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ポンコツ山のタヌキの便り

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2007年05月23日
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カテゴリ:天璋院篤姫
 私は、宮尾登美子の『天璋院篤姫』を読んでいますと、篤姫の生き方に「女大学」的な臭いを嗅ぎ取ってしまいました。もっとも、「女大学」なんて言いましても、いまの若い人の多くは知らないでしょうね。「女大学」とは女子大学のことではありませんよ。「女大学」について、平凡社の『世界大百科事典』にはつぎのような解説が載っています。

「江戸時代中期以降普及した女子教訓書。1716年(享保1)版《女大学宝箱》の本文が最古のもので,末尾に貝原益軒述とあるが,確証はない。彼の著作《和俗童子訓》(1710)巻五〈女子を教ゆるの法〉をもとにして書かれたものであろう。〈女は陰性(いんしよう)なり。故に女は男に比ぶるに,愚かにして目の前なる可然(しかるべき)ことをも知らず〉〈総じて婦人の道は,人に従うにあり〉という女性観に立ち,婚家先での嫁のとるべき態度を説く。夫および舅姑(きゆうこ)への服従を基本とし,〈婦人は別に主君なし。夫を主人と思い,敬い慎みて事(つか)うべし〉〈万のこと舅姑に問うて,其の教えに任すべし〉という。封建社会における家族制度を維持・強化していくための女子教育といえる。」

 私の母は大正生まれの人間ですが、その頃の女性としては珍しく高等教育を受けており、卒業後は教壇に立っていた人間なんですが、戦後になって男女平等が唱えられるようになっても、依然として女性たちがいろいろ不当な扱いを受けている現実に対していつも腹を立てていたものです。そして、そんな女性に対する不当差別について、子どもの私によく「まるで女大学ね」なんて言っていたものです。

 ところで、宮尾登美子の『天璋院篤姫』には、鳥羽伏見の戦いで勝利した新政府軍が江戸に迫ったとき、「江戸城内では天璋院を薩摩藩に引き渡して恩を売り、徳川家存続につなげようという動きがあった。この時、天璋院は『自分は徳川の人間だ。何の罪があって薩摩に戻すというのか。どうしてもというなら自害する』と、懐剣を手にし部屋に立てこもってしまった」とあり、それを勝海舟が三日かけて説得したとしています。

 これは実際にあった話で、『海舟語録』(講談社学術文庫、2004年10月)に、「慶喜殿が帰られた時」鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸に逃げ帰ったとき)のこととして、海舟がつぎのような回想を語っています。

「天璋院を薩摩に還すという説があったので、大変に不平で、『何の罪あって、里にお還しになるか、一歩でも、コヽは出ません、もし無理にお出しになれば自害する』というので、昼夜、懐剣を離さない。同じ年のお附きが六人あったが、それが亦、みな、一緒に自害するというので、少しも手出しが出来ん。」

 それで、勝海舟が一人で説得に行ったそうです。海舟は、このとき天璋院に、「アナ夕方が、自害だなどと仰しゃっても、私が飛込んで行って、そんな懐剣などは引たくります。造作は御座いませんよ」と言い、さらにそれでも自害するようだったら、「さうでンすか、ダガ、それでは甚だお気の毒ですが、私は名を挙げますと」と言い、「それはアナタ、天璋院が御自害を為されば、私だって、済みませんから、その傍で腹を切ります、すると、お気の毒ですが、心中とか何とか言われますよ」と言ったので、天璋院も思わず、「御じょう談を」と笑い出し、なんとか説得することができたそうです。

 篤姫は「女大学」的な儒教倫理に縛られていたため、嫁ぎ先の徳川家のために一生を尽くす覚悟でいたと思います。そんな彼女ですから、いまは徳川家の敵となった薩摩の実家におめおめ帰るなんてことはできっこありません。きっと「薩摩に還すという説」が出ること自体が非常に屈辱的なことだったと思いますよ。ですから彼女は激しく怒り、「もし無理にお出しになれば自害する」とまで言い出したのでしょう。

 そんな緊迫した状況の中で、上記のような表現で説得し、そのため彼女は思わず笑い出し、自害することを思い止まったというのですから、こんなことができる勝海舟という人は本当に大した人物ですね。儒教道徳によって心を閉ざし、自害まで考えた篤姫でしたが、そんな彼女の心をやんわりとときほぐしたのですから、勝海舟はもう一つの無血開城を行ったと言えますね。

 そんな型破りの勝海舟に篤姫は好意を持ったようです。明治維新後、彼女は勝海舟とよく市内を散策したそうで、前掲の『海舟語録』で海舟はつぎのように回想しています。

天埠院のお伴で、所々へ行つたよ。八百善にも二三度。向島の柳屋へも二度かネ。吉原にも、芸者屋にも行つて、みンな下情(かじょう)を見せたよ。だから、これで所々に芸者屋だの、色々の家を持つて居たよ。腹心の家がないと、困らあナ。私の姉と言つて、連れてあるいたのだが、女だから、立小便も出来ないから、所々に知つて知らぬふりをしてくれる家が無いと困るからノ。そのうち、段々と自分で考へて、アーコーと直きに自分で改革さしたよ。今では千駄ヶ谷は、角火鉢に銀瓶が掛つてるがネ。それは、船宿で便所をかりて出ると、そこに火鉢に鉄瓶が掛つて、湯が沸いてるので、お茶を一ツと言つて出したのが、大層うまかつて、『これはい1ものだ』と言つて、直きにさうしたのサ。その次に行つて見たら、チヤーンと鉄瓶が掛つてるから、『これは下司のすることです。銀瓶が沢山ありますのですから、これをお使ひなさい』と言つた。『イヤ、これが善い』などと言つたよ。柳屋に行つた時だツけ、風呂に入れたら、浴衣の単物を出したが、万事心持が違ふので、直きに又さうしたよ。一体は風呂の湯を別に沸して、羽二重でこすのだから。それに、着物もベタベタすると言つて、浴衣の方が好いなどと言ふやうになつた。シャツを見て、あれは何といふものだと聞いて、帰りに二ツ三ツ買つて帰つたら、直きにそれをしたよ。初めは、変だつたが、もう離せないといふやうになつた。ワシの家にも二三度来られたが、蝙蝠傘を杖にして来てネ、『どうも、日傘よりも好い』と言つた。そンな風に、万事自分で改革をした。こツちは、少しも関係しない。『それは、余りひどい』などと言つて、賞めて置くばかりサ。それで、ズーツと事が改つて来たよ。後には、自分で縫物もされるしネ、『大分上手になつたから、縫つて上げた』などと言つて、私にも羽織を一枚下すつたのを持つてるよ。三位は、さういふ風にして育てたから、大変に質素だよ。外に出る時でも、双子より外に着せはしなかつたのサ。」

 なんだかとてもいい話ですね。篤姫は勝海舟によって狭く閉ざされていた心をどんどん開城していったようですね。





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最終更新日  2007年05月24日 23時02分49秒
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