|
カテゴリ:やまももの創作短編
内川さんが就職して職場の独身寮に住んでいた頃のことである。
寮の夕食も終わり、個室で待っていると、おいでなすった、ピンポーンと呼び出し音が鳴りました。ドアを開けるとやはり桃畠一二三(ひふみ)さんでした。愛嬌のある笑顔で右手の親指と人差し指で輪を作ってグイと酒をひっかけるマネをして「今日も行きませんか」といつものようにお誘いです。それで内川さんは桃畠さんと一緒に近くの居酒屋に出掛けて行きました。 内川さんが職場の独身寮に住んで一年後に桃畠さんも入寮して来ました。入寮の挨拶に来た桃畠さんの話だと、桃畠さんは内川さんより一歳年下の東京生まれとのことでした。堅物の内川さんと違い、桃畠さんは大学生の頃から飲み屋街のネオンの色に染まっていたようで、すぐ内川さんを近くの居酒屋に誘うようになりました。 正直言って内川さんには慣れない居酒屋行きなんか迷惑な話だったんですが、桃畠さんは全く気にする風もなく内川さんを週末になると必ずと言っていいほど居酒屋に誘い、内川さんもそんな週末の居酒屋通いが結構楽しくなりました。 近所の国道沿いにある居酒屋に赤提灯が点っていましたが、内川さんは桃畠さんといわゆる赤提灯談義といわれるような職場の噂話などはほとんどしませんでした。雄弁な桃畠さんがもっぱら文学論を語り、内川さんがほぼ聞き役に徹していたのですが、二人の波長は合っていたようです。しかし内川さんは内心思うのでした、なんで自分のような堅物を誘うのだろうかと。 居酒屋では、桃畠さんはなかなか雄弁でしたが、また都会人らしいスマートさで自説に固執するようなことはありませんでした。しかし桃畠さんが高く評価するオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」や森鴎外の「安部一族」について、内川さんがいまいちその良さがよく分からないと正直に言ったとき、桃畠さんは「うーん、内川さんならそうでしょうね。残念ですがまだまだ成長が足らないようですね」などと言って内川さんを苦笑させたものです。しかしこんな辛辣な表現も桃畠さんの口から出るととても愛嬌があって憎めませんでした。 しかし、くどいようですが、どうして桃畠さんは内川さんのようななんの面白味もない堅物人間を居酒屋に誘い続けたのでしょうか。もしかしたら内川さんの田舎町出身らしい朴訥さや愚直さが東京生まれの桃畠さんを安心させたのかもしれませんね。 桃畠さんは彼個人の滑稽な失敗譚をよく酒の肴にしていました。職場の勤務時間終了後、グラウンドでソフトボールのキャッチボール練習をしていたら、フライを取るにはじっと飛球から目を離さずにいることが大切だと教えられ、その通りにして顔を上げ続けていたら目ん玉にもろに大きなボールが当たってしまったというような話で、二人で大笑いしたものです。しかし、内川さんは太宰治の「人間失格」で道化を演じる主人公に「ワザ、ワザ」と声を掛けた竹一少年の気持にもなったものでした。 桃畠さんの出身高校は当時全国屈指の超難関校の都立日比谷とのことでしたから、幼い頃から成績抜群の「できる」子どもだったに違いありません。幸か幸か内川さんはそんな「できる」子どもではありませんから、桃畠さんの滑稽な失敗譚を聞いても内川さんの竹一少年的側面が邪魔をしてどうしても心から笑えませんでした。 内川さんは内心やはり思うのでした、なんで自分のような人間を誘うのだろうかと。えらくしつこいですね。でもね、内川さんが疑問に思うのも仕方がないんですよ。内川さんには中学校進学以降ただ一人も親友がいなかったのですよ。内川さんには赤い夕陽に染められた校舎で声を弾ませながら熱く未来を語り合うようなクラスメイトなど一人もいなかったのです。ただ書物だけが親しく語り合う相手だったのです。そんな内川さんにとって、居酒屋に遠慮なくいつも誘い掛けてくる桃畠さんにはいささか戸惑いを感じました。でもそんな内川さんだからこそ、桃畠さんは彼に敏感に同類のにおいを嗅ぎ取っていたのかもしれませんね。 内川さんと桃畠さんとの居酒屋の付き合いが一年近く続いたある夕方のことです。桃畠さんがいま付き合っている女性が自分の部屋を訪れるから、内川さんも部屋に来てくれないかと真剣な顔で言うのです。彼の部屋には同じ独身寮の住人が三人すでに呼ばれており、その女性が来ると桃畠さんは子どもの頃に習ったというバイオリンをやおら取り出して弾き始めました。 前にもに桃畠さんからそのバイオリンの音色を聴かされたことがありますが、お世辞にも上手とは言えませんでした。下手なバイオリンは「ギーコ、ギーコ」とノコギリで木を切るような音がしますね。ちょっと酷い譬えですが、桃畠さんのバイオリンはそんな感じでした。桃畠さんは彼女の前でバイオリンを弾き出しましたが、音楽にはさっぱり疎い内山さんには曲名も分からず、彼には失礼でしたがその場で大笑いしてしまいました。そこにいた他の三人もつられて笑い出したものです。しかし彼女は最後まで黙って静かに聴いていました。内川さんの心にも「ワザ、ワザ」という竹一少年の声は聞こえませんでした。 桃畠さんはなんで付き合い始めた相手に下手なバイオリンを聴かせたかったのでしょう。後で知ったことですが、桃畠さんは知人の奥さんの紹介で彼女との交際が始まったそうです。桃畠さんはきっと結婚を決意したとき、釣書にすまし顔でお利口さんに収まっているような自分ではなく「本当の自分」をさらけだしたかったのでしょう。バイオリンは下手だけれど、ありのままの自分をさらけ出す姿を見てもらいたかったのでしょう。そして彼女も、最後まで懸命に弾き続ける彼の姿に感動したに違いありません。 その後、しばらくして内川さんは桃畠さんからその女性と結婚することになったと告げられました。桃畠さんは独身寮から出て行き、もちろん内川さんの居酒屋通いにも終止符が打たれました。 桃畠さんとは彼が他の職場を移ったこともあり、その後は年賀状の遣り取りぐらいしか交流がありませんでしたが、10年前に桃畠家から訃報が届きました。年齢は内川さんより1歳年下ですから57歳で他界したことになります。内川さんは最近嗜むようになったウイスキーの水割りグラスの氷の音を静かに聴きながら、桃畠さんの早世理由がお酒の飲み過ぎと関連しているのかもしれないなどと考え、酔いが回って目の縁をほんのりと紅くしていた桃畠さんの愛嬌のある笑顔を懐かしく思い出すのでした。 2015年7月18日 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2015年08月05日 23時07分02秒
コメント(0) | コメントを書く
[やまももの創作短編] カテゴリの最新記事
|