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カテゴリ:落語
立川談志師匠が2011年11月21日に喉頭ガンのため75歳で亡くなりました。マスコミやネットの世界では師匠の死を悼み、「心よりご冥福をお祈りいたします」との声が溢れています。しかし、私は従来から談志師匠の生き方に疑問を感じていましたので、この機会に談志師匠への個人的見解も出しておきたいと思います 私は子どもの頃はよくラジオで三遊亭円生、三遊亭金馬、古今亭志ん生、桂文楽等の昭和の名人と称される噺家の落語を聴いて楽しんでいました。その後、テレビの時代となり、いつのまにか自分にとって落語は縁遠い存在となって行きました。ですから、全盛期の立川談志師匠の噺もあまり聴いたことはなありません。ただ、私が若い頃に談志師匠が『現代落語論』(三一新書、1965年)を出し、それが世間で評判になったので購読し、子どもの頃に慣れ親しんだ落語の噺の多くが上方落語から由来していることや落後世界の噺の内容に対して認識を新たにするなど、学ぶことが多々ありました。 全盛期の立川談志師匠の噺を私はあまり聴いたことがありません。ただ、人から聞いた話に拠りますと、若い頃の談志師匠はその巧みな話術と自分の言葉で当意即妙に対応できる能力からラジオやテレビで大いに人気を博し、寄席ばかりでなく多数のキャバレーにも出て稼ぎまくったそうで、また文才もあるので、あちらこちらの新聞や雑誌のコラムに文章も書きまくり、一躍マスコミの寵児となったそうです。 しかし、談志師匠は1997年に食道癌となり、さらに喉頭癌にも侵され、それ以降にテレビでたまに目にする声のかすれた師匠の老いた姿には痛々しいものがあり、いろんな対談に出て放言高論する師匠の発言内容もお世辞にもウィットに富んだセンスのあるものとは思えませんでした。なにか本人がイライラしている感じがストレートに出ており、聴いていてあまり楽しいものではありませんでした。このイライラの原因について、喉をやられた上に体力的な老いも感じるようになり、思うように話せないことから来るものだろうと私は推測していました。 2011年11月26日土曜日に放送されたTBS系「情報7days ニュースキャスター」で、ビートたけしが談志師匠の死去に触れて、「本人はイライラしていると思う。談志さんの時代自体が、古典落語に合う時代じゃなかった」と発言していましたが、談志師匠のイライラの原因が、喉や老い等の肉体的原因だけでなく、師匠の愛する古典落語がいまの時代に合わなくなっていると感じていたことを指摘しているのだと思いました。
柳家小三治師匠は、談志師匠の訃報に接した思いをいろいろ語っていますが、体調を崩した後も復帰後に高座に上がり続けた姿に対し、「亡くなってみると悲壮な姿だったとも言えるんですけれども、亡くならないときにそれを聞いたときは、彼としての意地を全うしているな、と思って悲壮な感じはしなかったですね。それをちゃんとお客さんに見せることによって、客も納得させているって言うひとつの、談志流の生き方ですね」とコメントし、「あと身近な者として考えれば、わがまま、勝手好き放題にやったもんだということでしょうかね。それが天才であるという印なのかしらね」とも言っています。 また、「改めて落語界にとってどういう人だったと思いますか」との質問に、「存在としては、大きい人だったんじゃないんでしょうか。ないんでしょうか、というのは多少投げやりっぽい言い方ですが、それは絶対的なものとは言えないというところがありますよね。それはあの人があまりにも個性が強かったというか、自分の好む形以外は認めなかったって言う人でしたから。あの人もいい、この人もいい、っていう考え方はできなかった人ですから」と談志師匠の狭量さに鋭い批判も加えています。この談志師匠の狭量さが落語世界に新たに生まれている豊かな可能性を柔軟に受け止められず、あれも駄目、これもダメと否定し、広がりつつある落語の受け入れ土壌にも目を向けず、自らストレスを増大させていたのかもしれませんね。 例えば、立川志らく師匠の『落語進化論』(新潮新書、2011年6月)に談志師匠が柳家喬太郎師匠の高座を聴いて「ひきずり降ろせ}と怒り出し、噺の途中なのに前座に太鼓を叩かせて強制終了させたエピソードが紹介されています。志らく師匠の解釈によりますと、どうも談志師匠は喬太郎師匠の噺に「江戸の風」が吹いていないと感じたからなのだろうということなのですが、私は談志師匠のそんな余りにも狭量で傲慢なやり方に怒りを覚えました。 また小三治師匠は、「あの人ははなし家としては最高に才覚を持っている人ですよ、すばらしい才能を持っている人ですよ。ただ、私としては、そうですねー、議員なんかにならなきゃ良かったと思うけど。でもあの人はそういうことが目的で生きていたとも言えるんです。権力にあこがれていた人ですからね。そのために三遊協会分裂のもとを作ったのはあの人ですよ。ねえ、それから、結局は落語協会を飛び出して、立川流とかっていう、家元とかっていう名前を自分でつけたわけで、誰も周りがいったわけじゃねえのに。そういうところもあの人らしいなあって。苦笑いをして見て来たわけです」とコメントし、強い権力慾の持ち主であることも指摘しています。 談志師匠は、なにかの噺のまくらで人間は物欲、金銭欲、食欲、色欲、名声欲、権勢欲等々のかたまりだ、すなわち業のかたまりだといったことを指摘していたと思うのですが、談志師匠ももちろんそのような業のかたまりであることは当然のことですね。しかし、そんな人間らしい業のかたまりとしての自分自身を客観視し、飄々と笑い飛ばすところに芸人魂の真骨頂があると思うのですが、テレビに映し出される晩年の師匠の姿にはそれが非常に希薄になっていたように思われました。若いころには開拓者精神が旺盛だった人物が老いることにより守旧派、老害と成り果て、その人が本来持っている人間的弱点をどんどん露呈させ肥大化させていくことが多いようですが、談志師匠もまたその例外ではないように思われました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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やまももさん クマタツです。
落語のことを知らない私に立川談志師匠のことを論じる資格はありませんが、やまももさんのこの文章を拝見して私が何気なく感じていた談志師匠に対する何かもやもやしたものが、すぅーと無くなったような気がします。 というのは、私は彼の落語を聞いたこともありませんが、テレビで見る場面だけで言いますと、死者に鞭打つようで恐縮ですが、日ごろから「唯我独尊」(あくまでも私の感じていたことです)のあの態度にはへきへきしていました。 鹿児島弁で言えば、「なますかん」(私流の解釈でいえば、「何かはっきりしないが好きになれない」)人だなあと思っていました。 談志師匠お許しください。 (2011年11月29日 21時46分41秒)
クマタツさん、こんばんは、やまももです。
立川談志師匠が亡くなり、師匠を絶賛し、その死を悼む声が溢れていますね。しかし、師匠の生き方に疑問を持っていた私としては、死者に鞭打つようだとは思いながらも敢えて批判的な声を挙げようと思いました。 クマタツさんも日ごろから「唯我独尊」のあの態度にへきへきされていたとのことで、鹿児島弁で言えば、「なますかん」人だなあと思っておられたとのこと、結構こういう思いや意見の人も多いのかもしれませんね。いはっきりまは絶賛の声に埋もれてしまっていますが、やはり疑問の声も表明しておく必要がありますね。 (2011年11月29日 22時33分26秒)
はじめまして。
全く同じ事を思ってました。スッキリです。 小三冶師のコメントも本質に少し触れてくださっているなーと思ったものの『誰かもっとバッサリ斬ってよ』と心の声がさけんでおりました。 喬太郎師のエピソード初めて知りました。 亡くなった事でますます落語の天才になってしまうんでしょうか。 京須さんあたりにきっちり書いてほしいものです。 (2011年11月30日 10時07分10秒)
はじめまして
人さまのブログにコメントなどするのはおこがましくてめったにしないのですが失礼いたします・・ 談志さんの「神格化」(?)について疑問を禁じ得ない者のひとりとして同じ気持ちをお伝えしたくてコメントさせていただきました。 私としては立川談志さんの印象は、さまざまな時代背景の中で「落語という芸能」が受け継がれてきている中の「ひと時代」を彩った一噺家として多くの人の耳目を集めた「時代の生んだ寵児」であった・・唯一それだけで、普遍的な意味での功績も影響力もないように感じております。 噺家は落語論で自己主張・自己表現するよりもいかに楽しい時間をそこまで足を運んだ聴く側に提供してくれるか・・そこが木戸銭を払って時間を割いて落語を聴きにいく客の立場からの唯一の評価基準になると思います。 コメントを寄せておられるみなさま含めクマタツさまのおかげで私もモヤモヤが晴れました。ありがとうございます。 (2011年11月30日 11時32分26秒)
春日局さん
>はじめまして > >人さまのブログにコメントなどするのはおこがましくてめったにしないのですが失礼いたします・・ > >談志さんの「神格化」(?)について疑問を禁じ得ない者のひとりとして同じ気持ちをお伝えしたくてコメントさせていただきました。 > >私としては立川談志さんの印象は、さまざまな時代背景の中で「落語という芸能」が受け継がれてきている中の「ひと時代」を彩った一噺家として多くの人の耳目を集めた「時代の生んだ寵児」であった・・唯一それだけで、普遍的な意味での功績も影響力もないように感じております。 > >噺家は落語論で自己主張・自己表現するよりもいかに楽しい時間をそこまで足を運んだ聴く側に提供してくれるか・・そこが木戸銭を払って時間を割いて落語を聴きにいく客の立場からの唯一の評価基準になると思います。 > >コメントを寄せておられるみなさま含めクマタツさまのおかげで私もモヤモヤが晴れました。ありがとうございます。 ----- すみません、やまももさま。 ニックネームを「クマタツ」さまと間違えました(汗) 訂正して読みかえてくださいませ・・ (2011年11月30日 11時37分03秒)
普通の落語ファンさん、はじめまして、やまももです。
談志師匠が死去したことが報じられて、テレビ等のマスコミが談志師匠を「落語の天才」として一斉に賛美していることに疑問を持ち、同じ噺家であり、5代目柳家小さんのもとで修行を積んだ兄弟弟子でもある柳家小三治師匠の世間一般の論調に抗しての的確な談志批判に勇気づけられて今回の拙文をアップいたしました。 普通の落語ファンさんは「全く同じ事を思ってました。スッキリです」と書いてくださり、柳家小三治師匠のコメントに「本質に少し触れてくださっているなーと思ったものの『誰かもっとバッサリ斬ってよ』と心の声がさけんでおりました」とのことですが、潜在的にかなり多くの人が談志師匠の言動に従来から疑問を持っておられたようですね。 拙文は、そのような人々から少しは賛同を得られるものになったのかなと喜んでおります。 (2011年11月30日 18時49分39秒)
春日局さん、はじめまして、やまももです。
春日局さん、「私もモヤモヤが晴れました。ありがとうございます」とのコメントをいただき大いに喜んでおります。また、「談志さんの『神格化』(?)について疑問を禁じ得ない者のひとりとして同じ気持ちをお伝えしたくてコメントさせていただきました」とのこと、わざわざのコメント、本当にありがとうございました。 なお、春日局さんは「立川談志さんの印象は、さまざまな時代背景の中で『落語という芸能』が受け継がれてきている中の『ひと時代』を彩った一噺家として多くの人の耳目を集めた『時代の生んだ寵児』であった・・唯一それだけで、普遍的な意味での功績も影響力もないように感じております」と的確な批評をされておられますね。なお、談志師匠が「時代の生んだ寵児」であることについて、私としてもやはりきちんと評価すべきだと思いました。その点について後日またこのブログに書き込みたいと思っています。 また春日局さんは、「噺家は落語論で自己主張・自己表現するよりもいかに楽しい時間をそこまで足を運んだ聴く側に提供してくれるか・・そこが木戸銭を払って時間を割いて落語を聴きにいく客の立場からの唯一の評価基準になると思います」ともコメントされていますね。本当にそうだと思います。例えば柳家小三治師匠の独演会に参加しますと、会場全体にのどかな雰囲気が漂い、とても贅沢な時間を過ごしていることを実感させられます。 では、熱狂的な談志師匠のファンは本当に心からくつろいで師匠の噺を楽しんでいたのでしょうか。師匠のファンの声もぜひ聞いてみたいですね。 (2011年11月30日 19時03分49秒)
やまもも2968さん
御丁重な返信ありがとうございました。 ~柳家小三治師匠の独演会~ 私が先に「噺家の評価(値打ち)は、いかに楽しい時間をそこまで足を運んだ聴く側に提供してくれるか・・」ということを生意気にも書いてしまいましたが、それを認識させてもらったのは、小三治師匠の噺を聴きに行くようになってからなんです(笑) まだ師匠の独演会や出演されてる寄席に足を運ぶようになって5,6年ですが、やまももさんのおっしゃるように「会場全体にのどかな雰囲気が漂い、とても贅沢な時間を過ごしていることを実感させられます。」に全く同感です。 ですから、まくらの内容も演目も正直なんでもいいんです(笑) なんとも云えない心やすらぐ可笑し味と人間の温かさが伝わってくる空気感を共有できる幸せな時間です。 落語は「人間の業の肯定」という表現をされている談志さん。それはある意味で真実かな?と思いますが、ただその表現としての「業」という言葉には幾分重々しさや暗さを感じてしまいます。 私自身は落語世界の登場人物には「人間の楽天性や逞しさ」を教えられます。ことに小三治師匠の噺には一層その色合いを濃く感じて「人間賛歌」のような明るさが立ちのぼってくるようです。 噺家にとっては闘いの高座であっても、聴く側にとってはあくまで娯楽であるのが落語だと思います。 過度な押し付けがましさはいただけません(笑)演者さんからの解説やリクツもほどほどに・・がありがたいですね。 やまももさんの疑問「熱狂的な談志師匠のファンは本当に心からくつろいで師匠の噺を楽しんでいたのでしょうか。師匠のファンの声もぜひ聞いてみたいですね。」 ホントに聞いてみたいですねぇ。 でもこれは聴く側の人間の人生観とか価値観の違いになるかもですね。 長文失礼いたしました。 (2011年12月01日 12時52分20秒)
春日局さん、こんばんは、やまももです。
春日局さんが「噺家の評価(値打ち)」についてのコメントされたとき、それは小三治師匠の噺をイメージされてのものだったですね。偶然の一致ですがとても嬉しいですね。 ところで、「『業』という言葉には幾分重々しさや暗さを感じてしまいます」ともコメントしておられますね。 それで、gooの国語辞典で「業(ごう)」を引きますと、「理性によって制御できない心の働き」とあります。 また談志師匠自身は『談志 最後の落語論』(梧桐書院、2009年11月)でつぎのように述べています。 「寄ってたかって『人間を一人前にする』という理由で教育され、社会に阻み込まれるが、当然それを嫌がる奴も出てくる。曰ク、不良だ、親不孝だ、世間知らずだ、立川談志だ、とこうなる。 それらを落語は見事に認めている。それどころか、常識とも非常識ともつかない、それ以前の人間の心の奥の、ドロドロした、まるでまとまらないモノまで、時には肯定している。それが談志のいう『落語』であり、『落語とは、人間の業の肯定である』ということであります。 『なら、いいこと、立派なことをするのも業ですネ』と言われれば、『そうだろう』ではあるものの、そっちの業は、どっかで胡散臭い。」 まあ、落語世界の「業」とは世間で肯定的に評価されるものよりマイナス評価されがちなものを指すことになるでしょうね。物欲、金銭欲、食欲、色欲、名声欲、権勢欲かさらには浮気心、嫉妬心や怠けたい、見栄を張りたい、威張りたい等々であり、人間というものは結局みんな程度の差はあれそんなものに囚われているのさと軽やかに笑い飛ばすところに落語の真髄があるように思います。 (2011年12月01日 20時02分00秒) |