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2015年07月04日
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カテゴリ:エッセイ・小説
 内川さんに奥さんが聞いて来ました。

「式の当日、新郎の母親はやはり着物かしらね。でもレンタルでいいわね」

 内川さんの長男の喜一郎くんから昨夜電話があって、付き合っている彼女にプロポーズしてオッケーをもらったとのことや、まだ彼女の家には挨拶にも行っていないが、結婚式は一年後ぐらい後と考えている等の連絡があった翌朝のことである。昨夜の企一郎くんからの電話の後、内川さん夫婦は世間の息子の親がするであろうような話をとりとめもなく語り合ったものでした。えっ、「世間の息子の親がするであろうような話」ってどんな話ですかって? やっぱり、内川さん夫婦が息子の婚約者となった女性と初顔合わせするのはいつ頃で、相手の親との顔合わせはいつ頃どこでとか、結婚式場の場所や新郎の親戚として誰々に出席してもらおうかなんて話じゃないですか。

 そんな話を前日に交した翌朝の奥さんの第一声が新郎の母親が式に来ていく服の話だったのです。予想外の話であったため、内川さんがウームと返事に詰まっていると、奥さんの話題はもう次に移っており、新郎の父親の挨拶はどんな内容にするつもりと聞いて来ました。またもや内川さんがウームと唸った瞬間、「挨拶なんか求められないかもしれないし、有っても最後のお礼の挨拶だから、短いものでいいわね」の言ってまた次の話題へ移ろうとしたので、内川さんは慌てて「長文の挨拶文を推敲して、たっぷり一時間くらい掛けてスピーチしてやるぞ」と返事をしましたが、奥さんは「あら、そう」とほぼ完全無視に近い形でつぎの話題へ移って行き、内川さんも新郎の父親のスピーチ推敲モードに突入して行きました。

 内川さんは、まず新郎の父親のスピーチ案として脳内につぎの三つを書き込みました。第一は第一子としての喜一郎くん子育ての喜こび、第二は内川さんが大病を患って入院した時、喜一郎くんが長期の有給休暇を取って看病してくれたことへの感謝、そして第三は息子の伴侶となってくれた新婦への感謝の言葉でした。

 喜一郎くんは私たち夫婦の第一子として誕生しました。初めての子どもですから最初は親としての責任感を強く感じ、また不安なことや戸惑ったことも多かったのですが、夢中で育てているなかでなによりも子どもを育てることの喜こびを心から感じるようになりました。子どもを育てるというより、子どもを授かり育てさせてもらっているという思いですね。

 特に幼い喜一郎くんから寝る前に絵本をせがまれ、大きな声を出して三、四冊読んであげるとき、父親としての至福の時間を味わいました。そんな懐かしい絵本の名前として『ちいさいおうち』『どろんこハリー』『ひとまねこざる』『はじめてのおつかい』『ぐりとぐら』なんか覚えています。そうそう、大人になった君にどんな絵本のことを憶えているかと訊いたことがありましたね。そうしたら『おおきなおおきなおいも』のことはよく憶えていると言ってましたね。これは福音館書店から出ているもので、市村 久子作、赤羽 末吉絵の楽しい絵本でしたね。

 幼稚園のいもほりが雨で延期になったので、園児たちが一緒に紙の上に絵の具でおいもの絵を描くことになり、想像がどんどん膨らんでいって、大きな大きなおいもが描き出されるというお話でしたね。君には何度も何度もせがまれて大きな声で繰り返し読んだものですから、君もすっかりこの絵本の文章を憶えてしまい、最初のページから最後のページまで絵を見ながら一字一句間違えずに暗唱したよね。そのことは、まるできのうのことのように憶えていますよ。

 「1つ寝るとむくっと大きくなって/2つ寝るとむくっむくっと大きくなって/3つ寝るとむくっむくっむくっと大きくなって/4つ寝て5つ寝て/6つ寝て/7つ寝ると/いっぱい大きくなって待っててくれるよ」

 内川さんがすっかり新郎の父親のスピーチモードに入って推敲に励んでいるとき、突然天から「あなたっ、ちゃんと聞いているの!!」と降って来た奥さんの大きな声に驚ろかされ、「あなた、いま私がなんて言ったか正しく繰り返してごらんなさい」と問い詰められたので、内川さんはいつものように即座に瞑想を打ち切り、スピーチの推敲の続きは次の機会にすることにしました。でも大丈夫ですよ。まだまだたっぷり時間はあるようです。それよりなにより健康には充分気を付けなければなりません。晴れの結婚式に元気に出ることがいま一番大切なことだと内川さんは思うのでありました。





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最終更新日  2015年07月05日 19時57分02秒
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2015年06月22日
カテゴリ:映画鑑賞
  あん
 2014年2月23日の日曜日、南日本新聞会館みなみホールで開催された「柳家喬太郎独演会」を夫婦で大いに楽しんだ夜の帰宅途中、私たち夫婦が車中で偶然耳にしたのが西田敏行と竹下景子が演じるつぎのような内容のNHKのラジオドラマでした。

 ある刑務所帰りの中年男が小さなどら焼き屋を営んでいますが、彼にはどら焼き作りに対する情熱など全くなく、どら焼き用のあんには既製品を使い、なんの創意工夫もなくただ身過ぎ世過ぎのためにどら焼きを作って販売する単調な毎日を送っていました。そんな彼が店に出した「バイト募集、年齢不問」の貼り紙を見て指の曲がった一人の老婆が訪れてきます。バイト募集に年齢不問と書いたけれど、相手は70代半ばの老婆で指も不自由そうです。一度は断ったのですが、老婆が「食べてみて」とタッパーに入れて渡したあんの美味しさに驚ろかされ、雇ってみると彼女は大変なあん作りの名人で、瞬く間に店は繁盛するようになります。しかし、男が体調を壊した翌日から、老婆が店頭で接客もするようになります。ところがそんなどら焼き屋にオーナーの「奥さん」がやって来て、老婆がらい病患者ではないのか言い出し、店の評判が悪くならないうちにすぐに辞めてもらうようにしなさいと言われます。

 このラジオドラマは連続ものだったようで、私たち夫婦が帰宅する前にラジオの第1回目の放送が終わり、面白そうな話だねといいながらもその後続きを聞く機会もありませんでした。ところが約1年後になって、ネットで偶然検索していて、このラジオ番組がNHK「新日曜名作座」で放送されたドリアン助川「あん」という小説の全6話中の第1回目ということが判明し、ポプラ社から販売されているとのことなので早速購入することにしました。


 小説では、どら焼き屋「どら春」を営む千太郎がオーナーの奥さんから老婆の吉井徳江を解雇するように言われたその夜、インターネットでハンセン病について調べ、昔はらい病と呼ばれ不治の病とされて隔離されたが、いまは万が一発病しても即効で完治し、感染源になることもない等のことを知り、吉井徳江を雇い続けることにします。しかし次第に売上がどんどん落ち込み、そのことと世間のハンセン病に対する偏見とが関連していると事情を察した吉井徳江からどら焼き屋を辞めさせてもらいたいと申し出があり、「昔の私はもう生涯外に出られないと覚悟していた」が「自由にここにやってこられて、たくさんの人に会えて、店長さんがやとってくれたからよ」と感謝の言葉を残して店を去っていきます。

 後日、中学生のワカナちゃんがアパートで飼えなくなったカナリヤの入っている鳥籠を持って「どら春」に久し振りに現れ、店で親しくなった吉井徳江からカナリアを預かってもいいと言われているので彼女に会いに行きたいと告げられます。それで千太郎はワカナちゃんと一緒に吉井徳江が住んでいるという「天生園」に赴き、無事にカナリアを吉井徳江に預けることができました。小説はこの「天生園」での千太郎、ワカナと吉井徳江との再会のエピソードを詳しく描き、そのこと通じて過去のハンセン病患者に対する非人道的で過剰な差別的隔離政策とそのなかで生きてきた吉井徳江たちの苦しみと喜こびやいまも私たちの心の奥に横たわる偏見の存在をあぶり出します。

 小説は、後半になって2度目に訪れた「天生園」で吉井徳江からヒントを得た「逆転の発想」の塩どら焼き作りに千太郎がチャレンジする話になります。しかし小説は塩どら焼き作り成功のハッピーエンドで終わるのでしょうか。残念ながら小説はそんなハッピーエンドものではありません。

しかし、徳江から千太郎に寄せられた最後の手紙の満月の囁きの話が強いメッセージを読者に残してくれます。徳江にはずっと「世の役に立たない人間は生きている価値がないという思いがあった」そうです。それがある満月の夜、「園の森を一人で歩きながら、煌々と光る満月を見ているときでした。(中略)月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。お前に見てほしかったんだよ。だから光っていたんだよ、って。その時から、私はあらゆるものが違って見えるようになりました。私がいなければ、この満月はなかった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものはきえてしまうでしょう。ただそれだけの話です」。この小説の読者へのメッセージは徳江が千太郎に手紙に残した「私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた」と言うことなのではないかと思いました。

 この小説を原作とする映画が鹿児島市内でも上映されましたので、どのように映像化されているか興味を持って観に行きました。監督は河瀬直美で、永瀬正敏が千太郎を演じ、樹木希林が吉井徳江を演じ、内田伽羅がワカナを演じ、浅田美代子がオーナー役を演じていました。

 映画は桜並木の桜が満開の通りに店を開いている「どら春」の全景を映し出すところから始まります。桜の花が美しい季節に徳江が千太郎のどら春にやって来て、桜が散った後に瑞々しい緑の若葉が茂り出した頃に雇われた徳江から指導を受けて千太郎が懸命にあん作りに取り組む様子が丁寧に描かれ、雨が街を濡らし紅く色付いた枯葉が散り出す秋雨の季節とともにどら春の売り上げが急速に落ち込み、徳江も店から去って行き、木枯らしが強く吹く寒い季節に千太郎とワカナがカナリヤを徳江に預けに木々がうっそうとはい繁る「天生園」におっかなびっくり入っていきます。このように春夏秋冬の季節のうつろいとともにドラマは進行していきます。

 また徳江の丁寧な指導を受けて千太郎が瑞々しく輝ている小豆を時間を掛けてゆっくりと美味しそうなあんに変えていく様子も映像化の魅力を充分に発揮していました。閉店前に大きなボールに小豆を水でひたしておき、翌朝は日の出とともに店に出て、その小豆をザルに取って濁った水を捨て、鍋に入れてからも何度も沸騰と水差しを繰り返した後、木べらをゆっくり回しながら弱火で煮込んでいくのですが、徳江がときどき小豆に声を掛けており、本当に小豆にも命が宿っているに感じられました。

 千太郎がこのように丁寧に作ったあん入りのどら焼きを一つまるごと食べた後、「俺、どら焼きひとつ食べるなんてまずないことなんですよ。甘党じゃないんですよ」と言って徳江をちょっと驚ろかせる場面も印象的でした。このあんの美味しさが評判を呼び、「どら春」は行列が出来るお店となり、初めは徳江をあん作りだけをする約束で雇ったのですが、忙しくなって接客もしてもらうようになり、そのことから悪いうわさが立つようになり、売り上げが急速に落ちて徳江が辞め、さらに千太郎も「どら春」の店長を辞めざるを得なくなります。

 しかし、この映画のラストは、満開の桜が咲いている広場の小さな屋台の前で千太郎が「どら焼きいかがですか。どら焼きいかがですかあ」と客に声を掛け、そこに子どもの「どら焼きください。10こください」との声がかぶせられて終わっています。千太郎はどら焼き作りをあきらめないで、徳江から教わったあん作りを引き継いで行くつもりのようですね。

 映像化ならではの効果と言えば、どら春で働き始めた徳江の顔に輝きが生まれ、どら春を辞めて「天生園」に引き籠った徳江にその顔の輝きが失われ白髪が増えている姿が観客に強い印象を与えたことと思います。原作のメッセージとは異なり、人が生きるとは他人(ひと)との交わりの中にあり、特に自らの行為が他人(ひと)に意味を持つことにあるのではないかと痛感させられました。それだけハンセン病の隔離政策の非人道性が心に強く訴える映画だったように思います。







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最終更新日  2015年06月25日 14時27分36秒
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2015年06月06日
カテゴリ:カテゴリ未分類
 私がまだ幼かった頃、両親の会話に「きょくがくあせいのと」という耳慣れない言葉が出てきて強く印象に残ったことがあります。当時の日本の首相がトーダイのソーチョウを「きょくがくあせいのと」と罵ったらしいのです。

 後で知ったことですが、 第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本がかつて交戦関係にあった連合国諸国と講和条約を結んで独立しようとしたとき、当時の米ソ冷戦の時代背景下、日本国中が米国側諸国との単独講和かソ連側の国々をも含む全面講和かで世論が分かれ、東大総長の南原繁が卒業式などで全面講和論を唱えたことに、米国側との単独講和を進めていた首相の吉田茂が「曲学阿世の徒」(世間に阿り(おもねり)学問を曲げる連中)と罵倒したのでした。

 当時は東大の総長を、一国の首相が「学者にあるまじき連中の一人」だと罵ったことが強い反響を呼び、私の両親の会話の中にもそのことが出てきたのですが、最近は政治の世界で学者の発言が強い影響力を持つことはあまりないようですね。あの大阪市内の世論を二分した大阪都構想の市民投票にも「大阪都構想の危険性」に関する百名以上の学者が所見を寄せて反対していたこともマスコミの大きな話題にならず、投票結果にもそれほど影響がなかったかもしれませんね。

 しかし、衆参で多数の議員を確保した安倍晋三首相が安全保障関連法案を国会の審議に掛けたところ、6月4日の衆院憲法審査会に出席した3人の憲法学者がそろって同法案を「憲法違反」と断じ、なんとその3人の憲法学者の一人は与党の自民・公明党が参考人として招いた長谷部教授だったというのがマスコミの話題となりましたね。

 衆参国会で多数を占め、多数決原理で慢心していた安倍首相が思わぬところでエラーを犯してしてしまったようですが、多数決原理は学者の世界では通用しないことを忘れていたようです。自民党の佐藤勉国対委員長などは学者を選んだ船田元自民党憲法改正推進本部長を呼び出し、「自分たちが呼んだ参考人の発言だから影響は大きい。安保法制の議論に十分配慮してほしい」と注意を促したとのことです。しかし、与党側のショックは大きいでしょうね。

 もっとも菅官房長官などは、集団的自衛権行使を「全く違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」などと発言しており、今後は宇宙の中心は地球だとする天動説を唱えるような文字通り「曲学阿世の徒」を総動員して世論誘導に励むことでしょうね。





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最終更新日  2015年06月06日 20時30分44秒
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2015年05月30日
 私は朝ドラ「マッサン」の影響を直に受け、最近はいつもウィスキーの水割りを晩酌に楽しんでいます。なお、実在人物のマッサンこと竹鶴正孝は『ウイスキーと私』(NHK出版)で、ウイスキーを毎日飲むような人にはウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、氷の塊を落とした後、そこにミネラルウォーターをその2倍ほど注いで楽しんでいます。

 そんな私ですが、ソーダ入りのウィスキーも初めは自己流に作って飲んだことがありますが、それは一度も美味しいと感じたことはありませんでした。ソーダ特有の苦味がウィスキー独自の味わいを打ち消しているように感じたのです。

 それで試しにウィスキーをソーダで割った「ハイボール」なるものを料理店で注文してみることにしました。鹿児島市山下町の中華料理店「林光華園」のドリンクのメニューに「ハイボール」があり、「寿庵」荒田本店のテーブルに「桜島小みかん角ハイボール」の宣伝チラシが置いてあり、それぞれ注文してみました。

 どちらのお店の「ハイボール」もソーダに柑橘類の味わい(林光華園はレモン、寿庵は桜島小みかん)がほどよくミックスされたなかなか爽やかな飲み心地でした。

 これらの「ハイボール」の爽やかさはソーダの苦味を柑橘類が中和するところから来ていると思われますが、しかしウィスキーとソーダの比率が1対3もしくは4の感じで、柑橘類の香りが強いこともあり、ウイスキー独自の芳香と味わいを楽しめず、やはり私には水割りが一番かなという結論に達しました。

 みなさんのなかにはウィスキー通の方もいらっしゃるかもしれませんが、ウィスキーのおいしい飲み方をご存知でしたら是非教えてくださいね。





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最終更新日  2015年05月30日 17時52分43秒
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2015年05月24日
カテゴリ:落語
白酒

 今日(5月24日)に鹿児島市内の黎明館2階講堂で桃月庵白酒独演会が開催されましたので夫婦で楽しんできました。

 白酒師匠と言えば、 評論家の広瀬和生が「羊の皮を被った狼のような落語」と評していますが、その魅力の一つが毒気ですね。白酒師匠の自著『白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢見酒』(白夜書房、2013年9月)125頁に、同じ早稲田の落研出身の柳家甚語楼と二人会などをやっていた頃、マクラで「ざっくばらんに好き勝手に、愚痴と腹の立った話題をただ羅列していただけ」だったそうですが、甚語楼から「空気が悪くなる」と言われ、「毒のあり過ぎるマクラをちょっと変えてみるか、そんな感じで、愚痴話をちょこっと変化させてみたのです。マイルドなアイロ二ーに変えるというか、言い方を工夫してみました」と書いています。

  私も、白酒師匠のずんぐりむっくりした福々しい外観の高座から繰り出される意外な毒気が何とも言えず大好きなのですが、今日の独演会にもその毒気が充分に発揮され、大いに満足させられました。例えば今回の独演会の主催者の方々に感謝の意を表しながら、渡された濡れタオルがキンキンに冷やされており解くのが大変だったとか、借家の相場が場所の人気の有無によって違いがあり、例えば鹿児島ならほぼ同じ場所でありながら「玉里」と「伊敷」とではイメージが違う、と言って後は言葉を濁したり、さらに高崎山の猿の赤ちゃんの愛称を「シャーロット」とするときに英国大使館に問い合わせたが、「きっと大使館から見たら猿と日本人の区別なんかつかないだろう」と毒気が炸裂し、会場は大爆笑でした。

 さて私個人のもう一つのお楽しみは、最初のマクラを聞いて本題の演目を予想することなんですが、世間にはいろいろな職業があると言って、医者でも切った貼ったの外科医と相手の話を聞くことが主となる内科医では随分違うと話し出したときは、ははん「代脈」当たりかな、しかし「代脈」は3年前に白酒師匠がすでに演じていたはずだから、「夏の医者」かもしれないなとあれこれ推測していましたら、これが床屋の待ち時間に文字を読むのが不確かな男が手にしていた読み本の『太閤記』を読まされて四苦八苦する「浮世床」だったり、マクラで借家の場所による相場の話にはいささか戸惑っていると本題は「お化け長屋」でした。確かに長屋の空き家を無断利用している長屋の住人たちとその空き家を借りに来た人物たちとが繰り広げる滑稽譚ですからマクラと本題とは繋がっています。

 さて、中入り後に高座に上った白酒師匠がまずマクラで語り出したのが先ほど紹介したお猿の愛称「シャーロット」なのでね、これも本題の推測が付きませんでしたが、戦国時代のような戦乱の時ならカリスマ性のあるリーダーが求められるが江戸時代のような平和な時期には「あっ、あそこに蝶々が」といった感じの殿様でも構わないと来たので、もしかしてどこかネジが何本か抜けている赤い御門の守と家老の三太夫が出てくる噺が本題かと推測しますと、これはびったしカンカン、なんともお馬鹿な殿様と家老の両者の間で繰り広げられる滑稽譚「松曳き」でした。最後は見事に当てたので「余は満足じゃ」でございました。

 なお、拙サイト「十人十席の噺家の高座」にアップしていました「桃月庵白酒」に今回の独演会のことを加筆しておきました。
   ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/hakusyunedoko.html






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最終更新日  2015年05月26日 10時39分16秒
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2015年05月09日
 NHK朝の連続ドラマ「マッサン」では、鴨居商店の山崎ウイスキー工場から出荷された日本初の国産ウイスキー「鴨居ウヰスキー」は全く売れず、経営者の鴨居欣次郎(堤真一)は「従業員、食わせていくためや、メイドインジャパンのウイスキー、広めるためやったら、わては、何でもやったる!」として日本人の嗜好に合わせるようマッサン(玉山鉄二)に命じますが、マッサンは本格ウイスキー造りの夢を捨てられず、「そのためには、大将のもとを離れる事が、一番じゃ、思いました」と言って鴨居欣次郎に辞表を提出します。そしてウイスキー造りに最適と考える北海道の余市にまず資金造りのためリンゴ汁製造・販売する北海道果汁株式会社を設立することになります。

 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立がドラマでは次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。

 この経営者としての鴨居欣次郎と技術者であり職人であるマッサンの対立はこのドラマの大きな見せ所となっていますが、実際の寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝との間にはどのような関係があったのでしょうか。実話を基にした小説やテレビを読んだり見たりして興味を持ちますと、私の悪い癖で実際はどうだったのだろうかと無性に知りたくなります。それで文献に基づいて、日本で最初の本格ウイスキー造りにかかわった寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝のことを調べてみることにしました。

 寿屋の鳥井信次郎について書かれた文献としては、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史や森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』(新潮文庫、1983年)がありますが、まず主として両書に基づいて鳥井信次郎の略年譜を日本初の本格的ウイスキーサントリーウイスキー白札」販売までを簡単に紹介しておきたいと思います。

 鳥井信次郎前半生の略年譜
 1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年)11歳で大阪商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)に入学。  
 1892年(明治25年)13歳で同上学校を中退し大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出る。
 1899年 (明治32年) 大阪西区靭中通に鳥井商店開業、葡萄酒の製造販売を開始。
 1906年 (明治39年) 店名を寿屋と改名。
 1907年 (明治40年) 甘味果実酒「赤玉ポートワイン」を発売。
 1924年 (大正13年) 4月に京都郊外の山崎にウイスキー工場起工、11月に竣工し本格的蒸留作業開始。
 1929年 (昭和4年) 4月に「サントリーウイスキー白札」販売。
 1937年 (昭和12年) 10月に山崎工場で12年間熟成された「サントリーウイスキー角」発売され大ヒット。
 1962年 (昭和37年) 2月20日に急性肺炎で死去。享年83。
 1981年 (昭和37年) サントリーオールドが年間出荷数1240万ケース、1億3000万本以上で単独銘柄としての世界最高を記録。

 なお、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』の147頁~148頁には鳥井信治郎がウイスキー醸造を開始しようとして竹鶴正孝の名前を知る経緯がつぎのように書かれているだけです。

「信次郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのときイギリスでウイスキーづくりを勉強して帰って来た青年技師がいることを教えられた。それが竹鶴正孝である。/まだ二十代であった竹鶴を年俸四千円でむかえいれた。」

 同上書にはウイスキー造りについての両者の対立など全く書かれていません。しかし森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』の121頁~123頁には、鳥井信次郎が大正13年(1924年)に竹鶴正孝に任せて起工した山崎のウイスキー工場から約4年半後の昭和4年(1929年)4月1日に寿屋から売り出した「サントリーウイスキー白札」が全く売れず、ウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)が「こげくさい」と敬遠されたことや、その後さらに原酒が数年樽に寝かされて熟成し、そこに多くの学者と技術陣の知識と研究が加わってサントリーならではのウイスキーの味が作られたことや、その過程で初代工場長の竹鶴正孝と対立し、竹鶴が辞任して北海道で大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立する経緯がつぎのように紹介されています。
 
ところが、鳥井信治郎が勢いこんで売り出した『サントリー』の評判はよくなかった。
『こげくそうて、飲めまへんわ』
 これが、大方の意見であった。信治郎自身も後日、正直にそれを認めている。
『初期の頃はこげくそうて、実際に飲めたもんやなかった。モルト(麦芽)の乾燥に、ピート(草炭)は多い方がええと思うて、燃やしすぎたんやな。それで大麦が、死んでしもたんや。あのこげくさい匂いも、ほんまのところ、ちょっとはなくちゃいかんのやが……。
 なんぼ造っても売れんから、蔵へ入れ蔵へ入れして、ほっといたんや。そないしてストックしているうちに、だんだん味がようなってきた。禍い転じて、福となったわけや。』
 この"こげくささ"は、本格的なウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)とよばれるもので、必要なものなのである。が、過ぎたるは及ばざるが如しで、どうも初期の頃はこれを重んずるあまり、ピートを焚きすぎたらしい。
 実際のところ、信治郎のブレンドが真にその力を発揮しはじめたのは、山崎の原酒が次第に良くなってきてからのことである。良き原酒があってこそブレンドも生きてくる。しかしそのためには、京都帝大の片桐英郎博士らの意見を取り入れ、さらに台湾の専売局から、日本でアミロ法による醸醇を最初に成功させた、上田武敏や佐藤善吉らを社に招く必要があった。多くの学者と技術陣の知識と研究が加わって、はじめてサントリーは、サントリーとしての味を身につけたのである。
 不幸なことに、初代工場長・竹鶴政孝は、これらの新しい技術陣と相容れず、またブレンドについても、鳥井信治郎と意見の一致しないところがあり、後日、信治郎が始めた横浜のビール工場に移り、そのあと寿屋を去って北海道へ渡り、大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立した。


 では、竹鶴政孝自身はその頃のことをどのように述べているのでしょうか。非売品として発行された竹鶴正孝著『ウイスキーと私』(ニッカウヰスキー、1972年2月)がNHK出版から2014年8月に改訂復刻されていますので、同書に基づいて紹介したいと思いますが、まず先に同書や植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版、2014年8月)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等に基づいて竹鶴正孝の略年譜を作成し、下に簡単に紹介しておきます。

 竹鶴正孝 略年譜
 1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。
 1916年 旧制大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。
 1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。
 1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。
 1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。
 1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。
 1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。
 1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。
 1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。
 1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。
 1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。
 1961年 リタ64歳で死去。
 1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。
 1965年 髭のおじさんマークの「ブラックニッカ」(一級)発売、幅広い人気を得る。
 1979年 85歳で死去。

 竹鶴政孝は、1929年に日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」を発売した当時のことを『ウイスキーと私』でつぎのように述べています。

 「無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウンダー(混合者)の知識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がないためブレンドするにもむずかしかったという理由はあるが、他方ではウイスキーを商品として早く出さねぼならない情勢もあった。
 だからこのときは、まだ理想的ブレンドをしたウイスキーとまではいかなかったが、とにかく昭和四(一九二八)年四月一日、初めての本格ウイスキー『白札サンーリー』は世に出たのである。
 発売価格は一本三円五十銭であった。ジョニー・ウオーカーの赤が五円の時代である。その後、普及品の『赤札サントリー』を出したが、いずれも売れ行きも評判もよくなかった。
 また時代も早すぎたのである。
 鳥井さんがウイスキーによせられた期待と情熱、その要望にこたえようとした私も一生懸命であったが、宴席といえぼ日本酒ばかりで、夏はともかく、冬ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど相手にもされなかった。
 売れないから当然原酒が残った。
 だがこのとき残った原酒は十年前後の歳月がたって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである。


 日本で最初の本格ウイスキー造りを開始した寿屋ですが、同社は同年にさらに「オラガ・ビール」を買収し、竹鶴正孝にビールの横浜工場長の兼務が命じられます。そのときのことを竹鶴正孝はつぎのように語っています。

 「しかし工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
 私もそろそろ四十歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
 とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
 もともと契約は十年の約束であったし、私はつねづね自分でウイスキーづくりをしたいと思っていたので、その期限の来た昭和七年に退社したいと申し入れたが、保留されていたのだった。
 とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
 そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない。


 なお、植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)によりますと、鳥井信治郎がビール製造に手を出したのは、売れ行きの悪いウイスキーを擁護するためであり、67万円で買い取ったビール工場が300万以上で売却できると知るとすぐにビール工場を手放してしまいます。そして竹鶴正孝に「さあ、もう安心やで。これで金繰りのほうも一息ついたよって、あんたはんも山崎工場に戻って、また以前のようにバリバリ働いてや」と言ったそうです。しかしこのとき竹鶴正孝は自分が一介の技術者に過ぎないことを痛切に感じ、約束の10年間は働いたことでもあり独立しようと考え、1934年3月1日に寿屋を退社、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵と共同出資して同年7月に北海道の余市に大日本果汁を設立することになります。そのとき、加賀からは「わては株屋や。ウイスキーのほうはわかりまへん。わては金出すさかい、竹鶴はん、あんたは技術を出しなはれ」と運営の一切を任され、北海道余市にウイスキー蒸留所を完成することになったとのことです。





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最終更新日  2015年06月23日 10時37分06秒
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2015年05月02日
カテゴリ:鹿児島の市電
電停名変更

 鹿児島市市電の4電停名が以前のたばこ産業前空地に市立病院と市交通局の局舎と車庫が移転したために以下のように変更となり、拙サイト「鹿児島の市電と街」にも新たな手直しが必要となりました。

   市立病院前→甲東中学校前   
   交通局前→二中通
   たばこ産業前→市立病院前
   神田→神田(交通局前)
 
 たった4電停名の変更ですが、久しぶりのホームぺージ作成だけに先月下旬からいろいろ時間が掛かり、今日やっと一応アップすることができました。また機会を得て移転先の新しい建物も載せていきたいと思います。
    ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/tramcity.html





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最終更新日  2015年05月03日 09時17分23秒
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2015年04月30日
カテゴリ:鹿児島の市電
見送り式

 今日4月30日の午後4時30分から、高麗町の交通局構内で「市電最終出庫便見送り式」が開催されました。高麗町の市電車庫は民営の鹿児島電軌時代に設けられたものですが、施設の老朽化に伴い局舎と市電車庫が上荒田町の日本たばこ産業(JT)工場跡地に移転することになり、高麗町交通局の103年の歴史に幕が下ろされることになりました。私が見送り式に間に合うようにと到着した時には、もうすでにたくさんの鹿児島市電ファンが集まっていました。式では福元修三郎局長の挨拶や見送られる最終電車に乗る徳永良二運転士への花束贈呈があった後、森市長の出発の合図とともに見送り式から「ありがとう高麗町」と書かれたヘッドマークを付けた501号車がゆっくりと旧車庫から外の電車通りに動いて行きました。

二中通

 なお、現在の鹿児島市交通局の局舎前の電停名が「交通局前」から「二中通」に変更される理由はつぎのことから来ていると思われます。高麗本通りから甲南中学校の横を通り、交通局前で電車通り(谷山街道)とつなぐ通りはいま「二中通り」と呼ばれています。「二中」とは明治39年(1906年)に誕生した鹿児島第二中学校のことで、七高内にあった二中が現在の上荒田町(現上之園町)に移転後、その校舎前の通りは「二中通り」と呼ばれて地元に親しまれて来た地名でした。二中と鹿児島県立第二高等女学校が1949年に統合されて甲南高等学校として発足後も商店街の街灯には「二中通り」の文字が書かれています。
 
 新しい局舎と車庫の使用は5月1日から開始するそうですが、上荒田町の新しい局舎前の電停名は「神田」から「神田(交通局前)」に変更されるそうです。








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最終更新日  2015年05月02日 09時42分30秒
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2015年04月25日
カテゴリ:落語
志の輔

 昨日(4月24日)は鹿児島市民文化ホールで立川志の輔独演会があり、夫婦で大いに楽しんできました。

 独演会の幕が開くと最初に立川志の輔師匠のお弟子さんの立川志の麿さんが「つる」、立川志の太郎さんが「元犬」を演じ、その後に立川志の輔師匠が高座に上り、まず「スマチュウ」を演じ、中入り後に「江戸の夢」を演じました。

 立川志の輔師匠の「スマチュウ」は、まくらのネタに首相官邸屋上に落下したドローンのことや北陸新幹線の富山開通のことなどを取り上げて軽妙に笑いを取り、つぎに志の輔師匠が故郷の富山に飛行機で公演に出かけたとき、悪天候のために到着空港が変更になり、出迎えの女性スタッフが大わらわとなって途中のコンビニでスマホを雪の中に落したが、お弟子さんが着信させて発見したというハプニングを面白可笑しく語って観客を大爆笑させた後、本題の新作「スマチュウ」に入っていきました。

 新作「スマチュウ」の意味はスマホ中毒のことで、ネジ工場社長のところに大学生の甥が卒業旅行の費用を借りに来るのですが、この甥が会話している間ずっとスマホをいじっており、こんなスマホを肌身離さず常に持って操作している甥の態度に社長が腹を立てて叱り出します。ところがこの社長がどこかに置き忘れていたスマホを奥さんに見つけられ、奥さんに隠れて付き合っている女性からのメッセージを読まれて大慌てするという噺です。オチは社長がスマホは肌身離さず常に持つべきだと実感させられるというものですが、現代社会に無くてはならなくなったスマホを主題にしたなかなかの傑作でした。

 中入り後に高座に上った志の輔師匠は、がらっと雰囲気を変えて時代物の人情噺「江戸の夢」を語り出しました。この噺は六代目三遊亭円生が高座に掛けていたものだそうです。庄屋の娘のおはるが奉公人の藤七が好きになり、母親は氏素性も判らない藤七を婿にすることに反対しますが、父親の庄屋は気立ては良く、よく働いて品性も良い藤七ならと祝言を挙げさせます。その後、庄屋夫婦は江戸見物に出掛けることとなり、藤七から彼が大事に育てていたお茶の木から作ったお茶の葉を浅草の奈良屋に寄ってその出来栄えを鑑定してもらいたいと依頼されます...。

 なお、この「江戸の夢」は、元々は宇野信夫が昭和十五年(1940年)に六代目菊五郎と初代吉右衛門のための歌舞伎として書いたもので、昭和四十二年(1967年)に宇野自身の手で圓生のために落語化されたものだそうです。






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最終更新日  2015年04月25日 17時47分21秒
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2015年04月05日
 朝の連続テレビドラマ「マッサン」に、初めてウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)がマッサンを高額で醸造技師として招く話が出てきます。この鴨居商店の鴨居欣次郎は実在の人物である寿屋の創業者である鳥井信治郎をモデルにしています。

 この鳥井信治郎の生誕と学歴について、ウイキペデアの2015年4月8日以前に書かれた「鳥井信治郎」に関する記事中にはつぎのように書かれていました。

「1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学  
 1892年(明治25年) 13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出た。」

 ウイキペデアに2015年4月8日以前に書かれていた記事によりますと、鳥井信治郎は1879年生まれで1890年に大阪商業学校(現・大阪市立大学)に入学しているとのことですから、11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級入学したことになります。最近も大川翔という14歳の日本人少年がカナダでギフテッド(天才児)に認定され、カナダの複数の大学に合格したことが話題になりましたから、遥か遠く霧の彼方にあるような大昔の明治時代に11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級なんてことも有り得るんじゃないのと特に疑問を抱かなかった人も多いかもしれませんね。
 
 確かに大阪商業学校という名前が大阪市大の文系4学部(商・経・法・文)関連の同窓会「有恒会」の記念誌『有恒会七十年の歩み』(有恒会、1960年発行)139頁掲載の母校(大阪市立大学)八十年年譜に出ています。同年譜の明治年間の部分を要約するとつぎのようになります。

 1880年(明治13年)母校(大阪市立大学)の前身たる大阪商業講習所が立売堀北通三丁目に開設。
 1881年(明治14年)江戸堀南通三丁目一八旧府会議事堂二階に移転、大阪府に移管され府立大坂商業講習所として授業開始。
 1885年(明治18年) 大坂商業講習所廃止、府立大阪商業学校設立。
 1889年(明治22年) 大阪府より大阪市に移管、市立大阪商業学校と改称
 1892年(明治25年) 堂島浜通二丁目に新校舎開校。
 1901年(明治34年) 大阪市立大阪高等商業学校と改称、甲種商業を附設。
 1909年(明治42年) 北の大火、校舎全焼、仮校舎を江戸堀南通三丁目に開設。
 1911年(明治44年) 鳥ケ辻新校舎の新築落成祝典。

 その後、1929年に大阪商科大学入学式挙行、1949年には新制大阪市立大学発足としています。

 また『有恒会七十年の歩み』の5頁には、片岡清という明治32年(1899年)に市立大阪商業学校を卒業した人物が寄せた「六十年前の母校を回想して亡き面影を偲ぶ」という文章があり、同文章中に当時の大阪商業学校の「学級制度は、補習科一年、予科二年、本科二年を正科」としたと記すとともに、「尚簡易科として普通商業校程度の別科が、設けられてありましたが、これも数年にして廃止と記憶します」と書いています。 どうもこの「尚簡易科として普通商業校程度の別科」こそが鳥井信治郎が11歳のとき進学した大阪商業学校のことかもしれませんね。

 さらに片岡清は、彼が進学した大阪商業学校の世間の評価や学制についてつぎのような興味深い事実を語っています。

「母校は、大阪市の経費にて賄われた市立でありますから、大阪市民の子弟を収容するを本旨と成し、且又設立者たち市先覚有力者の意向は、必ずしも高等商業教育を目的と成したるものに非ざる哉に推量せられ、従って市の高等小学修了者は受験の上補習科に入学の制度でありました。併し母校の評判は各地に散在する普通商業学枚に比し、断然頭角を顕わし、当時唯一の存在たる高等商業東京一橋の声価には及ぼざるも、是に次ぐものと認められ、従て他府県よりの入学希望者、逐次多きを加え来り、市在籍者子弟の数と相半ばするか、又は是を凌駕するに到りました。中学五年の課程を終えた官公立卒業生は受験の上、本科一年に入学許可の制度でしたが、私共の如き中学中途退学者にして、上級入学希望者は、先ず予科一年入学を受験、更に予科二年受験の順序を踏み、私は明治二十九年三月、予科二年に入学しました。」

 片岡清の上掲の文章をまとめますと、当時の市立大阪商業学校本科に入学が許可されたのは、基本は官公立の旧制中学五年課程を終えた卒業生(通常は17歳)で同商業学校本科を受験し合格した者でしたが、中学中途退学者だった片岡清は明治28年(1895年)に先ず18歳で予科一年入学を受験して合格しており、更に予科二年受験の順序を踏んでから本科二年に進み、同校本科を明治32年(1899年)に22歳で修了したことになります。

 なお、1884年(明治17年)に公布された「商業学校通則」によりますと入学資格は年齢十三歳以上だそうです。また橘木俊詔『三商大 東京・大阪・神戸』(岩波書店、2012年2月)には、明治28年(1895年)に大阪商業学校の校長に就任した成瀬隆蔵が「十四歳以上の生徒を入学させるようにし」たとのことです。しかし優秀な鳥井信治郎少年なら11歳で大阪商業学校に飛び級入学した可能性だってあるかもしれませんね。しかし大阪商業学校は英語力を重視しており、上掲の『有恒会七十年の歩み』7頁掲載に掲載された明治37年(1914年)卒の塩崎喜八郎「在学時代を偲んで」と題した文では、塩崎喜八郎が明治31年(1898年)14歳のときに大阪商業学校予科を受験し「英語の書取りに躓いた」ために不合格となり、1年浪人して明治32年(1899年)15歳で予科に合格したと書いています。

 では鳥井信治郎少年は子どもの頃からその非凡な英語力で才能を発揮していたのでしょうか。彼が語学力の天才だったという話は聞いたことありませんし、邦光史郎『芳醇な酒 やってみなはれ』(集英社文庫、1991年9月)81頁には、鳥井信治郎が二十歳代で鳥井商店を開業し和製葡萄酒の調合や販売を手掛けた頃、「英語のエの字も知らない」ので欧米人の所に和製葡萄酒を直接持ち込むことには躊躇したと書いています。どうも11歳で大阪商業学校飛び級入学説にも無理がありそうです。

 これらのことから推測しますと、明治23年(1890年)に鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」とは、片岡清が前掲の文章中に記していた「普通商業校程度の別科としての簡易科」のことかもしれませんね。

 実は「大阪商業学校」をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです。同校の同窓会が出版した『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の34頁には同校帽章についてつぎのようなことが書かれています。

 「天商の帽章は、梅花の中央に『商』の字が配された」ものが明治25年(1892年)に採用され、「のち大阪高商昇格時『商』の字を『高商』と改め使用し、大阪甲種商業学校分離後は甲種校は『商』の字を復活使用」されたそうです。

  帽章

 また同校史に載っている前史を要約するとつぎのようにまとめられます。

 1880年(明治13年)に大阪商業会議所会頭五代友厚が中心となって住友家・鴻池家・藤田家の代表も加わり大阪商業講習所が西区立売堀北通に開設。
 1881年(明治14年)に経済的理由で大阪府に移管、「府立大阪商業講習所」として西区江戸堀南通に移転、授業再開。
 1885年(明治18年)、前年に「商業学校通則」が公布され、「府立大阪商業学校」が開設、「大阪商業講習所」の一切を継承。
 1888年(明治21年)本校規則を制定し、予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く。
 1889年(明治22年)に大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更
 1892年(明治25年)に学制改革を行い、北区堂島浜通2丁目に新校舎落成。
 1901年(明治34年)に「市立大阪高等商業学校」が開設、「この大阪高商に附設された3年制の甲種商業科が後の甲種商業学校に継承されることとなる」。
 1909年(明治42年)の「北の大火」で堂島校舎は全焼。
 1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転。
 1912年(明治45年)に甲種商業科を廃し、新たに「市立大阪甲種商業学校」を大阪高商内に開設。
 1919年(大正8年)に「大阪市立第一商業学校」と改称。
 1920年(大正10年)に「大阪市立天王寺商業学校」と改称。
 1948年(昭和23年)に「大阪市立天王寺商業高等学校」として発足。

 鳥井信治郎は1890年(明治23年)満11歳で進学していますから、1888年(明治21年)に「予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く」の「付属科」(後の甲種商業科)のことかもしれませんね。

 では鳥井信治郎が進学したこの商業学校の当時の所在地はどこだったのでしょうか。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)に山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史が載っており、その71頁に鳥井信治郎の学歴がつぎのように紹介されています。

「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ。
   (中略)
 四年制の高等小学校にも二年しか在籍していない。北区梅田の大阪商業学校に進んだ。当時の学制は、まだアイマイなものであって、信治郎の成績がずば抜けていたためにこうなつたものかどうかという証拠はない。ただ、後年の信治郎から推察して、才気換発の腕白小僧ではあったろうと思われる。
 大阪商業学校は、年代から考えて、私塾から発展したものだろう。この学校に二年在学はしている。
 明治二十五年、十三歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。『丁稚一名を求む』という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。」

 また森杉久英『鳥井信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫、1983年)の13頁~15頁に付けられている「鳥井信治郎年譜」では、誕生年月日を「明治12年1月30日」とし、大阪商業学校入学年を「明治23年4月」とし、鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地を「北区梅田出入橋」と記しています。 
 
 しかし前掲の『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の天王寺商業高等学校前史(明治年間)によれば、大阪商業学校は1892年(明治25年)以前は西区江戸堀南通にあり、同年に北区堂島浜通2丁目の新校舎に移転しています。鳥井信治郎が同校に入学したのは明治23年(1890年)ですから、当時同校は西区江戸堀南通にあったようです。

大阪市立大学の同窓会有恒会の記念誌や天王寺商業高等学校の同窓会の記念誌に基づけば、鳥井信治郎が入学したのは大阪商業講習所をルーツとする市立大阪商業学校の付属科と思われます。ですから2015年4月8日以前に書かれたウイキペデアの「鳥井信治郎」に関する記事中の「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」の( )内の「現・大阪市立大学」は削除するか訂正する必要があるようです。それで、私が2015年4月8日にそのことに関連する事項を幾つか追加して訂正することにしました。

 しかし、ウイキペデアの2015年4月8日以前の「鳥井信治郎」に関する誤った記述「1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」がネット内にすでに拡散しており、「鳥井信治郎」に関連する様々なサイトで「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」とされています。さらに2014年11月に日本経済新聞出版社から発行された永井隆著『サントリー対キリン』にも鳥井信治郎の学歴として「大阪商業学校(現在の大阪市立大学)」としていました。単純多数決なら「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」が正しいとされてしまいそうですね。

 ものごとを調べるのにやはり確かな文献に基づく実証的検討が必要ですね。





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最終更新日  2015年05月23日 17時01分18秒
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