nyaru3915さん、こんばんは、やまももです。
玉龍の中高一貫校について、それを知られて驚かれ、また「教頭が私の恩師だって言うことで、さらに驚きました」と書いておられますね。恩師の先生は新設の中学校の教頭になられたのでしょうか。いずれにしても鹿児島県下で初めての公立の中高一貫校ですから、恩師の先生もいろいろ大変だと思います。
福昌寺跡の件では、「休み時間とかに墓に花をあげている人がいましたね」と書いておられますね。私が校舎の裏側を通ったときも、幾つかのお墓に花が添えてありましたが、玉龍の心優しい生徒さんたちが添えたものかもしれませんね。
それから、「ところで福昌寺跡の墓よりずっと上の方に登るとキリシタン墓がありますよ。そちらに行ったことはありますか?」とのご質問ですが、残念ながらまだ行っておりません。確かに福昌寺跡に行く途中で「キリシタン墓地」の存在を示す標識を目にしたのですが、かなりの坂道を登った上にあるようですね。私は、自分のブログ名を「ポンコツ山のタヌキの便り」とするぐらいの人間ですので、前回は福昌寺跡に行って斉彬の墓を見学するだけで精一杯でした。
この「キリシタン墓地」について、私は福昌寺跡に行くまでその存在も知りませんでした。それで、後でインターネットの検索エンジンで調べてみました。その結果判ったことなのですが、明治3年(1870年)の長崎でのキリスト教徒弾圧によって教徒が捕らえられ、そのなかの375人が鹿児島藩に預けられて旧福昌寺に収容され、明治6年(1873年)に許されて帰郷するまでに53人が他界しているのですね。その53人のキリスト教徒のお墓が「キリシタン墓地」にあるとのことですので、今度訪問するときにはぜひ同墓地にも行ってみたいと思っています。
なお、明治に入っての長崎でのキリスト教徒弾圧事件のことを「浦上崩れ」というそうです。それで、この事件のことを平凡社の『世界大百科事典』で調べてみましたら、「肥前国浦上村山里(長崎市)で起こった4回のキリシタン検挙事件。崩れとは検挙事件をいう」とあり、幕末から明治初期にかけて浦上で4回に渡って隠れキリシタンの発覚・検挙事件すなわち「浦上崩れ」が起こっているとのことです。鹿児島に送られてきたキリシタンたちは「浦上四番崩れ」のときに捕まった人たちでした。その「浦上四番崩れ」について、同事典はつぎのように解説しています。
「1867年(慶応3)勃発。信徒がキリシタン信仰を表明して寺請制度を拒否,68名が逮捕されたのに始まる。2年前大浦天主堂で再渡来した神父と出会い,表面仏教という潜伏態度を捨てたのである。ために幕府は異宗とせずキリシタン邪宗として取り扱い,信仰弾圧を外国公使団が抗議して外交問題化した。幕府倒壊後,明治政府もキリシタン禁制を掲げ,御前会議で浦上一村総流罪を決定,名古屋以西20藩に3384人を配流した。これを〈浦上教徒事件〉ともいう。1871年(明治4)米欧に向かった岩倉全権大使らは各国で信仰弾圧の非を説かれ,73年ようやくキリシタン禁制の高札を撤去した。信徒も釈放され事件は落着した。」
最終更新日
2006年12月27日 13時13分42秒