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2015年05月24日
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カテゴリ:落語
白酒

 今日(5月24日)に鹿児島市内の黎明館2階講堂で桃月庵白酒独演会が開催されましたので夫婦で楽しんできました。

 白酒師匠と言えば、 評論家の広瀬和生が「羊の皮を被った狼のような落語」と評していますが、その魅力の一つが毒気ですね。白酒師匠の自著『白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢見酒』(白夜書房、2013年9月)125頁に、同じ早稲田の落研出身の柳家甚語楼と二人会などをやっていた頃、マクラで「ざっくばらんに好き勝手に、愚痴と腹の立った話題をただ羅列していただけ」だったそうですが、甚語楼から「空気が悪くなる」と言われ、「毒のあり過ぎるマクラをちょっと変えてみるか、そんな感じで、愚痴話をちょこっと変化させてみたのです。マイルドなアイロ二ーに変えるというか、言い方を工夫してみました」と書いています。

  私も、白酒師匠のずんぐりむっくりした福々しい外観の高座から繰り出される意外な毒気が何とも言えず大好きなのですが、今日の独演会にもその毒気が充分に発揮され、大いに満足させられました。例えば今回の独演会の主催者の方々に感謝の意を表しながら、渡された濡れタオルがキンキンに冷やされており解くのが大変だったとか、借家の相場が場所の人気の有無によって違いがあり、例えば鹿児島ならほぼ同じ場所でありながら「玉里」と「伊敷」とではイメージが違う、と言って後は言葉を濁したり、さらに高崎山の猿の赤ちゃんの愛称を「シャーロット」とするときに英国大使館に問い合わせたが、「きっと大使館から見たら猿と日本人の区別なんかつかないだろう」と毒気が炸裂し、会場は大爆笑でした。

 さて私個人のもう一つのお楽しみは、最初のマクラを聞いて本題の演目を予想することなんですが、世間にはいろいろな職業があると言って、医者でも切った貼ったの外科医と相手の話を聞くことが主となる内科医では随分違うと話し出したときは、ははん「代脈」当たりかな、しかし「代脈」は3年前に白酒師匠がすでに演じていたはずだから、「夏の医者」かもしれないなとあれこれ推測していましたら、これが床屋の待ち時間に文字を読むのが不確かな男が手にしていた読み本の『太閤記』を読まされて四苦八苦する「浮世床」だったり、マクラで借家の場所による相場の話にはいささか戸惑っていると本題は「お化け長屋」でした。確かに長屋の空き家を無断利用している長屋の住人たちとその空き家を借りに来た人物たちとが繰り広げる滑稽譚ですからマクラと本題とは繋がっています。

 さて、中入り後に高座に上った白酒師匠がまずマクラで語り出したのが先ほど紹介したお猿の愛称「シャーロット」なのでね、これも本題の推測が付きませんでしたが、戦国時代のような戦乱の時ならカリスマ性のあるリーダーが求められるが江戸時代のような平和な時期には「あっ、あそこに蝶々が」といった感じの殿様でも構わないと来たので、もしかしてどこかネジが何本か抜けている赤い御門の守と家老の三太夫が出てくる噺が本題かと推測しますと、これはびったしカンカン、なんともお馬鹿な殿様と家老の両者の間で繰り広げられる滑稽譚「松曳き」でした。最後は見事に当てたので「余は満足じゃ」でございました。

 なお、拙サイト「十人十席の噺家の高座」にアップしていました「桃月庵白酒」に今回の独演会のことを加筆しておきました。
   ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/hakusyunedoko.html






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最終更新日  2015年05月26日 10時39分16秒
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2015年05月09日
 NHK朝の連続ドラマ「マッサン」では、鴨居商店の山崎ウイスキー工場から出荷された日本初の国産ウイスキー「鴨居ウヰスキー」は全く売れず、経営者の鴨居欣次郎(堤真一)は「従業員、食わせていくためや、メイドインジャパンのウイスキー、広めるためやったら、わては、何でもやったる!」として日本人の嗜好に合わせるようマッサン(玉山鉄二)に命じますが、マッサンは本格ウイスキー造りの夢を捨てられず、「そのためには、大将のもとを離れる事が、一番じゃ、思いました」と言って鴨居欣次郎に辞表を提出します。そしてウイスキー造りに最適と考える北海道の余市にまず資金造りのためリンゴ汁製造・販売する北海道果汁株式会社を設立することになります。

 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立がドラマでは次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。

 この経営者としての鴨居欣次郎と技術者であり職人であるマッサンの対立はこのドラマの大きな見せ所となっていますが、実際の寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝との間にはどのような関係があったのでしょうか。実話を基にした小説やテレビを読んだり見たりして興味を持ちますと、私の悪い癖で実際はどうだったのだろうかと無性に知りたくなります。それで文献に基づいて、日本で最初の本格ウイスキー造りにかかわった寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝のことを調べてみることにしました。

 寿屋の鳥井信次郎について書かれた文献としては、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史や森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』(新潮文庫、1983年)がありますが、まず主として両書に基づいて鳥井信次郎の略年譜を日本初の本格的ウイスキーサントリーウイスキー白札」販売までを簡単に紹介しておきたいと思います。

 鳥井信次郎前半生の略年譜
 1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年)11歳で大阪商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)に入学。  
 1892年(明治25年)13歳で同上学校を中退し大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出る。
 1899年 (明治32年) 大阪西区靭中通に鳥井商店開業、葡萄酒の製造販売を開始。
 1906年 (明治39年) 店名を寿屋と改名。
 1907年 (明治40年) 甘味果実酒「赤玉ポートワイン」を発売。
 1924年 (大正13年) 4月に京都郊外の山崎にウイスキー工場起工、11月に竣工し本格的蒸留作業開始。
 1929年 (昭和4年) 4月に「サントリーウイスキー白札」販売。
 1937年 (昭和12年) 10月に山崎工場で12年間熟成された「サントリーウイスキー角」発売され大ヒット。

 なお、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』の147頁~148頁には鳥井信治郎がウイスキー醸造を開始しようとして竹鶴正孝の名前を知る経緯がつぎのように書かれているだけです。

「信次郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのときイギリスでウイスキーづくりを勉強して帰って来た青年技師がいることを教えられた。それが竹鶴正孝である。/まだ二十代であった竹鶴を年俸四千円でむかえいれた。」

 同上書にはウイスキー造りについての両者の対立など全く書かれていません。しかし森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』の121頁~123頁には、鳥井信次郎が大正13年(1924年)に竹鶴正孝に任せて起工した山崎のウイスキー工場から約4年半後の昭和4年(1929年)4月1日に寿屋から売り出した「サントリーウイスキー白札」が全く売れず、ウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)が「こげくさい」と敬遠されたことや、その後さらに原酒が数年樽に寝かされて熟成し、そこに多くの学者と技術陣の知識と研究が加わってサントリーならではのウイスキーの味が作られたことや、その過程で初代工場長の竹鶴正孝と対立し、竹鶴が辞任して北海道で大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立する経緯がつぎのように紹介されています。
 
ところが、鳥井信治郎が勢いこんで売り出した『サントリー』の評判はよくなかった。
『こげくそうて、飲めまへんわ』
 これが、大方の意見であった。信治郎自身も後日、正直にそれを認めている。
『初期の頃はこげくそうて、実際に飲めたもんやなかった。モルト(麦芽)の乾燥に、ピート(草炭)は多い方がええと思うて、燃やしすぎたんやな。それで大麦が、死んでしもたんや。あのこげくさい匂いも、ほんまのところ、ちょっとはなくちゃいかんのやが……。
 なんぼ造っても売れんから、蔵へ入れ蔵へ入れして、ほっといたんや。そないしてストックしているうちに、だんだん味がようなってきた。禍い転じて、福となったわけや。』
 この"こげくささ"は、本格的なウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)とよばれるもので、必要なものなのである。が、過ぎたるは及ばざるが如しで、どうも初期の頃はこれを重んずるあまり、ピートを焚きすぎたらしい。
 実際のところ、信治郎のブレンドが真にその力を発揮しはじめたのは、山崎の原酒が次第に良くなってきてからのことである。良き原酒があってこそブレンドも生きてくる。しかしそのためには、京都帝大の片桐英郎博士らの意見を取り入れ、さらに台湾の専売局から、日本でアミロ法による醸醇を最初に成功させた、上田武敏や佐藤善吉らを社に招く必要があった。多くの学者と技術陣の知識と研究が加わって、はじめてサントリーは、サントリーとしての味を身につけたのである。
 不幸なことに、初代工場長・竹鶴政孝は、これらの新しい技術陣と相容れず、またブレンドについても、鳥井信治郎と意見の一致しないところがあり、後日、信治郎が始めた横浜のビール工場に移り、そのあと寿屋を去って北海道へ渡り、大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立した。


 では、竹鶴政孝自身はその頃のことをどのように述べているのでしょうか。非売品として発行された竹鶴正孝著『ウイスキーと私』(ニッカウヰスキー、1972年2月)がNHK出版から2014年8月に改訂復刻されていますので、同書に基づいて紹介したいと思いますが、まず先に同書や植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版、2014年8月)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等に基づいて竹鶴正孝の略年譜を作成し、下に簡単に紹介しておきます。

 竹鶴正孝 略年譜
 1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。
 1916年 旧制大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。
 1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。
 1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。
 1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。
 1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。
 1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。
 1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。
 1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。
 1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。
 1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。
 1961年 リタ64歳で死去。
 1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。
 1965年 髭のおじさんマークの「ブラックニッカ」(一級)発売、幅広い人気を得る。
 1979年 85歳で死去。

 竹鶴政孝は、1929年に日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」を発売した当時のことを『ウイスキーと私』でつぎのように述べています。

 「無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウンダー(混合者)の知識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がないためブレンドするにもむずかしかったという理由はあるが、他方ではウイスキーを商品として早く出さねぼならない情勢もあった。
 だからこのときは、まだ理想的ブレンドをしたウイスキーとまではいかなかったが、とにかく昭和四(一九二八)年四月一日、初めての本格ウイスキー『白札サンーリー』は世に出たのである。
 発売価格は一本三円五十銭であった。ジョニー・ウオーカーの赤が五円の時代である。その後、普及品の『赤札サントリー』を出したが、いずれも売れ行きも評判もよくなかった。
 また時代も早すぎたのである。
 鳥井さんがウイスキーによせられた期待と情熱、その要望にこたえようとした私も一生懸命であったが、宴席といえぼ日本酒ばかりで、夏はともかく、冬ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど相手にもされなかった。
 売れないから当然原酒が残った。
 だがこのとき残った原酒は十年前後の歳月がたって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである。


 日本で最初の本格ウイスキー造りを開始した寿屋ですが、同社は同年にさらに「オラガ・ビール」を買収し、竹鶴正孝にビールの横浜工場長の兼務が命じられます。そのときのことを竹鶴正孝はつぎのように語っています。

 「しかし工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
 私もそろそろ四十歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
 とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
 もともと契約は十年の約束であったし、私はつねづね自分でウイスキーづくりをしたいと思っていたので、その期限の来た昭和七年に退社したいと申し入れたが、保留されていたのだった。
 とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
 そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない。


 なお、植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)によりますと、鳥井信治郎がビール製造に手を出したのは、売れ行きの悪いウイスキーを擁護するためであり、67万円で買い取ったビール工場が300万以上で売却できると知るとすぐにビール工場を手放してしまいます。そして竹鶴正孝に「さあ、もう安心やで。これで金繰りのほうも一息ついたよって、あんたはんも山崎工場に戻って、また以前のようにバリバリ働いてや」と言ったそうです。しかしこのとき竹鶴正孝は自分が一介の技術者に過ぎないことを痛切に感じ、約束の10年間は働いたことでもあり独立しようと考え、1934年3月1日に寿屋を退社、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵と共同出資して同年7月に北海道の余市に大日本果汁を設立することになります。そのとき、加賀からは「わては株屋や。ウイスキーのほうはわかりまへん。わては金出すさかい、竹鶴はん、あんたは技術を出しなはれ」と運営の一切を任され、北海道余市にウイスキー蒸留所を完成することになったとのことです。





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最終更新日  2015年05月16日 17時31分22秒
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2015年05月02日
カテゴリ:鹿児島の市電
電停名変更

 鹿児島市市電の4電停名が以前のたばこ産業前空地に市立病院と市交通局の局舎と車庫が移転したために以下のように変更となり、拙サイト「鹿児島の市電と街」にも新たな手直しが必要となりました。

   市立病院前→甲東中学校前   
   交通局前→二中通
   たばこ産業前→市立病院前
   神田→神田(交通局前)
 
 たった4電停名の変更ですが、久しぶりのホームぺージ作成だけに先月下旬からいろいろ時間が掛かり、今日やっと一応アップすることができました。また機会を得て移転先の新しい建物も載せていきたいと思います。
    ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/tramcity.html





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最終更新日  2015年05月03日 09時17分23秒
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2015年04月30日
カテゴリ:鹿児島の市電
見送り式

 今日4月30日の午後4時30分から、高麗町の交通局構内で「市電最終出庫便見送り式」が開催されました。高麗町の市電車庫は民営の鹿児島電軌時代に設けられたものですが、施設の老朽化に伴い局舎と市電車庫が上荒田町の日本たばこ産業(JT)工場跡地に移転することになり、高麗町交通局の103年の歴史に幕が下ろされることになりました。私が見送り式に間に合うようにと到着した時には、もうすでにたくさんの鹿児島市電ファンが集まっていました。式では福元修三郎局長の挨拶や見送られる最終電車に乗る徳永良二運転士への花束贈呈があった後、森市長の出発の合図とともに見送り式から「ありがとう高麗町」と書かれたヘッドマークを付けた501号車がゆっくりと旧車庫から外の電車通りに動いて行きました。

二中通

 なお、現在の鹿児島市交通局の局舎前の電停名が「交通局前」から「二中通」に変更される理由はつぎのことから来ていると思われます。高麗本通りから甲南中学校の横を通り、交通局前で電車通り(谷山街道)とつなぐ通りはいま「二中通り」と呼ばれています。「二中」とは明治39年(1906年)に誕生した鹿児島第二中学校のことで、七高内にあった二中が現在の上荒田町(現上之園町)に移転後、その校舎前の通りは「二中通り」と呼ばれて地元に親しまれて来た地名でした。二中と鹿児島県立第二高等女学校が1949年に統合されて甲南高等学校として発足後も商店街の街灯には「二中通り」の文字が書かれています。
 
 新しい局舎と車庫の使用は5月1日から開始するそうですが、上荒田町の新しい局舎前の電停名は「神田」から「神田(交通局前)」に変更されるそうです。








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最終更新日  2015年05月02日 09時42分30秒
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2015年04月25日
カテゴリ:落語
志の輔

 昨日(4月24日)は鹿児島市民文化ホールで立川志の輔独演会があり、夫婦で大いに楽しんできました。

 独演会の幕が開くと最初に立川志の輔師匠のお弟子さんの立川志の麿さんが「つる」、立川志の太郎さんが「元犬」を演じ、その後に立川志の輔師匠が高座に上り、まず「スマチュウ」を演じ、中入り後に「江戸の夢」を演じました。

 立川志の輔師匠の「スマチュウ」は、まくらのネタに首相官邸屋上に落下したドローンのことや北陸新幹線の富山開通のことなどを取り上げて軽妙に笑いを取り、つぎに志の輔師匠が故郷の富山に飛行機で公演に出かけたとき、悪天候のために到着空港が変更になり、出迎えの女性スタッフが大わらわとなって途中のコンビニでスマホを雪の中に落したが、お弟子さんが着信させて発見したというハプニングを面白可笑しく語って観客を大爆笑させた後、本題の新作「スマチュウ」に入っていきました。

 新作「スマチュウ」の意味はスマホ中毒のことで、ネジ工場社長のところに大学生の甥が卒業旅行の費用を借りに来るのですが、この甥が会話している間ずっとスマホをいじっており、こんなスマホを肌身離さず常に持って操作している甥の態度に社長が腹を立てて叱り出します。ところがこの社長がどこかに置き忘れていたスマホを奥さんに見つけられ、奥さんに隠れて付き合っている女性からのメッセージを読まれて大慌てするという噺です。オチは社長がスマホは肌身離さず常に持つべきだと実感させられるというものですが、現代社会に無くてはならなくなったスマホを主題にしたなかなかの傑作でした。

 中入り後に高座に上った志の輔師匠は、がらっと雰囲気を変えて時代物の人情噺「江戸の夢」を語り出しました。この噺は六代目三遊亭円生が高座に掛けていたものだそうです。庄屋の娘のおはるが奉公人の藤七が好きになり、母親は氏素性も判らない藤七を婿にすることに反対しますが、父親の庄屋は気立ては良く、よく働いて品性も良い藤七ならと祝言を挙げさせます。その後、庄屋夫婦は江戸見物に出掛けることとなり、藤七から彼が大事に育てていたお茶の木から作ったお茶の葉を浅草の奈良屋に寄ってその出来栄えを鑑定してもらいたいと依頼されます...。

 なお、この「江戸の夢」は、元々は宇野信夫が昭和十五年(1940年)に六代目菊五郎と初代吉右衛門のための歌舞伎として書いたもので、昭和四十二年(1967年)に宇野自身の手で圓生のために落語化されたものだそうです。






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最終更新日  2015年04月25日 17時47分21秒
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2015年04月05日
 朝の連続テレビドラマ「マッサン」に、初めてウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)がマッサンを高額で醸造技師として招く話が出てきます。この鴨居商店の鴨居欣次郎は実在の人物である寿屋の創業者である鳥井信治郎をモデルにしています。

 この鳥井信治郎の生誕と学歴について、ウイキペデアの2015年4月8日以前に書かれた「鳥井信治郎」に関する記事中にはつぎのように書かれていました。

「1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学  
 1892年(明治25年) 13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出た。」

 ウイキペデアに2015年4月8日以前に書かれていた記事によりますと、鳥井信治郎は1879年生まれで1890年に大阪商業学校(現・大阪市立大学)に入学しているとのことですから、11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級入学したことになります。最近も大川翔という14歳の日本人少年がカナダでギフテッド(天才児)に認定され、カナダの複数の大学に合格したことが話題になりましたから、遥か遠く霧の彼方にあるような大昔の明治時代に11歳で現在の大学レベルの学校に飛び級なんてことも有り得るんじゃないのと特に疑問を抱かなかった人も多いかもしれませんね。
 
 確かに大阪商業学校という名前が大阪市大の文系4学部(商・経・法・文)関連の同窓会「有恒会」の記念誌『有恒会七十年の歩み』(有恒会、1960年発行)139頁掲載の母校(大阪市立大学)八十年年譜に出ています。同年譜の明治年間の部分を要約するとつぎのようになります。

 1880年(明治13年)母校(大阪市立大学)の前身たる大阪商業講習所が立売堀北通三丁目に開設。
 1881年(明治14年)江戸堀南通三丁目一八旧府会議事堂二階に移転、大阪府に移管され府立大坂商業講習所として授業開始。
 1885年(明治18年) 大坂商業講習所廃止、府立大阪商業学校設立。
 1889年(明治22年) 大阪府より大阪市に移管、市立大阪商業学校と改称
 1892年(明治25年) 堂島浜通二丁目に新校舎開校。
 1901年(明治34年) 大阪市立大阪高等商業学校と改称、甲種商業を附設。
 1909年(明治42年) 北の大火、校舎全焼、仮校舎を江戸堀南通三丁目に開設。
 1911年(明治44年) 鳥ケ辻新校舎の新築落成祝典。

 その後、1929年に大阪商科大学入学式挙行、1949年には新制大阪市立大学発足としています。

 また『有恒会七十年の歩み』の5頁には、片岡清という明治32年(1899年)に市立大阪商業学校を卒業した人物が寄せた「六十年前の母校を回想して亡き面影を偲ぶ」という文章があり、同文章中に当時の大阪商業学校の「学級制度は、補習科一年、予科二年、本科二年を正科」としたと記すとともに、「尚簡易科として普通商業校程度の別科が、設けられてありましたが、これも数年にして廃止と記憶します」と書いています。 どうもこの「尚簡易科として普通商業校程度の別科」こそが鳥井信治郎が11歳のとき進学した大阪商業学校のことかもしれませんね。

 さらに片岡清は、彼が進学した大阪商業学校の世間の評価や学制についてつぎのような興味深い事実を語っています。

「母校は、大阪市の経費にて賄われた市立でありますから、大阪市民の子弟を収容するを本旨と成し、且又設立者たち市先覚有力者の意向は、必ずしも高等商業教育を目的と成したるものに非ざる哉に推量せられ、従って市の高等小学修了者は受験の上補習科に入学の制度でありました。併し母校の評判は各地に散在する普通商業学枚に比し、断然頭角を顕わし、当時唯一の存在たる高等商業東京一橋の声価には及ぼざるも、是に次ぐものと認められ、従て他府県よりの入学希望者、逐次多きを加え来り、市在籍者子弟の数と相半ばするか、又は是を凌駕するに到りました。中学五年の課程を終えた官公立卒業生は受験の上、本科一年に入学許可の制度でしたが、私共の如き中学中途退学者にして、上級入学希望者は、先ず予科一年入学を受験、更に予科二年受験の順序を踏み、私は明治二十九年三月、予科二年に入学しました。」

 片岡清の上掲の文章をまとめますと、当時の市立大阪商業学校本科に入学が許可されたのは、基本は官公立の旧制中学五年課程を終えた卒業生(通常は17歳)で同商業学校本科を受験し合格した者でしたが、中学中途退学者だった片岡清は明治28年(1895年)に先ず18歳で予科一年入学を受験して合格しており、更に予科二年受験の順序を踏んでから本科二年に進み、同校本科を明治32年(1899年)に22歳で修了したことになります。

 なお、1884年(明治17年)に公布された「商業学校通則」によりますと入学資格は年齢十三歳以上だそうです。また橘木俊詔『三商大 東京・大阪・神戸』(岩波書店、2012年2月)には、明治28年(1895年)に大阪商業学校の校長に就任した成瀬隆蔵が「十四歳以上の生徒を入学させるようにし」たとのことです。しかし優秀な鳥井信治郎少年なら11歳で大阪商業学校に飛び級入学した可能性だってあるかもしれませんね。しかし大阪商業学校は英語力を重視しており、上掲の『有恒会七十年の歩み』7頁掲載に掲載された明治37年(1914年)卒の塩崎喜八郎「在学時代を偲んで」と題した文では、塩崎喜八郎が明治31年(1898年)14歳のときに大阪商業学校予科を受験し「英語の書取りに躓いた」ために不合格となり、1年浪人して明治32年(1899年)15歳で予科に合格したと書いています。

 では鳥井信治郎少年は子どもの頃からその非凡な英語力で才能を発揮していたのでしょうか。彼が語学力の天才だったという話は聞いたことありませんし、邦光史郎『芳醇な酒 やってみなはれ』(集英社文庫、1991年9月)81頁には、鳥井信治郎が二十歳代で鳥井商店を開業し和製葡萄酒の調合や販売を手掛けた頃、「英語のエの字も知らない」ので欧米人の所に和製葡萄酒を直接持ち込むことには躊躇したと書いています。どうも11歳で大阪商業学校飛び級入学説にも無理がありそうです。

 これらのことから推測しますと、明治23年(1890年)に鳥井信治郎が満11歳で進学した「大阪商業学校」とは、片岡清が前掲の文章中に記していた「普通商業校程度の別科としての簡易科」のことかもしれませんね。

 実は「大阪商業学校」をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです。同校の同窓会が出版した『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の34頁には同校帽章についてつぎのようなことが書かれています。

 「天商の帽章は、梅花の中央に『商』の字が配された」ものが明治25年(1892年)に採用され、「のち大阪高商昇格時『商』の字を『高商』と改め使用し、大阪甲種商業学校分離後は甲種校は『商』の字を復活使用」されたそうです。

  帽章

 また同校史に載っている前史を要約するとつぎのようにまとめられます。

 1880年(明治13年)に大阪商業会議所会頭五代友厚が中心となって住友家・鴻池家・藤田家の代表も加わり大阪商業講習所が西区立売堀北通に開設。
 1881年(明治14年)に経済的理由で大阪府に移管、「府立大阪商業講習所」として西区江戸堀南通に移転、授業再開。
 1885年(明治18年)、前年に「商業学校通則」が公布され、「府立大阪商業学校」が開設、「大阪商業講習所」の一切を継承。
 1888年(明治21年)本校規則を制定し、予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く。
 1889年(明治22年)に大阪市発足とともに「市立大阪商業学校」と変更
 1892年(明治25年)に学制改革を行い、北区堂島浜通2丁目に新校舎落成。
 1901年(明治34年)に「市立大阪高等商業学校」が開設、「この大阪高商に附設された3年制の甲種商業科が後の甲種商業学校に継承されることとなる」。
 1909年(明治42年)の「北の大火」で堂島校舎は全焼。
 1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転。
 1912年(明治45年)に甲種商業科を廃し、新たに「市立大阪甲種商業学校」を大阪高商内に開設。
 1919年(大正8年)に「大阪市立第一商業学校」と改称。
 1920年(大正10年)に「大阪市立天王寺商業学校」と改称。
 1948年(昭和23年)に「大阪市立天王寺商業高等学校」として発足。

 鳥井信治郎は1890年(明治23年)満11歳で進学していますから、1888年(明治21年)に「予科(2年)、本科(2年)、付属科を置く」の「付属科」(後の甲種商業科)のことかもしれませんね。

 では鳥井信治郎が進学したこの商業学校の当時の所在地はどこだったのでしょうか。山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)に山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史が載っており、その71頁に鳥井信治郎の学歴がつぎのように紹介されています。

「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ。
   (中略)
 四年制の高等小学校にも二年しか在籍していない。北区梅田の大阪商業学校に進んだ。当時の学制は、まだアイマイなものであって、信治郎の成績がずば抜けていたためにこうなつたものかどうかという証拠はない。ただ、後年の信治郎から推察して、才気換発の腕白小僧ではあったろうと思われる。
 大阪商業学校は、年代から考えて、私塾から発展したものだろう。この学校に二年在学はしている。
 明治二十五年、十三歳で、道修町の薬種問屋小西儀助商店に奉公する。『丁稚一名を求む』という小西儀助商店の新聞広告が残っているから、欠員があり、その一名が信治郎であったに違いない。」

 また森杉久英『鳥井信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫、1983年)の13頁~15頁に付けられている「鳥井信治郎年譜」では、誕生年月日を「明治12年1月30日」とし、大阪商業学校入学年を「明治23年4月」とし、鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地を「北区梅田出入橋」と記しています。 
 
 しかし前掲の『天商七十年史』(創元社、1982年11月) の天王寺商業高等学校前史(明治年間)によれば、大阪商業学校は1892年(明治25年)以前は西区江戸堀南通にあり、同年に北区堂島浜通2丁目の新校舎に移転しています。鳥井信治郎が同校に入学したのは明治23年(1890年)ですから、当時同校は西区江戸堀南通にあったようです。

大阪市立大学の同窓会有恒会の記念誌や天王寺商業高等学校の同窓会の記念誌に基づけば、鳥井信治郎が入学したのは大阪商業講習所をルーツとする市立大阪商業学校の付属科と思われます。ですから2015年4月8日以前に書かれたウイキペデアの「鳥井信治郎」に関する記事中の「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」の( )内の「現・大阪市立大学」は削除するか訂正する必要があるようです。それで、私が2015年4月8日にそのことに関連する事項を幾つか追加して訂正することにしました。

 しかし、ウイキペデアの2015年4月8日以前の「鳥井信治郎」に関する誤った記述「1890年(明治23年) 大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」がネット内にすでに拡散しており、「鳥井信治郎」に関連する様々なサイトで「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」とされています。さらに2014年11月に日本経済新聞出版社から発行された永井隆著『サントリー対キリン』にも鳥井信治郎の学歴として「大阪商業学校(現在の大阪市立大学)」としていました。単純多数決なら「大阪商業学校(現・大阪市立大学)入学」が正しいとされてしまいそうですね。

 ものごとを調べるのにやはり確かな文献に基づく実証的検討が必要ですね。





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最終更新日  2015年05月23日 17時01分18秒
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2015年03月31日
 昨年9月に開始されたNHK朝の連続ドラマ「マッサン」は今年2015年の3月28日に終了しましたね。私は、これまでNHK朝の連続ドラマを視聴することがほとんどなかったのですが、このドラマの主人公がウイスキーづくりに情熱を燃やす竹鶴政孝とその妻リタの実話をもとに創作されることになったと知ってとても興味が湧き、ほぼ全話を毎朝楽しむことになりました。また、竹鶴正孝『ウイスキーと私』(NHK出版)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里 『ヒゲのウヰスキー誕生す』 (新潮文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等も購読したものです。

 テレビドラマでは、マッサンこと旧制の大阪高等工業の醸造科で学んでいた亀山正春(玉山鉄二)が住吉酒造に就職後、社長の田中大作(西川きよし)の命令でスコットランドに留学し、ウイスキー醸造を学ぶとともに同地でエリー(シャーロット・ケイト・フォックス)と恋におちいって結婚します。ドラマは、妻のエリーを連れて日本に戻ったマッサンが第一次大戦後の不景気のために住吉酒造ではウイスキー作りが出来ないために退職しますが、妻のエリーに励まされてウイスキー造りの夢を捨てず、日本で初めてのウイスキー醸造事業に本腰を入れることになった鴨居商店の鴨居欣次郎(堤真一)に高額で醸造技師として招かれることになります。

マッサンの妻エリー役を演じる女性は、約500人が参加したオーディション から選ばれた米国出身の女優シャーロット・ケイト・フォックスですが、エリー 同様に慣れない異国で懸命に努力する姿がとてもチヤーミングで、このジャパニーズ・ウイスキー造りのドラマの大きな魅力となっています。

 ドラマを視聴して、これまで日本ではほとんど知られていなかったウイスキー醸造業の大変さがよく分かりました。ウイスキーは醸造後に熟成するのに最低5年はかかるため多額の資金が必要ですし、値段は他の酒類に比較して高額ですし、味はウイスキー独特のピート臭が煙っぽいと日本人になかなか受け入れられなかったようです。

 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立が次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。

 マッサンは自分の納得できるウイスキー造りを目指して鴨居商店を退社し、北海道の余市に工場を設立します。しかし、マッサンの工場から出荷されたウイスキーはなかなか売れないようで、戦前は日本海軍、戦後は駐留軍に買い上げてもらってなんとかウイスキー醸造事業が続けることが出来たようです。こんなジャパニーズ・ウイスキーの誕生の物語にエリーというスコットランド生まれの外国人妻が、慣れない日本での生活にもめげず夫を励まして「人生はチャレンジ&アドベンチャー」をモットーにして明るく前向きに生きる姿が加わって強く心を打たれました。

 私は、独身時代、寝酒にウイスキーを少量生で飲むことがあったのですが、結婚後は夏の暑い季節に夕食時にビールをグラスに一杯程度飲むようになり、腎不全で健康を害してからはほとんど酒を断っていました。それがテレビドラマ「マッサン」を見るようになってからまたウイスキーを楽しむようになりました。竹鶴正孝『ウイスキーと私』(NHK出版)によると、実在人物のマッサンはウイスキーを毎日飲むような人はウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、そこに氷を一個落として水をその2倍ほど注いで楽しんでいます。


マッサン(竹鶴正孝)略年譜
1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。
1916年 旧制大阪高工(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。
1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。
1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。
1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。
1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。
1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。
1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。
1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。
1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。
1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。
1961年 リタ64歳で死去。
1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。
1979年 85歳で死去。





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最終更新日  2015年05月09日 16時07分13秒
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2015年03月24日
カテゴリ:鹿児島
指宿 

2015年3月下旬、大阪に住む次男が連休を利用して鹿児島に帰省したとき、私たち夫婦と明石に住む長男に呼びかけ 、3月22日から翌日のお昼に掛けての指宿一泊二日の旅をプレゼントしてくれました。次男 に言わせると「親のお蔭でいまは社会人として元気にやっているが、親孝行をしたいときに親は無 し、なんてよく言われるので、いまのうちになにか親孝行がしたい」とのこと、ウルウル。大喜び で彼の好意を受け取ることにしました。

 家族4人揃っての旅行と言えば、次男が小学校2年生のときの沖縄旅行以来となります。振り返りますと、1992年8月初旬の2泊3日の奈良・大阪旅行、1993年8月下旬の4泊5日の東京・鎌倉旅行、1995年8月初旬の3泊4日の北海道旅行(登別・小樽・札幌)、1996年中旬の2泊3日の沖縄旅行(那覇の首里城、糸満の平和記念公園)等の旅行で懐かしい思い出を作っています。また鹿児島県内でも、霧島、指宿に宿泊したことがあります。

 朝食後、次男の運転で自宅を出発し、まず知覧にある薩摩英国館に立ち寄りました。館内には主として生麦事件から薩英戦争に関する絵や写真が展示されていました。同館内には喫茶店が併設されており、ミンティという紅茶を楽しみました。

家族

後で知ったのですが、この薩摩英国館の設立者は大阪の森口生まれの田中京子さんという方で、 1967年に知覧町で開業医になる夫とともに同地に移り住み、92年に薩摩英国館を設立された とのことです。知覧と言えばお茶の産地として有名ですが、紅茶の本国、英国の”The Great Taste Awards 2007″に於て、田中さんが生み出した「夢ふうき」が受賞し、その後紅茶部門で何度も金賞を受賞しておられるそうです。

 お昼は知覧の武家屋敷通り内にある高城庵(たきあん)で郷土料理を楽しみました。この高城庵は 店主の生まれ育った家をそのまま開放して藩政時代からのお膳で出しているそうです。

 その後、知覧の特攻平和会館を見学しました。太平洋戦争末期、この知覧の特攻基地を主軸基地とする全国の特攻基地から1036名の特攻隊員が飛び立って戦死しており、この会館では陸軍特攻隊員の遺影や遺書などが展示されています。なお、私の母方の叔父(1928年生まれ)が旧制中学在学中に親の反対を押し切って予科練(海軍飛行予科練習生の略。海軍の航空機搭乗員の大量養成をねらいとして開設。太平洋戦争末期には特攻隊要員の訓練を行なった)に志願し、松山海軍航空隊に入隊し、17歳の青春を投げ打って厳しい訓練を受けている最中に幸いにして終戦を迎えています。

 知覧の特攻平和会館見学後、日本本土内のJR最南端の駅「西大山駅」にまわってから指宿白水館に宿泊し、 同館の懐石料理を大いに満喫しました。私自身は身体のために食事の内容と量に気を付けなければならない人間なのですが、新鮮なお刺身や豚骨料理、黒牛のシャブシャブなどに魅せられてついつい完食してしまい、翌日の午後に出掛けた病院で体重オーバーでみっちり膏血を絞り取られてしまいましたよ、トホホ。

 指宿旅行二日目は鹿児島の一之宮である枚聞神社(ひらききじんじゃと読みますが、かつては新田神社と一之宮争いをしたそうです)にお参りした後、薩摩富士と称される開聞岳を車内横手に見ながら池田湖湖畔まで廻り、その後は指宿スカイラインを利用してお昼までには鹿児島市に戻りました。
なお、今回のエッセイを拙サイト「やまももの部屋」の下記のページに「次男が一泊二日の指宿旅行をプレゼント」と題してアップしておきました。
             ↓
   http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#ibusuki






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最終更新日  2015年04月07日 22時26分34秒
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2014年11月29日
カテゴリ:鹿児島の市電
来年、日本たばこ産業鹿児島工場跡地へ鹿児島市交通局局舎と電車部門が鹿児島市立病院と共に移転することが決まっていますが、今朝の南日本新聞を開きましたら、鹿児島交通局の新局舎の来年5月運用と4電停名変更の記事が載っていました。

 同紙の記事によると、「鹿児島市交通局は28日、上荒田町で整備を進めている新交通局局舎と電車施設について、2015年5月1日から運用を始めると発表した」とのことで、4電停の名称が以下のように変更されることも伝えています。

  交通局前→二中通
  神田→神田(交通局前)
  たばこ産業前→市立病院前
  市立病院前→甲東中学校前

 なお、現在の鹿児島市交通局の局舎前の電停名が「交通局前」から「二中通」に変更される理由はつぎのことから来ていると思われます。高麗本通りから甲南中学校の横を通り、交通局前で電車通り(谷山街道)とつなぐ通りはいま「二中通り」と呼ばれています。「二中」とは明治39年(1906年)に誕生した鹿児島第二中学校のことで、七高内にあった二中が現在の上荒田町(現上之園町)に移転後、その校舎前の通りは「二中通り」と呼ばれて地元に親しまれて来た地名でした。二中と鹿児島県立第二高等女学校が1949年に統合されて甲南高等学校として発足後も商店街の街灯には「二中通り」の文字が書かれているそうです。

 電停「神田」が「神田(交通局前)」と変更されるのは、「神田」は地元の人になじみの深い地名なので残し、新たに同電停近くのたばこ産業跡地内の一部に鹿児島市交通局の新局舎と電車部門が移転されるから( )内に「交通局前」の文字を加えるのでしょう。

 電停「たばこ産業前」が「市立病院前」と変更されるのは、同電停近くのたばこ産業跡地内の一部に新たに鹿児島市立病院が移転されるからです。

 電停「市立病院前」が「甲東中学校前」と変更されるのは、同電停近くにあった鹿児島市立病院がたばこ産業跡地に移転した後、付近に存在する目立った大きな公共施設としては甲東中学校があるからでしょう。





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最終更新日  2015年03月24日 17時57分48秒
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2014年11月23日
カテゴリ:鹿児島
今日(11月23日)、次男が3連休を利用して鹿児島に帰省したので、彼の運転で紅葉の美しい霧島山麓に位置する霧島神宮までドライブに出掛けました。

霧島01

 霧島02

 秋の季節になっても鹿児島市内ではモミジの紅葉を楽しむことはできません。鹿児島市内では秋になっても夜間の急激な冷え込みがなく、そのためにモミジの紅葉風景を楽しめないのです。しかしテレビの二ュースなどで、鹿児島市から北東に62キロ離れた標高460mの場所に位置する霧島神宮の紅葉の美しさが紹介されており、紅葉狩りを楽しもうと同神宮に出かけることにしたのです。

 連休の二日目なので霧島神宮は参拝者で大いに賑わっていましたが、同神宮とその周辺では鹿児島市内では見られない紅葉の風景を大いに満喫することができました。また帰りには坂本龍馬、お龍夫妻が新婚旅行の際に18日間滞在したといわれる塩浸温泉に立ち寄り、竜馬夫妻の銅像も撮影することが出来ました。





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最終更新日  2014年11月27日 10時56分35秒
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