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ポンコツ山のタヌキの便り

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2016年10月21日
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カテゴリ:田中一村
 1938年に一村は千葉市千葉寺に転居し、姉の喜美子、妹の房子、祖母のスエと生活することになり、奄美に移住するまで同地に20年間暮らすことになる。当時の千葉寺は、田園が広がり、竹薮や杉、栗の樹木が生い茂る自然豊かな農村地帯であり、一村はそれらの豊かな自然を対象に絵画制作にいそしんだのである。

 1941年に太平洋戦争が始まり、一村は1943年 船橋市の工場に板金工として徴用され、体調を崩して闘病生活に入ることになる。日本の敗戦直前になって一村の病もやっと癒えたが、その頃に彼は盛んに観音菩薩の像を描き始める。健康を回復し、また戦後の解放感のなかで一村の創作意欲は大いに燃え上がる。
 画家としてのアイデンティティを模索し、複雑にも重なり錯綜する山や川を越え、目指すべき路を見失って彷徨うことも幾たびかあったであろう一村であるが、戦後まもない1947年、宋の詩人・陸游が七言詩「遊山西村」で「山重なり水複なって 路無きかと疑えば 柳暗く花明かるく 又一村あり」と詠んだように目の前にぱっと明るい視界が広がったのである。その年、彼は「白い花」と題する日本画を描き上げるとともに、画号を一村と改めている。朝の陽光を受けて瑞々しい緑の葉のなかに無数の小さな花を咲かせるヤマボウシの清楚な姿を見事に描き上げたこの絵は、一村の最高傑作の一つに数えられるものであろう。
 私はこの「白い花」の絵の実物を鹿児島市立美術館で「田中一村 新たなる全貌」展(2010年10月5日~11月7日)で初めて見たのであるが、近くに寄ってよく見ると岩絵具で描かれた緑の葉がとても厚くこってりと塗られていることに意外な感じを受けた。しかし、かなり離れて見ると、朝の光を浴びたやまぼうしの葉とその白い花がとても清々しく爽やかに感じることができた。
 1947年、「白い花」を描いて以降、彼は画号を「一村」に改め、南画も再び描き始める。しかし、それらの南画には「倣蕪村」、「倣木米」、「倣鐵斎」といったように先達の作品を倣っているということを明確にしている。

 1953年には襖8枚に「花と軍鶏」という絵を描いており、岩絵具による筆遣いも「白い花」よりさらに洗練されたものになっている。この襖絵の軍鶏は一村の自画像と評されている。
 しかし、一村が本道と信じる道を歩いて目的の場所にたどり着くまでにさらに10年以上の歳月が必要だったようである。
 
 千葉時代は一村の絵画制作を考える上で重要な雌伏の時期と言えるが、無名の日本絵画の画家として経済的には非常に苦難の時期であった。
 中野惇夫「奄美に逝った孤高の画家、田中一村」(『季刊銀花』1992年春第八十九号)に1959年3月に一村が中島義貞氏宛てに書いたつぎのような手紙が掲載されている。
「東京で地位を獲得している画家は、皆資産家の師弟か、優れた外交手段の所有者です。絵の実力だけでは、決して世間の地位は得られません。学閥と金と外交手腕です。私にはその何れもありません、絵の実力だけです。」
 また千葉時代の田中一村の生活状況を知る上で、『田中一村作品集―NHK日曜美術館 黒潮の画譜』(日本放送出版協会、1985年8月20日)に掲載されている一村が岐阜の児玉勝利氏宛に書いたつぎのような内容の手紙の下書きがとても興味深い。なおこの手紙の下書きに奄美の「紬工場で五年働きました」とあることから、1967年頃に書かれたものと推測される。
「細工場で五年働きました。細絹染色工は極めて低賃金です。工場一の働き者と云われる程働いて六十万円貯金しました。そして、去年、今年、来年と三年間に90%を注ぎこんで私のゑかきの一生の最後の繪を描きつつある次第です。何の念い残すところもないまでに描くつもりです。
 画壇の趨勢も見て下さる人々の鑑識の程度なども一切顧慮せず只自分の良心の納得行くまで描いています。一枚にニケ月位かゝり、三ケ年で二十枚はとてもできません。私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティであろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であるとも邪道であるとも何と批評されても私は満足なのです。それは見せる為に描いたのではなく私の良心を納得させる為にやったのですから……。
 千葉時代を思い出します。常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された。
 私の今度の繪を最も見せたい第一の人は、私の為にその生涯を私に捧げてくれた私の姉、それから五十五年の繪の友であった川村様。それも又詮方なし。個展は岡田先生と尊下と柳沢様と外数人の千葉の数人のともに見て頂ければ十分なのでございます。私の千葉に別れの挨拶なのでございますから.....」

 一村のように「学閥と金と外交手腕」を持たない無名の画家は、千葉時代に姉の喜美子や岡田藤助氏等数人の友人たちの支援を受けながら、「常に飢に駆り立てられて心にもない繪をパンの為に描き稀に良心的に描いたものは却って批難された」としている。
 南日本新聞編『アダンの手帖  田中一村伝』には、「飢駆我」(飢え我を駆る)という遊印が一村にあり、それが陶淵明の「乞食」(こつじき)という詩の冒頭の「飢来駆我去」に由来していること、一村はその遊印を幾つかの絵に落款として押していることが書かれている。
 それで、陶淵明の「乞食」という詩のことを調べてみたところ、角川書店から「鑑賞 中国の古典」シリーズの第13巻として出された都留春雄・釜谷武志『陶淵明』(1988年5月)に「乞食(食を乞う)」の詩の原文とそれについての解説、口語訳が127頁~130頁に載っていることが分かった。参考のために、同書の陶淵明「乞食」の口語訳を下に紹介させてもらうことにする。
 食物がなくなってひもじくなると、いても立ってもいられずに家を出る。
 いったい自分はどこへ行くつもりなのか。
 歩いて歩いてこの村までやってきた。門をたたいて(食物を乞おうとするが)
 その言い方はまことにつたない。
 家の主人はわたしの気持ちを理解してくれて、物を恵んでくれた。
 ここまで来たかいがあったというものだ。
 話が弾んでいるうちに日が暮れ、出された酒は遠慮なく飲んだ。
 新しい友人ができたことを心から喜びうたって詩を作った。
 あの洗濯ばあさんのようなあなたの思にいたく感じ入るが、
 自分に韓信のような才能のないことを恥ずかしく思う。
 胸にしまった感謝の気持ちをどう表現すればいいのだろう。
 死後あの世からでも恩返しをせねばなるまい。
 
 なお『田中一村 新たなる全貌展図録』、2010年10月)に拠ると、1960年頃に描かれた色紙「紅梅丹頂図」にこの「飢駆我」の遊印が押印されているとのことである。このとき一村は、奄美から1960年 5月に岡田藤助氏の襖絵制作依頼を受けて千葉に戻っている。おそらく奄美でこの「飢駆我」の遊印を篆刻し、千葉に戻ったときに描いた色紙「紅梅丹頂図」に押印し、支援者の岡田藤助氏に贈呈したものと想像される。なお同上図録に「昭和30年代に描かれた色紙」として「マダラハタとフジブダイ」にも「飢駆我」が押印されていることが指摘されている。

 前掲書の南日本新聞編『アダンの画帖 田中一村伝』で中野惇夫は、遊印に「飢駆我」と彫った当時の一村の心境をつぎのように内在的に理解しようとしている。

「この陶淵明の『乞食』の詩を読むと、なぜか一村の気持ちが切々と伝わってくる。この詩に託して、自らの気持ちを、表していたと思われてならない。
故なく人の援助を受けることは、衿持が許さなかった。しかし絵を売らず、定収もなく、絵の探究を続けるには、不本意ながら人の恩を受けざるを得ない。人に受けた恩は、いつも心に重く負担となってのしかかった。絵かきとしての一村は、絵をかいて報いるよりほかに道はなかった。
千葉時代は、絵は売らなくとも、ささやかな恩に報いるために絵をずいぶんかいた。それがまた心の傷として残ったのではないか。いくつかの絵に『飢駆我』の落款が押してある。絵を受け取った側が、一村の意をどこまでくみとってくれたのか、いささか心もとない。」

 そうなのであろうか。勿論この「飢駆我」の遊印には支援者からこれまで援助を受けてきた画家の「心の傷」も刻み込まれていることは間違いなかろう。しかし、この「飢駆我」の遊印がいつ頃篆刻されたのかおおよその見当がついたとき、私はこの遊印に込められた一村の思いが分かったような気がした。前掲書の『田中一村 新たなる全貌展図録』(2010年10月)によると、この「飢駆我」の遊印は1960年頃に色紙に描かれた「紅梅丹頂図」に押印されているとのことである。

 1958年に奄美に渡った一村は、そのとき「絶対に素人の趣味なんかに妥協せず自分の良心が満足するまで練りぬく」(前掲の大矢鞆音『田中一村 豊饒の奄美』に引用されている1959年3月に奄美から千葉の知人に宛てられた手紙)ことを決意しており、支援者の経済的援助なしに独力で生活していくことを決意している。そう決意したとき、生計を立てるために支援者の個人的趣味に妥協に妥協を重ねて来たこれまでの自分を振り返りつつ、支援者たちからの非常な解放感を覚え、「飢駆我」の遊印を篆刻したのではなかろうか。

 一村は、50歳のとき住みなれた千葉から奄美大島に渡り、これまでとはまったく異なる自然と対峙して新たな美を創造することになるのであるが、それら奄美で描かれた作品は支援者の意向から解放された状況において創作されたものだということも忘れてはならない。
 





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最終更新日  2016年11月01日 15時48分16秒
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