手塚治虫は、私たちにたくさんのすばらしい夢を与え楽しませてくれました。そんな手塚治虫も1989年2月に胃ガンで亡くなっています。1928年11月生まれですから、還暦を迎える前に他界しているのですね。手塚治虫の他界後、彼を追悼するために様々な企画がなされ、また多数の作品、文章が発表されましたが、私の気持ちを一番よく表してくれていたのは矢口高雄の『ボクの手塚治虫』(毎日新聞社、1989年10月発行)でした。
矢口高雄といえば「釣りキチ三平」で有名な漫画家ですね。彼は1939年に秋田県平鹿郡増田町に生まれています。貧しい農家に生まれた矢口少年が初めて出合ったマンガは宮尾しげをの『西遊記』。全部暗記するほど繰り返し繰り返し読んで、すっかりマンガの虜(とりこ)になってしまいます。
そんなマンガ大好き少年に強い衝撃を与えたのが『流線型事件』というマンガでした。表紙の立体的で迫力のある絵を見たとたん、矢口少年は、「まるで自動車と正面衝突したようなショック」を覚え、さらにこの作品の絵の新鮮さ、都会的でスマートなキャラクター、実に科学的な内容にすっかり魅せられ、クライマックスのカーレスのシーンでは、車が「画面の奥からおらをめがけて飛び出してくるっ!!」と驚嘆したそうです。この『流線型事件』の作者が手塚治虫だったのです(なぜか、作者名の漢字に「てづかおさむし」とひらがなが振ってあったそうです)。
友人の家の遊びに行ったとき、便所に便所紙がわりに置いてあった「ジャングル大帝」をもむさぼり読むような矢口少年ですが、それが連載されている『漫画少年』を毎月買うお金がありません。でも、どうしても読みたい、なんとしても続きを読みたい。そこで彼は杉の樹皮を山の伐採現場から背負って運び出すアルバイトを始めます。一把5、6キロの重さ、それを2把背負いながら片道2、3キロの山の急勾配を膝をきしませて下りるという重労働を続けて『漫画少年』を買うお金を得るのです。そんな辛い思いをしても、でも彼は「ジャングルブック」が読みたかったのです。でも、こんな思いをして手に入れた「ジャングルブック」だからこそ、それをむさぼり読んでいるときの矢口少年は、おそらく世界で一番幸せな子供だったと思います。
矢口高雄は『ボクの手塚治虫』の最後を、「ありがとう手塚先生・・・・・」「安らかにお眠りください」と結んでいますが、それはまた全国の手塚治虫ファンの気持ちでもありました。
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