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2016年04月30日
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カテゴリ:news
 与野党が全面対決した衆議院北海道5区の補欠選挙は4月24日に投票が行われ、野党統一候補の池田真紀氏(無・新)が残念ながら自民党の新人で公明党などが推薦する和田義明氏に敗れました。この衆議院北海道5区の補欠選挙の開票結果は以下の通りです。

 ▽和田義明(自民・新)当選、13万5842票。
 ▽池田真紀(無・新)、12万3517票。

 この結果について、露骨に与党寄りの報道をする「産経ニュース」の2016年4月.25日の記事は「追い風風吹かず『野合』共闘に限界か… 参院選に向け票差以上に大きいダメージ」との見出しでつぎのように論評しました。

「野党が共闘の象徴と位置づけた今回の補選の敗因に、基本政策を横に置き、選挙協力を優先させた「野合」批判があったことは間違いない。票数の差以上にダメージは大きい。」

 産経は民進党、共産党等の野党共闘は基本政策が異なる政党間の「野合」だとの批判があり、野党共闘に今回の敗戦は非常なダメージがあったとしているのです。しかし、与党の自民党と公明党の関係は選挙に勝つための「野合」そのものであり、安保法案反対で一致した北海道五区補選の野党統一候補はよく善戦したと思います。与党はさぞかし今回の選挙結果に青ざめたことでしょう。だからこそ、野党共闘は「野合」との批判を一層強めてくるものと予想されます。

 なお、2016年4月28日の「NHK NEWS WEB」は北海道5区補選で実施した出口調査(1725人対象中75%の1299人回答)でつぎのような結果を得たと報じています。

【政党支持率】
政党支持率は、自民党44%、民進党20%、公明党5%、共産党5%、、無党派24%
【支持政党別投票動向】
和田氏は、自民党支持層の90%、公明党支持層の90%台前半、無党派層の30%余りの支持を獲得
池田氏は、推薦を受けた民進党支持層の90%台後半、共産党支持層の100%、無党派層の70%近くの支持を獲得。

 この出口調査の結果によると、回答者の回答政党支持率は、自民党44%、公明党5%で与党支持者49%なのに対し、民進党20%、共産党5%の野党支持者25%ですから、野党共闘が成立しなければ与党候補がワンサイドで勝利したことは間違いありません。野党共闘ということで無党派層24%中の70%近くが野党共闘候補支持に投票したそうですから、その結果の野党候補の善戦だったと思われます。

 今回の善戦が追い風となって野党共闘が全国に広がることを願ってやみません。






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最終更新日  2016年04月30日 10時39分08秒
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2016年04月24日
カテゴリ:落語
 立川志の輔独演会が4月21日に鹿児島市民文化ホールであり、夫婦で楽しんで来たのですが、志の輔師匠がこの独演会で新作落語 「買い物ブギ」のマクラにまず石原慎太郎の著書「天才」に触れ、同書がベストセラーとなったことから、本屋さんの店頭に田中角栄コーナーが出来て、以前出版されていた角栄本があふれ出したとし、さらに若き日の志の輔師匠が目の当たりにした田中角栄について面白可笑しく語り出しましたので、今回そのことを紹介したいと思います。

 私は、石原慎太郎の思想だけでなく彼の小心者のくせに尊大振る人間性も大嫌いで、そんな人物が田中角栄について書いた『天才』にも全く関心がありませんでした。ただし、私にとって田中角栄という人物は金権政治家としてのイメージが強いのですが、その人心掌握術に長けた人間性には前から興味がありました。そんな田中角栄を志の輔師匠がどのように語るのか大いに興味を持ちました。

 田中角栄の懐刀として有名だった人物に元警察庁長官の後藤田正晴がいますが、その次男が後藤田祐輔というそうで、志の輔師匠がまだ明治大学の学生だった頃のバンドやバイクのツーリング仲間だったそうです。その友人(後藤田祐輔、慶応大学出身、本田技研工業に勤務)が結婚したとき、噺家となっていた志の輔師匠は結婚式の司会を頼まれたそうです。

 結婚式の招待者は800名、大概カップルですから出席者は1600人ぐらいにはなるだろうという盛会なもので、名だたる名士や政治家たちが顔を見せ、仲人が新郎の勤務するホンダの本田宗一郎で、主賓が田中角栄と医師会の会長だったとのこと。

 まず仲人としてホンダの創業者の本田宗一郎が挨拶し、自分は仲人を頼まれたが、新郎のことは全く知りませんと言って会場の全員を爆笑させて座を和ませ、つぎにスピーチしたのが主賓の田中角栄だったそうです。

 司会の志の輔師匠が田中角栄から渡された長い巻物を読んで主賓のことを紹介をしている最中に突然アヒルがガーガー鳴くような声がし、そのアヒルが「儂を知らないようなヤツはおらん」と言ってこれまた会場の1600人を爆笑させたそうです。そして後藤田正晴が次男の結婚式に主賓として出席してもらいたいと毎日やってきたので、「国務大臣はそんなに暇なのか、と言ってやりましたよ」と言ったので、またまた会場のみんなを爆笑させたそうです。

 お色直しの最初の話としてホンダの社長がスピーチを始めたとき、この田中角栄が席から突然立ちあがってスタスタと出口に歩き出したそうです。スピーチしていたホンダの社長も気を遣って「先生がお帰りになります」と司会のようなことを言い、田中角栄もドアのところで会場を振り返って手を振り、廊下に出て行ったそうです。

 司会の志の輔師匠は、田中角栄が話の途中で退席をするということは何か手違いがあったのかと心配になり、慌てて田中角栄を追いかけたそうですが、「後藤田祐輔くんの友人で今回の結婚式の司会をしている立川志の輔です」と名乗り終わらないうちに、田中角栄から手を取って「友達かよろしく頼む」と言われ、すぐにこの人の傘下になっても良いと思ったそうです。

 そんな話なんですが、豪放磊落でありながら人心掌握術に長けた田中角栄という人物像が自然と浮かび上がってくるエピソードでありました。





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最終更新日  2016年04月25日 16時18分02秒
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2016年04月16日
カテゴリ:エッセイ
 あるフランス人の作家が「結婚は判断力の欠如、離婚は忍耐力の欠如、再婚は記憶力の欠如」と言ったそうですが、終生添い遂げることになった私の両親は相当の忍耐力の持ち主たちだったのでしょうか。

 私が妻と結婚した年の夏、当時山陰のM市に住んでいた私の両親の家に初めて帰省したことがあります。おっと、「帰省」とは本来は「故郷に帰って両親の安否を問うこと」だそうですが、私の両親がM市に住んでいたのは勤務先が同市であり、両親ともに出身地は別の地方の人間でした。

 私の妻は、なにかあるとすぐ怒鳴り出すオヤジとそれに「はいはい」と素直に従うオフクロの姿に強い印象を残したようで、私も久し振りに見る両親の意外な関係の変化に驚きました。例えば、近くの勤務先からお昼に帰宅したオヤジが「食事の支度が遅い」と激しい剣幕で怒鳴りだし、オフクロが「はいはい、すぐ支度しますよ」と従順に対応する姿に驚いたものでした。

 私が子どものころ、両親はともに教師でしたが、この共稼ぎ夫婦の喧嘩はいつも絶えることがなく、私はいつ始まるかもしれない二人の喧嘩に恐れおののいていました。喧嘩が始まると、亀が首を甲羅にすくめるようにして、いさかいの嵐が過ぎ去るのをじっと待ったものでした。

 安月給の共稼ぎ夫婦の喧嘩の主たる理由は、オヤジの金遣いの荒さと浮気でした。酒好きのオヤジは、酒場で一日に何千円も散在して夜遅く帰って来るようなことがよくありました。軽い浮気は日常茶飯、子どもの私が知りたくなくても知るようになった深刻な浮気の数も片手では足りないくらいありました。

 普段見るオフクロの姿は観音菩薩様のように穏やかでしたが、ひとたび夫婦喧嘩が始まると般若の如く怒り狂い、口から火を噴いて激しい言葉でオヤジをののしったものでした。

 そんな若い頃のオフクロのことを知っているものですから、妻に「オフクロも変わったものだ。昔のオフクロはもっと突起だらけのゴツゴツとした石ころを心に持った女性だったが、オヤジとの数多くのイサカイにいつの間にか表面が研磨されてまるくなったのだろう」と言ったものです。

 しかし、私が子どもの頃、自分の両親がなぜ離婚しないのか不思議に思いました。いさかいが絶えなく、また趣味も価値観も全く違う二人であり、教師をしているオフクロがもし離婚しても、すぐ生活が困窮するわけでもないだろうになんて考えたものです。ところがオフクロはその教師という職業にとても高いプライドを持っており、いつも世間体を気にしていた人間でした。そんな彼女に離婚という選択肢は考えられなかったようです。

 ところで子どもにとって両親の離婚は不幸なことなのでしょうか。勿論、仲の良いことに越したことはありません。しかし夫婦喧嘩の絶えない家庭の子どもは両親の不和に心を深く傷付けられているのです。大人の目からは子どもの心の裡はほとんど見えません。大人たちは、彼らのちょっとした言葉や行為でさえもが、それが子どもたちの心のなかで何倍にも増幅され、幼い心に大きな衝撃や影響を与えているということをほとんど知りません。オフクロは私の子どもの頃のことを回想したとき、私につぎのように言ったものです。

「お前の子どもの頃は給料も安くて生活は大変だったけれど、でも、お前に辛い思いをさせるようなことはなかったと思うよ」

 それで、私はその母の言葉にどう対応したでしょうか。私はそのとき、表情を全く変えずに小さく頷いただけでした。結婚は判断力の欠如から始まるそうですが、記憶力の欠如によって美化され持続することが出来るようです。








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最終更新日  2016年04月19日 09時01分48秒
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2016年04月10日
カテゴリ:映画鑑賞
 私は、奈良市に生まれ育った団塊世代の人間です。団塊世代は戦後の「焼け跡」に生まれているのですが、この「焼け跡」という表現は単なる常套句や象徴的表現ではなく、実際にそう感じさせる風景が幼い私の目の前に無造作にさらけ出されていました。私のふるさとの小さな町である奈良市は幸い戦災に遭ってはいませんが、街のお寺や神社の軒下には戦災で家を焼け出された人たちがまだ沢山寝起きをしていました。私鉄に乗って長いトンネルを越えて隣の大阪の街に入ると、瓦礫と化したコンクリートと無数の折れ曲がった鉄筋で構成される無惨な廃墟跡が鉄道沿線に延々と続いていました。

 こんな戦後の焼け跡生まれの私の幼い頃の思い出を織り成す重要なものとして、シンチューグン(進駐軍)の兵隊と映画があります。身体の大きい彼らは、小さな黒い眼のメアリーさんたちを小脇に抱えるようにして私のふるさとの町のメイン通りである三条通り等をよく闊歩していました。

 私が幼い頃、映画館の前の座席はよくシンチューグンの兵隊さんたちと黒い眼のメアリーさんたちで占められていました。シンチューグンがアッハッハと大笑いして、それからちょっと間をおいて後ろの座席の日本人観客たちがどっと笑っていたのがとても印象的でした。シンチューグンは英語のセリフを耳で聴いて笑い、日本人観客はスクリーンの字幕を読んで笑うため、このようなタイムラグが生じたのです。ジェリー・ルイスとディーン・マーチンのコンビが水兵役を演じるドタバタ喜劇映画には沢山のシンチューグンが詰めかけ、彼らの爆笑が館内に渦巻きましたが、私も彼らと一緒にキャッキャと大笑いして見ていたものでした。

 シンチューグンのことは、私が物心ついた幼い頃の思い出としてのみ残っていますが、映画の方は、私の子ども時代の全ての時期を通じて数多くの懐かしい思い出を残しています。私が幼い頃は、映画のストーリーなど全く分かりませんでしたが、画面が動くというただそれだけのことで目はスクリーンに釘付けとなり、眼前に繰り広げられる見知らぬ世界に幼い胸をわくわくさせたものでした。

 私が子どもの頃、映画は娯楽の王様でした。映画の人気がピークに達した1958年には、日本の映画人口が11億2745万人にもなったそうです。当時の人口が9178万人ですから、なんと一人当たり年間に12回以上映画館に足を運んだ計算になります。私の家庭もその例外ではありませんでした。私の両親は給料の安い共稼ぎの教師夫婦でしたから、家族旅行など夢のまた夢でしたが、映画だけはほぼ毎月1回見に出かけたものです。奈良東映(東映系)、友楽会館大劇場(大映系)、南都劇場(日活系)、尾花劇場(松竹)、有楽座(新東宝系)、奈良セントラル劇場(洋画系)、有楽会館洋劇場、電気館などの映画館があり、映画の帰りには東向き商店街の上海楼という中華料理屋さんに立ち寄り、ワンタンをよく食べたものです。その頃、外食なんてめったにしませんから、家族でお店に入ってワンタンを食べるという「晴れやかな行為」は、私にはものすごく贅沢なことのように思われました。

 母は芸術性の高いものが好きでした。そのお陰で、「自転車泥棒」「禁じられた遊び」「旅情」「エデンの東」「居酒屋」「河の女」「道」「鉄道員」などを子供時代に見ることができました。邦画では、「七人の侍」「夫婦善哉」「新平家物語」などを見ることができました。特に「七人の侍」は、なかなか画面に出てこない野武士がとても不気味で恐かったですね。また、母が「夫婦善哉」の森繁久弥の演技をえらく誉めていたことが記憶に強く残っています。

 両親はまた、幼い私のためにディズニー映画が上映されるといつも連れていってくれました。「白雪姫」「不思議の国のアリス」「ダンボ」「ファンタジア」「ピーターパン」「わんわん物語」など、みんな懐かしい名前ですね。母が「ファンタジア」を見終わった後、「日本の人たちが耐乏生活を強いられていたときに、アメリカではこんな素晴らしい映画を作っていたのね」とため息混じりに言った言葉がとても印象的でした。ところで、ディズニーの「ピノキオ」だけは、それを見に行く予定の日に私は高熱を出したために見ていません。そのとき、私は、熱にうなされながら、「ピノキオを見たい、見たい」と泣いたものです。私は、ジフテリアに罹ってしまったのです。

 映画を平均して毎月1本は見ていた我が家でしたが、ところが1950年代中頃からテレビの普及とともに映画人口は急速に減り続け、映画館から潮を引くように人々の足は遠のいて行きました。我が家も例外ではありませんでした。テレビが家庭にはいるようになってから、全く映画館に足を運ばなくなりました。

 手許にある『昭和史全記録』(1989年、毎日新聞社)は、各年度事に封切られた主な映画の題名をリストアップしているのですが、我が家では1957年には「喜びも悲しみも幾年月」、「戦場にかける橋」、「追想」」「道」など10作品も見ていますが、翌年の1958年には「十戒」、1959年には「尼僧物語」、1960年には「チャップリンの独裁者」、「五つの銅貨」ぐらいしか見ておらず、そして、さらに1961年になると、なんと見た映画が1本もないのです。

  おや、待てよ、私の家にテレビ受像機が入ったのは、私が中学校に入学した時のことで、世間がミッチーブームに沸いた1959年(昭和34年)4月10日の皇太子結婚の儀頃でしたから、私の家族の映画鑑賞の回数が1958年以降激減したのはテレビが主原因だとは思えません。我が家に何があったのでしょうか。うーん、その頃に父の浮気が発覚し、小学校高学年になった私の成績もガタ落ちしたものでした。

 その後、私自身は、学生時代も社会人となっても、映画館に熱心に通うことようなことはなく、よほど話題になった映画だけをたまに観るぐらいになってしまいました。








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最終更新日  2016年04月15日 15時58分31秒
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2016年04月03日
カテゴリ:エッセイ
 映画「男はつらいよ」シリーズのの第一作で、寅次郎(渥美清)が御前様(笠智衆)とお嬢さんの冬子(光本幸子)にばったり出会い、二人の写真を撮る場面があります。そのとき、笑顔を無理に作ろうとした御前様、なんと「チーズ」ではなく「バター」と言ってしまいます。「バター」では口が開いたままになって、口許に笑みを浮かべるこはできませんね。えっ、誰ですか、御前様の天然ボケぶりには開いた口がふさがらないなんて言うのは。

鷺池 浮御堂

 ところで、寅次郎による御前様と冬子の記念写真の場面、どこでロケがおこなわれたかご存知ですか。私のふるさとの町である奈良市の奈良公園内にある鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)六角堂の浮御堂の前なんですよ。このときのスチール写真を見ると、左側に寅次郎、右側に御前様と冬子、そしてその間に大きな擬宝珠(ぎぼし)飾りのついた木造の橋が あり、後ろに浮御堂が見えています。

 この鷺池に浮かぶ浮御堂、寅さんだけでなく、私も中学生時代にカメラで撮影したことがあります。そして、それは私にとって初めての写真撮影でした。確か中学1年のときのことだと記憶しています。父からペトリの小さな二眼レフカメラを譲ってもらい、さてなにを写そうかと公園に出かけ、ぶらぶら歩いているうちに鷺池にやって来て、その池に浮かぶ浮御堂の美しい姿が目に飛び込んで来たので、この建物を撮影対象に選ぶことに決めたのです。

 そのとき、浮御堂のなかには観光客が5、6人ほどいて、それらの観光客の中に赤い日傘を差した若くて美しい女性の姿が目に入りました。これは絵 になるなと思った私は、池のほとりから浮御堂の欄干に件む彼女の方にカメラのレンズを向けました。私ほ、カメラのファインダーの中心に日傘を差したこの女性を据え、その周囲に複数の人間を配し、それらを浮き御堂の全景のなかに納めてパチリパチリと何故か撮影しました。

 私は、写真屋さんにこの写真の現像を頼んだ後、それが出来上がってくる日を指折り数えて待ちました。そして、数日後、心待ちにしていた写真をやっと手に入れました。しかし、袋を開けて写真を見てたとき、私はガッカリしてしまいました。だって、鷺池に浮かぶ浮御堂が私がイメージしていたものよりずっと小さく写っており、その浮御堂のなかにいる観光客たちはまるで豆粒の様だったからです。そして、悲しいことに、あの赤い日傘の女性は、それら小さな数個の豆粒たちのなかにおいて特に際だった存在ではなく、同じように単なる豆粒の-つでしかななかったのです。

 私は首を傾げました。おかしいな、私が二眼レフのカメラのファインダーから覗いて見たあのときの浮御堂の情景といま手許にある写真とはあまりにも違いすぎるではありませんか。あのとき、日傘の女性は、そのころ視力1.5だった私の目に大きくそしてくっきりと鮮明に映り、他の親光客たちはその他大勢として彼女の背後に下がり、浮御堂全景は彼女とその日傘にとてもよく調和しながら水面にその美しい姿を浮かべていたはずではなかったのか? 私の目が正しいのか、それともこの写真が正しいのか、私はそのとき、いろいろ考えたものです。

 私は、初めて写した写真を見てショックを受けました。しかし、私はまたこのときの経験からとても大事なことを学びました。さて、私はいったいどんなことを学んだと思いますか。使用した機械としてのカメラの能力や撮影者の腕前の低さを思い知らされた。いえいえ、そんなことではありません。人間の目なんて、いかにいいかかげんなものであるかということを学んだろうですって。いえいえ、そうでもありません。確かに、それらの写真は対象となった人間、建物、池の大小の比例関係において、それをかなり正確に再現していたことでしょう。撮影テクニックが未熟なことは当たり前のことです。しかし、それらのことを考えても現像された写真はあまりにも魅力がありませんでした。それに比べて、2眼レフのカメラのファインダーを通して私が捉えたと思った情景の方はずっとずっと魅力的で素晴らしいものに思えました。そうなんです、私という人間が主観的に創り上げたイメージの世界の方が確かに素晴らしいものだと思われたんです。

 私は、子どもの頃から絵を描くのが大好きでしたが、この浮御堂の写真撮影の体験以降、自分の主観を大切にし、風景画でも人物画でも描く対象に対して感じたものを表現するために大胆な省略や誇張などを意図的におこなってデフォルメするようになりました。しかし、デフォルメの魅力を頭で理解したからといって、それで実際に魅力的な絵が描けるわけではありません。そのためには、豊かで鋭い感受性と独創的で優れた表現力が必要なんです。私は、次第に自分の画才に嫌気がさすようになり、いつのまにか絵筆を握らないようになっていきました。しかし、いま文章を書くとき、あの浮御堂の体験を大切にしたいと思っています。

                                    1998年2月20日 執筆





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最終更新日  2016年04月05日 14時12分34秒
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2016年03月26日
カテゴリ:映画鑑賞
 3月24日木曜日に鹿児島市のTOHOシネマズ与次郎に夫婦で山田洋次監督の「家族はつらいよ」を観に行きました。

 この映画は山田洋次監督が「東京家族」で共演した橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、妻夫木聡、蒼井優、中嶋朋子、林家正蔵の8人の俳優を再結集して撮影した喜劇作品です。おじいちゃん(橋爪功)から「誕生日のプレゼントになにか欲しいものはないか」と訊かれたおばあちゃん(吉行和子 )が、「あら、いいの」と言って机から持ち出したの「離婚届」だったという熟年離婚問題を取り扱っていますが、ほとんど観客は中高年の男女ばかりの映画館内の笑い声が絶えませんでした。笑いのツボを心得た山田監督ならではのコメディタッチの作品でした。

 おばあちゃんの離婚理由が、おじいちゃんがいつも靴下を裏返しにして脱ぎ捨てる、歯磨きしながらオナラをするとか、食事の時にクチャクチャ音を立てるとか実にたわいもないこと、でもそれが毎日積み重なるとたわいもないことと言えなくなるのかもしれませんし、女性の観客はそうそうと頷いていたようですよ。

 おばあちゃんが離婚に踏み切ろうとした理由は、おばあちゃんの亡くなった弟(作家だったとのこと)の本が ブームになってて 印税が 入るようになり、、また田園調布に住む友人から一緒に住まないかと誘われたからとのこと、経済的にも住居の心配も全くなくなれば、靴下脱ぎっぱなしの爺さんにそりゃー離婚届けを突きつけたくなりますよね。

 夫の退職後に夫源病(夫がストレスの原因になっている病気)に罹る女性が多いとのこと、実際私の妻の知人にもそんな女性がいて、家庭内別居状態とのことですが、山田洋次監督のこの映画を妻と一緒に笑いながら観ている私はなんて幸せ者なんでしょうか。

 しかし映画館からの帰宅途中、車を運転する妻に「離婚届けを渡されたら病院通いもできなくなるから、僕を見捨てないでね」と気弱に言う私でした。





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最終更新日  2016年03月26日 22時21分21秒
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2016年03月20日
カテゴリ:エッセイ
     萩の花
たくさんの野良犬や野良猫を拾って大切に育てていたアイさんのことを拙サイト「やまももの部屋」のエッセーのページに「犬猫の尻尾」と題して載せたことがあります。その拙文に「功徳を積んだアイさんの天国行きは間違いないですね。それでも閻魔さまが間違ってアイさんを地獄に送ったら、犬や猫たちが尻尾を繋いでアイさんを地獄の底から助け出そうとするでしょうね。蜘蛛の糸ならぬ犬猫の尻尾ってわけです」と書いたものです。
    ↓
http://yamamomo02.web.fc2.com/sub2.htm#dogcat

 そんな心優しいアイさんが今月の14日(2016年3月14日)に腎不全で他界されました。享年78歳とのことでした。お通夜に参列し、喪主となられたアイさんの奥さんや参列者の方々と故人を偲ぶなかで、犬猫だけでなく誰にでも心温かく接し、みんなに愛されたアイさんの人間像が浮き彫りとなり、あらためて私なりのアイさんとの思い出を書くことにいたしました。

 アイさんは職場の同僚で、2007年3月に退職されています。誰とでも心優しく接するアイさんは、1976年4月に赴任したばかりの私にも、年齢的には10歳ほど違いがあるにもかかわらず、すぐ親しく声を掛けて下さいました。特に永吉町に職場があった当時、終業後の夕方になると広いグラウンドにアイさんたちと毎日と言うほど集まり、ソフトボールの練習を楽しんだものです。アイさんは守備もバッティンクもなかなか巧みで、トンネルを繰り返す私のためにゴロの守備練習をしてもらったことがあります。そんな私は守備ではピッチャーを務めることが多くなりました。どうも球の速度は遅いけれど、キャッチャーのミットに打ちやすい球を正確に投げるコントロールが評価されたようです。しかし打撃はさっぱりで、専ら下位打線を担わされました。

 拙宅は1989年3月にいまの伊敷台に新築していますが、そのときアイさんからたくさんの樹木をいただきました。すでに庭師さんに頼んで、前庭の樹木を植える場所をレンガで囲いを造り、そこに土を入れ、さらにツツジ、ヤマモモ、サンゴジュ、ウバメガシ、クロガネモチ、ザクロを植えてもらいましたが、それでも空間が目立つ様子を見て、アイさんはわざわざ自宅の犬迫から萩、ナンテン、キンモクセイ、グミ、アジサイ、クコ等の苗木やホトトギス、シラン、スミレ等の野草を車で運び植えて下さいました。いまも萩は毎年秋になると必ず長くて細い枝先に無数の花を開花させて目を楽しませてくれます。

 職場が坂之上に移ってからは、鹿児島市の伊敷台に住む私はバスやJRで通勤していましたが、会議で一緒になる日には、ほぼ同方向の犬迫町に住むアイさんに自動車で送ってもらうことが多くなりました。そんな日は、妻が帰宅した私に「アイさんに送ってもらったのね」と必ず言い当てたものですが、それはヘビースモーカーのアイさんの車に30分近く同乗していたので、私の身体からタバコ臭がしたからです。晩年のアイさんはお医者さんから禁煙を厳しく指示されていましたが、喫煙を最後まで続け、慰霊写真にも咥え煙草姿のアイさんの姿が写っていましたよ。

 それから、アイさんと言えば忘れてならないのは竹の子のことです。毎年アイさんは犬迫町の自宅の裏山に竹の子が顔を出すと、職場のみんなに配って下さり、我が家でも竹の子が生える季節になるとアイさんの竹の子を楽しみにして待つようになりました。

 アイさんが退職後も伊敷台2丁目のAコープいしき店でよくお会いしていましたが、この2、3年お会いすることがなくなり、竹の子のプレゼントも途絶えました。今年の竹の子の季節になって、アイさんはどうしておられるのだろうかと妻と一緒に気にしておりましたら、知人から3月14日夜にメールでアイさんの悲しい訃報を知らされ、お通夜に参列させてもらい、アイさんのご冥福を心からお祈りいたしました。

 アイさんのことを追悼するとき、私のような他人に対する不信感のバリアーを張り巡らした人間でも、人間っていいなーと思うんですね。






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最終更新日  2016年04月04日 20時58分06秒
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2016年03月13日
カテゴリ:斎藤美奈子
 私が小学校時代に教わった担任の先生の作文指導内容は「感じたことをそのまま」「見たことをそのまま」書いたり描いたりすることでした。前回に書いた拙文「運動会の800メートル走でびりでし」は、そんな作文指導方針に対する私流に皮肉を込めた短編小説でしたが、拙文のヒントとなった斎藤美奈子の著作を今日のブログで紹介したいと思います。


 斎藤美奈子は『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年2月)で、谷崎潤一郎が『文章読本』に書いたつぎのような文章をまず紹介し、それに続けて彼女流の解説を加えています。

「文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにあるのでありまして、手紙を書くにも小説を書くにも、別段それ以外の書きようはありません。」

 文章読本の開祖といえば谷崎潤一郎で、この文豪が書いた『文章読本』は非常に有名ですね。しかし、この谷崎の上記の見解に対して、心の中にあること、言いたいことをその通りに書いていたら文章になるわけないじゃないか、という批判が出てくるのは当然ですし、私もなぜ文豪がこんなことを書いたのか首をかしげていたのですが、斎藤美奈子の『文章読本さん江』を読んでその疑問が氷解いたしました。それは、明治前期の主流の文章作法書がお手本通りに文章を作成することを重んじていたことに対するアンチテーゼとして書かれた文章だったんですね。そのことを説明するために、斎藤美奈子は『文章読本さん江』で一例としてつぎのような文章を紹介しています

「余友人卜数名某地ノ梅花ヲ見ント欲シ瓢ヲ携ヘテ共二至ル見レバ数百株ノ梅樹蕾ヲ破り遠ク望メバ雪ノ如シ清香馥郁トシテ鼻ヲ撞ツ此景色実二言フ可カラズ、是二琴ア携フル所ノ瓢ヲ解キ、共こ飲ム。酒甜ニシテ或歌ヒ或舞イ既ニシテ太陽西山二没セントス。」

 うわーっ、なんだかよく分からないけど、すごーく立派な文章みたいと思われるのではないでしょうか。そして、この文章が明治時代の少年向けの投稿雑誌に載ったものだと聞かされましたら、思わず「うそーっ、ほんと、信じられなーい」っておっしゃるかもしれませんね。おっと、こんな表現で驚く人はもういないかもしれませんが。

 この少年が書いたというご立派な文章に対し、斎藤美奈子が「どこぞの爺さんじゃあるまいし、瓢箪に詰めた酒を腰に梅見に出かけ、酔っ払ってあるいは歌い、あるいは舞った? もちろんこれはフィクションである」とし、この文章が文範の定型句を模倣し、紋切り型の美辞麗句を適宜アレンジしてでっちあげたものであることを指摘しています。

 そして斎藤美奈子は、谷崎潤一郎も明治の投稿少年の一人であり、「自分の心の中にもないこと、自分の云いたいとも思わないことを、できるだけねじ曲げて、かつ装飾的に伝えること」を要諦とする教育を受けて来たからこそ、後年自らの文章作法書を編むにあたり、心得の第一番目に「文章の要は何かと云えば、自分の心の中にあること、自分の云いたいと思うことを、出来るだけその通りに、かつ明瞭に伝えることにある」としたのだとしています。うーん、納得。

 しかし、どんな作文もどんな視点から誰に対してどのような意図や企みを持って書くかということから逃れることはできませんね。思った通り、見た通りなんて文章は書けっこありませんね。





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最終更新日  2016年03月13日 16時34分03秒
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2016年03月04日
カテゴリ:鹿児島の市電
 今日(2016年3月4日)の鹿児島の地元紙「南日本新聞」の一面に、伊藤祐一郎鹿児島県知事が2013年に打ち出したスーパーアリーナ構想の成功体験となった「さいたまアリーナ」を積極的に評価する「さいたまアリーナ」の「効果 年394億円」、「用途多彩にフル稼働」との見出し文字が派手に踊る記事がデカデカと掲載されました。

  南日本新聞   


 同記事によると「さいたまアリーナ」(SSA)は、総務省出身の伊藤祐一郎知事が埼玉県の企画財政部長時代に具体的に構想したと公言しているものであり、00年開業したSSAは、約1万5千平方メートルの広大なフロアを有する多目的屋内施設であり、埼玉県が約700億かけて造ったものだそうで、「民間の試算では、年間の経済効果が約394億円に上り、約3600人の雇用創出効果がある」とのことです。

 こんな記事がデカデカと出されるのは、伊藤祐一郎県知事さんが埼玉県での成功体験が忘れられず、いま知事をしている鹿児島県にもスーパーアリーナを建てたいと願望しており、地元紙としてもその意を汲んで積極的に応援しようとしたものに違いがないと推測されても仕方がありませんね。

 しかし、拙ブログに以前「鹿児島県知事の『スーパーアリーナ』(仮称)構想について」と題して、「この『さいたまスーパーアリーナ』は自治省出身の官僚である伊藤知事にとっておそらくとても誇らしい成功体験なのだと想像されますが、世界最大のメガシティと評価されている東京の都市圏に建設された「さいたまスーパーアリーナ」の成功体験をもしそのまま夢よもう一度と考えているとしたらそれは鹿児島県民にとって非常に迷惑な話ですね。まあ、そこまでトチ狂ったオカシイ知事さんではないと思いたいですけどね」と書いています。
     ↓
http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201402060000/

 しかし成功体験は往々にして人間を狂わせることが多いですから、気をつけなければなりません。





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最終更新日  2016年03月05日 09時40分52秒
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2016年02月28日
 内川まさと君が小学3年生だった頃、国語の授業で担任の先生が前日に生徒たちに自由題で書かせた作文を返却し、何名かに読ませたことがあります。なんと意外にも「内川まさと君」と彼の名前も呼ばれ、クラスのみんなの前で読まされました。題は「800メートル競走」でした。

「僕は運動は苦手です。運動会の800メートル走でもびりになりました。でも場内アナウンスで『内川君がんばってください』とはげまされ、見ているみんなもあたたかく拍手してくれました。とてもきつくて走るのをやめようかと思いましたが、みんなのあたたかいはげましで最後まで走り切ることができました。
 家ではお仕事から帰ったお母さんに運動会でびりになったと言いましたら、お母さんは最後までがんばって走ってえらかったねとほめてくれました。僕は今回の運動会から最後までがんばることの大切さを学びました。」

 うわーっ、なんて嫌な作文でしょうか。「努力する大切さ」とか「人の心の優しさ」等の先生がいかにも喜びそうなことをただただ書き連ねた、なんともいやったらしい作文です。

 斎藤美奈子は『文章読本さん江』(筑摩書房、2002年2月)で、これまでの学校作文は欺瞞的な「あるがままのふり」「思った通りのふり」のイベント作文や「自己変革したふり」の読書感想文を生徒たちに強いて来たとし、これでは生徒たちが「学校作文不信にならないほうがおかしい」と指摘しています。

 内川まさと君の担任の先生も例外ではなく、国語の時間、いつも「思った通りに素直に書きなさい」と作文指導していましたから、もしまさと君が先生の指導通りに書いたらつぎのようなものになっていたと思いますよ。

「僕はスポーツが苦手なので運動会が大嫌いです。運動会なんてなくなればいいと思います。800メートル走ではびりになりました。3年生男子の最後を走っていると、場内アナウンスの『内川君がんばってください』との大きな声が聞こえて来ました。なにも僕の名前を出さなくてもいいのにととても腹が立ちましたが、みんなが拍手してくれるので最後まで走るしかありませんでしたが、名前を知られて大恥をかきました。だから運動会は大嫌いです。
 家ではお仕事から帰ったお母さんに運動会のことをどう伝えようかと迷っていましたら、お父さんが今夜は珍しく酒のにおいもせずに早く帰って来て、お母さんの機嫌もよさそうなので、びりになったと正直に言いましたら、お母さんは最後までがんばって走ってえらかったねとほめてくれました。お母さんも学校では体育だけは苦手だったと言っていましたから、今回の運動会のことでは仕方がないと思ったのでしょう。でも算数で僕が悪い点を取ったことは隠しておこうと思います。本箱の裏に隠した算数の試験の紙がとても心配です。」

 内川君が運動会のみならず学校経験からから学んだことは、「人は十人十色」「好きこそ物の上手なれ」ってことで、不得意なこと、嫌いなことを無理して上達しようと努力するより、得意なこと、好きなことに熱中し、より一層磨いた方がいいよってことでありました。







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最終更新日  2016年03月02日 16時36分31秒
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