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カテゴリ:天璋院篤姫
今夜(11月23日)のNHK大河ドラマ「篤姫」第47回目は「大奥の使者」でした。
慶喜(平岳大)助命のために静寛院(堀北真希)と天璋院(宮崎あおい)は朝廷に宛てて嘆願書を書き、それをそれぞれ唐橋(高橋由美子)と土御門藤子(竹本聡子)に託します。天璋院の命を受けた唐橋は、近衛忠熙(春風亭小朝)を通じて嘆願書を朝廷に届けようとしますが、近衛忠熙の息子の近衛忠房は累が及ぶのを恐れて受け取ろうとしません。 しかし、唐橋はこの近衛家で幾島(松坂慶子)と会います。幾島は京で隠棲していたのですが、大奥からの使いが近衛家を訪れたと聞いてやって来たのでした。事情を知った幾島は小松帯刀(瑛太)の屋敷を訪れて薩摩の江戸攻め中止を頼みます。しかし、脚の痛みを堪えて鹿児島から京に来ていた小松帯刀も、江戸攻めの軍参謀となった西郷(小澤征悦)に会って江戸攻め反対の意思を伝えようとしていましたが、面会することさえ拒絶されていました。 幾島は小松帯刀に会いますが、西郷が江戸攻めの軍参謀となったこと、薩摩の家老である彼が面会を拒否されたことを知らされます。そして逆に幾島は、小松帯刀からつぎのような依頼を受けます。彼女が天璋院に会い、西郷を説き伏せるための手紙を書いてもらうように頼んでもらいたいというのです。 幾島は久しぶりに大奥で天璋院と再会し、小松帯刀から依頼された話を伝え、天璋院に西郷宛ての手紙を書いてもらいたいと要請するとともに、幾島自身がその書状を持って西郷説得に赴くことを願い出ます。 こうして天璋院は西郷に手紙を出すことになり、彼女は「慶喜の命を助け徳川家をお救いくださいますよう、御所へおとりなしくださいませんでしょうか。徳川家永続のためならば、私の命などどうなろうとかまいません。私は徳川の土となる覚悟です」といった主旨の嘆願書を西郷宛に書き、幾島を通じて西郷に渡すことになります。 この天璋院の手紙を西郷は涙を流して読みますが、自分の「徳川を倒さない限りこの国は変わらない」との思いは変わらぬと幾島に伝え、部下に3月15日に江戸城総攻撃を行うことを命じるのでした。 さて、今回のドラマはそれなりに面白かったですが、当然のことですが、いろいろ史実とは異なっていることがありました。 例えば、小松帯刀(瑛太)は西郷の江戸攻撃を止めようと懸命の努力をしていますが、勿論そんな史実はありません。では史実の小松帯刀はその頃、どんな動きをしていたのでしょうか。瀬野富吉『幻の宰相 小松帯刀伝』下巻(小松帯刀顕彰会、1985年7月)によりますと、小松帯刀は慶応3年10月26日(1867年11月21日)に西郷、大久保等と鹿児島に帰り、藩主父子に倒幕の密勅を示して率兵上洛を要請し、藩主忠義が3千の兵を率いて京に赴くことが決まりますが、小松身は同年11月に重患に罹って歩行も困難になり、鹿児島に残ることになります。しかし、慶応4年1月18日(1868年2月11日)になって、小松帯刀は久光の正月天機伺い(天皇への挨拶)の使者を兼ねて汽船で鹿児島を出発し、1月28日に朝廷に出仕しています。そして彼は徴士参与職に挙げられ、大政官総裁局顧問に任ぜら、さらに外国事務局判事を兼務させられます。そんな彼は、同年2月15日(1868年3月8日)に起こった土佐藩士によるフランス海軍の海兵刺殺事件(堺事件)、同年2月30日(1868年3月23日)に起こった英国公使行列斬込事件等の処理に奔走しています。 それから、天璋院が西郷に嘆願書を書いたのは史実ですが、拙ホームページ「宮尾登美子の『天璋院篤姫』と鹿児島」の「篤姫から西郷隆盛への嘆願書」で紹介しましたように、天璋院はその嘆願書で「当人(慶喜)はどのような天罰を受けてもそれは仕方のないことですが、徳川家そのものはとても大切な家柄であり、とにかく徳川家安堵のことを朝廷に頼んでもらいたいと思います。私は徳川家に嫁いだ以上、当家(徳川家)の土となるのは勿論のことでありますが、温恭院(徳川家定のこと)がすでに他界されているので、いまは亡き夫に替わって当家の安全をただ祈るばかりです。。しかし、自分の存命中に当家にもしものことがあれば、あの世で全く面目が立たず、そのことを思うと不安で日夜寝食も充分に取れず悲歎しています」と書いており、徳川家の存続は嘆願しながらも、慶喜助命のための嘆願などは行っていません。 それから、天璋院の西郷宛嘆願書を持参したのが幾島であることは最近明らかになり、そのことは今回のドラマにも活かされていましたが、鹿児島の地元紙「南日本新聞」2008年11月3日号に載った連載記事「御台所は薩摩人-篤姫さまお目見え」の「病身の幾島が“最後の奉公” 西郷へ手紙届ける」では、「当時六十一歳の幾島はその四年ほど前、病気で大奥を退いていた。だが、徳川家存亡の危機にあたり、“最後の奉公”にでたとみられている」としています。しかし、同記事は、この天璋院の「嘆願書は、(山岡鉄舟との会談で)徳川家存続へと傾きかけていた西郷の心を別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性をはらんでいた」との徳川記念財団の藤田英昭研究員の興味深い見解なども伝えています。それで、この「南日本新聞」2008年11月3日号の記事の一部も下に紹介しておきます。 「一八六八年三月十一日、嘆願状を携え江戸を出立した幾島は『歩行がむずかしい』状態だった(天璋院様御履歴)。/徳川記念財団の藤田英昭研究員によると、付き添いの女中七人や役人五人、漢方医も同行。天璋院からは『御くるミ御ふとん』が遣わされた。体を包む布団とみられ、病身の幾島はこれに横になったのかもしれない。西郷隆盛に面会した幾島は十三日、趣旨を伝えて同日江戸に戻った。/風聞書だが、二人が面会した様子を記した興味深い資料がある。西郷は嘆願に心を動かされ涙したが、天璋院に苦難を与える徳川慶喜に対し、怒りと討伐の意欲をかきたてられたという。徳川存続に穏便の処置を求めた嘆願の意をくまず、勘違いした西郷を目の当たりにした幾島は立腹し、刺し殺そうとしたらしい。/藤田研究員は『嘆願書は、(山岡鉄舟との会談で)徳川家存続へと傾きかけていた西郷の心を別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性をはらんでいた』と述べている。」 なお、この「南日本新聞」に紹介されました藤田英昭論文の見解は、東京、大阪、鹿児島で開催されました2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」で販売されました同展の図録(NHKプロモーション、2008年2月)掲載の「知られざる戊辰戦争期の天璋院」を要約したものですので、拙ブログに「天璋院の西郷宛嘆願書についての藤田英昭論文」と題して改めて詳しく紹介させてもらいます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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