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ポンコツ山のタヌキの便り

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2008年11月18日
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カテゴリ:小松帯刀
よしさん、初めまして、やまももです。

 私は原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』の203頁~204頁を引用し、そこに書かれている小松、西郷、大久保の3人が薩摩藩のリーダとして相互に役割分担を担いながら「それが集団として大きなカになつて時代を動かすエネルギーになっていったのです」という指摘を紹介しました。

 しかし、またこの原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』の186頁~187頁には、つぎのようなことが書かれています。

「現に前に見たように、薩土盟約の約定書は、大政奉還、公儀政体の創出に向けた両藩の協力を謳っています。/この盟約締結に先駆けて、薩土が前項で述べたような討幕の密約を結んでいることは大いなる矛盾ですが、締約のほうは個々人の私的な会談という性格が強いので、やはり公式の薩土提携は薩土盟約です。/では、なぜ薩摩は、薩長同盟と路線の違う薩土盟約盟約を結んだのでしょうか。/それは、大久保、西郷らが無血革命は成功せず、事態は大政を奉還するだけの『倒幕』ではなく、武力で幕府勢力を壊滅する『倒幕』のほうに動くと踏んでいたからだと思われます。大政奉還が、武力をともなわない建白行動によって達成されるとは思ってもみなかったのです。/つまり、薩摩藩がこの盟約に期待したのは、来るべき武力討幕のときに備えるためでした。薩摩藩には、大政奉還建白の失敗がもたらすであろう局面打開ないし挙兵の機会と、土佐藩の武力援助等を期待して、いざというときに土佐藩の援助も得たいという思いがあったわけです。/そのための薩土盟約でしたが、西郷、大久保がはなから進言による大政奉還など実現Lないと踏んでいた一方、帯刀は、あくまでも最初は、その大目標を目指したと思われます。この点に、この三人の同志間にさえ微妙なずれが生ずるという、問題の難しさがうかがえます。」

 しかし、この原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』は、「三人の同志間にさえ微妙なずれが生ずるという、問題の難しさがうかがえます」と推測していますが、小松と西郷、大久保との間で明確な意見の対立があったとする史料的根拠はどこにも示されていません。

 それどころか、拙文「小松帯刀は西郷、大久保と意見が対立したのか? 」で紹介しましたように、慶喜が二条城で大政奉還慶の大会議を開き、小松帯刀がそれに賛同の意を表明する直前、薩長芸の3藩の会議が慶応3年10月8日(1867年11月3日)に開かれ、薩摩藩からは小松帯刀、西郷隆盛、大久保利通が会集し、武力による「政変」の決行を確認しただけでなく、同日の10月8日 小松、西郷、大久保3人の連名で、「国家の為に干戈(かんか;武器、戦い)以て其罪を討ち奸兇を掃攘し、王室恢復の大業相遂げたい」との願書を中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之宛てに出しているのですが、このようなことは原口泉著『龍馬を超えた男 小松帯刀』は触れていません。

 ですから、小松と西郷、大久保の間に生まれ育ちや現在の身分・立場上の違い等から微妙な心理面での違いがあったのではないかと勝手に想像することは可能かも知れませんが、史料に基づいて実証的に「意見の隔たりがあった」と言い切ることは難しいように判断するのですが、いかが思われますか。





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最終更新日  2008年11月19日 23時07分50秒
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