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ポンコツ山のタヌキの便り

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2008年11月25日
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カテゴリ:天璋院篤姫
 2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」が東京(2月19日~4月6日:江戸東京博物館)、大阪(大阪歴史博物館:4月19日~6月1日)、鹿児島(9月6日~10月17日:鹿児島県歴史資料センター黎明館)で開催され、各会場で同展示会の図録(NHKプロモーション、2008年2月)も販売されました。

 その図録の178頁~181頁に徳川記念財団の藤田英昭研究員が執筆した「知られざる戊辰戦争期の天璋院」が載っており、幾島が老年のために歩行困難となって大奥から宿下がりしていたこと、そんな彼女が天璋院の命を受けて西郷隆盛に天璋院の嘆願書を手渡したこと、しかしこの天璋院の嘆願書は西郷の「慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった」かもしれない等の興味深いことが書かれています。それで、同論文の一部を紹介したいと思います。

 この藤田英昭論文によると、『静嶽公御年賦』(徳川宗家文書)所収の「天璋院様御履歴」に、慶応4年の「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」とあり、またこのつぼねを「薩州ヨリ御供致シ候人ニテ、老年二及ヒ歩行六ケ敷下宿致居候処、押テ出立」したものと記述していることから、「薩摩より天璋院に従い江戸に下向し、老年のため宿下がりをしていた人物といえば、幾島以外にはいない」と推定しています。そして、『興山公御年賦』(徳川宗家文書)の記述によると、この幾島と思われる女性には漢方医浅田宗伯(天璋院から絶大な信頼を受けて大奥の侍医となり、法眼に叙せられていた人物)が同行し、天璋院からは「御くるミ御ふとん」が遣わされたことから、「ただならぬ状態」にありながらも「無理を押して出掛け」て来たのであろうとしています。

 なお、同論文によると、幾島が出立した慶応4年3月11日より以前に、慶喜の直命により山岡鉄太郎が駿府滞陣中の西郷隆盛のもとへ派遣され、慶応4年3月9日に西郷と会談し、「慶喜の備前藩御預け、江戸城明け渡しなど七か条の降伏条件が揃えば、家名存続は保証するという西郷の言質を取って」から翌日に帰府していたとし、「このような徳川家にとって有利な環境が整うなかで、天璋院の使者として幾島は出立したことを記憶しておきたい」と指摘しています。

 そしてこの藤田英昭論文は、「では、天璋院の徳川家名存続を願う気持ちは薩摩藩隊長、なかでも西郷に届いたのであろうか」と天璋院の嘆願書の果たした役割に疑問を提起し、肥後藩の風聞探索書(『肥後藩国事史料』8巻所収の「一新録探索書」)のつぎのような記述を紹介しています。

「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しッヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致居たる処、此一言にて忽チ立腹、心頭より怒気発し、既ニサヽントしたりと、右女使附添之者自ら咄Lたりと云」

 藤田英昭論文は、この肥後藩の風聞探索書の記述からつぎのような見解を示しています。

 「歎願書に接した西郷は、天璋院の苦労を察して涙を禁じ得なかったという。天璋院の書状に西郷は心を動かされたのである。しかしあろうことか、天璋院の意とは別に、慶喜の所業に心労を重ねる天璋院を憐れみ、慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった。/確かに歎願書の前半には、『(慶喜は)私(天璋院)之心底に応し不申』『いか様成る不忠致候哉』など、慶喜に批判的な文言が綴られている。どうやら西郷は天璋院の本願である家名相続よりも、天璋院を苦しめる慶喜を排除しなければならない、と気持ちを高ぶらせていったようである。ある意味、情に厚い西郷の本領発揮とでもいうべきか。だが、これでは天璋院の本意を汲んではいない。女使(幾島)は、西郷の態度に立腹し、刺殺に及ぼうとしたともいう。/こうしてみると、天璋院の歎願書は、山岡との会談によって徳川家名存続へと傾きかけていた西郷の心を、別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性もはらんでいたことになろうか。もちろん、これは天璋院の真意ではなかったが、単に徳川家名相続に影響を与えた歎願書というだけではなく、多様な政治的意義も併せ持っていたということを考慮する必要があるだろう。」





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最終更新日  2008年11月27日 19時43分49秒
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