村田沙耶香『コンビニ人間』を読む
私にとって在職時代はコンビニはあまり縁の無い存在でした。ところが退職後、健康のために家から歩いて買い物に行くことが多くなりました。近いコンビニで片道0.53キロ、6分、遠いコンビニで片道0.7キロ8分程度ですが、この程度の散歩でも心肥大による息切れ症状が随分と改善されたようです。 ところで、今回の芥川賞に村田沙耶香「コンビニ人間」が受賞したと報道され、書店で文藝春秋社から発売された単行本が目に入りましたので早速購入することにしました。 主人公の古倉恵子(36才)はコンビニアルバイト歴18年という女性ですが、幼い頃から「普通じゃない子」と見做され、なにかと世間との不具合を感じながら生きてきました。そんな彼女が学生時代にバイトで始めたコンビニで、同じ制服を着て均一な店員としてマニュアル通りに働く生き方に「社会の部品」としてはまり、「普通の人間」として生きる安心感を覚えます。 そんな彼女の18年間のコンビニ生活に波風を立てたのが新たにバイトに入った白羽という貧相な体つきの36才の男性です。彼はコンビ店員たちを「底辺のやつらばっかりだ」と見下しますが、彼自身はコンビニの仕事がまともに出来ず、すぐに首になってしまいます。 そんな白羽という人物は、なにかというといまの現代社会も縄文時代となにも本質は変わらないと言い、「いつからこんなに世界が間違っているのか調べたくて、歴史書を読んだ。明治、江戸、平安、いくら遡っても、世界は間違ったままだった。縄文時代まで遡っても!」「僕ほそれで気が付いたんだ。この世界は、縄文時代と変わってないんですよ。ムラのためにならない人間は削除されていく。狩りをしない男に、子供を産まない女。現代社会だ、個人主義だといいながら、ムラに所属しようとしない人間は、干渉され、無理強いされ、最終的にはムラから追放されるんだ」「この世は現代社会の皮をかぶった縄文時代なんですよ。大きな獲物を捕ってくる、力の強い男に女が群がり、村一番の美女が嫁いでいく。狩りに参加しなかったり、参加しても力が弱くて役立たないような男は見下される。構図はまったく変わってないんだ」と主張します。 現代社会は縄文時代論を唱える白羽は、突然批判の矛先を古倉に向けます。「古倉さんは、何でそんなに平然としているんですか。自分が恥ずかしくないんですか?」「バイトのまま、パパアになってもう嫁の貴い手もないでしょう。あんたみたいなの、処女でも中古ですよ。薄汚い。縄文時代だったら、子供も産めない年増の女が、結婚もせずムラをうろうろしてるようなものですよ。ムラのお荷物でしかない。俺は男だからまだ盛り返せるけれど、古倉さんはもうどうしようもないじゃないですか」。 白羽は、このように自分を苦しめている陳腐な縄文時代論と同じ価値観で古倉を批判し、いまは機能不全社会だから自分は不当な扱いを受けているとする典型的な「ルサンチマン」(優越者に対して心が憎悪、ねたみで満たされている)人間です。そんな白羽は ネット企業のアイデアに投資してくれる相手がいれば必ず成功するし、ムラの強者になり、女たちがすぐ寄って来ると主張するような頭のなかに古い蜘蛛の巣がいまも張り巡らされているようななんともつまらない人間です。そして三十代半ばなのに定職に就かずにいる自分はムラから異物として弾き飛ばされていると嘆くのです。 しかし、こんな白羽の「セクハラ発言」に「普通の女性」ならら血相を変えて怒り狂い抗議するでしょうが、なんと古倉恵子は平静な顔をして「白羽さんと違って、私はいろんなことがどうでもいいんです。特に自分の意思がないので、ムラの方針があるならそれに従うのも平気だというだけなので」と言い、白羽がいま住んでいる家を家賃滞納で追い出されかかっていると聞いて、彼を強引に自分の家に連れて行きます。古倉恵子の「普通でない」対応に驚愕させられます。 こうして古倉恵子と白羽の愛情関係などこれっぽっちもない奇妙な「同棲生活」が始まるのですからビックリギョーテンさせられます。さらにこの 村田沙耶香の『コンビニ人間』という小説のすごいところは、古倉恵子の周辺の人々が、これまで彼女を「あちら側の人間」として異物扱いしていたのに、男と同棲していると聞いただけで「こちらの人間」として仲間扱いをはじめ、土足で足を踏み込んで来て、白羽の言う「縄文時代」の人間の価値観を曝け出す後半部分です。白羽は露骨に「現代は縄文時代と本質的に変わっていない」と主張し、おそらく読者の多くは白羽を奇妙でいやなヤツだと思われるでしょうが、「普通の人々」の心にもいまも存在する縄文時代的価値観の根強さをこの作品は明らかにしようとしているようですね。