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2017年01月14日
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カテゴリ:エッセイ

 母が亡くなったのが16年前の2001年1月15日でしたが、諸般の事情により今日1月14日に十七回忌の法要を行いました。

 お坊さんの長い念仏を聞いている間にいろいろ生前の母のことを回想し、特に若い頃の母と年老いた頃の母との相違に驚いたことが思い出されました。

 よく最近になって耳にするのが、知人の近親者が年を取って怒りっぽくなったという話なんですが、これは老化に伴う自己抑制力や理性の低下が原因しているとよく言われます。それに対し、私の母は年を重ねるなかで性格が非常に丸くなって行ったことに驚かされたものですが、それはやはり母が理性の人だったからだと思います。

 若い頃の母は父の浮気に激しい怒りを表し、社会における男女の不平等に憤り、古くからの伝統的なものも全て因習的なものとして毛嫌いしていました。しかし歳を重ねるなかで性格が穏やかになり、なにかあるとすぐあいかわらず怒鳴り出す夫に従順な妻に身変していました。考え方も保守的になり、奈良市の油留木町にある先祖の土地を絶対に他人(ひと)の手に渡してはならないと言い出したことには大いに驚かされたものです。

 油留木の家は幕末に建てられたもので、先祖代々に渡って東大寺の寺侍だった太田家の武家屋敷風の建物でした。しかし明治になって失職した太田家の先祖(私の曽祖父は太田頼傳とのこと)は困窮して家と土地のほぼ半分は手放したそうです。私の両親は祖父からこの奈良の油留木の古い家を受け継ぎ、私たち一家はリホームを何度も繰り返しながらこの家に長年住んでいたのですが、両親も私もそれぞれ仕事のために奈良から離れ、油留木の家は知人に貸していました。

 私の両親は退職後、鹿児島市に住む息子である私の家の近所に新たに家を建てて移り住んで来たのですが、母が奈良の油留木の「先祖の家」を絶対手放すなと言い出しました。太田家の菩提寺に両親が墓参りしたのは、祖父母が亡くなり納骨式を挙げたときくらいだったと記憶しています。それだけに母が太田家の先祖の土地を守れだの手放すなと突然言い出したことには驚かされたのです。

 しかし母が他界し、また奈良の油留木の家に住んでいた知人も亡くなった後、私は父と相談してこの油留木の家を取り壊し、土地を隣人に売り渡すことにしました。私にとってこの油留木の家には「辛い思い出」が山積しており、父も「先祖の家」に対する執着など全くなかったからです。

 奈良の油留木にある「先祖の土地」を隣人に売り渡してほぼ半年後の夏の暑い日、私は妻と一緒に鹿児島から奈良を訪れましたが、百坪近い「先祖の土地」はまだ敷地内にコンクリートを打っている最中でした。そしてその土地は驚くほど狭くて小さなものでした。






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最終更新日  2017年01月17日 07時29分09秒
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2017年01月01日
カテゴリ:新年



 退職前、勤務先から帰宅途中の下りの坂道で晴れた日にはよく青い桜島を遠くに眺めることができました。肉眼で見ると手前の小山と重なってなかなか面白い桜島の風景なんですが、写真に撮ってみると、桜島が小さすぎて肉眼で実際に見る時に感じる面白みが全くありません。それでいつかこの青い桜島を絵に描きたいと思っていました。

  退職後、鹿児島市のみんカルの講座でクレパスを学び始めたころの2013年4月中旬にこの青い桜島を試みに描いてみることにしました。近所の坂道から見える手前の小山とその背後に小さくかすむ青い桜島の実際の遠近関係や大小の大きさを思い切り自由にデフォルメしてクレパス画に描いてみましたが、写真では絶対に表現できないなかなかユニークで面白いものが出来上がったように思います。自己満足かもしれませんが、好きなものを好きなように描くってことは本当に楽しいですね。

http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/diary/201304210000/


下に紹介するURLは動画はの鹿児島県観光協会のPR動画ですが、鹿児島県民にとっての桜島の存在がストレートに伝わる素晴らしい内容です。

http://www.kagoshima-kankou.com/beautykagoshima/






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最終更新日  2017年01月08日 14時28分07秒
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2016年12月29日
カテゴリ:news

 今年(2016年)7月の鹿児島県知事選で脱原発を掲げた三反園訓(みたぞの・さとし)氏が四選を目指す現職を破って当選し、地元の川内原発に対する対応が注目されました。原発には全く素人の私ですが、東日本大震災の福島原発事故の悲惨な現実を知らされ、さらに隣県の熊本県で大地震が起こったこともあり、川内原発への影響が心配され、三反園知事が九州電力川内原発の安全性などを確認するための第三者委「原子力安全・避難計画等防災専門委員会」の設置されるとのニュースには大いに関心を持たされました。

 その第三者委員会のメンバーが19日に発表されました。そのメンバーについて朝日新聞デジタルの2016年12月19日午後3時半の記事は「川内原発の第三者委、12人の委員公表 鹿児島県」との表題でつぎのように紹介していました。

「委員には、東京電力福島第一原発事故の検証を続ける新潟県の有識者委員会で座長を務める中島健・京都大教授(原子力工学)ら、ほかの立地自治体で同様の組織に加わる6人のほか、鹿児島大と九州大の地震・火山、防災、原子力などの専門家5人が入った。反原発派が県側に要望した専門家は含まれていない。
 三反園知事は『賛成か反対かを議論するのでなく、専門的見地から公平公正に判断してもらえる人を選んだ』と説明した。委員が電力業界から報酬や寄付を受けたことがあるかどうかは調べていない。(後略)」

 
 正直言うと、三反園知事の言うような「専門的見地から公平公正に判断してもらえる人」なんて原子力関連の専門家にいるのだろうかと大いに首を傾げていたのも事実です。

 しかし、第三者委というのですから「委員が電力業界から報酬や寄付を受けたことがあるかどうか」ぐらいは最低の基準ですから、当然のことながら電力業界から報酬や寄付を受けてたことのない人たちが選ばれるだろうと思っていましたら、昨日(12月28日)午後6時37分のMBCNEWSがつぎのようなことを報じました。

 
「28日に初めて会合を開いた、原子力安全・避難計画等防災専門委員会のメンバー12人のうち、少なくとも2人が九電や原発メーカーから、寄付金などを受け取っていたことがわかりました。寄付を受け取っていたのは、鹿児島大学大学院の宮町宏樹教授と、九州大学大学院の守田幸路教授の2人です。宮町教授は4年間で、九電と6000万円の受託契約を結んでいたほか、グループ会社からも500万円の寄付金を受けていました。一方、守田教授は、三菱重工業から3年間で300万円の寄付を受けていました。」


 これでは第三者委による川内原発の安全性等の確認についてどのような結論が出るかは火を見るより明らかではないでしょうか。






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最終更新日  2016年12月29日 15時21分53秒
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2016年12月23日
内川さんが小学校2年生のころであったろうか。彼の母から父に対して、浮気相手やその相手との関係について「バイシュンフ」とか「ニクタイカンケイ」なんて幼い子どもには理解しがたい言葉がつぎつぎと発せられたのは。激しい両親の諍いに内川さんはその幼い心を痛めながらも、「バイシュンフってどんなハエなんやろか?」とか「その女性との関係、おかあちゃんにはきっとニクタラシイ関係なんやろな」なんて考えたものである。

 内川さんの母は非常にプライドの高い女性でした。内川さんの父親はそんな母親のプライドを平気で何度も何度も繰り返し踏みにじる人でした。特に彼の家の庭に建てられた離れの小さな一軒家に間借りした女子学生(母の後輩に当たります)と父がニクタラシイ関係(?)になったことを知った母の憤りは激しく、まさに般若の如く怒り狂ったものでした。

 そんな母は学校の教師をしていましたが、勤め先の学校の生徒たちが発行している新聞部の企画として恩師訪問というものがあり、生徒たちが内川さんの家に取材にやって来たことがありました。そのころ、内川さんの両親は諍いの真っ最中でしたが、その日ばかりは二人は生徒たちにこやかな笑顔を見せ、幼い彼も同席しました。

 さて生徒新聞にはどんな記事が掲載されたのでしょうか。内川さんは全く覚えていませんが、きっと先生のご主人も教師をしておられる仲良しの教師夫婦でしたなんてことが書いてあったに違いありません。そして「仲良し教師夫婦」とその間に幸福そうな笑顔を見せる坊やが撮られた写真が載っていたことでしょう。





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最終更新日  2016年12月24日 05時00分48秒
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2016年12月10日
創作短編:恩師の東町先生

 魯迅の小説「藤野先生」には「どういう訳か私はやはり頻繁にあの方のことを思い出す。私が師と思った人の中で、私が最も感激し、私を励ましてくださったおひとりだ」とあるが、もし内川さんが、魯迅にとっての藤野先生に当たる恩師がいるとすればどなたかと問われれば、即座に東町先生のお名前を挙げるであろう。

 内川さんが東町先生にもう何年ご連絡を差し上げていないだろうか。先生から電話があり、ある書店から出版されることになった講座本の第4巻への執筆依頼があり、辞退に辞退を申し上げた挙句に引き受けてしまい、遅れに遅らせたため原稿執筆に何度も繰り返し電話でご催促をいただいたにもかかわらず、なんだかんだと理由を付けて出稿を遅らせに遅らせ、やっとなんとかまさにお粗末な拙稿を書店に送って以来のことだから、もう16年以上経つことになるだろう。

 東町先生との出会いは、内川さんが大学4年生のときのことであった。彼は歴史を学びたいと一浪して第一志望大学を受験したにもかかわらず失敗し、予備校で英語の成績が他の受験科目のなかで一番よかったことから第二志望校として母校となった大学を受験して合格し、その大学で学ぶことになったのである。

 内川さんは、入学当初から大学院で歴史関係のことを学びたいと思い続けていた。しかし、四年生になったとき、同級生たちが私服姿から学生服姿(当時のリクルート姿)に着替えて学内を歩く姿を見掛けるようになり、さらに誰それがどこそこの企業に内定が決まったとの話がつぎつぎと耳に入るようになり、大学院への進学を依然として考えていた彼は、学問的なことは西も東もなにも分からずただ焦るばかりであった。

 そんなとき、内川さんが中国近代史の授業を受けていた東町先生のその授業内容に大いに興味をそそられたこともあり、思い切って大学院進学についてご相談申し上げたのである。

 東町先生は「大学院に進学するなら乞食になる覚悟が必要だよ」とおっしったが、怖いもの知らずの若い内川さんはそのとき「はい、その覚悟です」と即答したものである。そうして東町先生から繁畑敦先生という17世紀中頃の中国経済史研究をしておられる新進気鋭の方がおられ、この先生が勤務しておられる大学の大学院で研究方法を学んだらいいのではないかとアドバイスを受けることができたのである。

 内川さんは東町先生からは大学院進学のことみならず進学後も大変お世話になり、いろいろな研究会に参加させてもらい、また論文投稿や書籍原稿執筆に力を貸していただいた。内川さんが勤務するようになった短大で1989年から海外留学が可能となったとき、彼は東町先生に留学先について相談に乗ってもらい、1989年夏より1年間に渡って上海の復旦大学に留学することになった。しかし、同年6月4日に天安門事件が起こり、中国で混乱が続くかもしれぬとの情報もあり、気の弱い彼は留学を急遽中止してしまったのである。

 それだけではない、内川さんがその頃に研究対象にしていたのは、人民日報記者で政治の民主化の必要性を鋭く主張していた劉賓雁氏だったが、当時アメリカに留学していた劉賓雁氏がそのままアメリカに亡命し、中国国内での活動が不可能となってしまったのである。

 このときから内川さんは中国に対する研究意欲を完全に喪失し、上記に書いたように東町先生からの折角の原稿依頼も遅らせに遅らせてしまい、その挙句にお粗末な原稿しか提出できなかったのである。先生はさぞかし呆れられたことであろう。それから先生からのご連絡もなく、彼の方からも近況報告をしても失望されるだけであろうと恥ずかしくて連絡を差し上げられず、そのまま音信不通となってしまったのである。

 こんな不肖の弟子であるが、彼はいまも東町先生から受けたご恩は忘れられないでいる。いまでもよく先生のことを思い出す。彼はよくこう思う、先生が彼にかけて下さったご期待やお教えは、小にしては、卒業を目前にしながらも進路に迷っている一人の受講生のためであり、大にしては学術のためであり、つまり先生の後継者を育てることにあったろうと。そんなことを思うと、こんな言い訳がましい文章を書いていることに彼はただ恥じ入るばかりであった。






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最終更新日  2016年12月13日 20時51分28秒
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2016年12月02日
カテゴリ:エッセイ

 私の義父の本田又雄が先月中旬に他界しました。享年90でした。本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。

 義父の葬儀も無事に終わった後、関西に勤務する私の長男、次男から「じいちゃんの思い出」についてのメールをもらいましたので、義父への追悼記念としてこのブログにアップさせてもらいます。

 なお初孫のはんちゃん(明石の福祉施設勤務)は、福岡の病院で産まれています。当時妻の実家が福岡に在ったからです。義父は毎日仕事帰りに初孫の顔を見に病院に通いました。鹿児島に帰った初孫のお食い初めの日には義父が福岡から駆けつけて祝ってくれました。妻がはんちゃんを連れて福岡の実家に里帰りしたときには、いつも義父が嬉しそうに「はんちゃん、はんちゃん」と言って初孫と一緒にお風呂に入っていたものです。また自転車に乗せて散歩によく出掛けており、そのおじいちゃんと孫のほほえましい姿が忘れられません。大泉逸郎が「孫」という題名の歌謡曲で「なんでこんなに可愛いのかよ/孫という名の宝もの」と 歌っていますが、まさにその通りの思いを持ったおじいちゃんがそこにいました。

 妻の両親が鹿児島に移ってからも、明石に就職したはんちゃんが鹿児島に帰って来たときはいつも義父母の家に立ち寄っていました。義父が88才になったとき、はんちゃんが米寿のお祝いを率先して企画し、4人の孫たちがおじいちゃんに帽子や花束を贈呈していました。はんちゃんが帽子をじいちゃんの頭に被せたときは、些かはにかみながら祝いの席のみんなに披露していたものです。
 
 義父ははんちゃんが年頃になったとったとき、「はんちゃん、結婚はまだかい」といつも声を掛けていましたから。そんな初孫が結婚すると聞いたときは大喜びしたものです。ところが彼の結婚式の約1ヶ月前に腰骨を折ってしまい、神戸での結婚式の参加が危ぶまれました。しかし入院した病院で適切な治療やリハビリを受けることが出来、また本人の何とか結婚式に参加したいとの強い思いにより予想より早く回復し、鹿児島から車椅子に乗っての参加が可能となりました。はんちゃんは初孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。

 そんな初孫のはんちゃんがじいちゃんの思い出としてつぎのようなことを書いています。

「まず1つは焼酎です。福岡の福間に遊びに行き、私はじいちゃんの膝や傍に座り、みんなで食事を囲んだときに、必ず焼酎にポットからお湯を入れて、お湯割りを飲んでいました。あの、芋焼酎とじいちゃんの匂いは今でも思い出します。
 次に2つ目は自転車です。孫達みんなじいちゃんの自転車の後ろには乗せてもらってます。色々連れて行ってもらいましたが、行き着く場所の思い出ではなく、私は、真面目なじいちゃんが道行く若い女性に『お姉さん! 今何時ね?』と熊本弁で声をかけたことを鮮明に覚えてます。なぜかというと、真面目で真っ直ぐなじいちゃんが、若い女性に声をかけるだなんて、と驚いたからです。ただ時間が知りたいだけの事だったんでしょうけどね。
 3つ目は、マッサージと就寝の時間厳守です。これも福岡の福間に孫が遊びにきても、6時半か7時半くらいか忘れましたが、必ず決まった時間には二階に上がり、マッサージのベッドでマッサージしてましたね。それから就寝するようで、朝まで下りてくることはありませんでした。孫が来ようが自分の決めた時間を守るじいちゃんでした。
 この3つ以外にもたくさんエピソードはあります、初孫として愛されていたことはパパさんの方が知ってるのではないでしょうか。福間の広い家に優しい笑顔で迎えてくれたじいちゃん。いつも笑顔で、親しみやすかったですね。結婚はまだかと手紙が来たり、冗談なのか分かりませんがもう諦めてなんて手紙が来たりしたものです。私の結婚式には喜んで参加してくれましたね。晩年は耳が遠いのもあったのか、あんまり思いを話せる事はなかったですが、手紙をたくさん頂きました。手紙を返す事が少なくすいません。
 真面目で2人の娘にも4人の孫にも、ばあちゃんにも愛されていたじいちゃん。みんな誇らしく思っています。最後は遺す言葉も伝えられず無念だったと思いますが、きっと私達の声は届いていて、私の休みに合わせて旅立ちましたね。最後まで人様に迷惑かけないように、真面目なじいちゃんらしいな思しました。本当にありがとうございました。私の子供達にもしっかり伝えていきます。」


 また次男ののんちゃん(大阪の病院に社員として勤務)も下記のような本田のじいちゃんについての思い出を書いています。なお彼は、鹿児島で産まれています。

「僕が小学校入るか入らないかだった頃、両親と兄と4人で鹿児島から福岡の福間まで在来線と特急電車に揺られて会いに行ったことをいまでも覚えています。当時で片道5時間くらい、普段の生活で電車に乗る機会がないので、それだけでわくわくしたものです。福間駅に着くとおじいちゃんとおばあちゃんが改札口に待っていてくれて、『よく来たねー』って本当に笑顔で喜んでくれたのが、いまでも忘れられない嬉しい思い出です。いま思えばこの時に、僕の中でのおじいちゃん、おばあちゃんっていうのは、離れていても温かくて優しい存在なんだなってことを強く認識させられたように思います。
 そんなおじいちゃんは、うる覚えですが自転車の後ろに僕を乗せて、買い物やプールに連れて行ってくれたような記憶があります。僕を楽しませるために家の近くを何度もぐるぐる回ってくれたときに、『じいちゃんこの道さっき通ったよ』って僕に突っ込まれたみたいで、そのことを晩年よく楽しそうに語ってくれました。
 鹿児島に帰省したときも、僕の同級生のプロ野球選手のことを話のきっかけにして、僕の仕事のことをとても気にかけてくれました。また戦時中のことなど話してくれました。どれにおいても忘れられない思い出です。
 最後に一つだけおじいちゃんに謝らないといけないことがあります。それは何回か手紙をもらったにもかかわらず、返事を書けなかったことです。ごめんなさい。もうおじいちゃんに返事は渡せないけど、心の中にいるおじいちゃんに感謝し、生きていきたいと思います。おじいちゃん本当にありがとう。」

 本田のおじいちゃん、本当にありがとうございました。真面目な勤め人であり、また優しい家庭人だったおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思いますよ。






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最終更新日  2016年12月14日 14時37分35秒
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2016年11月26日
カテゴリ:エッセイ
私が大学院修士課程2年生の冬の頃のことである。

 エス教授が専攻内の全院生6人を研究室に集め、にこやかな笑顔で「みなさんに嬉しいお知らせがあります」と話を切り出し、「教授会でみなさんと一緒に学んでいるエヌ君(博士課程2年生)が助手として採用されることになりました」と伝えたのである。エス教授としてはここでその場の院生たち全員から拍手が起こることを期待したはずであるが、ただ一人の拍手も起こらず、研究室内は水を打ったように靜まり返った。

 そのとき、研究室内の静寂を破ってその場に集まった院生としての第一声を発した人物がいた。誰あろう私がその人物であった。

「大変嬉しいお知らせだと思います。ただ本学の教員採用には学生の声も前もって聞いて決めると聞いていますが、教授会決定前に新たな教員採用人事について院生はなにも聞かされていませんでした。」

そのとき私はそんな疑問を呈したのである。当時、私は大学院生自治会の委員をしていたので、耳にしていた大学紛争当時に決められたという教員採用規約をその場の院生たちにただ伝えようとしただけであり、私の発言などに賛同の声などあがるまいと思っていたのだが、なんと院生から私に賛同する複数の声があがり、「それもそうですから、院生で相談させてもらいたい」ということになってしまった。そしてなんとなんと専攻内の院生の多数決で今回の教員人事で院生との話し合いを新たに持つまで無期限の大学院専攻内の授業ボイコットを行うことに決まってしまった。

 いま考えると、いやそのときも私自身は大学紛争時に決められたという教員人事にまだ学問的に未熟な学生の声も反映させるなんて学内規則には疑問を感じており、そんな学内規約などに賛同の声などあがるまいと思っていたのに、無期限授業ボイコットになってしまったのには驚いてしまった。こう言うのをなんと喩えたらいいのだろうか。「瓢箪から駒が出る」とか「籔をつついて蛇を出す」なんて言うのかな、それとも同じ「藪」なら「藪から棒」に物事が決まって慌てふためいたと言うべきか。そして私は言い出しっぺとしてエス教授の研究室にそのことを伝える役目まで仰せつかってしまった。

 温厚な人柄で学問一筋のエス教授は、私の報告を聞いて非常に困惑され大いに動揺されたようであったが、この老教授はなんとか「来週中に専攻内の院生のみなさんと教員とで話し合いを持ちましょう」との返事を下さった。

 さて、その一週間後、研究室に院生とエス教授、エス助教授、ケイ講師の教員3人が集まり、仕方が無いので私が先週と同じことをまた述べたのであるが、私が言い終わるやいなやエス助教授が大きな声で「馬鹿なことを言っちゃいけない!! 大学院生と言えどもまだ学問的には評価の定まらぬ学生身分だ。そんな諸君が大学の教員人事に口出しするもんじゃない」と一喝された。

 このエス助教授こそ、新進気鋭の研究者として私が専攻していた学問分野で高い評価を得ていた学者で、私もこの方から薫陶を受けようと志した先生であった。ただ残念ながら私が修士課程に入学した1年目には病気入院しておられ、2年生後期から大学院で演習を受け持たれ、院生各自が専攻分野で興味を持った論文の要約紹介を行い、私も発表の準備をしていた頃であった。

 私はそのとき平伏して「ハハーッ、誠におっしゃる通りでございます」と言うべきだったのだろうが、そのときは院生代表としての立場もあり、なんだかんだと理屈を付けて反論し、他の院生たちも気分を害して話し合いは物別れとなってしまった。

 専攻内の院生による授業ボイコットが一ヶ月近く続いた頃、博士課程の先輩がエス教授の言葉として「このままだと授業日数が足らなくなって、みんなの単位が出なくなることを心配しておられるよ」と私に伝えてくれたので、渡りに船と専攻内の全院生に集まってもらい、この授業ボイコットはなんとか終わりを告げたのであった。

 私たちを叱りつけたエス助教授は、その年の11月に43才で他界された。病名は閉塞性肝炎とのことであった。先生の葬儀や実家に帰られる奥さんのために書籍の後片付けのお手伝いをしたことが哀しい思い出としていまも記憶に残っている。





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最終更新日  2016年12月05日 18時35分34秒
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2016年11月18日
カテゴリ:エッセイ

今月の14日に義父の本田又雄が他界しました。享年90でした。
 
 義父の本田又雄は、1926年3月5日に米国カリフォルニア州サンタクララ郡に生まれましたが、熊本市で育ち、1951年に熊本県飽託郡に生まれた竹山英子と結婚しています。

 葬儀の喪主となった義母の挨拶文にはつぎのようなことが書かれてありました。
 

「旧電電公社で仕事に励んだ、温厚な夫でした。家族を支え、優しく子どもたちを導きました。運動会で親子リレーに出場したり娘に算数を教えたりしていた姿が胸に浮かびます。
 後年の夫は、テレビでスポーツ観戦を楽しむなど、穏やかに暮らしました。若い頃から続けていた囲碁は五段の腕前で、大会やトーナメント優勝していたものです。孫に慕われ、『真面目に仕事して、家族を守ったじいちゃんはすはごいね』と言われて微笑んでいました。(中略)今年五月に体をくずすも、リハビリに励んで初孫の結婚式に出席した夫。笑顔を輝かせていた様子が偲ばれ、別れの切なさがつのります・・・。今はただ、心からの感謝を伝え、かの地へと見送ります。(後略)」



 上の挨拶文に「リハビリに励んで初孫の結婚式に出席した夫」と書かれていますが、その「初孫」とは私の長男のことで、明石に勤務しているのですが、神戸で今年の7月2日に結婚式を挙げました。義父は可愛い初孫の晴れ姿を見るために車椅子に乗って鹿児島からはるばる神戸まで新幹線を使って結婚式に参列しました。そのときの嬉しそうな笑顔を思い出すとに胸にこみ上げてくるものがあります。私の長男も孫として晩年のおじいちゃんに素晴らしい思い出をプレゼントをしてくれました。おじいちゃん、本当にありがとうございました。すばらしいおじいちゃんの優しい笑顔は遺されたみんなの心にいつまでも残り続けることと思います






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最終更新日  2016年12月14日 14時28分10秒
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2016年10月27日
カテゴリ:田中一村
私は、2004年6月に鹿児島市の山形屋文化ホールで開催された「田中一村展」に鑑賞に出掛けたが、会場に入ると「富貴図」の衝立がどんと置いてあった。この絵は一村が1929年3月に衝立に描いたものだが、彼が従来描いていた南画の傾向とは異なり、その精緻な描写と濃密で華麗な彩色は、写意よりも写実を重んじる中国の院体画の影響を受けて描かれたもののように思われる。 しかし、円山応挙に有名な「孔雀牡丹図」があり、一村はどうも円山応挙のその絵から孔雀の姿を除き、太湖石と牡丹の配置を変えて写し取り、それを一村流にかなりデフォルメして描いたようにも思える。

 この「富貴図」の衝立画は、その一番手前に描かれた赤色の牡丹の花とその少し奥にある薄紫色の牡丹の花を斜めに寝かせる配置の仕方や、かなり形状をデフォルメして鮮やかな青色に彩色された太湖石の存在は予定調和的な絵画的構成を意図的に打ち壊そうとしており、一村が画家としての新境地を切り開こうとする意欲を強く感じさせるものがあった。しかし、残念ながら絵画的に成功しているとは言いがたい。 

 さらにこの「富貴図」の衝立画の裏に「竹と蘭」の水墨画が描かれているが、この水墨画には風雅さが欠けており、なんとも不気味である。そして、この水墨画の左上に楊炯の「幽蘭賦」の詩句全文が小さな字で画賛としてびっしりと書かれている。この衝立を一村はどのような精神状態のなかで描いたのであろうか、非常に気になるものがあった。

 それで、上海商務印書館から出版された四部叢刊集部所収の明刻本影印版『盈川集』を調べてみたところ、そこに楊炯の「幽蘭賦」が載っていた。この「幽蘭賦」は、「惟うに幽蘭の芳草、天地の純精を稟(さず)かり、青紫の奇色を抱き、竜虎の嘉名を挺(ぬ)く」と幽蘭(ひそやかにけだかく咲く蘭の花)の素晴らしさを讃えている。

 また大矢鞆音『田中一村 豊穣の奄美』(日本放送出版協会、2004年4月)は、世田谷郷土資料館の武田庸二郎氏がこの「幽蘭賦」 について、「楊烱はこの中で屈原の名を挙げており、全文にちりばめられた修辞は、屈原の『離騒』に似た表現がある」と指摘していることを紹介するとともに、また渡邊明義氏の『水墨画の鑑賞基礎知識』(一九九七年二月、至文堂) の一節に、「蘭は香草で、深林に生じ、辺に人無くとも芳香を発つ。このことから、君子の修道して徳を立て、困窮しても節を変えないことに喩えるのである。讒言に遇い、ついには汨羅に身を投じた、楚の忠臣屈原の『離騒』には蘭が度々登場し、祀りごとにも尊重された香草であるが、蘭を縄で結んで腰に帯びるようなこともあったのである。このことから蘭は遠く屈原を想うことに繋がるのである」との記載があると紹介している。

 確かに「幽蘭賦」中に「若夫霊均放逐」という詩句があり、この「霊均」とは屈原のことであり、彼の長編詩「離騒」で「余を字(あざな)して霊均と曰う」としている。また、「幽蘭賦」中の詩句「結芳蘭兮延佇」は、「離騒」の「結幽蘭而延佇」から採ったものであろう。

 さらに「含雨露之津潤、吸日月之休光」という詩句が出てくるが、これは魏の思想家で竹林の七賢の一人でもあった嵆康の「琴賦」中の詩句「含天地之醇和兮、吸日月之休光」から採ったものと思われる。なお、この人物はその批判精神が魏王朝で権勢を掌握していた司馬氏の憎悪の的とされ、死刑に処せられている。さらに、「幽蘭賦」には、「雖處幽林与窮谷、不以無人而不芳」(幽林と窮谷に處るといえども、人無きを以て芳しからざるとはせず)との句があり、これは『孔子家語』の「芝蘭生於深林、不以無人而不芳」から採ったものと思われる。

 この「幽蘭賦」には、自らが説いた政治理念を生前には為政者から採用されることなく各地を弟子たちと流浪した孔子、讒言を受けて放逐されて汨羅に身を投げた屈原、司馬氏の憎悪の的となって処刑された嵆康が隠されており、そんな「幽蘭賦」の作者の楊炯自身が則天武后打倒の企てに連座して左遷されたことのある人物であった。

 当時21歳の一村は、どのような思いからこの衝立の裏に「竹と蘭」の絵を描き、そこに画賛として「幽蘭賦」を書き込んだのであろうか。衝立の表の「富貴図」に描かれた奇怪な形をした青い太湖石から受ける印象も含めて考えるに、そのとき彼の心には「幽蘭賦」の最後に詠まれている様に、「鴻歸り鶯去りて紫莖歇(やす)み、露往き霜来たりて緑葉枯れ、秋風之一敗、蒿草とともに芻(か)らるるを悲しむ」(雁が歸り鶯去って紫色の蘭の茎が枯れ、露の季節が終わって霜が降りるころに緑の葉が枯れ、秋風がこれをヨモギとともに枯らしてしまうのは悲しいことだ)とするような寂寥感が存在していたのではなかろうか。この寂寥感は、画家としての才能に強い自負を持ちながらも、他方でこれまでの自分への画業への確信が揺らぎ始め、新たな境地を切り開こうと模索を開始したときに必然的に生じる不安と焦燥感に由来するものではなかろうか。

 なお上記のことは、拙サイト「やまももの部屋」の「田中一村の遊印」のつぎのページに詳しくアップしています。
   ↓
 http://yamamomo02.web.fc2.com/poem.htm





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最終更新日  2016年11月02日 23時03分26秒
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2016年10月21日
カテゴリ:田中一村
 1938年に一村は千葉市千葉寺に転居し、姉の喜美子、妹の房子、祖母のスエと生活することになり、奄美に移住するまで同地に20年間暮らすことになる。当時の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であり、一村はそれらの豊かな自然を対象に絵画制作にいそしんだのである。

 1941年に太平洋戦争が始まり、一村は1943年 船橋市の工場に板金工として徴用され、体調を崩して闘病生活に入ることになる。日本の敗戦直前になって一村の病もやっと癒えたが、その頃に彼は盛んに観音菩薩の像を描き始める。健康を回復し、また戦後の解放感のなかで一村の創作意欲は大いに燃え上がる。
 画家としてのアイデンティティを模索し、複雑にも重なり錯綜する山や川を越え、目指すべき路を見失って彷徨うことも幾たびかあったであろう一村であるが、戦後まもない1947年、宋の詩人・陸游が七言詩「遊山西村」で「山重なり水複なって 路無きかと疑えば 柳暗く花明かるく 又一村あり」と詠んだように目の前にぱっと明るい視界が広がったのである。その年、彼は「白い花」と題する日本画を描き上げるとともに、画号を一村と改めている。朝の陽光を受けて瑞々しい緑の葉のなかに無数の小さな花を咲かせるヤマボウシの清楚な姿を見事に描き上げたこの絵は、一村の最高傑作の一つに数えられるものであろう。
 私はこの「白い花」の絵の実物を鹿児島市立美術館で「田中一村 新たなる全貌」展(2010年10月5日~11月7日)で初めて見たのであるが、近くに寄ってよく見ると岩絵具で描かれた緑の葉がとても厚くこってりと塗られていることに意外な感じを受けた。しかし、かなり離れて見ると、朝の光を浴びたやまぼうしの葉とその白い花がとても清々しく爽やかに感じることができた。
 1947年、「白い花」を描いて以降、彼は画号を「一村」に改め、南画も再び描き始める。しかし、それらの南画には「倣蕪村」、「倣木米」、「倣鐵斎」といったように先達の作品を倣っているということを明確にしている。

 1953年には襖8枚に「花と軍鶏」という絵を描いており、岩絵具による筆遣いも「白い花」よりさらに洗練されたものになっている。この襖絵の軍鶏は一村の自画像と評されている。
 しかし、一村が本道と信じる道を歩いて目的の場所にたどり着くまでにさらに10年以上の歳月が必要だったようである。
 
 千葉時代は一村の絵画制作を考える上で重要な雌伏の時期と言えるが、無名の日本絵画の画家として経済的には非常に苦難の時期であった。
 中野惇夫「奄美に逝った孤高の画家、田中一村」(『季刊銀花』1992年春第八十九号)に1959年3月に一村が中島義貞氏宛てに書いたつぎのような手紙が掲載されている。
「東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」
 また千葉時代の田中一村の生活状況を知る上で、『田中一村作品集―NHK日曜美術館 黒潮の画譜』(日本放送出版協会、1985年8月20日)に掲載されている一村が岐阜の児玉勝利氏宛に書いたつぎのような内容の手紙の下書きがとても興味深い。なおこの手紙の下書きに奄美の「紬工場で五年働きました」とあることから、1967年頃に書かれたものと推測される。
「細工場で五年働きました。細絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最後の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。
 画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いています。一枚にニケ月位かゝり、三ケ年で二十枚はとてもできません。私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから……。
 千葉時代を思い出します。常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。
 私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の数人のともに見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから.....」

 一村のように「学閥と金と外交手腕」を持たない無名の画家は、千葉時代に姉の喜美子や岡田藤助氏等数人の友人たちの支援を受けながら、「常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された」としている。
 南日本新聞編『アダンの手帖  田中一村伝』には、「飢駆我」(飢え我を駆る)という遊印が一村にあり、それが陶淵明の「乞食」(こつじき)という詩の冒頭の「飢来駆我去」に由来していること、一村はその遊印を幾つかの絵に落款として押していることが書かれている。
 それで、陶淵明の「乞食」という詩のことを調べてみたところ、角川書店から「鑑賞 中国の古典」シリーズの第13巻として出された都留春雄・釜谷武志『陶淵明』(1988年5月)に「乞食(食を乞う)」の詩の原文とそれについての解説、口語訳が127頁~130頁に載っていることが分かった。参考のために、同書の陶淵明「乞食」の口語訳を下に紹介させてもらうことにする。
 食物がなくなってひもじくなると、いても立ってもいられずに家を出る。
 いったい自分はどこへ行くつもりなのか。
 歩いて歩いてこの村までやってきた。門をたたいて(食物を乞おうとするが)
 その言い方はまことにつたない。
 家の主人はわたしの気持ちを理解してくれて、物を恵んでくれた。
 ここまで来たかいがあったというものだ。
 話が弾んでいるうちに日が暮れ、出された酒は遠慮なく飲んだ。
 新しい友人ができたことを心から喜びうたって詩を作った。
 あの洗濯ばあさんのようなあなたの思にいたく感じ入るが、
 自分に韓信のような才能のないことを恥ずかしく思う。
 胸にしまった感謝の気持ちをどう表現すればいいのだろう。
 死後あの世からでも恩返しをせねばなるまい。
 
 なお『田中一村 新たなる全貌展図録』、2010年10月)に拠ると、1960年頃に描かれた色紙「紅梅丹頂図」にこの「飢駆我」の遊印が押印されているとのことである。このとき一村は、奄美から1960年 5月に岡田藤助氏の襖絵制作依頼を受けて千葉に戻っている。おそらく奄美でこの「飢駆我」の遊印を篆刻し、千葉に戻ったときに描いた色紙「紅梅丹頂図」に押印し、支援者の岡田藤助氏に贈呈したものと想像される。なお同上図録に「昭和30年代に描かれた色紙」として「マダラハタとフジブダイ」にも「飢駆我」が押印されていることが指摘されている。

 前掲書の南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』で中野惇夫は、遊印に「飢駆我」と彫った当時の一村の心境をつぎのように内在的に理解しようとしている。

「この陶淵明の『乞食』の詩を読むと、なぜか一村の気持ちが切々と伝わってくる。この詩に託して、自らの気持ちを、表していたと思われてならない。
故なく人の援助を受けることは、衿持が許さなかった。しかし絵を売らず、定収もなく、絵の探究を続けるには、不本意ながら人の恩を受けざるを得ない。人に受けた恩は、いつも心に重く負担となってのしかかった。絵かきとしての一村は、絵をかいて報いるよりほかに道はなかった。
千葉時代は、絵は売らなくとも、ささやかな恩に報いるために絵をずいぶんかいた。それがまた心の傷として残ったのではないか。いくつかの絵に『飢駆我』の落款が押してある。絵を受け取った側が、一村の意をどこまでくみとってくれたのか、いささか心もとない。」

 そうなのであろうか。勿論この「飢駆我」の遊印には支援者からこれまで援助を受けてきた画家の「心の傷」も刻み込まれていることは間違いなかろう。しかし、この「飢駆我」の遊印がいつ頃篆刻されたのかおおよその見当がついたとき、私はこの遊印に込められた一村の思いが分かったような気がした。前掲書の『田中一村 新たなる全貌展図録』(2010年10月)によると、この「飢駆我」の遊印は1960年頃に色紙に描かれた「紅梅丹頂図」に押印されているとのことである。

 1958年に奄美に渡った一村は、そのとき「絶対に素人の趣味なんかに妥協せず自分の良心が満足するまで練りぬく」(前掲の大矢鞆音『田中一村 豊饒の奄美』に引用されている1959年3月に奄美から千葉の知人に宛てられた手紙)ことを決意しており、支援者の経済的援助なしに独力で生活していくことを決意している。そう決意したとき、生計を立てるために支援者の個人的趣味に妥協に妥協を重ねて来たこれまでの自分を振り返りつつ、支援者たちからの非常な解放感を覚え、「飢駆我」の遊印を篆刻したのではなかろうか。

 一村は、50歳のとき住みなれた千葉から奄美大島に渡り、これまでとはまったく異なる自然と対峙して新たな美を創造することになるのであるが、それら奄美で描かれた作品は支援者の意向から解放された状況において創作されたものだということも忘れてはならない。
 





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最終更新日  2016年11月01日 15時48分16秒
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