1528209 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

ポンコツ山のタヌキの便り

ポンコツ山のタヌキの便り

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

カテゴリ

キーワードサーチ

▼キーワード検索

プロフィール

やまもも2968

やまもも2968

カレンダー

バックナンバー

2024年04月
2024年03月
2024年02月
2024年01月
2023年12月

サイド自由欄

設定されていません。

日記/記事の投稿

コメント新着

 さとし@ Re[2]:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) 昔の子供さんへ ?その後の文章ないですか…
 夕陽のOBです@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) なんか懐かしくなって、夕陽ヶ丘セツルメ…
 南日本リビング新聞社@ Re:天文館の唯一の映画館の最後の日(10/11) こちらの写真を新聞で掲載させていただき…
 昔の子供@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) 懐かしいです、昔のお兄さんたちに会いた…
 昔の子供@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) 偶然この文章読みました、まさにその当時…
 安渓 遊地@ Re:武部利男先生と漢詩の中国音読み(04/01) やまもも様 吉川幸次郎先生(と武部先生)…
 安渓 遊地@ Re[1]:武部利夫先生と漢詩の中国音読み(06/05) やまももさんへ 武部先生の漢文は、3年間…
 通りすがり@ Re:夕陽丘セツルメントの思い出(06/17) こんにちは。 ここの大学のOBです。 同…
 鹿児島の還暦じじい@ Re:鹿児島弁の「おいどん」は一人称複数!?(12/24) おいどんの記事興味深く読ませていただき…
 やまもも@ Re:武部利夫先生と漢詩の中国音読み(06/05) mastanさん、ご質問に気がつかず、返事が…
2016年04月10日
XML
カテゴリ:映画鑑賞
 私は、奈良市に生まれ育った団塊世代の人間です。団塊世代は戦後の「焼け跡」に生まれているのですが、この「焼け跡」という表現は単なる常套句や象徴的表現ではなく、実際にそう感じさせる風景が幼い私の目の前に無造作にさらけ出されていました。私のふるさとの小さな町である奈良市は幸い戦災に遭ってはいませんが、街のお寺や神社の軒下には戦災で家を焼け出された人たちがまだ沢山寝起きをしていました。私鉄に乗って長いトンネルを越えて隣の大阪の街に入ると、瓦礫と化したコンクリートと無数の折れ曲がった鉄筋で構成される無惨な廃墟跡が鉄道沿線に延々と続いていました。

 こんな戦後の焼け跡生まれの私の幼い頃の思い出を織り成す重要なものとして、シンチューグン(進駐軍)の兵隊と映画があります。身体の大きい彼らは、小さな黒い眼のメアリーさんたちを小脇に抱えるようにして私のふるさとの町のメイン通りである三条通り等をよく闊歩していました。

 私が幼い頃、映画館の前の座席はよくシンチューグンの兵隊さんたちと黒い眼のメアリーさんたちで占められていました。シンチューグンがアッハッハと大笑いして、それからちょっと間をおいて後ろの座席の日本人観客たちがどっと笑っていたのがとても印象的でした。シンチューグンは英語のセリフを耳で聴いて笑い、日本人観客はスクリーンの字幕を読んで笑うため、このようなタイムラグが生じたのです。ジェリー・ルイスとディーン・マーチンのコンビが水兵役を演じるドタバタ喜劇映画には沢山のシンチューグンが詰めかけ、彼らの爆笑が館内に渦巻きましたが、私も彼らと一緒にキャッキャと大笑いして見ていたものでした。

 シンチューグンのことは、私が物心ついた幼い頃の思い出としてのみ残っていますが、映画の方は、私の子ども時代の全ての時期を通じて数多くの懐かしい思い出を残しています。私が幼い頃は、映画のストーリーなど全く分かりませんでしたが、画面が動くというただそれだけのことで目はスクリーンに釘付けとなり、眼前に繰り広げられる見知らぬ世界に幼い胸をわくわくさせたものでした。

 私が子どもの頃、映画は娯楽の王様でした。映画の人気がピークに達した1958年には、日本の映画人口が11億2745万人にもなったそうです。当時の人口が9178万人ですから、なんと一人当たり年間に12回以上映画館に足を運んだ計算になります。私の家庭もその例外ではありませんでした。私の両親は給料の安い共稼ぎの教師夫婦でしたから、家族旅行など夢のまた夢でしたが、映画だけはほぼ毎月1回見に出かけたものです。奈良東映(東映系)、友楽会館大劇場(大映系)、南都劇場(日活系)、尾花劇場(松竹)、有楽座(新東宝系)、奈良セントラル劇場(洋画系)、有楽会館洋劇場、電気館などの映画館があり、映画の帰りには東向き商店街の上海楼という中華料理屋さんに立ち寄り、ワンタンをよく食べたものです。その頃、外食なんてめったにしませんから、家族でお店に入ってワンタンを食べるという「晴れやかな行為」は、私にはものすごく贅沢なことのように思われました。

 母は芸術性の高いものが好きでした。そのお陰で、「自転車泥棒」「禁じられた遊び」「旅情」「エデンの東」「居酒屋」「河の女」「道」「鉄道員」などを子供時代に見ることができました。邦画では、「七人の侍」「夫婦善哉」「新平家物語」などを見ることができました。特に「七人の侍」は、なかなか画面に出てこない野武士がとても不気味で恐かったですね。また、母が「夫婦善哉」の森繁久弥の演技をえらく誉めていたことが記憶に強く残っています。

 両親はまた、幼い私のためにディズニー映画が上映されるといつも連れていってくれました。「白雪姫」「不思議の国のアリス」「ダンボ」「ファンタジア」「ピーターパン」「わんわん物語」など、みんな懐かしい名前ですね。母が「ファンタジア」を見終わった後、「日本の人たちが耐乏生活を強いられていたときに、アメリカではこんな素晴らしい映画を作っていたのね」とため息混じりに言った言葉がとても印象的でした。ところで、ディズニーの「ピノキオ」だけは、それを見に行く予定の日に私は高熱を出したために見ていません。そのとき、私は、熱にうなされながら、「ピノキオを見たい、見たい」と泣いたものです。私は、ジフテリアに罹ってしまったのです。

 映画を平均して毎月1本は見ていた我が家でしたが、ところが1950年代中頃からテレビの普及とともに映画人口は急速に減り続け、映画館から潮を引くように人々の足は遠のいて行きました。我が家も例外ではありませんでした。テレビが家庭にはいるようになってから、全く映画館に足を運ばなくなりました。

 手許にある『昭和史全記録』(1989年、毎日新聞社)は、各年度事に封切られた主な映画の題名をリストアップしているのですが、我が家では1957年には「喜びも悲しみも幾年月」、「戦場にかける橋」、「追想」」「道」など10作品も見ていますが、翌年の1958年には「十戒」、1959年には「尼僧物語」、1960年には「チャップリンの独裁者」、「五つの銅貨」ぐらいしか見ておらず、そして、さらに1961年になると、なんと見た映画が1本もないのです。

  おや、待てよ、私の家にテレビ受像機が入ったのは、私が中学校に入学した時のことで、世間がミッチーブームに沸いた1959年(昭和34年)4月10日の皇太子結婚の儀頃でしたから、私の家族の映画鑑賞の回数が1958年以降激減したのはテレビが主原因だとは思えません。我が家に何があったのでしょうか。うーん、その頃に父の浮気が発覚し、小学校高学年になった私の成績もガタ落ちしたものでした。

 その後、私自身は、学生時代も社会人となっても、映画館に熱心に通うことようなことはなく、よほど話題になった映画だけをたまに観るぐらいになってしまいました。








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2016年04月15日 15時58分31秒
コメント(0) | コメントを書く
[映画鑑賞] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.