
めどうさん、こんばんは、やまももです。
昨日、福昌寺跡に行って来ました。私の自宅から市営バスに乗って上竜尾町の停留所まで行って、その後は玉龍高校、おっといまは中高一貫教育校となって中学校もありますから、その玉龍中学・高校の校舎をまずは目指して歩いていきました。福昌寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となっていますが、その広大な敷地に1951年になって玉龍高校の新校舎が建って現在に至っていますね。
20年ほど前に福昌寺跡の墓地を訪れたことがあるのですが、ほとんど道順を覚えておらず、途中で人に道を訊いてなんとか玉龍中学・高校の校舎の裏手(北側)にある福昌寺の小さな山門の前までたどり着くことが出来ました。さらに歩いていきますと黒い大きな鉄の門扉が見えて来て、その門扉の横に鹿児島市観光課が立てた福昌寺の案内板がありました。この案内板には「寺中常に千五百余人の修行僧あり」との見出しでつぎのような説明文が書かれてあり、さらにその下に『三国名勝図会』掲載の当時の福昌寺風景の図が添えてありました。
「寺の後方は山がせまり渓流が流れ、前面は広く平野が開ける。広大な寺域には大小様々な建物が並び、大きな回廊によってむすばれている」――藩政時代、領内の名所を紹介した「三国名勝図会」は、寺域として栄えたこの辺り一帯の景観を伝えています。
玉龍山福昌寺は1394年(応永元)島津一族の石屋真梁(せきおくしんりょう)禅師を開山に、島津家7代元久が建てて、代々島津藩主の菩提所となった寺院です。曹洞宗の流れをくみ,南九州一円の僧侶を支配する僧録所、さらには勅願所として、その末寺は九州はもとより、中国・四国にまで広がったといわれます。
総本山総持寺の管長までのぼった石屋禅師をはじめ、フランシスコ・ザビエルとの親交で知られる忍室(にんしつ)という和尚や西郷隆盛、大久保利通を悟した無参(むさん)和尚などの多くの名僧を出しましたが、1869年(明治2)の廃仏毀釈で廃寺となり、跡地は玉龍高校となりました。現在、法燈は北薩川内の地で守られています。
それで、鉄の門扉の脇門から中に入りますと、前面上方に広大な墓石群が左右に存在しているようなのですが、このままではどこにどのような墓があるのか見当も付きません。しかし、門扉の中のすぐ近くにつぎのような説明を添えた「福昌寺墓地配置図」が立てられていました。
「当墓地には島津歴代(六代〜二十八代)とその一族、並びに福昌寺歴代住職等の墓がございます。
初代から五代までの墓地は、鎌倉市西御門(初代)、鹿児島市清水町本立寺跡、鹿児島県出水郡野田町感応寺の三ケ所に、二十九代からの墓地は、当地の西方、常安峯(とこやすのみね)にございます。」
それで、幕末に積極的に殖産興業政策を推進した第二十八代藩主の斉彬の墓をその墓地配置図で確かめて墓参することにしました。斉彬は下級藩士の西郷隆盛を取り立て重用したことでも知られていますね。その斉彬の墓には大きな宝篋印塔が2基並んで立てられていました。おそらく斉彬とその正室である英姫(ふさひめ)のものと思われます。なお、英姫は一橋斉敦の四女とのことです。
では、左右のどちらが斉彬の宝篋印塔なのでしょうか。当時の日本の風習から考えれば右が斉彬の宝篋印塔で左が正室の宝篋印塔と思われます。念のためにそれぞれの宝篋印塔の側面を調べてみますと、左の宝篋印塔に「姫命」という文字が刻まれていました。こちらがおそらく正室の英姫の宝篋印塔なんでしょうね。
これだけのことで結構時間を費やしましたし、また島津藩政史については全くの素人ですので、福昌寺跡に立ち並ぶ墓石群からそれ以上なにをどう調べたらいいのか見当も付かず、その後は帰路に付くことにしました。
最終更新日
2006年12月17日 23時36分13秒