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2015年07月18日
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 内川さんが就職して職場の独身寮に住んでいた頃のことである。

 寮の夕食も終わり、個室で待っていると、おいでなすった、ピンポーンと呼び出し音が鳴りました。ドアを開けるとやはり桃畠一二三(ひふみ)さんでした。愛嬌のある笑顔で右手の親指と人差し指で輪を作ってグイと酒をひっかけるマネをして「今日も行きませんか」といつものようにお誘いです。それで内川さんは桃畠さんと一緒に近くの居酒屋に出掛けて行きました。

 内川さんが職場の独身寮に住んで一年後に桃畠さんも入寮して来ました。入寮の挨拶に来た桃畠さんの話だと、桃畠さんは内川さんより一歳年下の東京生まれとのことでした。堅物の内川さんと違い、桃畠さんは大学生の頃から飲み屋街のネオンの色に染まっていたようで、すぐ内川さんを近くの居酒屋に誘うようになりました。

 正直言って内川さんには慣れない居酒屋行きなんか迷惑な話だったんですが、桃畠さんは全く気にする風もなく内川さんを週末になると必ずと言っていいほど居酒屋に誘い、内川さんもそんな週末の居酒屋通いが結構楽しくなりました。

 近所の国道沿いにある居酒屋に赤提灯が点っていましたが、内川さんは桃畠さんといわゆる赤提灯談義といわれるような職場の噂話などはほとんどしませんでした。雄弁な桃畠さんがもっぱら文学論を語り、内川さんがほぼ聞き役に徹していたのですが、二人の波長は合っていたようです。しかし内川さんは内心思うのでした、なんで自分のような堅物を誘うのだろうかと。

 居酒屋では、桃畠さんはなかなか雄弁でしたが、また都会人らしいスマートさで自説に固執するようなことはありませんでした。しかし桃畠さんが高く評価するオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」や森鴎外の「安倍一族」について、内川さんがいまいちその良さがよく分からないと正直に言ったとき、桃畠さんは「うーん、内川さんならそうでしょうね。残念ですがまだまだ成長が足らないようですね」などと言って内川さんを苦笑させたものです。しかしこんな辛辣な表現も桃畠さんの口から出るととても愛嬌があって憎めませんでした。

 しかし、くどいようですが、どうして桃畠さんは内川さんのようななんの面白味もない堅物人間を居酒屋に誘い続けたのでしょうか。もしかしたら内川さんの田舎町出身らしい朴訥さや愚直さが東京生まれの桃畠さんを安心させたのかもしれませんね。

 桃畠さんは彼個人の滑稽な失敗譚をよく酒の肴にしていました。職場の勤務時間終了後、グラウンドでソフトボールのキャッチボール練習をしていたら、フライを取るにはじっと飛球から目を離さずにいることが大切だと教えられ、その通りにして顔を上げ続けていたら目ん玉にもろに大きなボールが当たってしまったというような話で、二人で大笑いしたものです。しかし、内川さんは太宰治の「人間失格」で道化を演じる主人公に「ワザ、ワザ」と声を掛けた竹一少年の気持にもなったものでした。

 桃畠さんの出身高校は当時全国屈指の超難関校の都立日比谷とのことでしたから、幼い頃から成績抜群の「できる」子どもだったに違いありません。幸か幸か内川さんはそんな「できる」子どもではありませんから、桃畠さんの滑稽な失敗譚を聞いても内川さんの竹一少年的側面が邪魔をしてどうしても心から笑えませんでした。

 内川さんは内心やはり思うのでした、なんで自分のような人間を誘うのだろうかと。えらくしつこいですね。でもね、内川さんが疑問に思うのも仕方がないんですよ。内川さんには中学校進学以降ただ一人も親友がいなかったのですよ。内川さんには赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかったのです。ただ書物だけが親しく語り合う相手だったのです。そんな内川さんにとって、居酒屋に遠慮なくいつも誘い掛けてくる桃畠さんにはいささか戸惑いを感じました。でもそんな内川さんだからこそ、桃畠さんは彼に敏感に同類のにおいを嗅ぎ取っていたのかもしれませんね。

 内川さんと桃畠さんとの居酒屋の付き合いが一年近く続いたある夕方のことです。桃畠さんがいま付き合っている女性が自分の部屋を訪れるから、内川さんも部屋に来てくれないかと真剣な顔で言うのです。彼の部屋には同じ独身寮の住人が三人すでに呼ばれており、その女性が来ると桃畠さんは子どもの頃に習ったというバイオリンをやおら取り出して弾き始めました。

 前にもに桃畠さんからそのバイオリンの音色を聴かされたことがありますが、お世辞にも上手とは言えませんでした。下手なバイオリンは「ギーコ、ギーコ」とノコギリで木を切るような音がしますね。ちょっと酷い譬えですが、桃畠さんのバイオリンはそんな感じでした。桃畠さんは彼女の前でバイオリンを弾き出しましたが、音楽にはさっぱり疎い内山さんには曲名も分からず、彼には失礼でしたがその場で大笑いしてしまいました。そこにいた他の三人もつられて笑い出したものです。しかし彼女は最後まで黙って静かに聴いていました。内川さんの心にも「ワザ、ワザ」という竹一少年の声は聞こえませんでした。

 桃畠さんはなんで付き合い始めた相手に下手なバイオリンを聴かせたかったのでしょう。後で知ったことですが、桃畠さんは知人の奥さんの紹介で彼女との交際が始まったそうです。桃畠さんはきっと結婚を決意したとき、釣書にすまし顔でお利口さんに収まっているような自分ではなく「本当の自分」をさらけだしたかったのでしょう。バイオリンは下手だけれど、ありのままの自分をさらけ出す姿を見てもらいたかったのでしょう。そして彼女も、最後まで懸命に弾き続ける彼の姿に感動したに違いありません。

 その後、しばらくして内川さんは桃畠さんからその女性と結婚することになったと告げられました。桃畠さんは独身寮から出て行き、もちろん内川さんの居酒屋通いにも終止符が打たれました。

 桃畠さんとは彼が他の職場を移ったこともあり、その後は年賀状の遣り取りぐらいしか交流がありませんでしたが、10年前に桃畠家から訃報が届きました。年齢は内川さんより1歳年下ですから57歳で他界したことになります。内川さんは最近嗜むようになったウイスキーの水割りグラスの氷の音を静かに聴きながら、桃畠さんの早世理由がお酒の飲み過ぎと関連しているのかもしれないなどと考え、酔いが回って目の縁をほんのりと紅くしていた桃畠さんの愛嬌のある笑顔を懐かしく思い出すのでした。

                         2015年7月18日





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最終更新日  2015年07月27日 23時20分01秒
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2015年07月14日
カテゴリ:落語
志らく

 2015年7月11日に鹿児島市の南日本新聞会館「みなみホール」で「立川志らく独演会」が開催され、私たち夫婦も大いに楽しんで来ました。

 鹿児島市で開かれる「立川志らく独演会」も今回で6回目になり、私たち夫婦は2010年7月25日に開催された第1回目から今回の6回目までずっと聴きに出掛けており、皆勤賞をいただけそうですね。今回の「立川志らく独演会」の演目は、立川らく次「松曳き」、立川志らく「二人旅」、立川志らく「子別れ」の三席でした。


 さて開演で最初に高座に上がったのが予想通り立川らく次さんで、2011年7月17日の鹿児島市開催の第2回目「立川志らく独演会」以来4回目の出演です。南日本新聞の志らく師匠のエッセー「南国太平記」のさし絵を担当しているという関係もあるかもしれませんね。

 立川らく次さんの「松曳き」は、今年5月24日に鹿児島市内の黎明館2階講堂で開かれた「桃月庵白酒独演会」でも聞いており、白酒師匠が登場人物の赤井御門守と家老の三太夫とをともにお馬鹿さんに仕立て、両者の間で繰り広げられる滑稽譚として演じていましたが、らく次さんの「松曳き」では殿様はまともな人物のようで、三太夫の粗忽者振りを際立たせていました。しかし、この殿様も自分に姉などいないのに、粗忽者の三太夫から「殿様お姉上様ご死去」との誤報を伝えられて驚ろき涙するのですから、やはり落語世界の住人のようてす。

 立川志らく師匠の「二人旅」は、まずマクラで師匠自身のネット被害のこと(パソコンがウイルスに汚染され、パソコン、携帯などの個人情報が盗まれ、遠隔操作、盗聴等の被害体験)や、2011年に談志師匠が亡くなり、談志師匠の長女の松岡ゆみこ氏から談志師匠が40年前に購入して暮らしていた東京都練馬区の中古の一軒家の庭には談志師匠が愛した八重桜があり、談志師匠の遺骨の一部がこの樹の根もとに埋葬されていることもあり、弟子の志らく師匠に一億円で買ってもらいたいとの依頼があり、この話を耳にしたテレビ朝日が同テレビ局の『大改造!!劇的ビフォーアフター』にその建物のリフォームの様子を取り上げ放送した顛末を面白可笑しく語りました。

 今回のリフォームでは、老朽化が進んでいる談志邸の改善以外にも談志師匠が大切にしていた資料や着物などの救済や整理も行われ、一部を談志ミュージアムとして完成させ、志らく師匠一家はリフォームの済んだ旧談志邸の借家人として暮らすことになったそうです。

 本題の「二人旅」は、江戸っ子二人が旅の途中で退屈を紛らすために謎かけ、尻取り、都都逸作り等をしながら道中を続ける噺ですが、噺家の腕の見せどころはこの二人の取り留めもないような対話を観客を飽きさせずに聴かせられるかどうかです。謎かけで「火事場の纏と掛けてなんと解く。その心は燃えるほど振られる」といった調子で、都都逸作りでは「道に迷って困ったときは、知らなきゃどこかで訊くがよい」なんて実にくだらなくて、志らく師匠は見事にこの道中噺に江戸の風を吹かせていましたよ。

 中入り後に志らく師匠は「子別れ」を演じました。この人情噺は上・中・下の三部構成であり、通常は上の「強飯の女郎買い」を省き、中の「子別れ」と下の「子は鎹(かすがい)」を合わせて演じることが多いのですが、今回は志らく師匠がこの人情噺全編をしっとりと語り、ときどき八百屋のおやじを唐突に登場させて笑いを取る以外は会場の観客も静かにしんみりと聞いていました。

 なお、今回の独演会について拙サイト「やまももの部屋」の「十人十席の噺家の高座」に追加しておきました。
          ↓
  http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/shirakubusyoudoko.html





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最終更新日  2015年07月17日 08時08分23秒
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2015年07月11日
コンコンきつねさん、こんにちは、鳥井信治郎が進学した大阪商業学校についてのとても興味深い御指摘に感謝いたします。

 まず初めに、私が「寿屋創立者の鳥井信治郎が進学した大阪商業学校とは」と題してブログに載せた拙論に対する誤解があるようですので、その誤解を解かせてもらいたいと思います。コンコンきつねさんは、やまももが鳥井信治郎の進学先の大阪商業学校が「結論的には大阪市立大学では」としていると考えられたようですね。

 しかし、この長文の拙論の目的はネット内に拡散している鳥井信治郎の進学先を「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」とする説に疑問を呈し、結論として、「『大阪商業学校』をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです」というものでした。

 ただ、コンコンきつねさんがパソコンで「近代デジタルライブラリー 大阪府誌 第四編」の299コマから230コマに載っている「私学 大阪商業高校」の説明から、同私学が「明治廿三年六月に至り生徒増加して校舎狭隘を告げしかば更に北区梅田出入橋畔に移転し」とあることを見つけられ、森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』中の「鳥井信治郎年譜」の鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地「北区梅田出入橋」と同じことから、「大阪商業学校」とは私学の「大阪商業学校」のことであり、現在の大商学園高等学校ではないかと指摘されていることには一理あるように思います。学校の所在地からそう判断されたのですね。

 ただ、市立大阪商業学校も以前は西区江戸堀南通にあったのですが、信治郎少年が大阪商業学校に進学したという1890年(明治23年)から2年後の1892年(明治25年)に北区堂島浜通2丁目に移転しており、この新校舎の所在地も北区梅田出入橋畔付近にあったんですよ。ですから森杉久英が『鳥居信治郎伝 美酒一代』で大阪商業学校の当時の所在地の西区江戸堀南通と移転後の北区梅田出入橋とを混同して書いた可能性は大いにあり得ると思います。しかし、1909年(明治42年)の「北の大火」でこの堂島校舎は全焼し、1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転しています。

 所在地だけでは、鳥井信治郎の進学した「大阪商業学校」(実際は同校附設の甲種商業学校だろうと推測しています)が公立なのか私立なのか判断に迷うところですが、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史の71頁に鳥井信治郎の学歴について「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ」としています。

 また森杉久英の『鳥居信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫)では、信治郎は明治20年(1887年)に東区島町の北大江小学校に入学し、「翌年の四月には、彼は尋常科四年を飛び越えで、高等科に編入されたという」とありますから、学校の成績は優秀だったに違いありません。

 当時の大阪では成績の良い子弟の進学先は一般に公立学校だったようです。親も余程の特殊事情がない限り新たに設立されたばかりの私立学校より10年前に設立された公立学校に行かせたかったでしょう。また、同校に進学した信治郎も初めから丁稚奉公するつもりではなかったようですが、父親の忠兵衛が彼の長男の喜蔵に家業の米屋を継がせた後、次男の信治郎を大阪商業学校から中退させて丁稚奉公に出しています。

 前掲の森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』によると、明治初年の大阪では、子どもを将来立派な商人に仕立てるには、早くから丁稚に出して下積みの苦労や実地体験をさせることが賢いことだとされていたとしています。次男を進学先から中退させた大阪商人の鳥井忠兵衛のことですから、次男の最初の進学先としては新設の私立学校ではなく公立学校をまず選んだであろうと推測するのですが、これはあくまでも私の勝手な推測でしかありません。なんとか確証を得たいものだと思っています。





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最終更新日  2015年07月14日 14時40分20秒
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2015年07月07日
 内川さんの母親は職場を定年退職した後、夫(内川さんにとっては勿論父親なんですがね)と一緒に内川さんの家の近くに新たに家を建てて引っ越してきました。


 内川さんが両親の家を訪れますと、いつも彼の母親は自分がいま研究していることについてあれこれと楽しそうに語ったものです。彼の母は、まるで可愛い吾が子を慈しみ育てるような気持ちで自分の研究テーマ(中国古代の箸の研究)に愛情を注いでいたのです。内川さんは大学で中国語を学んだことがあるのですが、彼の母親も中国語を独学で学んでおり、彼女の中国語の古文(漢文ですね)はもとより現代中国語の論文に対する読解力にも感心させられていました。

 内川さんの母親が亡くなる前日の朝、彼は両親の家を訪れているのですが、そのとき母親は、「背中が痛くて熟睡できないのよ」と言いながらも、彼に温かいコーヒーを出してくれました。その後、いとまを告げて帰ったのですが、まさかそれが永久の別れになるなんて内川さんは全く想像もしていませんでした。翌日、内川さんの母は解離性大動脈瘤破裂のため、77才であの世に突然旅立ってしまいました。突然に死が訪れたためでしょう、彼の母はほとんど苦しまなかったようです。その死に顔はとても安らかで、まるで若い頃の彼の母の笑顔を彷彿とさせるものがありました。

 内川さんが両親の家で母親の遺品の整理をしていたとき、段ボールの底から彼の母親が鉛筆で描いたらしい若い女性の横顔の絵が一枚出てきました。

 この絵は、内川さんがまだ独身時代に結婚する相手を決めたとき、当時山陰のM市に住んでいた母親に電話でそのことを伝えたときに描かれたものに違いありません。その時、彼の母親は何度も何度も彼に新しく家族となる女性の顔付きや人柄、雰囲気を質問したものでした。

 そんな内川さんの母親が、まだ見ぬお嫁さんの似顔絵を描いたものを後で彼に見せましたが、それは実際の内川さんの結婚相手となる女性に驚くほどそっくりでした。電話で息子が伝えた婚約者の女性のイメージについて、息子の言葉だけを頼りに一枚の紙にその横顔を再現していたそのときの母親の気持ちを察し、内川さんの両目には自然と涙がにじみ出てきました。

 初めて内川さんが彼女を両親に紹介したとき、内川さんの母親は未来のお嫁さんの手を固くしっかりと握り、息子をよろしくね、よろしくねと繰り返し言い、「まさとは真面目な人間で、浮気なんかする子じゃ絶対ありませんから、それだけは心配しないでくださいね」と言った言葉が内川さんの記憶に鮮明に残っています。母親はそこにいろんな意味を籠めて伝えたかったのだと思います。

 そうですね、内川さんの母親は夫の浮気に何度も涙を流し、幼い頃から夫婦喧嘩の修羅場を見て育った内川まさと君もこと女性関係では石部金吉でずっと通してきましたし、結婚後も浮気なんてちょっと想像しただけで不動の金縛り状態になる人間なんですよ。

 内川さんが本当に真面目人間かどうかはいささか判断に迷いますが、こと異性関係に関しては彼の母親の言葉に間違いはなさそうです。えっ、誰ですか、内山さんの異性関係は「梅雨の季節みたいなもので、降られっぱなし、振られっぱなし」ですって。うーむ、上手いですね。しかしそれって誰かの落語で聴いたことがありますから、オリジナルな謎かけ言葉で「内山さんの異性関係と掛けて何と解く。その心は熱湯が注がれたグラスのようなもので、全くもてません」と言う自虐ネタはどうでしょうか。

 えー、お後がよろしいようで、ちゃんちゃん。





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最終更新日  2015年07月16日 15時24分25秒
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2015年06月22日
カテゴリ:映画鑑賞
  あん
 2014年2月23日の日曜日、南日本新聞会館みなみホールで開催された「柳家喬太郎独演会」を夫婦で大いに楽しんだ夜の帰宅途中、私たち夫婦が車中で偶然耳にしたのが西田敏行と竹下景子が演じるつぎのような内容のNHKのラジオドラマでした。

 ある刑務所帰りの中年男が小さなどら焼き屋を営んでいますが、彼にはどら焼き作りに対する情熱など全くなく、どら焼き用のあんには既製品を使い、なんの創意工夫もなくただ身過ぎ世過ぎのためにどら焼きを作って販売する単調な毎日を送っていました。そんな彼が店に出した「バイト募集、年齢不問」の貼り紙を見て指の曲がった一人の老婆が訪れてきます。バイト募集に年齢不問と書いたけれど、相手は70代半ばの老婆で指も不自由そうです。一度は断ったのですが、老婆が「食べてみて」とタッパーに入れて渡したあんの美味しさに驚ろかされ、雇ってみると彼女は大変なあん作りの名人で、瞬く間に店は繁盛するようになります。しかし、男が体調を壊した翌日から、老婆が店頭で接客もするようになります。ところがそんなどら焼き屋にオーナーの「奥さん」がやって来て、老婆がらい病患者ではないのか言い出し、店の評判が悪くならないうちにすぐに辞めてもらうようにしなさいと言われます。

 このラジオドラマは連続ものだったようで、私たち夫婦が帰宅する前にラジオの第1回目の放送が終わり、面白そうな話だねといいながらもその後続きを聞く機会もありませんでした。ところが約1年後になって、ネットで偶然検索していて、このラジオ番組がNHK「新日曜名作座」で放送されたドリアン助川「あん」という小説の全6話中の第1回目ということが判明し、ポプラ社から販売されているとのことなので早速購入することにしました。


 小説では、どら焼き屋「どら春」を営む千太郎がオーナーの奥さんから老婆の吉井徳江を解雇するように言われたその夜、インターネットでハンセン病について調べ、昔はらい病と呼ばれ不治の病とされて隔離されたが、いまは万が一発病しても即効で完治し、感染源になることもない等のことを知り、吉井徳江を雇い続けることにします。しかし次第に売上がどんどん落ち込み、そのことと世間のハンセン病に対する偏見とが関連していると事情を察した吉井徳江からどら焼き屋を辞めさせてもらいたいと申し出があり、「昔の私はもう生涯外に出られないと覚悟していた」が「自由にここにやってこられて、たくさんの人に会えて、店長さんがやとってくれたからよ」と感謝の言葉を残して店を去っていきます。

 後日、中学生のワカナちゃんがアパートで飼えなくなったカナリヤの入っている鳥籠を持って「どら春」に久し振りに現れ、店で親しくなった吉井徳江からカナリアを預かってもいいと言われているので彼女に会いに行きたいと告げられます。それで千太郎はワカナちゃんと一緒に吉井徳江が住んでいるという「天生園」に赴き、無事にカナリアを吉井徳江に預けることができました。小説はこの「天生園」での千太郎、ワカナと吉井徳江との再会のエピソードを詳しく描き、そのこと通じて過去のハンセン病患者に対する非人道的で過剰な差別的隔離政策とそのなかで生きてきた吉井徳江たちの苦しみと喜こびやいまも私たちの心の奥に横たわる偏見の存在をあぶり出します。

 小説は、後半になって2度目に訪れた「天生園」で吉井徳江からヒントを得た「逆転の発想」の塩どら焼き作りに千太郎がチャレンジする話になります。しかし小説は塩どら焼き作り成功のハッピーエンドで終わるのでしょうか。残念ながら小説はそんなハッピーエンドものではありません。

しかし、徳江から千太郎に寄せられた最後の手紙の満月の囁きの話が強いメッセージを読者に残してくれます。徳江にはずっと「世の役に立たない人間は生きている価値がないという思いがあった」そうです。それがある満月の夜、「園の森を一人で歩きながら、煌々と光る満月を見ているときでした。(中略)月が私に向かってそっとささやいてくれたように思えたのです。お前に見てほしかったんだよ。だから光っていたんだよ、って。その時から、私はあらゆるものが違って見えるようになりました。私がいなければ、この満月はなかった。木々もなかった。風もなかった。私という視点が失われてしまえば、私が見ているあらゆるものはきえてしまうでしょう。ただそれだけの話です」。この小説の読者へのメッセージは徳江が千太郎に手紙に残した「私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた」と言うことなのではないかと思いました。

 この小説を原作とする映画が鹿児島市内でも上映されましたので、どのように映像化されているか興味を持って観に行きました。監督は河瀬直美で、永瀬正敏が千太郎を演じ、樹木希林が吉井徳江を演じ、内田伽羅がワカナを演じ、浅田美代子がオーナー役を演じていました。

 映画は桜並木の桜が満開の通りに店を開いている「どら春」の全景を映し出すところから始まります。桜の花が美しい季節に徳江が千太郎のどら春にやって来て、桜が散った後に瑞々しい緑の若葉が茂り出した頃に雇われた徳江から指導を受けて千太郎が懸命にあん作りに取り組む様子が丁寧に描かれ、雨が街を濡らし紅く色付いた枯葉が散り出す秋雨の季節とともにどら春の売り上げが急速に落ち込み、徳江も店から去って行き、木枯らしが強く吹く寒い季節に千太郎とワカナがカナリヤを徳江に預けに木々がうっそうとはい繁る「天生園」におっかなびっくり入っていきます。このように春夏秋冬の季節のうつろいとともにドラマは進行していきます。

 また徳江の丁寧な指導を受けて千太郎が瑞々しく輝ている小豆を時間を掛けてゆっくりと美味しそうなあんに変えていく様子も映像化の魅力を充分に発揮していました。閉店前に大きなボールに小豆を水でひたしておき、翌朝は日の出とともに店に出て、その小豆をザルに取って濁った水を捨て、鍋に入れてからも何度も沸騰と水差しを繰り返した後、木べらをゆっくり回しながら弱火で煮込んでいくのですが、徳江がときどき小豆に声を掛けており、本当に小豆にも命が宿っているに感じられました。

 千太郎がこのように丁寧に作ったあん入りのどら焼きを一つまるごと食べた後、「俺、どら焼きひとつ食べるなんてまずないことなんですよ。甘党じゃないんですよ」と言って徳江をちょっと驚ろかせる場面も印象的でした。このあんの美味しさが評判を呼び、「どら春」は行列が出来るお店となり、初めは徳江をあん作りだけをする約束で雇ったのですが、忙しくなって接客もしてもらうようになり、そのことから悪いうわさが立つようになり、売り上げが急速に落ちて徳江が辞め、さらに千太郎も「どら春」の店長を辞めざるを得なくなります。

 しかし、この映画のラストは、満開の桜が咲いている広場の小さな屋台の前で千太郎が「どら焼きいかがですか。どら焼きいかがですかあ」と客に声を掛け、そこに子どもの「どら焼きください。10こください」との声がかぶせられて終わっています。千太郎はどら焼き作りをあきらめないで、徳江から教わったあん作りを引き継いで行くつもりのようですね。

 映像化ならではの効果と言えば、どら春で働き始めた徳江の顔に輝きが生まれ、どら春を辞めて「天生園」に引き籠った徳江にその顔の輝きが失われ白髪が増えている姿が観客に強い印象を与えたことと思います。原作のメッセージとは異なり、人が生きるとは他人(ひと)との交わりの中にあり、特に自らの行為が他人(ひと)に意味を持つことにあるのではないかと痛感させられました。それだけハンセン病の隔離政策の非人道性が心に強く訴える映画だったように思います。







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最終更新日  2015年06月25日 14時27分36秒
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2015年06月06日
カテゴリ:カテゴリ未分類
 私がまだ幼かった頃、両親の会話に「きょくがくあせいのと」という耳慣れない言葉が出てきて強く印象に残ったことがあります。当時の日本の首相がトーダイのソーチョウを「きょくがくあせいのと」と罵ったらしいのです。

 後で知ったことですが、 第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本がかつて交戦関係にあった連合国諸国と講和条約を結んで独立しようとしたとき、当時の米ソ冷戦の時代背景下、日本国中が米国側諸国との単独講和かソ連側の国々をも含む全面講和かで世論が分かれ、東大総長の南原繁が卒業式などで全面講和論を唱えたことに、米国側との単独講和を進めていた首相の吉田茂が「曲学阿世の徒」(世間に阿り(おもねり)学問を曲げる連中)と罵倒したのでした。

 当時は東大の総長を、一国の首相が「学者にあるまじき連中の一人」だと罵ったことが強い反響を呼び、私の両親の会話の中にもそのことが出てきたのですが、最近は政治の世界で学者の発言が強い影響力を持つことはあまりないようですね。あの大阪市内の世論を二分した大阪都構想の市民投票にも「大阪都構想の危険性」に関する百名以上の学者が所見を寄せて反対していたこともマスコミの大きな話題にならず、投票結果にもそれほど影響がなかったかもしれませんね。

 しかし、衆参で多数の議員を確保した安倍晋三首相が安全保障関連法案を国会の審議に掛けたところ、6月4日の衆院憲法審査会に出席した3人の憲法学者がそろって同法案を「憲法違反」と断じ、なんとその3人の憲法学者の一人は与党の自民・公明党が参考人として招いた長谷部教授だったというのがマスコミの話題となりましたね。

 衆参国会で多数を占め、多数決原理で慢心していた安倍首相が思わぬところでエラーを犯してしてしまったようですが、多数決原理は学者の世界では通用しないことを忘れていたようです。自民党の佐藤勉国対委員長などは学者を選んだ船田元自民党憲法改正推進本部長を呼び出し、「自分たちが呼んだ参考人の発言だから影響は大きい。安保法制の議論に十分配慮してほしい」と注意を促したとのことです。しかし、与党側のショックは大きいでしょうね。

 もっとも菅官房長官などは、集団的自衛権行使を「全く違憲でないと言う著名な憲法学者もたくさんいる」などと発言しており、今後は宇宙の中心は地球だとする天動説を唱えるような文字通り「曲学阿世の徒」を総動員して世論誘導に励むことでしょうね。





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最終更新日  2015年06月06日 20時30分44秒
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2015年05月30日
 私は朝ドラ「マッサン」の影響を直に受け、最近はいつもウィスキーの水割りを晩酌に楽しんでいます。なお、実在人物のマッサンこと竹鶴正孝は『ウイスキーと私』(NHK出版)で、ウイスキーを毎日飲むような人にはウイスキー1、水2の割合の水割りを勧めていましたので、私も小さなグラスにウイスキーを30mlほど入れ、氷の塊を落とした後、そこにミネラルウォーターをその2倍ほど注いで楽しんでいます。

 そんな私ですが、ソーダ入りのウィスキーも初めは自己流に作って飲んだことがありますが、それは一度も美味しいと感じたことはありませんでした。ソーダ特有の苦味がウィスキー独自の味わいを打ち消しているように感じたのです。

 それで試しにウィスキーをソーダで割った「ハイボール」なるものを料理店で注文してみることにしました。鹿児島市山下町の中華料理店「林光華園」のドリンクのメニューに「ハイボール」があり、「寿庵」荒田本店のテーブルに「桜島小みかん角ハイボール」の宣伝チラシが置いてあり、それぞれ注文してみました。

 どちらのお店の「ハイボール」もソーダに柑橘類の味わい(林光華園はレモン、寿庵は桜島小みかん)がほどよくミックスされたなかなか爽やかな飲み心地でした。

 これらの「ハイボール」の爽やかさはソーダの苦味を柑橘類が中和するところから来ていると思われますが、しかしウィスキーとソーダの比率が1対3もしくは4の感じで、柑橘類の香りが強いこともあり、ウイスキー独自の芳香と味わいを楽しめず、やはり私には水割りが一番かなという結論に達しました。

 みなさんのなかにはウィスキー通の方もいらっしゃるかもしれませんが、ウィスキーのおいしい飲み方をご存知でしたら是非教えてくださいね。





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最終更新日  2015年05月30日 17時52分43秒
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2015年05月24日
カテゴリ:落語
白酒

 今日(5月24日)に鹿児島市内の黎明館2階講堂で桃月庵白酒独演会が開催されましたので夫婦で楽しんできました。

 白酒師匠と言えば、 評論家の広瀬和生が「羊の皮を被った狼のような落語」と評していますが、その魅力の一つが毒気ですね。白酒師匠の自著『白酒ひとり壺中の天 火焔太鼓に夢見酒』(白夜書房、2013年9月)125頁に、同じ早稲田の落研出身の柳家甚語楼と二人会などをやっていた頃、マクラで「ざっくばらんに好き勝手に、愚痴と腹の立った話題をただ羅列していただけ」だったそうですが、甚語楼から「空気が悪くなる」と言われ、「毒のあり過ぎるマクラをちょっと変えてみるか、そんな感じで、愚痴話をちょこっと変化させてみたのです。マイルドなアイロ二ーに変えるというか、言い方を工夫してみました」と書いています。

  私も、白酒師匠のずんぐりむっくりした福々しい外観の高座から繰り出される意外な毒気が何とも言えず大好きなのですが、今日の独演会にもその毒気が充分に発揮され、大いに満足させられました。例えば今回の独演会の主催者の方々に感謝の意を表しながら、渡された濡れタオルがキンキンに冷やされており解くのが大変だったとか、借家の相場が場所の人気の有無によって違いがあり、例えば鹿児島ならほぼ同じ場所でありながら「玉里」と「伊敷」とではイメージが違う、と言って後は言葉を濁したり、さらに高崎山の猿の赤ちゃんの愛称を「シャーロット」とするときに英国大使館に問い合わせたが、「きっと大使館から見たら猿と日本人の区別なんかつかないだろう」と毒気が炸裂し、会場は大爆笑でした。

 さて私個人のもう一つのお楽しみは、最初のマクラを聞いて本題の演目を予想することなんですが、世間にはいろいろな職業があると言って、医者でも切った貼ったの外科医と相手の話を聞くことが主となる内科医では随分違うと話し出したときは、ははん「代脈」当たりかな、しかし「代脈」は3年前に白酒師匠がすでに演じていたはずだから、「夏の医者」かもしれないなとあれこれ推測していましたら、これが床屋の待ち時間に文字を読むのが不確かな男が手にしていた読み本の『太閤記』を読まされて四苦八苦する「浮世床」だったり、マクラで借家の場所による相場の話にはいささか戸惑っていると本題は「お化け長屋」でした。確かに長屋の空き家を無断利用している長屋の住人たちとその空き家を借りに来た人物たちとが繰り広げる滑稽譚ですからマクラと本題とは繋がっています。

 さて、中入り後に高座に上った白酒師匠がまずマクラで語り出したのが先ほど紹介したお猿の愛称「シャーロット」なのでね、これも本題の推測が付きませんでしたが、戦国時代のような戦乱の時ならカリスマ性のあるリーダーが求められるが江戸時代のような平和な時期には「あっ、あそこに蝶々が」といった感じの殿様でも構わないと来たので、もしかしてどこかネジが何本か抜けている赤い御門の守と家老の三太夫が出てくる噺が本題かと推測しますと、これはびったしカンカン、なんともお馬鹿な殿様と家老の両者の間で繰り広げられる滑稽譚「松曳き」でした。最後は見事に当てたので「余は満足じゃ」でございました。

 なお、拙サイト「十人十席の噺家の高座」にアップしていました「桃月庵白酒」に今回の独演会のことを加筆しておきました。
   ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/rakugo/hakusyunedoko.html






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最終更新日  2015年05月26日 10時39分16秒
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2015年05月09日
 NHK朝の連続ドラマ「マッサン」では、鴨居商店の山崎ウイスキー工場から出荷された日本初の国産ウイスキー「鴨居ウヰスキー」は全く売れず、経営者の鴨居欣次郎(堤真一)は「従業員、食わせていくためや、メイドインジャパンのウイスキー、広めるためやったら、わては、何でもやったる!」として日本人の嗜好に合わせるようマッサン(玉山鉄二)に命じますが、マッサンは本格ウイスキー造りの夢を捨てられず、「そのためには、大将のもとを離れる事が、一番じゃ、思いました」と言って鴨居欣次郎に辞表を提出します。そしてウイスキー造りに最適と考える北海道の余市にまず資金造りのためリンゴ汁製造・販売する北海道果汁株式会社を設立することになります。

 そんなウイスキー醸造創業期の困難に屈せず、経営者として日本人の嗜好に合わせてウイスキーを改良していこうとする鴨居商店の鴨居欣次郎とウイスキー醸造技師として本格的なウイスキー造りを目指すマッサンとの対立がドラマでは次第に深まっていくのですが、そんな経営者と技術者との対立過程も興味深く描かれていました。

 この経営者としての鴨居欣次郎と技術者であり職人であるマッサンの対立はこのドラマの大きな見せ所となっていますが、実際の寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝との間にはどのような関係があったのでしょうか。実話を基にした小説やテレビを読んだり見たりして興味を持ちますと、私の悪い癖で実際はどうだったのだろうかと無性に知りたくなります。それで文献に基づいて、日本で最初の本格ウイスキー造りにかかわった寿屋の鳥井信次郎とニッカの竹鶴正孝のことを調べてみることにしました。

 寿屋の鳥井信次郎について書かれた文献としては、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史や森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』(新潮文庫、1983年)がありますが、まず主として両書に基づいて鳥井信次郎の略年譜を日本初の本格的ウイスキーサントリーウイスキー白札」販売までを簡単に紹介しておきたいと思います。

 鳥井信次郎前半生の略年譜
 1879年 大阪の両替商・米穀商の鳥井忠兵衛の次男として生まれる。
 1890年(明治23年)11歳で大阪商業学校(後の大阪市立天王寺商業高等学校)に入学。  
 1892年(明治25年)13歳で同上学校を中退し大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出る。
 1899年 (明治32年) 大阪西区靭中通に鳥井商店開業、葡萄酒の製造販売を開始。
 1906年 (明治39年) 店名を寿屋と改名。
 1907年 (明治40年) 甘味果実酒「赤玉ポートワイン」を発売。
 1924年 (大正13年) 4月に京都郊外の山崎にウイスキー工場起工、11月に竣工し本格的蒸留作業開始。
 1929年 (昭和4年) 4月に「サントリーウイスキー白札」販売。
 1937年 (昭和12年) 10月に山崎工場で12年間熟成された「サントリーウイスキー角」発売され大ヒット。
 1962年 (昭和37年) 2月20日に急性肺炎で死去。享年83。
 1981年 (昭和37年) サントリーオールドが年間出荷数1240万ケース、1億3000万本以上で単独銘柄としての世界最高を記録。

 なお、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』の147頁~148頁には鳥井信治郎がウイスキー醸造を開始しようとして竹鶴正孝の名前を知る経緯がつぎのように書かれているだけです。

「信次郎は、三井物産に頼んで、本場のイギリスからムーア博士を招く計画をたてていた。そのときイギリスでウイスキーづくりを勉強して帰って来た青年技師がいることを教えられた。それが竹鶴正孝である。/まだ二十代であった竹鶴を年俸四千円でむかえいれた。」

 同上書にはウイスキー造りについての両者の対立など全く書かれていません。しかし森杉久英『美酒一代 鳥井信治郎伝』の121頁~123頁には、鳥井信次郎が大正13年(1924年)に竹鶴正孝に任せて起工した山崎のウイスキー工場から約4年半後の昭和4年(1929年)4月1日に寿屋から売り出した「サントリーウイスキー白札」が全く売れず、ウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)が「こげくさい」と敬遠されたことや、その後さらに原酒が数年樽に寝かされて熟成し、そこに多くの学者と技術陣の知識と研究が加わってサントリーならではのウイスキーの味が作られたことや、その過程で初代工場長の竹鶴正孝と対立し、竹鶴が辞任して北海道で大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立する経緯がつぎのように紹介されています。
 
ところが、鳥井信治郎が勢いこんで売り出した『サントリー』の評判はよくなかった。
『こげくそうて、飲めまへんわ』
 これが、大方の意見であった。信治郎自身も後日、正直にそれを認めている。
『初期の頃はこげくそうて、実際に飲めたもんやなかった。モルト(麦芽)の乾燥に、ピート(草炭)は多い方がええと思うて、燃やしすぎたんやな。それで大麦が、死んでしもたんや。あのこげくさい匂いも、ほんまのところ、ちょっとはなくちゃいかんのやが……。
 なんぼ造っても売れんから、蔵へ入れ蔵へ入れして、ほっといたんや。そないしてストックしているうちに、だんだん味がようなってきた。禍い転じて、福となったわけや。』
 この"こげくささ"は、本格的なウイスキー独特の燻香(スモーキフレーバー)とよばれるもので、必要なものなのである。が、過ぎたるは及ばざるが如しで、どうも初期の頃はこれを重んずるあまり、ピートを焚きすぎたらしい。
 実際のところ、信治郎のブレンドが真にその力を発揮しはじめたのは、山崎の原酒が次第に良くなってきてからのことである。良き原酒があってこそブレンドも生きてくる。しかしそのためには、京都帝大の片桐英郎博士らの意見を取り入れ、さらに台湾の専売局から、日本でアミロ法による醸醇を最初に成功させた、上田武敏や佐藤善吉らを社に招く必要があった。多くの学者と技術陣の知識と研究が加わって、はじめてサントリーは、サントリーとしての味を身につけたのである。
 不幸なことに、初代工場長・竹鶴政孝は、これらの新しい技術陣と相容れず、またブレンドについても、鳥井信治郎と意見の一致しないところがあり、後日、信治郎が始めた横浜のビール工場に移り、そのあと寿屋を去って北海道へ渡り、大日本果汁(ニッカウヰスキーの前身)を設立した。


 では、竹鶴政孝自身はその頃のことをどのように述べているのでしょうか。非売品として発行された竹鶴正孝著『ウイスキーと私』(ニッカウヰスキー、1972年2月)がNHK出版から2014年8月に改訂復刻されていますので、同書に基づいて紹介したいと思いますが、まず先に同書や植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)、オリーヴ・チェックランド著、和気洋子 翻訳『マッサンとリタ ジャパニーズ・ウイスキー誕生』(NHK出版、2014年8月)、早瀬利之『リタの鐘がなる 竹鶴政孝を支えたスコットランド女性の生涯』(朝日文庫)、植松三十里『リタとマッサン』(集英社文庫)、「『マッサン』と呼ばれた男 竹鶴正孝物語」(産経新聞出版)等に基づいて竹鶴正孝の略年譜を作成し、下に簡単に紹介しておきます。

 竹鶴正孝 略年譜
 1894年 広島県竹原市に造り酒屋の三男として誕生。
 1916年 旧制大阪高等工業学校(現大阪大学工学部)醸造科卒、大阪の摂津酒造に入社。
 1918年~1920年 イギリスに留学、スコットランドのウイスキー蒸留場で修行。
 1920年 ジェシー・ロベールタ・カウン(愛称リタ)と結婚、同年日本に帰国。
 1922年 不景気のため摂津酒造でのウイスキー造りを断念し同社を退社。
 1923年 寿屋(現サントリー)にウイスキー醸造技師として入社。
 1924年 寿屋のウイスキー山崎蒸留所完成、初代工場長に就任。
 1929年 日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」発売。
 1934年 寿屋を退社、独立して大日本果汁を設立、北海道余市にウイスキー蒸留所完成。
 1940年 余市初の「ニッカウヰスキー」発売。
 1956年 「丸びんニッカウヰスキー」(二級、通称丸びんニッキー)発売、大ヒット。
 1961年 リタ64歳で死去。
 1962年 「スーパーニッカ」(特級)発売。
 1965年 髭のおじさんマークの「ブラックニッカ」(一級)発売、幅広い人気を得る。
 1979年 85歳で死去。

 竹鶴政孝は、1929年に日本初の本格ウイスキー「白札サントリー」を発売した当時のことを『ウイスキーと私』でつぎのように述べています。

 「無理からぬことであるが、当時の日本にはコンパウンダー(混合者)の知識はあっても、ブレンドや熟成の体験的な知識はなかった。古い原酒がないためブレンドするにもむずかしかったという理由はあるが、他方ではウイスキーを商品として早く出さねぼならない情勢もあった。
 だからこのときは、まだ理想的ブレンドをしたウイスキーとまではいかなかったが、とにかく昭和四(一九二八)年四月一日、初めての本格ウイスキー『白札サンーリー』は世に出たのである。
 発売価格は一本三円五十銭であった。ジョニー・ウオーカーの赤が五円の時代である。その後、普及品の『赤札サントリー』を出したが、いずれも売れ行きも評判もよくなかった。
 また時代も早すぎたのである。
 鳥井さんがウイスキーによせられた期待と情熱、その要望にこたえようとした私も一生懸命であったが、宴席といえぼ日本酒ばかりで、夏はともかく、冬ともなればビールも顔を見せない時代で、誕生したばかりのウイスキーなど相手にもされなかった。
 売れないから当然原酒が残った。
 だがこのとき残った原酒は十年前後の歳月がたって十分に熟成するとともに、りっぱな原酒に成長したのである。


 日本で最初の本格ウイスキー造りを開始した寿屋ですが、同社は同年にさらに「オラガ・ビール」を買収し、竹鶴正孝にビールの横浜工場長の兼務が命じられます。そのときのことを竹鶴正孝はつぎのように語っています。

 「しかし工場を大きくする計画と仕事を日夜続けていた工場長の私にとってショックであったことはいうまでもない。
 私もそろそろ四十歳になる。独立しようとかたく決意したのはそのときだった。
 とはいえ、鳥井さんとはけんか別れではなく円満に退社したのである。
 もともと契約は十年の約束であったし、私はつねづね自分でウイスキーづくりをしたいと思っていたので、その期限の来た昭和七年に退社したいと申し入れたが、保留されていたのだった。
 とにかくあの清酒保護の時代に、鳥井さんなしには民間人の力でウイスキーが育たなかっただろうと思う。
 そしてまた鳥井さんなしには私のウイスキー人生も考えられないことはいうまでもない。


 なお、植松三十里『ヒゲのウヰスキー誕生す』(新潮社、1982年11月)によりますと、鳥井信治郎がビール製造に手を出したのは、売れ行きの悪いウイスキーを擁護するためであり、67万円で買い取ったビール工場が300万以上で売却できると知るとすぐにビール工場を手放してしまいます。そして竹鶴正孝に「さあ、もう安心やで。これで金繰りのほうも一息ついたよって、あんたはんも山崎工場に戻って、また以前のようにバリバリ働いてや」と言ったそうです。しかしこのとき竹鶴正孝は自分が一介の技術者に過ぎないことを痛切に感じ、約束の10年間は働いたことでもあり独立しようと考え、1934年3月1日に寿屋を退社、加賀正太郎、芝川又四郎、柳沢保恵と共同出資して同年7月に北海道の余市に大日本果汁を設立することになります。そのとき、加賀からは「わては株屋や。ウイスキーのほうはわかりまへん。わては金出すさかい、竹鶴はん、あんたは技術を出しなはれ」と運営の一切を任され、北海道余市にウイスキー蒸留所を完成することになったとのことです。





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最終更新日  2015年06月23日 10時37分06秒
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2015年05月02日
カテゴリ:鹿児島の市電
電停名変更

 鹿児島市市電の4電停名が以前のたばこ産業前空地に市立病院と市交通局の局舎と車庫が移転したために以下のように変更となり、拙サイト「鹿児島の市電と街」にも新たな手直しが必要となりました。

   市立病院前→甲東中学校前   
   交通局前→二中通
   たばこ産業前→市立病院前
   神田→神田(交通局前)
 
 たった4電停名の変更ですが、久しぶりのホームぺージ作成だけに先月下旬からいろいろ時間が掛かり、今日やっと一応アップすることができました。また機会を得て移転先の新しい建物も載せていきたいと思います。
    ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/siden/tramcity.html





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最終更新日  2015年05月03日 09時17分23秒
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