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☆ 清朝に学ぶ中央集権の脆弱性 ------------- kinny さん
ーーー言うまでもなく武昌起義(反乱)は辛亥革命の口火となった事件である。 中国とは、大いに回り道をして今なお回り道半ばの大国だが、その最初で最大 の大回りは、この革命を招くに到るまで肥大に次ぐ肥大を重ねた中央集権制で あった。 この蜂起=反乱が発生するまでに、清は三度にわたるチャンスを得ていた。 一度目は洋務運動といわれる内部からの改革であり、二度目は康有為らと光緒 帝による戊戌変法であり、最後のチャンスが欽定憲法大綱による立憲君主制の 施行である。 はじめの洋務運動は、機構改革ではなく、当時の政府の体制をほとんど維持し たまま近代的な手法やルールを取り入れることで対応していこうという、一種 の体制内改革である。これは戦後の日本でいえば土光臨調にあたる。 中曽根行革が一定の成果を収めたのと同様、この洋務運動も手っ取り早く成果 が出た。軍備の近代化で列強を遠慮させるようになったし、国内的にも一時、 国威の回復がみられた。 が、やがて事態が落ち着いてくると、まさに数年で旧態を呈するようになって きた。 貪官汚吏がはびこり、無能の者が要路に付き、現場主義に基づいていたはずの 指揮命令系統が中央集権特有の文官病によって寸断された。洋務によって要職 にあった現場の実力者たちは、絶えず北京の無能な中央官僚によって牽制され 振り回され、利用され、従わなければ掣肘された。 ーーーこれらの害が見事に露呈したのが日清戦争である。 北洋艦隊の提督だった丁汝昌は、実力者であった李鴻章から一定の信頼を受け ていたため、比較的自由に行動できる立場だったが、日本海軍との正面決戦は 練度のうえで不利と見、これを避けていた。 これは李鴻章の考えとも一致していたが、いわゆる君側の奸による讒言があと を絶たず、ついには光緒帝まで愚論に加担する始末で、李鴻章としても対応せ ざるをえなくなり、やむなく丁にむかって無謀な突出を命じた。 結果は誰もが知るとおり、北洋艦隊は壊滅、丁汝昌は自害した。 中央集権にあっては、当然ながら現場の指揮権が著しく制限されているが、例 え事案毎にテンポラリーな必要権限が付与されようと、デフォルトでの過干渉 が意識できないまでに身に付いてしまっているため、現場のほうが中央の視線 や動向ばかりを気にして、独自に物事を判断することを怖れる体質になってし まっていた。 すなわち、敵である日本軍より、背後の北京の空気が気になってしまう、これ がまさしく、何もかもを閉塞させ、機能不全に陥らせてしまう中央集権の本質 というものだった。 ちなみに中曽根行革の場合は、わずか数年で緩和した規制に倍する規制が新た に追加され、まさに違法建築並みに増改築されてしまった----。 政策による行革には限界があり、官僚が無法に手にする権限自体を封じる方向 すなわち機構改革、構造改革こそ重要であることが、このことによって明らか になった。------現に一部は無法である。これは現場を知っていれば、欺瞞輩 でない限り誰でも分かることである。 戦争の敗北で、単なる洋務、すなわち体制のシステムを維持したまま政策だけ を転換するという方法では真に合理化できないことを悟った光緒帝は、変法を 主張する康有為らの言を容れ、国家の在り方の大転換を命じた。 すなわち立憲君主制への移行、機能と権限の移譲、機構の独立である。 このプロットは明治維新であり、まさに現在の我々日本のシステムが直面して いる問題とも符合する。 彼らの場合は、中央集権王朝による官僚肥大という、過去から未来へ向かう変 革であり、我々の場合は、企画院事件などでも明らかになった戦中戦後の統制 派官僚によるマルクス思想によって肥大化した官僚システムという、誤った未 来から過去への回帰である。 狙いは同じ、非効率な集権官僚の密室的権能を、整理して機能毎に現場に移譲 していこう、という当たり前すぎる改革である。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |