお祝いのスピーチや新郎の同僚たちの元気なパフォーマンス、新郎の父と新郎の立派なお礼の挨拶などに感心させられ、また素晴らしいお料理にも大いに満喫させられました。

 なかでも私が感激したのは、K君のお孫さん3人が披露したストリートダンス風踊りで、軽快なリズムに乗って可愛いお孫さんたちが元気いっぱい舞台で飛び跳ね踊る姿を見て思わず落涙してしまいました。

 私にはまだ孫がいませんが、私の長男が来年の7月頃に結婚するとの電話をもらったとき、「嬉しいな、孫の顔も見られるね」と返事したのですが、その「孫」という言葉を発したとき、思いもかけずに涙がどっと溢れ出し、涙声になってまともに言葉を続けることができなくなりました。それには自分でも驚ろいたものです。それ以来、最近は「孫」という言葉に条件反射のように涙を流してしまう私です。

大阪市立大学同窓会の鹿児島支部総会に参加

  第2回支部総会

 昨日の土曜日(11月7日)にはいちき串木野市のシーサイドガーデンさのさで開かれた大阪市立大学同窓会の鹿児島支部第2回総会に参加して来ました。私は大阪外大卒業後、大阪市立大学の大学院の文学研究科で4年間東洋史を学んでおり、去年の第1回鹿児島支部総会から参加しています。

 今回の支部総会の企画として、いちき串木野市羽島に建てられている薩摩藩英国留学生記念館見学もありました。大阪市大の前身である大阪商業講習所は薩摩藩英国留学生の一人である五代友厚によって創立されたものであり、 今回の支部総会の企画として立案されたそうですが、健康に自信のない私は辞退させてもらい、総会と懇親会のみに参加させてもらいました。

 前回の総会のときは、退職直後の参加であり、名刺もないままに参加したのですが、今回は直前に拙ホームページ「やまももの部屋」http://yamamomo02.web.fc2.com/とそのURLも印刷された名刺を持参し、自己紹介のときには「やまももの部屋、やまももの部屋、やまももの部屋をよろしく」と連呼したものです。もうビョーキですね。






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最終更新日  2015年11月18日 15時15分20秒
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