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2015年08月27日
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 まさとは、幼い頃は多くの子どもがそうであるように様々なものを集めて楽しんでいました。収集対象は、松ぼっくり、ドングリからビー玉、めんこ、下着、いやいや、下着は集めませんでしたが、とにかくなんでもかでも集めたものです。

 そんな彼が郵便切手を集めるようになったのは小学校の高学年の頃(彼は団塊の世代なので、1950年代後半)だと思います。それまで、地味な色と図案の多かった日本の郵便切手が昭和33年(1958年)になって急にカラフルになり、また鳥居清長「雨傘美人」、安藤広重「東海道五十三次之内・京師」や「第3回アジア競技大会」「ブラジル移住50年」「世界人権宣言15年」など優れた図案の特殊切手(記念切手、切手趣味週間切手、年賀切手などのこと)が次々と発行されるようになります。

 この頃に日本の切手が子どもたちの興味関心を惹きつけるだけの魅力を持つようになり、子どもたちの間に切手ブームが起こりました。その頃、まさとは小学校高学年になっていましたが、彼も例外ではなく切手集めに大いに熱中し始めました。

 まさとの切手収集は、最初、グリコのおまけについていた外国切手から始まりました。しかし、グリコのこの外国切手にはろくなものがありませんでした。そのうちに、まさとは家に来た郵便物に貼られた切手にカラフルで魅力的なものがあることに気づき、母に頼んでハサミで切手の部分を切り取らせてもらい、水ではがしてストックブックに整理するようになりました。この方法での切手集めが彼にものを集める楽しさをなによりも実感させたようです。

 使用済み切手を集めることにすっかり熱中したまさとは、ある日、親の留守中に無断で家の中を家捜しをしたことがあります。そのとき、普段使わない奥の部屋の押し入れの襖も開けてみましたら、しめしめ、その中に挨だらけの大きな麻袋が一つ見つかりました。いかにも古い郵便物がぎっしりと詰まっていそうです。彼は、期待に胸を大いに膨らませながら、逸る心を抑えつつこの袋の紐を解きました。しかし、残念、郵便物は全く入っていませんでした。でも、その代わりに、その袋の中には古い書籍がいっぱい入っていました。

 これらの書籍にはとても粗悪な用紙(戦後統制のために物資が不足し、娯楽用出版物は用紙の確保ができず、古紙などを漉き直した再生紙に印刷されていました)が使われており、書いてある言葉も難解なものが多かったのですが、内容は小学校高学年になっていた彼にとってとても有意義なもので、それらを親に黙って国語辞典を引きながらこっそり読み耽るようになりました。

 まさとが両親に無断で読み耽ったのは、敗戦直後に雨後の筍のように出版されたいわゆるカストリ雑誌でした。きっとまさとの父親が購入し、子どもの目には触れないように隠していたものに違いありません。おっと、カストリ雑誌なんて言葉はいまの若い人には死語でしょうね。三省堂の『新明解国語辞典』には、「滓(かす)取り焼酎」について、「酒の滓をしぼりとって作った下等な焼酎。アルコール度が高い」と解説し、肝心の「滓取り雑誌」については、「三合飲めばつぶれるといういうことから、三号で廃刊になるような粗悪な雑誌」とまさに「明解」の名に恥じない見事な解説をおこなっています。これらカストリ雑誌の多くが戦争中の抑圧の反動なんでしょう、性風俗を主題にしており、なんとも隠微で淫らな感じの文章と扇情的な挿し絵によって構成されていました。

 さて、まさとはカストリ雑誌でいろいろ大事なことを真剣に学びつつ、切手集めへの情熱と努力もその後しばらく続きました。家での古い郵便封筒こ貼られている使用済み切手は漁り尽くしたので、祖父母や知人にもお願いして集める努力をしました。また、新しく発行される特殊切手は、新聞で発行日をチェックし、その日に最寄りの郵便局で買うようになりました。しかし、古い切手の方は入手できない切手がまだまだ沢山ありました。そのために、学校の友だちと切手の交換もしましたが、さとしが欲しい切手は友だちみんなも欲しがっているものばかりですから、交換には限度があります。後はお金を出して購入するしか方法がないようになりました。

 ところで、まさとと同じ団塊の世代である漫画家の西岸良平が『夕焼けの詩』第28巻(小学館)に「切手」と題してこの昭和30年代の子どもたちの切手熱を描いています。そこに登場する一平君は、切手を買うお金をお母さんからもらおうとして、「手紙も出さないのに切手ばかり買い込んでムダづかいして」とお母さんに叱られてしまいますが、そのときに一平君はつぎのような反論をおこなっています。

「チェッ、ムダづかいじやないや、これでもマネービルのつもりなんだい!」
「ほら、このカタログを見てごらんよ、二年前に郵便局で十円で売っていた記念切手がもう三十円だよ! もっと前の『月に雁』なんて八円だったのが千円以上になっているんだ、貯金なんかよりずっとわりがいいだろ」

 一平君が言っている「月に雁」とか「見返り美人」なんて切手は、小学生には高嶺の花でしたから、まさとはこんな高額な切手を入手することは初めから諦めていましたが、でも少年向け月刊誌に載っている通信販売の切手のなかで安いものはお小遣いを貯めてよく買うようになりました。

 まさとが中学生になって初めて迎えたお正月、彼はこれまでにない大金を手に入れました。祖父母や親類の人たちからもらったお年玉が小学生のときに比べて大幅にアップしたのです。彼は、それではと喜び勇んで私鉄に乗ってトンネルを越えて大きな街のデパートまで切手を買いに出かけることにしました。

 デパートの切手売場のガラスのショーケースのなかには前から欲しい欲しいと思っていた切手がずらっと並べられていました。そして、その周りには獲物にたかるハイエナの様に沢山の子どもたちが群がり集まり、それらの切手をじっと食い入るように眺めていました。まさとは彼らの熱い視線に耐えながら十数枚の切手を買いました。それらのなかには、年賀切手「羽子板をつく少女」(1949年発行)や原節子によく似た看護婦さんがにっこり微笑む「日本赤十字社創立75年」(1952年)なんて切手もありました。

 しかし、不思議ですね、前から欲しい欲しいと切望していた切手を一遍に十数枚も買えたのに、デパートからの帰り道、まさとは全然喜びを感じませんでした。家でこれら買ったばかりの切手を眺めていると、羨ましそうに彼を見ていたあのショーケースの周りの子どもたちの眼が思い出されて来ます。そしてまた、彼らの前で高額の金を支払ったときのあのなんとも言えぬ抵抗感が彼の心によみがえるのです。その日から彼の切手コレクションへの情熱は急速に萎えていきました。それから以降、まさとの切手収集は郵便局で新しく発行された特殊切手を買うことに限定されるようになりました。そして、東京オリンピックが開催された1964年に空前の切手ブームが到来したとき、まさとは切手への関心を完全に失っていました。

 大人になってからも彼には収集癖は全くありません。

                          2011年10月5日記





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最終更新日  2015年08月27日 17時00分01秒
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2015年08月16日
カテゴリ:鹿児島
yamagutiakira

8月9日に霧島アートの森で開催された山口晃画伯と同美術展については、4月24日に開かれた立川志の輔師匠の独演会においてアンコールで登場した志の輔師匠から紹介があって初めて知り、さらに4月26日のNHKのEテレ「日曜美術館」で「画伯!あなたの正体は? ドキュメント・山口晃」でこのユニークな画家とその絵の概要を知ることが出来ました。

それで私たち夫婦は8月9日に鹿児島に帰省していた次男の運転で霧島アートの森で開かれている山口晃展を鑑賞に行きました。今回の展示展テーマが「汽車とかたな」ということで、刀を扱った「無残ノ介」の墨絵漫画が展示作品の約半数を占めており、それらの漫画には正直言って首を傾げさせられましたが、明治、大正、昭和、平成の時空間を超越させて自由奔放にしてかつ細緻でリアルなタッチで描き出されてた汽車や建物、乗車客の絵にはなにか懐かしくなるような不思議な世界が展開されていました。この展示会で「平成の大和絵師」と称される山口晃画伯の魅力の一端を垣間見ることが出来ました。

なお、今夜(8月16日)の午後8時からNHKのEテレで「時代の先頭を走る画家・山口晃」と題して4月26日に放映された山口晃画伯のドキュメント番組が再放送されますので、興味を持たれた方はぜひご覧ください。







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最終更新日  2015年08月16日 13時10分55秒
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2015年08月06日
カテゴリ:読書
     hibana

又吉直樹『火花』(文藝春秋、2015年3月)が芥川賞を受賞し、大変な評判なので購入して読んでみました。

 あらすじを把握したり、興味深い表現などをチェックするために付箋を貼り付けていましたら、大半の頁に付箋を貼り付けてしまい、ほとんど付箋の役割が果たせなくなってしまいました。こんな体験は久しぶりです。視点人物の「僕」(徳永)と彼が尊敬する神谷という若手お笑い芸人の「世界の常識を覆すような漫才をやる」ことへのあくなき探究を描いた青春小説の内容が私にとってとても新鮮であり濃密だったからだと思います。

 この小説は花火の場面で始まり、花火の場面で終わります。最初の花火は「僕」たち「スパークス」や神谷たち「あほんだら」のコンビの姿や声を矮小なものにして無残に圧倒する爆音と夜一面を覆って花開くものとして描かれ、ラスト近くには大手スポンサー名とともに次々と打ち上げられる壮大な花火に混じって「ちえちゃん、いつもありがとう、結婚しよう」のメッセージとともにとても地味な打ち上げ花火が描かれます。このラスト近くの地味な花火に見物の観客たちの反応が次のように描かれ、私に強烈な印象を残しました。「しかし、次の瞬間、僕たちの耳に聞こえてきたのは、今までと比較にならないほどの万雷の拍手と歓声だった」とあり、「僕」も神谷さんも共感の拍手を激しく送り、「これが、人間やで」とつぶやいています。

 しかし、この小説の題名は「花火」ではなく「火花」です。次々と生み出されるお笑い芸人たちと競争の火花を散らす姿や、「僕」と神谷が交す日常的な会話でさえも白刃を交え火花を散らす姿が描かれています。

 神谷「お前は父親になんて呼ばれてたん」
 「僕」「お父さん」
 神谷「もう一度聞くけど、お父さんになんと呼ばれてたん」
 「僕」「オール・ユー・二ード・イズ・ラブです」
 神谷「お前は親父さんをなんて呼んでんの?」
 「僕」「限界集落」
 神谷「お母さん、お前のことなんて呼ぶねん?」
 「僕」「誰に似たんや」
 神谷「お前はお母さんを、なんて呼ぶねん?」
 「僕」「誰に似たんやろな」
 神谷「会話になってもうとるやんけ」

 あきまへんな、「僕」のボケは無理やりひねり出した人工的なもんから息が続かずにほんまに日常会話に堕してしまってますがな。せやけど神谷が「会話になってもうとるやんけ」と鋭いツッコミを入れるさかい、「僕」のしょうもないボケもボケとしてなんやしらん笑えますから笑いって不思議なもんでんな。

 それに比較して、「僕」が神谷と秋の世田谷公園を歩いていて、他の楓が色づいているのに一本だけ緑を残した楓を見て「僕」が「師匠、この楓だけ葉が緑ですよ」といったとき、神谷は凄い笑いの冴えを発揮しています。

 神谷「新人のおっちゃんが塗り忘れたんやろな」
 僕「神様にそういう部署あるんですか」
 神谷「違う。作業着のおっちゃん。片方の靴下に穴開いたままの、前歯が欠けてるおっちゃんや」

 そして神谷は「僕」の欠点は綺麗なファンタジーになるところにある批判し、「楓に色を塗るのは、片方の靴下に穴開いたままの、前歯が一本欠けたおっちゃんや。娘が吹奏楽の強い私立に行きたい言うから、汗水たらして働いてるけど、娘から臭いと毛嫌いされてるおっちゃんや」とファンタジーから遠く離れた猥雑な世界に笑いを着地させます。うーん、見事ですね。

 お笑いを提供する商品として大量生産、大量消費され、自然淘汰されていく芸人のあり方に「僕」も神谷も肯定的です。神谷は言います。「漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。もし世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。そいつ等がやってないこととか、そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ? ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代で売れるのは一握りかもしれへん。でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。でもな、淘汰された奴らの存在って、絶対に無駄じゃないねん。」

 神谷は「僕」と日常会話のなかで白刃を交えているときは、凄い腕前を見せるのですが、舞台ではさっぱり人気を得られないようです。その理由がつぎのエピソードから何となく分かるような気がします。泣き止まない赤ちゃんに対し、「恩人の墓石に止まる蠅二匹」「俺蠅きみはコオロギあれは海」「蠅共の対極に居るパリジェンヌ」「母親のお土産メロン蠅だらけ」と蠅川柳を語り続けるのです。

 「僕」が赤ちゃんに「いないないばあ」と定番の言葉を発しても泣き止まないことに対し、神谷は「あれは面白くない」と切って捨てるのですが、こんな誰であろうと一切ぶれずに自分のスタイルを全うする神谷に「僕」は自分の軽さを感じるのでした。

 神谷は面白いことのためなら暴力的な発言も性的な発言も辞さない覚悟を持っていました。そんな神谷が追い求める面白いものとは次のようなものだと「僕」は推測します。「神谷さんが未だ発表していない言葉だ。未だ表現していない想像だ。つまりは神谷さんの才能を凌駕したもののみだ。この人は、毎秒おのれの範疇を越えようとして挑み続けている」。

「僕」はこんな神谷さんから計り知れぬ影響を得ながらも、独りよがりでなく目の前のお客さんを笑わせたいと思うようになり、少しづつではありますが人気を得ていきます。

 しかし、相方の山下が同棲している彼女のお腹の中に双子の赤ちゃんがいることが判明し、「スパークス」のコンビを解消たいと告げられた時、「僕」自身も芸人を辞めて別の人生を歩むことを決断します。

 そして「スパークス」解散ライブで素晴らしい芸を披露します。「僕」が口上として「世界の常識を覆すような漫才をやるために、この道に入りました。僕達が覆せたのは、努力は必ず報われる、という素敵な言葉だけです」と切り出し、相方が「あかんがな!」とツッコミを入れるところから始まります。そして「僕」が「あえて反対のことを言おうと宣言した上で、思っていることと逆のことを全力で言おう」と提案し、「お前は、ほんまに漫才が上手いな」から開始して、「一切嚙まへんし、声も顔もいいし、実家も金持ちやし、最高やな!」と言った調子で観客に今回の漫才の趣旨を充分に伝え、その後つぎつぎと大きな声で唾を散らしながら逆説的な表現で思いを吐き出していきます。

 「僕を嫌いな人達、笑わせてあげられなくてごめんなさい」「ほんで、客! お前等ほんまに賢いな! こんな売れてて将来性のあるライブに一切金払わんと連日通いやがって」「お前等、ほんまに賢いわ。おかげで、毎日苦痛やったぞ。ボケ!」「僕の夢は子供の頃から漫才師じゃなかったんです。絶対に漫才師になんて、ならんとこうと思ってたんです。それがね、中学時代にこの相方と出会ってしまったせいで、漫才師になってもうたんですよ。最悪ですよ!そのせいで僕は死んだんです。こいつが、僕を殺したようなもんですよ。よっ、人殺し!」「僕達、スパークスは今日が漫才する最後ではありません。これからも、毎日皆さんとお会いできると思うと嬉しいです。僕はこの十年を糧に生きません、だから、どうか皆様も適当に死ね!」

 こんな調子で繰り広げられた漫才を見た神谷が「めっちゃ面白かったな」「あんな漫才見たことないもん。あの理屈っぽさと、感情が爆発するとこと、矛盾しそうな二つの要素が同居するんがスパークスの漫才やな」と手放しで絶賛します。

 しかし、妥協せず、騙さず、自分が面白いと思ったものを舞台で披露する神谷はいつまで経っても人気が出ず、彼自身にも「面白いもの」に対する迷いが生じ、なんと自分の胸にシリコを入れて巨乳にするというグロテスクなことまでやり出します。笑いの神髄をとことん追及して一番笑いから遠いところに落ち込んでしまったようです。

お笑いの世界の自然淘汰の厳しさと哀しさを内部にいる人間だからこそ純文学作品に昇華することのできた傑作だと思います。





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最終更新日  2015年08月09日 20時37分11秒
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2015年07月18日
 内川さんが就職して職場の独身寮に住んでいた頃のことである。

 寮の夕食も終わり、個室で待っていると、おいでなすった、ピンポーンと呼び出し音が鳴りました。ドアを開けるとやはり桃畠一二三(ひふみ)さんでした。愛嬌のある笑顔で右手の親指と人差し指で輪を作ってグイと酒をひっかけるマネをして「今日も行きませんか」といつものようにお誘いです。それで内川さんは桃畠さんと一緒に近くの居酒屋に出掛けて行きました。

 内川さんが職場の独身寮に住んで一年後に桃畠さんも入寮して来ました。入寮の挨拶に来た桃畠さんの話だと、桃畠さんは内川さんより一歳年下の東京生まれとのことでした。堅物の内川さんと違い、桃畠さんは大学生の頃から飲み屋街のネオンの色に染まっていたようで、すぐ内川さんを近くの居酒屋に誘うようになりました。

 正直言って内川さんには慣れない居酒屋行きなんか迷惑な話だったんですが、桃畠さんは全く気にする風もなく内川さんを週末になると必ずと言っていいほど居酒屋に誘い、内川さんもそんな週末の居酒屋通いが結構楽しくなりました。

 近所の国道沿いにある居酒屋に赤提灯が点っていましたが、内川さんは桃畠さんといわゆる赤提灯談義といわれるような職場の噂話などはほとんどしませんでした。雄弁な桃畠さんがもっぱら文学論を語り、内川さんがほぼ聞き役に徹していたのですが、二人の波長は合っていたようです。しかし内川さんは内心思うのでした、なんで自分のような堅物を誘うのだろうかと。

 居酒屋では、桃畠さんはなかなか雄弁でしたが、また都会人らしいスマートさで自説に固執するようなことはありませんでした。しかし桃畠さんが高く評価するオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」や森鴎外の「安部一族」について、内川さんがいまいちその良さがよく分からないと正直に言ったとき、桃畠さんは「うーん、内川さんならそうでしょうね。残念ですがまだまだ成長が足らないようですね」などと言って内川さんを苦笑させたものです。しかしこんな辛辣な表現も桃畠さんの口から出るととても愛嬌があって憎めませんでした。

 しかし、くどいようですが、どうして桃畠さんは内川さんのようななんの面白味もない堅物人間を居酒屋に誘い続けたのでしょうか。もしかしたら内川さんの田舎町出身らしい朴訥さや愚直さが東京生まれの桃畠さんを安心させたのかもしれませんね。

 桃畠さんは彼個人の滑稽な失敗譚をよく酒の肴にしていました。職場の勤務時間終了後、グラウンドでソフトボールのキャッチボール練習をしていたら、フライを取るにはじっと飛球から目を離さずにいることが大切だと教えられ、その通りにして顔を上げ続けていたら目ん玉にもろに大きなボールが当たってしまったというような話で、二人で大笑いしたものです。しかし、内川さんは太宰治の「人間失格」で道化を演じる主人公に「ワザ、ワザ」と声を掛けた竹一少年の気持にもなったものでした。

 桃畠さんの出身高校は当時全国屈指の超難関校の都立日比谷とのことでしたから、幼い頃から成績抜群の「できる」子どもだったに違いありません。幸か幸か内川さんはそんな「できる」子どもではありませんから、桃畠さんの滑稽な失敗譚を聞いても内川さんの竹一少年的側面が邪魔をしてどうしても心から笑えませんでした。

 内川さんは内心やはり思うのでした、なんで自分のような人間を誘うのだろうかと。えらくしつこいですね。でもね、内川さんが疑問に思うのも仕方がないんですよ。内川さんには中学校進学以降ただ一人も親友がいなかったのですよ。内川さんには赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかったのです。ただ書物だけが親しく語り合う相手だったのです。そんな内川さんにとって、居酒屋に遠慮なくいつも誘い掛けてくる桃畠さんにはいささか戸惑いを感じました。でもそんな内川さんだからこそ、桃畠さんは彼に敏感に同類のにおいを嗅ぎ取っていたのかもしれませんね。

 内川さんと桃畠さんとの居酒屋の付き合いが一年近く続いたある夕方のことです。桃畠さんがいま付き合っている女性が自分の部屋を訪れるから、内川さんも部屋に来てくれないかと真剣な顔で言うのです。彼の部屋には同じ独身寮の住人が三人すでに呼ばれており、その女性が来ると桃畠さんは子どもの頃に習ったというバイオリンをやおら取り出して弾き始めました。

 前にもに桃畠さんからそのバイオリンの音色を聴かされたことがありますが、お世辞にも上手とは言えませんでした。下手なバイオリンは「ギーコ、ギーコ」とノコギリで木を切るような音がしますね。ちょっと酷い譬えですが、桃畠さんのバイオリンはそんな感じでした。桃畠さんは彼女の前でバイオリンを弾き出しましたが、音楽にはさっぱり疎い内山さんには曲名も分からず、彼には失礼でしたがその場で大笑いしてしまいました。そこにいた他の三人もつられて笑い出したものです。しかし彼女は最後まで黙って静かに聴いていました。内川さんの心にも「ワザ、ワザ」という竹一少年の声は聞こえませんでした。

 桃畠さんはなんで付き合い始めた相手に下手なバイオリンを聴かせたかったのでしょう。後で知ったことですが、桃畠さんは知人の奥さんの紹介で彼女との交際が始まったそうです。桃畠さんはきっと結婚を決意したとき、釣書にすまし顔でお利口さんに収まっているような自分ではなく「本当の自分」をさらけだしたかったのでしょう。バイオリンは下手だけれど、ありのままの自分をさらけ出す姿を見てもらいたかったのでしょう。そして彼女も、最後まで懸命に弾き続ける彼の姿に感動したに違いありません。

 その後、しばらくして内川さんは桃畠さんからその女性と結婚することになったと告げられました。桃畠さんは独身寮から出て行き、もちろん内川さんの居酒屋通いにも終止符が打たれました。

 桃畠さんとは彼が他の職場を移ったこともあり、その後は年賀状の遣り取りぐらいしか交流がありませんでしたが、10年前に桃畠家から訃報が届きました。年齢は内川さんより1歳年下ですから57歳で他界したことになります。内川さんは最近嗜むようになったウイスキーの水割りグラスの氷の音を静かに聴きながら、桃畠さんの早世理由がお酒の飲み過ぎと関連しているのかもしれないなどと考え、酔いが回って目の縁をほんのりと紅くしていた桃畠さんの愛嬌のある笑顔を懐かしく思い出すのでした。

                         2015年7月18日





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最終更新日  2015年08月05日 23時07分02秒
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2015年07月14日
カテゴリ:落語
志らく

 2015年7月11日に鹿児島市の南日本新聞会館「みなみホール」で「立川志らく独演会」が開催され、私たち夫婦も大いに楽しんで来ました。

 鹿児島市で開かれる「立川志らく独演会」も今回で6回目になり、私たち夫婦は2010年7月25日に開催された第1回目から今回の6回目までずっと聴きに出掛けており、皆勤賞をいただけそうですね。今回の「立川志らく独演会」の演目は、立川らく次「松曳き」、立川志らく「二人旅」、立川志らく「子別れ」の三席でした。


 さて開演で最初に高座に上がったのが予想通り立川らく次さんで、2011年7月17日の鹿児島市開催の第2回目「立川志らく独演会」以来4回目の出演です。南日本新聞の志らく師匠のエッセー「南国太平記」のさし絵を担当しているという関係もあるかもしれませんね。

 立川らく次さんの「松曳き」は、今年5月24日に鹿児島市内の黎明館2階講堂で開かれた「桃月庵白酒独演会」でも聞いており、白酒師匠が登場人物の赤井御門守と家老の三太夫とをともにお馬鹿さんに仕立て、両者の間で繰り広げられる滑稽譚として演じていましたが、らく次さんの「松曳き」では殿様はまともな人物のようで、三太夫の粗忽者振りを際立たせていました。しかし、この殿様も自分に姉などいないのに、粗忽者の三太夫から「殿様お姉上様ご死去」との誤報を伝えられて驚ろき涙するのですから、やはり落語世界の住人のようてす。

 立川志らく師匠の「二人旅」は、まずマクラで師匠自身のネット被害のこと(パソコンがウイルスに汚染され、パソコン、携帯などの個人情報が盗まれ、遠隔操作、盗聴等の被害体験)や、2011年に談志師匠が亡くなり、談志師匠の長女の松岡ゆみこ氏から談志師匠が40年前に購入して暮らしていた東京都練馬区の中古の一軒家の庭には談志師匠が愛した八重桜があり、談志師匠の遺骨の一部がこの樹の根もとに埋葬されていることもあり、弟子の志らく師匠に一億円で買ってもらいたいとの依頼があり、この話を耳にしたテレビ朝日が同テレビ局の『大改造!!劇的ビフォーアフター』にその建物のリフォームの様子を取り上げ放送した顛末を面白可笑しく語りました。

 今回のリフォームでは、老朽化が進んでいる談志邸の改善以外にも談志師匠が大切にしていた資料や着物などの救済や整理も行われ、一部を談志ミュージアムとして完成させ、志らく師匠一家はリフォームの済んだ旧談志邸の借家人として暮らすことになったそうです。

 本題の「二人旅」は、江戸っ子二人が旅の途中で退屈を紛らすために謎かけ、尻取り、都都逸作り等をしながら道中を続ける噺ですが、噺家の腕の見せどころはこの二人の取り留めもないような対話を観客を飽きさせずに聴かせられるかどうかです。謎かけで「火事場の纏と掛けてなんと解く。その心は燃えるほど振られる」といった調子で、都都逸作りでは「道に迷って困ったときは、知らなきゃどこかで訊くがよい」なんて実にくだらなくて、志らく師匠は見事にこの道中噺に江戸の風を吹かせていましたよ。

 中入り後に志らく師匠は「子別れ」を演じました。この人情噺は上・中・下の三部構成であり、通常は上の「強飯の女郎買い」を省き、中の「子別れ」と下の「子は鎹(かすがい)」を合わせて演じることが多いのですが、今回は志らく師匠がこの人情噺全編をしっとりと語り、ときどき八百屋のおやじを唐突に登場させて笑いを取る以外は会場の観客も静かにしんみりと聞いていました。

 なお、今回の独演会について拙サイト「やまももの部屋」の「十人十席の噺家の高座」に追加しておきました。
          ↓
  http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/shirakubusyoudoko.html





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最終更新日  2015年07月17日 08時08分23秒
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2015年07月11日
コンコンきつねさん、こんにちは、鳥井信治郎が進学した大阪商業学校についてのとても興味深い御指摘に感謝いたします。

 まず初めに、私が「寿屋創立者の鳥井信治郎が進学した大阪商業学校とは」と題してブログに載せた拙論に対する誤解があるようですので、その誤解を解かせてもらいたいと思います。コンコンきつねさんは、やまももが鳥井信治郎の進学先の大阪商業学校が「結論的には大阪市立大学では」としていると考えられたようですね。

 しかし、この長文の拙論の目的はネット内に拡散している鳥井信治郎の進学先を「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」とする説に疑問を呈し、結論として、「『大阪商業学校』をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです」というものでした。

 ただ、コンコンきつねさんがパソコンで「近代デジタルライブラリー 大阪府誌 第四編」の299コマから230コマに載っている「私学 大阪商業高校」の説明から、同私学が「明治廿三年六月に至り生徒増加して校舎狭隘を告げしかば更に北区梅田出入橋畔に移転し」とあることを見つけられ、森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』中の「鳥井信治郎年譜」の鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地「北区梅田出入橋」と同じことから、「大阪商業学校」とは私学の「大阪商業学校」のことであり、現在の大商学園高等学校ではないかと指摘されていることには一理あるように思います。学校の所在地からそう判断されたのですね。

 ただ、市立大阪商業学校も以前は西区江戸堀南通にあったのですが、信治郎少年が大阪商業学校に進学したという1890年(明治23年)から2年後の1892年(明治25年)に北区堂島浜通2丁目に移転しており、この新校舎の所在地も北区梅田出入橋畔付近にあったんですよ。ですから森杉久英が『鳥居信治郎伝 美酒一代』で大阪商業学校の当時の所在地の西区江戸堀南通と移転後の北区梅田出入橋とを混同して書いた可能性は大いにあり得ると思います。しかし、1909年(明治42年)の「北の大火」でこの堂島校舎は全焼し、1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転しています。

 所在地だけでは、鳥井信治郎の進学した「大阪商業学校」(実際は同校附設の甲種商業学校だろうと推測しています)が公立なのか私立なのか判断に迷うところですが、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史の71頁に鳥井信治郎の学歴について「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ」としています。

 また森杉久英の『鳥居信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫)では、信治郎は明治20年(1887年)に東区島町の北大江小学校に入学し、「翌年の四月には、彼は尋常科四年を飛び越えで、高等科に編入されたという」とありますから、学校の成績は優秀だったに違いありません。

 当時の大阪では成績の良い子弟の進学先は一般に公立学校だったようです。親も余程の特殊事情がない限り新たに設立されたばかりの私立学校より10年前に設立された公立学校に行かせたかったでしょう。また、同校に進学した信治郎も初めから丁稚奉公するつもりではなかったようですが、父親の忠兵衛が彼の長男の喜蔵に家業の米屋を継がせた後、次男の信治郎を大阪商業学校から中退させて丁稚奉公に出しています。

 前掲の森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』によると、明治初年の大阪では、子どもを将来立派な商人に仕立てるには、早くから丁稚に出して下積みの苦労や実地体験をさせることが賢いことだとされていたとしています。次男を進学先から中退させた大阪商人の鳥井忠兵衛のことですから、次男の最初の進学先としては新設の私立学校ではなく公立学校をまず選んだであろうと推測するのですが、これはあくまでも私の勝手な推測でしかありません。なんとか確証を得たいものだと思っています。





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最終更新日  2015年07月14日 14時40分20秒
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2015年07月07日
 内川さんの母親は職場を定年退職した後、夫(内川さんにとっては勿論父親なんですがね)と一緒に内川さんの家の近くに新たに家を建てて引っ越してきました。


 内川さんが両親の家を訪れますと、いつも彼の母親は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ったものです。彼の母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマ(中国古代の箸の研究)に愛情を注いでいたのです。内川さんは大学で中国語を学んだことがあるのですが、彼の母親も中国語を独学で学んでおり、彼女の中国語の古文(漢文ですね)はもとより現代中国語の論文に対する読解力にも感心させられていました。

 内川さんの母親が亡くなる前日の朝、彼は両親の家を訪れているのですが、そのとき母親は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、彼に温かいコーヒーを出してくれました。その後、いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるなんて内川さんは全く想像もしていませんでした。翌日、内川さんの母は解離性大動脈瘤破裂のため、77才であの世に突然旅立ってしまいました。突然に死が訪れたためでしょう、彼の母はほとんど苦しまなかったようです。その死に顔はとても安らかで、まるで若い頃の彼の母の笑顔を彷彿とさせるものがありました。

 内川さんが両親の家で母親の遺品の整理をしていたとき、段ボールの底から彼の母親が鉛筆で描いたらしい若い女性の横顔の絵が一枚出てきました。

 この絵は、内川さんがまだ独身時代に結婚する相手を決めたとき、当時山陰のM市に住んでいた母親に電話でそのことを伝えたときに描かれたものに違いありません。その時、彼の母親は何度も何度も彼に新しく家族となる女性の顔付きや人柄、雰囲気を質問したものでした。

 そんな内川さんの母親が、まだ見ぬお嫁さんの似顔絵を描いたものを後で彼に見せましたが、それは実際の内川さんの結婚相手となる女性に驚くほどそっくりでした。電話で息子が伝えた婚約者の女性のイメージについて、息子の言葉だけを頼りに一枚の紙にその横顔を再現していたそのときの母親の気持ちを察し、内川さんの両目には自然と涙がにじみ出てきました。

 初めて内川さんが彼女を両親に紹介したとき、内川さんの母親は未来のお嫁さんの手を固くしっかりと握り、息子をよろしくね、よろしくねと繰り返し言い、「まさとは真面目な人間で、浮気なんかする子じゃ絶対ありませんから、それだけは心配しないでくださいね」と言った言葉が内川さんの記憶に鮮明に残っています。母親はそこにいろんな意味を籠めて伝えたかったのだと思います。

 そうですね、内川さんの母親は夫の浮気に何度も涙を流し、幼い頃から夫婦喧嘩の修羅場を見て育った内川まさと君もこと女性関係では石部金吉でずっと通してきましたし、結婚後も浮気なんてちょっと想像しただけで不動の金縛り状態になる人間なんですよ。

 内川さんが本当に真面目人間かどうかはいささか判断に迷いますが、こと異性関係に関しては彼の母親の言葉に間違いはなさそうです。えっ、誰ですか、内山さんの異性関係は「梅雨の季節みたいなもので、降られっぱなし、振られっぱなし」ですって。うーむ、上手いですね。しかしそれって誰かの落語で聴いたことがありますから、オリジナルな謎かけ言葉で「内山さんの異性関係と掛けて何と解く。その心は熱湯が注がれたグラスのようなもので、全くもてません」と言う自虐ネタはどうでしょうか。

 えー、お後がよろしいようで、ちゃんちゃん。





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最終更新日  2015年07月16日 15時24分25秒
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2015年06月22日
カテゴリ:映画鑑賞
  あん
 2014年2月23日の日曜日、南日本新聞会館みなみホールで開催された「柳家喬太郎独演会」を夫婦で大いに楽しんだ夜の帰宅途中、私たち夫婦が車中で偶然耳にしたのが西田敏行と竹下景子が演じるつぎのような内容のNHKのラジオドラマでした。

 ある刑務所帰りの中年男が小さなどら焼き屋を営んでいますが、彼にはどら焼き作りに対する情熱など全くなく、どら焼き用のあんには既製品を使い、なんの創意工夫もなくただ身過ぎ世過ぎのためにどら焼きを作って販売する単調な毎日を送っていました。そんな彼が店に出した「バイト募集、年齢不問」の貼り紙を見て指の曲がった一人の老婆が訪れてきます。バイト募集に年齢不問と書いたけれど、相手は70代半ばの老婆で指も不自由そうです。一度は断ったのですが、老婆が「食べてみて」とタッパーに入れて渡したあんの美味しさに驚ろかされ、雇ってみると彼女は大変なあん作りの名人で、瞬く間に店は繁盛するようになります。しかし、男が体調を壊した翌日から、老婆が店頭で接客もするようになります。ところがそんなどら焼き屋にオーナーの「奥さん」がやって来て、老婆がらい病患者ではないのか言い出し、店の評判が悪くならないうちにすぐに辞めてもらうようにしなさいと言われます。

 このラジオドラマは連続ものだったようで、私たち夫婦が帰宅する前にラジオの第1回目の放送が終わり、面白そうな話だねといいながらもその後続きを聞く機会もありませんでした。ところが約1年後になって、ネットで偶然検索していて、このラジオ番組がNHK「新日曜名作座」で放送されたドリアン助川「あん」という小説の全6話中の第1回目ということが判明し、ポプラ社から販売されているとのことなので早速購入することにしました。


 小説では、どら焼き屋「どら春」を営む千太郎がオーナーの奥さんから老婆の吉井徳江を解雇するように言われたその夜、インターネットでハンセン病について調べ、昔はらい病と呼ばれ不治の病とされて隔離されたが、いまは万が一発病しても即効で完治し、感染源になることもない等のことを知り、吉井徳江を雇い続けることにします。しかし次第に売上がどんどん落ち込み、そのことと世間のハンセン病に対する偏見とが関連していると事情を察した吉井徳江からどら焼き屋を辞めさせてもらいたいと申し出があり、「昔の私はもう生涯外に出られないと覚悟していた」が「自由にここにやってこられて、たくさんの人に会えて、店長さんがやとってくれたからよ」と感謝の言葉を残して店を去っていきます。

 後日、中学生のワカナちゃんがアパートで飼えなくなったカナリヤの入っている鳥籠を持って「どら春」に久し振りに現れ、店で親しくなった吉井徳江からカナリアを預かってもいいと言われているので彼女に会いに行きたいと告げられます。それで千太郎はワカナちゃんと一緒に吉井徳江が住んでいるという「天生園」に赴き、無事にカナリアを吉井徳江に預けることができました。小説はこの「天生園」での千太郎、ワカナと吉井徳江との再会のエピソードを詳しく描き、そのこと通じて過去のハンセン病患者に対する非人道的で過剰な差別的隔離政策とそのなかで生きてきた吉井徳江たちの苦しみと喜こびやいまも私たちの心の奥に横たわる偏見の存在をあぶり出します。

 小説は、後半になって2度目に訪れた「天生園」で吉井徳江からヒントを得た「逆転の発想」の塩どら焼き作りに千太郎がチャレンジする話になります。しかし小説は塩どら焼き作り成功のハッピーエンドで終わるのでしょうか。残念ながら小説はそんなハッピーエンドものではありません。

しかし、徳江から千太郎に寄せられた最後の手紙の満月の囁きの話が強いメッセージを読者に残してくれます。徳江にはずっと「世の役に立たない人間は生きている価値がないという思いがあった」そうです。それがある満月の夜、「園の森を一人で歩きながら、煌々と光る満月を見ているときでした。(中略)月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。お前に見てほしかったんだよ。だから光っていたんだよ、って。その時から、私はあらゆるものが違って見えるようになりました。私がいなければ、この満月はなかった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものはきえてしまうでしょう。ただそれだけの話です」。この小説の読者へのメッセージは徳江が千太郎に手紙に残した「私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた」と言うことなのではないかと思いました。

 この小説を原作とする映画が鹿児島市内でも上映されましたので、どのように映像化されているか興味を持って観に行きました。監督は河瀬直美で、永瀬正敏が千太郎を演じ、樹木希林が吉井徳江を演じ、内田伽羅がワカナを演じ、浅田美代子がオーナー役を演じていました。

 映画は桜並木の桜が満開の通りに店を開いている「どら春」の全景を映し出すところから始まります。桜の花が美しい季節に徳江が千太郎のどら春にやって来て、桜が散った後に瑞々しい緑の若葉が茂り出した頃に雇われた徳江から指導を受けて千太郎が懸命にあん作りに取り組む様子が丁寧に描かれ、雨が街を濡らし紅く色付いた枯葉が散り出す秋雨の季節とともにどら春の売り上げが急速に落ち込み、徳江も店から去って行き、木枯らしが強く吹く寒い季節に千太郎とワカナがカナリヤを徳江に預けに木々がうっそうとはい繁る「天生園」におっかなびっくり入っていきます。このように春夏秋冬の季節のうつろいとともにドラマは進行していきます。

 また徳江の丁寧な指導を受けて千太郎が瑞々しく輝ている小豆を時間を掛けてゆっくりと美味しそうなあんに変えていく様子も映像化の魅力を充分に発揮していました。閉店前に大きなボールに小豆を水でひたしておき、翌朝は日の出とともに店に出て、その小豆をザルに取って濁った水を捨て、鍋に入れてからも何度も沸騰と水差しを繰り返した後、木べらをゆっくり回しながら弱火で煮込んでいくのですが、徳江がときどき小豆に声を掛けており、本当に小豆にも命が宿っているに感じられました。

 千太郎がこのように丁寧に作ったあん入りのどら焼きを一つまるごと食べた後、「俺、どら焼きひとつ食べるなんてまずないことなんですよ。甘党じゃないんですよ」と言って徳江をちょっと驚ろかせる場面も印象的でした。このあんの美味しさが評判を呼び、「どら春」は行列が出来るお店となり、初めは徳江をあん作りだけをする約束で雇ったのですが、忙しくなって接客もしてもらうようになり、そのことから悪いうわさが立つようになり、売り上げが急速に落ちて徳江が辞め、さらに千太郎も「どら春」の店長を辞めざるを得なくなります。

 しかし、この映画のラストは、満開の桜が咲いている広場の小さな屋台の前で千太郎が「どら焼きいかがですか。どら焼きいかがですかあ」と客に声を掛け、そこに子どもの「どら焼きください。10こください」との声がかぶせられて終わっています。千太郎はどら焼き作りをあきらめないで、徳江から教わったあん作りを引き継いで行くつもりのようですね。

 映像化ならではの効果と言えば、どら春で働き始めた徳江の顔に輝きが生まれ、どら春を辞めて「天生園」に引き籠った徳江にその顔の輝きが失われ白髪が増えている姿が観客に強い印象を与えたことと思います。原作のメッセージとは異なり、人が生きるとは他人(ひと)との交わりの中にあり、特に自らの行為が他人(ひと)に意味を持つことにあるのではないかと痛感させられました。それだけハンセン病の隔離政策の非人道性が心に強く訴える映画だったように思います。







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最終更新日  2015年06月25日 14時27分36秒
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2015年06月06日
カテゴリ:カテゴリ未分類
 私がまだ幼かった頃、両親の会話に「きょくがくあせいのと」という耳慣れない言葉が出てきて強く印象に残ったことがあります。当時の日本の首相がトーダイのソーチョウを「きょくがくあせいのと」と罵ったらしいのです。

 後で知ったことですが、 第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本がかつて交戦関係にあった連合国諸国と講和条約を結んで独立しようとしたとき、当時の米ソ冷戦の時代背景下、日本国中が米国側諸国との単独講和かソ連側の国々をも含む全面講和かで世論が分かれ、東大総長の南原繁が卒業式などで全面講和論を唱えたことに、米国側との単独講和を進めていた首相の吉田茂が「曲学阿世の徒」(世間に阿り(おもねり)学問を曲げる連中)と罵倒したのでした。

 当時は東大の総長を、一国の首相が「学者にあるまじき連中の一人」だと罵ったことが強い反響を呼び、私の両親の会話の中にもそのことが出てきたのですが、最近は政治の世界で学者の発言が強い影響力を持つことはあまりないようですね。あの大阪市内の世論を二分した大阪都構想の市民投票にも「大阪都構想の危険性」に関する百名以上の学者が所見を寄せて反対していたこともマスコミの大きな話題にならず、投票結果にもそれほど影響がなかったかもしれませんね。

 しかし、衆参で多数の議員を確保した安倍晋三首相が安全保障関連法案を国会の審議に掛けたところ、6月4日の衆院憲法審査会に出席した3人の憲法学者がそろって同法案を「憲法違反」と断じ、なんとその3人の憲法学者の一人は与党の自民・公明党が参考人として招いた長谷部教授だったというのがマスコミの話題となりましたね。

 衆参国会で多数を占め、多数決原理で慢心していた安倍首相が思わぬところでエラーを犯してしてしまったようですが、多数決原理は学者の世界では通用しないことを忘れていたようです。自民党の佐藤勉国対委員長などは学者を選んだ船田元自民党憲法改正推進本部長を呼び出し、「自分たちが呼んだ参考人の発言だから影響は大きい。安保法制の議論に十分配慮してほしい」と注意を促したとのことです。しかし、与党側のショックは大きいでしょうね。

 もっとも菅官房長官などは、集団的自衛権行使を「全く違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」などと発言しており、今後は宇宙の中心は地球だとする天動説を唱えるような文字通り「曲学阿世の徒」を総動員して世論誘導に励むことでしょうね。





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最終更新日  2015年06月06日 20時30分44秒
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2015年05月30日
 私は朝ドラ「マッサン」の影響を直に受け、最近はいつもウィスキーの水割りを晩酌に楽しんでいます。なお、実在人物のマッサンこと竹鶴正孝は『ウイスキーと私』(NHK出版)で、ウイスキーを毎日飲むような人にはウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、氷の塊を落とした後、そこにミネラルウォーターをその2倍ほど注いで楽しんでいます。

 そんな私ですが、ソーダ入りのウィスキーも初めは自己流に作って飲んだことがありますが、それは一度も美味しいと感じたことはありませんでした。ソーダ特有の苦味がウィスキー独自の味わいを打ち消しているように感じたのです。

 それで試しにウィスキーをソーダで割った「ハイボール」なるものを料理店で注文してみることにしました。鹿児島市山下町の中華料理店「林光華園」のドリンクのメニューに「ハイボール」があり、「寿庵」荒田本店のテーブルに「桜島小みかん角ハイボール」の宣伝チラシが置いてあり、それぞれ注文してみました。

 どちらのお店の「ハイボール」もソーダに柑橘類の味わい(林光華園はレモン、寿庵は桜島小みかん)がほどよくミックスされたなかなか爽やかな飲み心地でした。

 これらの「ハイボール」の爽やかさはソーダの苦味を柑橘類が中和するところから来ていると思われますが、しかしウィスキーとソーダの比率が1対3もしくは4の感じで、柑橘類の香りが強いこともあり、ウイスキー独自の芳香と味わいを楽しめず、やはり私には水割りが一番かなという結論に達しました。

 みなさんのなかにはウィスキー通の方もいらっしゃるかもしれませんが、ウィスキーのおいしい飲み方をご存知でしたら是非教えてくださいね。





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最終更新日  2015年05月30日 17時52分43秒
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