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ポンコツ山のタヌキの便り

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2007年03月29日
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カテゴリ:天璋院篤姫
 宮尾登美子の『天璋院篤姫』によりますと、慶応4年4月11日(1868年5月3日)の江戸城無血開城後(慶応4年4月11日1868年5月3日)、徳川家の処分が発表されたのが同年4月29日(1868年5月21日)とのことで、徳川家は田安慶頼の三男である亀之助が相続し、城域は駿府で禄高70万石と決定されたとのことでした。

 また、篤姫がこの徳川宗家を継いだ亀之助と初めて対面したときのことを同小説はつぎのように描いています。

「このとき亀之助は数え年六歳。まだ西も東も判らぬいたいけな童形だが、初めて対面した篤姫は宗家を継ぐのに十分の器量だと思った。羽織袴に威儀を正しているその姿をほれぼれと見やりながら、篤姫は心のうちで、亡き家茂の幼な顔をそれに重ねている自分に気がついている。」

 この亀之助は名を家達(いえさと)と改めますが、篤姫は新たに徳川宗家の屋敷となった千駄ヶ谷の家に移り、ここで家達の養育に没頭することになります。そして家達が10歳のとき、篤姫の強い希望もあって、彼は公家の近衛忠房の娘の泰子と婚約することになります。篤姫は、婚約当時まだ6歳の泰子を引き取り、徳川家の一門として立派に仕立て上げることにさらに専念します。なお、徳川家達について、平凡社の『世界大百科事典』にはつぎのように書かれています。

「徳川家第16代当主,政治家。田安慶頼の三男。明治維新後,徳川宗家を相続,1869年(明治2)版籍奉還により静岡藩知事となる。廃藩置県後,77年イギリスに留学,82年帰国し,84年公爵となる。90年議会開設とともに貴族院議員となり,1903年から33年まで議長を務める。」

 また、徳川宗家17代の家定の三女である保科順子が『花葵 徳川邸おもいで話』(毎日新聞社、1998年7月)に千駄ヶ谷の徳川邸の人々についての思い出話をまとめていますが、そこに天璋院の話も出てきます。

 同書では、天璋院が江戸城退去後に移り住んだ住居についてはつぎのように紹介しています。

「天璋院は千代田城開城後、いつたん一橋家に落ち着いたが、その後、築地の一橋下屋敷ね青山の紀州邸、尾州下屋敷の戸山邸と替わり、赤坂溜池に近い福吉町の旧相良越前守邸に移る。ここで静岡から戻った家達と暮らすことになるが、さらに明治十(一八七七)年新築の千駄ヶ谷徳川邸に移り、そこが終生の住まいとなった。」

 この千駄ヶ谷の徳川邸について同書は、「現在のJR千駄ヶ谷駅南側一帯で、鳩森神社(千駄ヶ谷八幡宮=江戸名所)辺りから原宿方面に延びた長方形の敷地である。家屋敷用の敷地の他に飛び地もあって、全体では十万坪を超えていた」と解説しており、この徳川邸に天璋院、実成院、本寿陰たちが移り住むことになったようです。

 また同書には、著者の保科順子が叔母の綾子、綏子にインタビューしたとき、彼女たちが母親の泰子たちから天璋院が「男勝りの方」「気性の勝った方」と聞いていたことや、さらには天璋院の命日である11月20日を「二十日(はつか)様」と呼んで、その日には天璋院の好物の白インゲンの甘煮、あんかけ豆腐、きがら茶のご膳を食べ、また川村清雄が描いた天璋院の油絵が掛けられたことが語られています。

 この川村清雄が描いた天璋院の油絵は、「江戸開府400年・江戸東京博物館開館10周年記念「徳川将軍家展」のホームページで見ることが出来ますが、その絵に添えられた解説には1884年とあり、天璋院死去後に完成した肖像画のようですね。






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最終更新日  2007年03月29日 19時23分54秒
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