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2016年05月22日
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カテゴリ:落語
   市馬

 昨日5月21日には、南日本新聞会館みなみホールで開かれた柳亭市馬独演会を楽しんできました。鹿児島での師匠の独演会は今回で第4回目なんですが、私たち夫婦は昨年は欠席しており、久しぶりで師匠の美声を楽しんできました。

 柳亭市馬師匠といえば、 「山の あな あな ねぇあなた」という題名のCDを出しており、「俵星玄蕃」、「会いてえ なぁ ふる里に」で美声を聞かせ、今年の4月29日に放送されたNKH FM「今日は一日戦後歌謡三昧」では加賀美幸子アナウンサーと一緒に司会を務め、ときに同番組で美声を響かせていました。そんな師匠の独演会に来られたお客さんたちの期待の一つに師匠の美声を聞くことがあったことは間違いありませんね。なお今回の独演会の演目はつぎの通りでした。

 柳亭市江  子ほめ
 柳亭市馬  かぼちゃや
 柳亭市馬  狸賽
   中入り
 柳亭市馬  片棒

 柳亭市江の「子ほめ」の後に柳亭市馬師匠が高座に上がり「かぼちゃや」を演じましたが、この噺のマクラに大相撲5月20日の白鳳と稀勢の里の熱戦に触れ、ザンネンでしたねと言い、あの稀勢の里は肝心なとこでコロッと負けるのがまた人間らしくていいいですねと「褒めていた」(?)のですが、翌日の鶴竜との相撲にまさにコロッと負けてしまいました。また師匠は相撲行司や呼び出しの声を真似て美声のサービスもしてくれました。

 中入り後に、演じ始めた噺はどうも同じ柳亭市馬師匠が以前鹿児島の高座で演じた「片棒」のようです。後で調べましたら、2012年5月9日の鹿児島市の宝山ホールで開かれた「東西特選落語名人会」で師匠も二番目に出ており、やはりマクラで相撲の呼び出しや相撲甚句で美声を聴かせて会場の観客は大喜びさせ、そのときも自然と盛大な拍手が会場に響き渡っていました。そのとき師匠が演じてたのが「片棒」でした。財を成した大店の旦那が三人の息子の誰を後継ぎにするかを決めるため、彼ら三人を呼んで自分の死後にどのような葬儀を執り行うかを訊くのですが、次男坊が笛、太鼓に踊りや神輿で賑やかに葬儀を行いたいと語る場面で市馬師匠は見事に祭りの雰囲気を作り上げ、さらにサービスに美空ひばりの「お祭りマンボ」の一節を歌いましたから、またまた会場には拍手が響き渡り、観客は市馬師匠ならではの楽しくて明るい「片棒」を大いに満喫していました。

 今回も「片棒」で次男坊の笛や太鼓入りの賑やかに葬儀の語りの部分で前回以上に賑やかな祭りの雰囲気を作り上げ、美空ひばりの「お祭りマンボ」の一節を歌いだすと会場は一斉に手拍子し、その非常な盛り上がりに師匠自身が思わず笑い出すというハプニングもあり、なんとも楽しい高座となりました。





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最終更新日  2016年05月23日 17時21分35秒
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2016年05月20日
カテゴリ:カテゴリ未分類
mastan さんから下に掲げた中国文書について「概略的にどのようなことが書いてあるのでしょう」 とのご質問がありました。

 宋代文書

 それで、googl(香港)で調べたところ、つぎのようなURLに関連するものtが検索されました。
   ↓
  http://www.bbc.com/zhongwen/trad/china/2016/05/160516_china_calligraphy

 このサイトのページの解説文によると「唐宋八大家の一人である曾鞏の遙か後世まで伝わった唯一の筆跡『局事帖』が5月15日の日曜日に北京で行われた特別興業で競売に出され、1.8億元人民幣で落札され、仲買人の手数料を加えて2.07億元で販売されました」とのことでした。

曾鞏は科挙に合格し、しばらく中央官庁で働いていましたが、その後、地方の斉州、襄州、洪州、福州、明州、亳州、滄州等の地方の知事を歴任していたようですが、「局事帖」はその頃に友人に送った手紙のようです。


 この毛筆で書かれた文章を活字化すると以下のようになります。
     ↓
 活字化

 地方の知事をしていた頃に曾鞏が友人に書いた手紙ですが、なかなか難解な文章で、遠隔の僻地に左遷された曾鞏が「日迷汩于吏職之冗,固岂有楽意耶?」(役所の雑務に忙殺されている毎日なので、どうしてそれが楽しいことであろうか)とぼやいたりしています。mastan さんからどうしても全文の概略を知りたいとのことでしたら無理して調べてもいいですよ。しかし、相当私には手こづりそうです。






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最終更新日  2016年05月21日 08時58分20秒
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2016年05月17日
カテゴリ:エッセイ
 五月十三日(金)に私たち夫婦は鹿児島中央駅から午後3時28分の新幹線「みずほ」に乗って神戸に向かいました。翌日のお昼に長男の婚約者のご両親と顔合わせするためです。

神戸の街    三宮駅近くの宿泊したホテル前のマロニエ並木

 5月十四日お昼にご両親との初顔合わせを三宮の和食のお店「栄ゐ田」で行いました。妻はすでに先月に相手の御嬢さんのお母さんと結婚式予定場所での試食会で顔合わせをしているのですが、私たち夫婦が相手のお父さんと会うのは初めてのこととなります。私はお父さんと会うのは初めてなので些か緊張しました。まさか顔合わせ後に長男の婚約が破談になるなんてことはないでしょうが、ふと映画「男はつらいよ」の第一作のことが思い出してしまいました。

 映画「男はつらいよ」シリーズ第一作で渥美清演じるフーテンの寅さんがホテルニューオータニで開かれた妹のさくら(倍賞千恵子)の見合いの席で大醜態を演じる場面があります。見合い相手は、オリエンタル電気の下請け会社の社長さんの息子とのこと、見合い相手の父親に寅さんがセールス関係の仕事をしていると紹介され、父親から「どういう御種類のセールスを?」と質問され、「えー、主に…本ですね…」と寅さんは答え、さらに「出版関係ええ、出版といいますか、まあ、法律とか、統計とか…」と言い添えたので、相手の父親はなんとなく納得しますが、さらに寅さんが「その他、英語、催眠術、灸点方、夢判断、メンタルテスト、諸病看護方、染み抜き方、心中物、事件物、と、まあいろいろなんでもやってますけど…」と言い出したので、見合いの席の雰囲気がなんとなく怪しくなります。

 その後、会食が始まり、寅さんは慣れないフォークとナイフを使ったために、付け合せの野菜を入れている器を見合い相手のおでこに見事に当ててしまいます。まあ、これは手元が狂ったハプニングとして許されますが、寅さんが学のあるところを披露したいと思ったのか、妹のさくらの名前が戸籍上は「櫻」と出されており、「木へんに貝2つでしょ、それに女ですから、ええ、二階の女が気(木)にかかる」とこう読めるんですよ!」と説明し、調子に乗ってさらに漢字は面白いと言い出し、尸(しかばね)の下に水や米、比を加えると尿、屎、屁になるなんて下ネタ的なことを言い出します。

 会食で出されたビールで酔いが回った寅さんは、セロリをかじりながら見合い相手に「こんな美人の妹に、ぶっ壊れたツラの兄貴が いるってことは不思議でしょ?お兄さん」と問い掛け、「いやー、それもそのはずよ、これとオレとではね『種違い』なんだよ。あたしの親父ってのはね、大変な女道楽、私のお袋ってのは芸者なんですよ、えー、その親父が言うにはね親父がへべれけの時私を作ったんだとさ…」「親父はね、あたしのことをぶん殴る時いつも言ってたね。『おまえはへべれけの時つくった子供だから生まれつき バカだ』とよ! あんちゃん悔しかったなあ!…酔っ払って つくったんだもんなぁ…オレのこと…。真面目にやってもらいたかったよオレは!本当に」なんてことを言い出し、女性にだらしがなかった寅さんの親父のことまで暴露し出します。言わずにはおれない寅さんの悲しい過去を酔いに任せて吐き出したのでしょう。全然違った環境に育った私ですが゜なぜか寅さんの気持ちが痛いほど分ります。

 その他、酒にへべれけになった寅さんの演じる様々な醜態に見合いの席は無茶苦茶となり、後日になってさくらの見合い相手側から予想通り縁談は断られてしまいます。

 さて、話変わって長男の許嫁のご両親との初顔合わせなんですが、両家の相互の簡単な自己紹介が終わって全員着席したた後、私が「まずビールでも頼みましようか」と言ったところ、相手のお父さんが「体のためいま禁酒しています」とのこと、みんなでウールン茶を飲むことにしました。

 座の話が続かずシーンとなったので、何か話題がないかと私がお父さんに「何かご趣味をお持ちですか」とお訊きしたところ、「仕事が忙しかったので特にありません」とのこと、前に長男からお父さんが仕事に忙しく「家族のことは全て妻に一切任せております」とおっしゃっておられると聞いていましたが、私と同い歳(2月生まれで学年は一つ上)なのにいまも務めておられるとのこと、お会いして私とは随分違ったい真面目一筋の仕事人間の方らしいとの印象を持ちました。お母さんは穏やかで優しそうな女性という印象でした。

 話題がなかなか続かないので、長男が「私は鹿児島で生まれ育ちましたが鹿児島県人の血は一滴も入っていません。父は奈良県人で母は熊本県人です」と紹介したので、私は彼の言葉に続けて、「私の父は奈良県人ですが、母は日本統治時代の台湾に生まれた仙台にルーツを持つ東北人です」と付け加えたのはいいんですが、つい「私のオヤジは酒が強かったんですよ。酒も女も好きでした」と余計なことを口走ってしまい、自分でこれはヤバイと慌てて話題をすぐ変えましたよ。

 この両親同士の初顔合わせで私は些か醜態を演じてしまいましたよ。会食が終わり、これからもよろしくと挨拶をして席を立とうとしたとき、私の席に出されている水の入ったコップをそっと横に退かそうとして手許が狂ってコップが倒れ、なんとお父さんの膝に水を掛けてしまったのです。

 さらに私の醜態は続き、靴を履こうとして新品の靴を履いてきたこともあり、なかなか履けず、お店の人が持ってきた長い靴ベラも上手く扱え切れず、自分の指先を靴のかかとになんとか無理矢理入れ込んでやっと履くことが出来ました。後から席を立たれた相手のご両親はおそらくその様子を些か困惑して見ておられたことと思います。

 翌日の五月十五日(日)に新神戸駅から午前10時12分発の新幹線「さくら」に乗って鹿児島に帰りましたが、車窓から熊本近くの沿線から屋根に敷かれた青いビニールシートが次々と見え始め、今回の熊本大震災の生々しい被害が目に入って来ました。

 おっと、その後いままで神戸のご両親からなんの連絡もありませんから、今回の初顔合わせは無事に済んだと思っていいのでしょうね、ホッ。





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最終更新日  2016年05月19日 15時25分47秒
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2016年05月09日
カテゴリ:天璋院篤姫
 五月五日は私たち夫婦の37回目の結婚記念日でお互いの忍耐力の強さと記憶力の弱さでなんとか続いたのだと思います。そんな結婚記念日に、NHKの大河ドラマで有名になった篤姫ゆかりの地である薩摩今和泉の今和泉小学校近くに建てられた幼女時代の篤姫の像を見学に出かけました。この篤姫像は2012年に建てられており、私たち夫婦が前回薩摩今和泉に出掛けたとき(2010年5月4日、「篤姫の実家・島津今和泉家の別邸跡を再訪」にはまだ建てられていませんでした。

 今回は、日頃運動しない私の健康のために自動車を使わず、公共交通機関と徒歩で篤姫像見学に出かけることにしました。当日は天気も快晴で午前中に篤姫像見学に出発しました。ネットのマップで調べると、拙宅から鹿児島中央駅までバスで約20分、鹿児島中央駅から薩摩今和泉駅まで54分、薩摩今和泉駅から今和泉小学校まで徒歩で6分とのこと、乗り換え時間も入れて往復約3時間半の旅になることが判明しました。

 JR指宿枕崎線沿線には無数の鯉のぼりが泳いでおり、その多くが孫の健康を願って祖父母が購入し、そのお孫さんの家で屋根より高く元気に泳いでいるのだなと思うと自然と胸が熱くなりました。

 しかし、JR薩摩今和泉駅に下車してから予想外の障害が存在していました。駅の入り口に行くために歩道橋(路線橋と呼称するのかな)を渡る必要があり、最近自宅の二階ぐらいしか上り下りしない私にとっては思わぬ障害物でした。それでも時間を掛けてゆっくりと鉄橋の手すりを頼りに上り下りしたのですが、足腰が弱っていることを痛感させられました。

 薩摩今和泉駅の入り口(私たちにとっては出口かな)には「天璋院篤姫ゆかりの地」と書かれた看板がでかでかと掛けてありました。駅から海沿いに今和泉小学校を目指して歩いて行くと、数人の観光客らしい人たちが小さな像をバックにして撮影している様子が目に入ってきました。篤姫の銅像を撮影しているに違いありません。

     篤姫像
 
 天璋院篤姫は幼少時代には於一(おかつ)と呼ばれ、2008年放映のNHK大河ドラマ「篤姫」の原作となった宮尾登美子の『天璋院篤姫』では、島津今和泉家の娘として生まれた篤姫が幼少時代を同家の別邸がある今和泉で過ごしていたと書かれ、大河ドラマ「篤姫」でもそのように描かれたので一躍この地が有名になり、2012年に彼女の幼少時代をモチーフにした銅像も建立されたのです。

 銅像近くに篤姫銅像実行委員会会長の今林重夫氏が書いた解説板があり、「篤姫が幕末から明治維新にかけて江戸無血開城に心血を注ぎ江戸百万人の人々の戦禍から護り大奥に仕えた婦女子の身の方について私財を擲って援助したことは有名です」と彼女の業績を紹介し、そんな彼女の八歳ぐらいを想定して地元の田原迫華氏が造ったことが書かれてありました。

 残念ながら篤姫の幼少時代の肖像は残されておらず、この今和泉の少女像はどうも大河ドラマ「篤姫」の主役を演じた宮崎あおいに似せて造られたようです。また大河ドラマでは江戸無血開城に尽力したように描かれおり、この銅像の解説板もその見解に従って彼女の業績が紹介されています。

 しかし、史実としては、第13代将軍徳川家定の正室だった篤姫は家定の死後に天璋院と号して江戸城大奥を仕切りましたが、彼女は江戸攻撃に迫ってきた薩州隊長の西郷隆盛に徳川家存続のための嘆願書を出しただけで、江戸城無血開城は勝海舟と西郷隆盛の話し合いの結果と思われます。そのことは下記の拙サイトに書きました。
       ↓
 拙サイト「やまももの部屋」の「宮尾登美子の天璋院篤姫と鹿児島」
  http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/atuhime.htm#tangan


 篤姫像の撮影後、近くの観光客用に建てられた四阿(あずまや)で海を眺めながらお昼の弁当を食べました。食後にまた来た道を戻って薩摩今和泉駅に行き、あの障害物の路線橋をエッチラオッチラゆっくり渡っていると、後ろからバスケットの試合帰りらしい元気な女子高校生たちがどっと押し寄せてきましたので、私が「お先にどうぞ」と大きな声を掛け、彼女たちは次々と「こんにちは」と私に挨拶しながら飛び跳ねるようにして私の横を通り過ぎて行きました。

 今回の篤姫像見学の小旅行は、今月中旬に神戸で長男のフィアンセのご両親とお会いするための予行練習を兼ねたもので、なんとか無事に帰宅できましたので本番の神戸行き旅行にそれなりに自信が持てました。

                                      2016年5月9日





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最終更新日  2016年05月12日 19時47分21秒
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2016年04月30日
カテゴリ:news
 与野党が全面対決した衆議院北海道5区の補欠選挙は4月24日に投票が行われ、野党統一候補の池田真紀氏(無・新)が残念ながら自民党の新人で公明党などが推薦する和田義明氏に敗れました。この衆議院北海道5区の補欠選挙の開票結果は以下の通りです。

 ▽和田義明(自民・新)当選、13万5842票。
 ▽池田真紀(無・新)、12万3517票。

 この結果について、露骨に与党寄りの報道をする「産経ニュース」の2016年4月.25日の記事は「追い風風吹かず『野合』共闘に限界か… 参院選に向け票差以上に大きいダメージ」との見出しでつぎのように論評しました。

「野党が共闘の象徴と位置づけた今回の補選の敗因に、基本政策を横に置き、選挙協力を優先させた「野合」批判があったことは間違いない。票数の差以上にダメージは大きい。」

 産経は民進党、共産党等の野党共闘は基本政策が異なる政党間の「野合」だとの批判があり、野党共闘に今回の敗戦は非常なダメージがあったとしているのです。しかし、与党の自民党と公明党の関係は選挙に勝つための「野合」そのものであり、安保法案反対で一致した北海道五区補選の野党統一候補はよく善戦したと思います。与党はさぞかし今回の選挙結果に青ざめたことでしょう。だからこそ、野党共闘は「野合」との批判を一層強めてくるものと予想されます。

 なお、2016年4月28日の「NHK NEWS WEB」は北海道5区補選で実施した出口調査(1725人対象中75%の1299人回答)でつぎのような結果を得たと報じています。

【政党支持率】
政党支持率は、自民党44%、民進党20%、公明党5%、共産党5%、、無党派24%
【支持政党別投票動向】
和田氏は、自民党支持層の90%、公明党支持層の90%台前半、無党派層の30%余りの支持を獲得
池田氏は、推薦を受けた民進党支持層の90%台後半、共産党支持層の100%、無党派層の70%近くの支持を獲得。

 この出口調査の結果によると、回答者の回答政党支持率は、自民党44%、公明党5%で与党支持者49%なのに対し、民進党20%、共産党5%の野党支持者25%ですから、野党共闘が成立しなければ与党候補がワンサイドで勝利したことは間違いありません。野党共闘ということで無党派層24%中の70%近くが野党共闘候補支持に投票したそうですから、その結果の野党候補の善戦だったと思われます。

 今回の善戦が追い風となって野党共闘が全国に広がることを願ってやみません。






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最終更新日  2016年04月30日 10時39分08秒
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2016年04月24日
カテゴリ:落語
 立川志の輔独演会が4月21日に鹿児島市民文化ホールであり、夫婦で楽しんで来たのですが、志の輔師匠がこの独演会で新作落語 「買い物ブギ」のマクラにまず石原慎太郎の著書「天才」に触れ、同書がベストセラーとなったことから、本屋さんの店頭に田中角栄コーナーが出来て、以前出版されていた角栄本があふれ出したとし、さらに若き日の志の輔師匠が目の当たりにした田中角栄について面白可笑しく語り出しましたので、今回そのことを紹介したいと思います。

 私は、石原慎太郎の思想だけでなく彼の小心者のくせに尊大振る人間性も大嫌いで、そんな人物が田中角栄について書いた『天才』にも全く関心がありませんでした。ただし、私にとって田中角栄という人物は金権政治家としてのイメージが強いのですが、その人心掌握術に長けた人間性には前から興味がありました。そんな田中角栄を志の輔師匠がどのように語るのか大いに興味を持ちました。

 田中角栄の懐刀として有名だった人物に元警察庁長官の後藤田正晴がいますが、その次男が後藤田祐輔というそうで、志の輔師匠がまだ明治大学の学生だった頃のバンドやバイクのツーリング仲間だったそうです。その友人(後藤田祐輔、慶応大学出身、本田技研工業に勤務)が結婚したとき、噺家となっていた志の輔師匠は結婚式の司会を頼まれたそうです。

 結婚式の招待者は800名、大概カップルですから出席者は1600人ぐらいにはなるだろうという盛会なもので、名だたる名士や政治家たちが顔を見せ、仲人が新郎の勤務するホンダの本田宗一郎で、主賓が田中角栄と医師会の会長だったとのこと。

 まず仲人としてホンダの創業者の本田宗一郎が挨拶し、自分は仲人を頼まれたが、新郎のことは全く知りませんと言って会場の全員を爆笑させて座を和ませ、つぎにスピーチしたのが主賓の田中角栄だったそうです。

 司会の志の輔師匠が田中角栄から渡された長い巻物を読んで主賓のことを紹介をしている最中に突然アヒルがガーガー鳴くような声がし、そのアヒルが「儂を知らないようなヤツはおらん」と言ってこれまた会場の1600人を爆笑させたそうです。そして後藤田正晴が次男の結婚式に主賓として出席してもらいたいと毎日やってきたので、「国務大臣はそんなに暇なのか、と言ってやりましたよ」と言ったので、またまた会場のみんなを爆笑させたそうです。

 お色直しの最初の話としてホンダの社長がスピーチを始めたとき、この田中角栄が席から突然立ちあがってスタスタと出口に歩き出したそうです。スピーチしていたホンダの社長も気を遣って「先生がお帰りになります」と司会のようなことを言い、田中角栄もドアのところで会場を振り返って手を振り、廊下に出て行ったそうです。

 司会の志の輔師匠は、田中角栄が話の途中で退席をするということは何か手違いがあったのかと心配になり、慌てて田中角栄を追いかけたそうですが、「後藤田祐輔くんの友人で今回の結婚式の司会をしている立川志の輔です」と名乗り終わらないうちに、田中角栄から手を取って「友達かよろしく頼む」と言われ、すぐにこの人の傘下になっても良いと思ったそうです。

 そんな話なんですが、豪放磊落でありながら人心掌握術に長けた田中角栄という人物像が自然と浮かび上がってくるエピソードでありました。





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最終更新日  2016年04月25日 16時18分02秒
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2016年04月16日
カテゴリ:エッセイ
 あるフランス人の作家が「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」と言ったそうですが、終生添い遂げることになった私の両親は相当の忍耐力の持ち主たちだったのでしょうか。

 私が妻と結婚した年の夏、当時山陰のM市に住んでいた私の両親の家に初めて帰省したことがあります。おっと、「帰省」とは本来は「故郷に帰って両親の安否を問うこと」だそうですが、私の両親がM市に住んでいたのは勤務先が同市であり、両親ともに出身地は別の地方の人間でした。

 私の妻は、なにかあるとすぐ怒鳴り出すオヤジとそれに「はいはい」と素直に従うオフクロの姿に強い印象を残したようで、私も久し振りに見る両親の意外な関係の変化に驚きました。例えば、近くの勤務先からお昼に帰宅したオヤジが「食事の支度が遅い」と激しい剣幕で怒鳴りだし、オフクロが「はいはい、すぐ支度しますよ」と従順に対応する姿に驚いたものでした。

 私が子どものころ、両親はともに教師でしたが、この共稼ぎ夫婦の喧嘩はいつも絶えることがなく、私はいつ始まるかもしれない二人の喧嘩に恐れおののいていました。喧嘩が始まると、亀が首を甲羅にすくめるようにして、いさかいの嵐が過ぎ去るのをじっと待ったものでした。

 安月給の共稼ぎ夫婦の喧嘩の主たる理由は、オヤジの金遣いの荒さと浮気でした。酒好きのオヤジは、酒場で一日に何千円も散在して夜遅く帰って来るようなことがよくありました。軽い浮気は日常茶飯、子どもの私が知りたくなくても知るようになった深刻な浮気の数も片手では足りないくらいありました。

 普段見るオフクロの姿は観音菩薩様のように穏やかでしたが、ひとたび夫婦喧嘩が始まると般若の如く怒り狂い、口から火を噴いて激しい言葉でオヤジをののしったものでした。

 そんな若い頃のオフクロのことを知っているものですから、妻に「オフクロも変わったものだ。昔のオフクロはもっと突起だらけのゴツゴツとした石ころを心に持った女性だったが、オヤジとの数多くのイサカイにいつの間にか表面が研磨されてまるくなったのだろう」と言ったものです。

 しかし、私が子どもの頃、自分の両親がなぜ離婚しないのか不思議に思いました。いさかいが絶えなく、また趣味も価値観も全く違う二人であり、教師をしているオフクロがもし離婚しても、すぐ生活が困窮するわけでもないだろうになんて考えたものです。ところがオフクロはその教師という職業にとても高いプライドを持っており、いつも世間体を気にしていた人間でした。そんな彼女に離婚という選択肢は考えられなかったようです。

 ところで子どもにとって両親の離婚は不幸なことなのでしょうか。勿論、仲の良いことに越したことはありません。しかし夫婦喧嘩の絶えない家庭の子どもは両親の不和に心を深く傷付けられているのです。大人の目からは子どもの心の裡はほとんど見えません。大人たちは、彼らのちょっとした言葉や行為でさえもが、それが子どもたちの心のなかで何倍にも増幅され、幼い心に大きな衝撃や影響を与えているということをほとんど知りません。オフクロは私の子どもの頃のことを回想したとき、私につぎのように言ったものです。

「お前の子どもの頃は給料も安くて生活は大変だったけれど、でも、お前に辛い思いをさせるようなことはなかったと思うよ」

 それで、私はその母の言葉にどう対応したでしょうか。私はそのとき、表情を全く変えずに小さく頷いただけでした。結婚は判断力の欠如から始まるそうですが、記憶力の欠如によって美化され持続することが出来るようです。

 この拙文は、拙サイト「やまももの部屋」のやまももの短編小説のページに「幼な心を傷付けられた両親の不和」と改題して転載いたしましたので、興味がございましたらご覧ください。
     ↓
  http://yamamomo02.web.fc2.com/stories/stories.html#huwa







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最終更新日  2016年05月19日 19時53分29秒
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2016年04月10日
カテゴリ:映画鑑賞
 私は、奈良市に生まれ育った団塊世代の人間です。団塊世代は戦後の「焼け跡」に生まれているのですが、この「焼け跡」という表現は単なる常套句や象徴的表現ではなく、実際にそう感じさせる風景が幼い私の目の前に無造作にさらけ出されていました。私のふるさとの小さな町である奈良市は幸い戦災に遭ってはいませんが、街のお寺や神社の軒下には戦災で家を焼け出された人たちがまだ沢山寝起きをしていました。私鉄に乗って長いトンネルを越えて隣の大阪の街に入ると、瓦礫と化したコンクリートと無数の折れ曲がった鉄筋で構成される無惨な廃墟跡が鉄道沿線に延々と続いていました。

 こんな戦後の焼け跡生まれの私の幼い頃の思い出を織り成す重要なものとして、シンチューグン(進駐軍)の兵隊と映画があります。身体の大きい彼らは、小さな黒い眼のメアリーさんたちを小脇に抱えるようにして私のふるさとの町のメイン通りである三条通り等をよく闊歩していました。

 私が幼い頃、映画館の前の座席はよくシンチューグンの兵隊さんたちと黒い眼のメアリーさんたちで占められていました。シンチューグンがアッハッハと大笑いして、それからちょっと間をおいて後ろの座席の日本人観客たちがどっと笑っていたのがとても印象的でした。シンチューグンは英語のセリフを耳で聴いて笑い、日本人観客はスクリーンの字幕を読んで笑うため、このようなタイムラグが生じたのです。ジェリー・ルイスとディーン・マーチンのコンビが水兵役を演じるドタバタ喜劇映画には沢山のシンチューグンが詰めかけ、彼らの爆笑が館内に渦巻きましたが、私も彼らと一緒にキャッキャと大笑いして見ていたものでした。

 シンチューグンのことは、私が物心ついた幼い頃の思い出としてのみ残っていますが、映画の方は、私の子ども時代の全ての時期を通じて数多くの懐かしい思い出を残しています。私が幼い頃は、映画のストーリーなど全く分かりませんでしたが、画面が動くというただそれだけのことで目はスクリーンに釘付けとなり、眼前に繰り広げられる見知らぬ世界に幼い胸をわくわくさせたものでした。

 私が子どもの頃、映画は娯楽の王様でした。映画の人気がピークに達した1958年には、日本の映画人口が11億2745万人にもなったそうです。当時の人口が9178万人ですから、なんと一人当たり年間に12回以上映画館に足を運んだ計算になります。私の家庭もその例外ではありませんでした。私の両親は給料の安い共稼ぎの教師夫婦でしたから、家族旅行など夢のまた夢でしたが、映画だけはほぼ毎月1回見に出かけたものです。奈良東映(東映系)、友楽会館大劇場(大映系)、南都劇場(日活系)、尾花劇場(松竹)、有楽座(新東宝系)、奈良セントラル劇場(洋画系)、有楽会館洋劇場、電気館などの映画館があり、映画の帰りには東向き商店街の上海楼という中華料理屋さんに立ち寄り、ワンタンをよく食べたものです。その頃、外食なんてめったにしませんから、家族でお店に入ってワンタンを食べるという「晴れやかな行為」は、私にはものすごく贅沢なことのように思われました。

 母は芸術性の高いものが好きでした。そのお陰で、「自転車泥棒」「禁じられた遊び」「旅情」「エデンの東」「居酒屋」「河の女」「道」「鉄道員」などを子供時代に見ることができました。邦画では、「七人の侍」「夫婦善哉」「新平家物語」などを見ることができました。特に「七人の侍」は、なかなか画面に出てこない野武士がとても不気味で恐かったですね。また、母が「夫婦善哉」の森繁久弥の演技をえらく誉めていたことが記憶に強く残っています。

 両親はまた、幼い私のためにディズニー映画が上映されるといつも連れていってくれました。「白雪姫」「不思議の国のアリス」「ダンボ」「ファンタジア」「ピーターパン」「わんわん物語」など、みんな懐かしい名前ですね。母が「ファンタジア」を見終わった後、「日本の人たちが耐乏生活を強いられていたときに、アメリカではこんな素晴らしい映画を作っていたのね」とため息混じりに言った言葉がとても印象的でした。ところで、ディズニーの「ピノキオ」だけは、それを見に行く予定の日に私は高熱を出したために見ていません。そのとき、私は、熱にうなされながら、「ピノキオを見たい、見たい」と泣いたものです。私は、ジフテリアに罹ってしまったのです。

 映画を平均して毎月1本は見ていた我が家でしたが、ところが1950年代中頃からテレビの普及とともに映画人口は急速に減り続け、映画館から潮を引くように人々の足は遠のいて行きました。我が家も例外ではありませんでした。テレビが家庭にはいるようになってから、全く映画館に足を運ばなくなりました。

 手許にある『昭和史全記録』(1989年、毎日新聞社)は、各年度事に封切られた主な映画の題名をリストアップしているのですが、我が家では1957年には「喜びも悲しみも幾年月」、「戦場にかける橋」、「追想」」「道」など10作品も見ていますが、翌年の1958年には「十戒」、1959年には「尼僧物語」、1960年には「チャップリンの独裁者」、「五つの銅貨」ぐらいしか見ておらず、そして、さらに1961年になると、なんと見た映画が1本もないのです。

  おや、待てよ、私の家にテレビ受像機が入ったのは、私が中学校に入学した時のことで、世間がミッチーブームに沸いた1959年(昭和34年)4月10日の皇太子結婚の儀頃でしたから、私の家族の映画鑑賞の回数が1958年以降激減したのはテレビが主原因だとは思えません。我が家に何があったのでしょうか。うーん、その頃に父の浮気が発覚し、小学校高学年になった私の成績もガタ落ちしたものでした。

 その後、私自身は、学生時代も社会人となっても、映画館に熱心に通うことようなことはなく、よほど話題になった映画だけをたまに観るぐらいになってしまいました。








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最終更新日  2016年04月15日 15時58分31秒
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2016年04月03日
カテゴリ:エッセイ
 映画「男はつらいよ」シリーズのの第一作で、寅次郎(渥美清)が御前様(笠智衆)とお嬢さんの冬子(光本幸子)にばったり出会い、二人の写真を撮る場面があります。そのとき、笑顔を無理に作ろうとした御前様、なんと「チーズ」ではなく「バター」と言ってしまいます。「バター」では口が開いたままになって、口許に笑みを浮かべるこはできませんね。えっ、誰ですか、御前様の天然ボケぶりには開いた口がふさがらないなんて言うのは。

鷺池 浮御堂

 ところで、寅次郎による御前様と冬子の記念写真の場面、どこでロケがおこなわれたかご存知ですか。私のふるさとの町である奈良市の奈良公園内にある鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)六角堂の浮御堂の前なんですよ。このときのスチール写真を見ると、左側に寅次郎、右側に御前様と冬子、そしてその間に大きな擬宝珠(ぎぼし)飾りのついた木造の橋が あり、後ろに浮御堂が見えています。

 この鷺池に浮かぶ浮御堂、寅さんだけでなく、私も中学生時代にカメラで撮影したことがあります。そして、それは私にとって初めての写真撮影でした。確か中学1年のときのことだと記憶しています。父からペトリの小さな二眼レフカメラを譲ってもらい、さてなにを写そうかと公園に出かけ、ぶらぶら歩いているうちに鷺池にやって来て、その池に浮かぶ浮御堂の美しい姿が目に飛び込んで来たので、この建物を撮影対象に選ぶことに決めたのです。

 そのとき、浮御堂のなかには観光客が5、6人ほどいて、それらの観光客の中に赤い日傘を差した若くて美しい女性の姿が目に入りました。これは絵 になるなと思った私は、池のほとりから浮御堂の欄干に件む彼女の方にカメラのレンズを向けました。私ほ、カメラのファインダーの中心に日傘を差したこの女性を据え、その周囲に複数の人間を配し、それらを浮き御堂の全景のなかに納めてパチリパチリと何故か撮影しました。

 私は、写真屋さんにこの写真の現像を頼んだ後、それが出来上がってくる日を指折り数えて待ちました。そして、数日後、心待ちにしていた写真をやっと手に入れました。しかし、袋を開けて写真を見てたとき、私はガッカリしてしまいました。だって、鷺池に浮かぶ浮御堂が私がイメージしていたものよりずっと小さく写っており、その浮御堂のなかにいる観光客たちはまるで豆粒の様だったからです。そして、悲しいことに、あの赤い日傘の女性は、それら小さな数個の豆粒たちのなかにおいて特に際だった存在ではなく、同じように単なる豆粒の-つでしかななかったのです。

 私は首を傾げました。おかしいな、私が二眼レフのカメラのファインダーから覗いて見たあのときの浮御堂の情景といま手許にある写真とはあまりにも違いすぎるではありませんか。あのとき、日傘の女性は、そのころ視力1.5だった私の目に大きくそしてくっきりと鮮明に映り、他の親光客たちはその他大勢として彼女の背後に下がり、浮御堂全景は彼女とその日傘にとてもよく調和しながら水面にその美しい姿を浮かべていたはずではなかったのか? 私の目が正しいのか、それともこの写真が正しいのか、私はそのとき、いろいろ考えたものです。

 私は、初めて写した写真を見てショックを受けました。しかし、私はまたこのときの経験からとても大事なことを学びました。さて、私はいったいどんなことを学んだと思いますか。使用した機械としてのカメラの能力や撮影者の腕前の低さを思い知らされた。いえいえ、そんなことではありません。人間の目なんて、いかにいいかかげんなものであるかということを学んだろうですって。いえいえ、そうでもありません。確かに、それらの写真は対象となった人間、建物、池の大小の比例関係において、それをかなり正確に再現していたことでしょう。撮影テクニックが未熟なことは当たり前のことです。しかし、それらのことを考えても現像された写真はあまりにも魅力がありませんでした。それに比べて、2眼レフのカメラのファインダーを通して私が捉えたと思った情景の方はずっとずっと魅力的で素晴らしいものに思えました。そうなんです、私という人間が主観的に創り上げたイメージの世界の方が確かに素晴らしいものだと思われたんです。

 私は、子どもの頃から絵を描くのが大好きでしたが、この浮御堂の写真撮影の体験以降、自分の主観を大切にし、風景画でも人物画でも描く対象に対して感じたものを表現するために大胆な省略や誇張などを意図的におこなってデフォルメするようになりました。しかし、デフォルメの魅力を頭で理解したからといって、それで実際に魅力的な絵が描けるわけではありません。そのためには、豊かで鋭い感受性と独創的で優れた表現力が必要なんです。私は、次第に自分の画才に嫌気がさすようになり、いつのまにか絵筆を握らないようになっていきました。しかし、いま文章を書くとき、あの浮御堂の体験を大切にしたいと思っています。

                                    1998年2月20日 執筆





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最終更新日  2016年04月05日 14時12分34秒
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2016年03月26日
カテゴリ:映画鑑賞
 3月24日木曜日に鹿児島市のTOHOシネマズ与次郎に夫婦で山田洋次監督の「家族はつらいよ」を観に行きました。

 この映画は山田洋次監督が「東京家族」で共演した橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、妻夫木聡、蒼井優、中嶋朋子、林家正蔵の8人の俳優を再結集して撮影した喜劇作品です。おじいちゃん(橋爪功)から「誕生日のプレゼントになにか欲しいものはないか」と訊かれたおばあちゃん(吉行和子 )が、「あら、いいの」と言って机から持ち出したの「離婚届」だったという熟年離婚問題を取り扱っていますが、ほとんど観客は中高年の男女ばかりの映画館内の笑い声が絶えませんでした。笑いのツボを心得た山田監督ならではのコメディタッチの作品でした。

 おばあちゃんの離婚理由が、おじいちゃんがいつも靴下を裏返しにして脱ぎ捨てる、歯磨きしながらオナラをするとか、食事の時にクチャクチャ音を立てるとか実にたわいもないこと、でもそれが毎日積み重なるとたわいもないことと言えなくなるのかもしれませんし、女性の観客はそうそうと頷いていたようですよ。

 おばあちゃんが離婚に踏み切ろうとした理由は、おばあちゃんの亡くなった弟(作家だったとのこと)の本が ブームになってて 印税が 入るようになり、、また田園調布に住む友人から一緒に住まないかと誘われたからとのこと、経済的にも住居の心配も全くなくなれば、靴下脱ぎっぱなしの爺さんにそりゃー離婚届けを突きつけたくなりますよね。

 夫の退職後に夫源病(夫がストレスの原因になっている病気)に罹る女性が多いとのこと、実際私の妻の知人にもそんな女性がいて、家庭内別居状態とのことですが、山田洋次監督のこの映画を妻と一緒に笑いながら観ている私はなんて幸せ者なんでしょうか。

 しかし映画館からの帰宅途中、車を運転する妻に「離婚届けを渡されたら病院通いもできなくなるから、僕を見捨てないでね」と気弱に言う私でした。





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最終更新日  2016年03月26日 22時21分21秒
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