|
カテゴリ:ドラマ「マッサン」とウイスキー
コンコンきつねさん、こんにちは、鳥井信治郎が進学した大阪商業学校についてのとても興味深い御指摘に感謝いたします。
まず初めに、私が「寿屋創立者の鳥井信治郎が進学した大阪商業学校とは」と題してブログに載せた拙論に対する誤解があるようですので、その誤解を解かせてもらいたいと思います。コンコンきつねさんは、やまももが鳥井信治郎の進学先の大阪商業学校が「結論的には大阪市立大学では」としていると考えられたようですね。 しかし、この長文の拙論の目的はネット内に拡散している鳥井信治郎の進学先を「大阪商業学校(現・大阪市立大学)」とする説に疑問を呈し、結論として、「『大阪商業学校』をルーツとする学校(より前に遡ると「大阪商業講習所」になりますが)として大阪市立大学以外にもう一つ学校があるんですよ。その学校とは大阪市立天王寺商業高等学校のことです」というものでした。 ただ、コンコンきつねさんがパソコンで「近代デジタルライブラリー 大阪府誌 第四編」の299コマから230コマに載っている「私学 大阪商業高校」の説明から、同私学が「明治廿三年六月に至り生徒増加して校舎狭隘を告げしかば更に北区梅田出入橋畔に移転し」とあることを見つけられ、森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』中の「鳥井信治郎年譜」の鳥井信治郎が入学した大阪商業学校の所在地「北区梅田出入橋」と同じことから、「大阪商業学校」とは私学の「大阪商業学校」のことであり、現在の大商学園高等学校ではないかと指摘されていることには一理あるように思います。学校の所在地からそう判断されたのですね。 ただ、市立大阪商業学校も以前は西区江戸堀南通にあったのですが、信治郎少年が大阪商業学校に進学したという1890年(明治23年)から2年後の1892年(明治25年)に北区堂島浜通2丁目に移転しており、この新校舎の所在地も北区梅田出入橋畔付近にあったんですよ。ですから森杉久英が『鳥居信治郎伝 美酒一代』で大阪商業学校の当時の所在地の西区江戸堀南通と移転後の北区梅田出入橋とを混同して書いた可能性は大いにあり得ると思います。しかし、1909年(明治42年)の「北の大火」でこの堂島校舎は全焼し、1911年(明治44年)に南区天王寺鳥ケ辻に校舎移転しています。 所在地だけでは、鳥井信治郎の進学した「大阪商業学校」(実際は同校附設の甲種商業学校だろうと推測しています)が公立なのか私立なのか判断に迷うところですが、山口瞳・開高健『やってみなはれ みとくんなはれ』(新潮文庫)掲載の山口瞳「星雲の志について──小説・鳥井信治郎──」という寿屋の戦前の社史の71頁に鳥井信治郎の学歴について「二十年四月、北大江小学校に入学した。その小学校へは一年通っただけで、翌年には高等小学校に入学している。成績はよいが腕白者でもあったようだ」としています。 また森杉久英の『鳥居信治郎伝 美酒一代』(新潮文庫)では、信治郎は明治20年(1887年)に東区島町の北大江小学校に入学し、「翌年の四月には、彼は尋常科四年を飛び越えで、高等科に編入されたという」とありますから、学校の成績は優秀だったに違いありません。 当時の大阪では成績の良い子弟の進学先は一般に公立学校だったようです。親も余程の特殊事情がない限り新たに設立されたばかりの私立学校より10年前に設立された公立学校に行かせたかったでしょう。また、同校に進学した信治郎も初めから丁稚奉公するつもりではなかったようですが、父親の忠兵衛が彼の長男の喜蔵に家業の米屋を継がせた後、次男の信治郎を大阪商業学校から中退させて丁稚奉公に出しています。 前掲の森杉久英『鳥居信治郎伝 美酒一代』によると、明治初年の大阪では、子どもを将来立派な商人に仕立てるには、早くから丁稚に出して下積みの苦労や実地体験をさせることが賢いことだとされていたとしています。次男を進学先から中退させた大阪商人の鳥井忠兵衛のことですから、次男の最初の進学先としては新設の私立学校ではなく公立学校をまず選んだであろうと推測するのですが、これはあくまでも私の勝手な推測でしかありません。なんとか確証を得たいものだと思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年07月14日 14時40分20秒
コメント(0) | コメントを書く
[ドラマ「マッサン」とウイスキー] カテゴリの最新記事
|