|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
|
│<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く |
いよいよ明日です! 「憂国忌」!
---------------------------------------- ○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○ 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会 メルマガ会報) 平成21年(2009)11月24日(火曜日) 通巻第363号 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 三島文学記念館 恒例レイクサロン ドナルド・キーン氏と横尾忠則氏が講演 ▲ 平成21年最後の三連休初日の11月21日、山中湖畔にある「三島由紀夫文学館」の『開館10周年記念フォーラム』が現地で盛大に開催されました。 この日を寿ぐ天恵のような温かく晴れやかな気候でしたが、東名の大渋滞に巻き込まれ、フォーラムの前半を聞き逃す失態をしてしまいました。 しかし文学館近くの大ホールの開場に駆けつけると、満席となっていた会場奥の演壇の傍らに、脚立に立てかけられた、今までお目にかかったことのない大写真の若々しい三島氏が、にこやかに出迎えてくれていました。 ▲横尾忠則「三島さんとであった日々」 聞き逃した前半は横尾忠則氏による「三島さんと会った日々」で、後から聞くと映画『MISHIMA』の三島役は当初緒形拳ではなく高倉健だったこと、横尾氏が三島作品で撮りたかったのは『憂国』だったが、生前それを三島に言うと「君の思想になってしまうからダメだ」と反対されたことなどが語られたそうです。 後半はドナルド・キーン氏の「三島由紀夫と演劇」でした。 会場にはフォーラム開催に尽力のあった演出家の藤井浩明氏の姿もありました。ある雑誌で以前インタビューした横尾氏に会いに駆けつけたという若い元編集長や、根っからのキーン氏ファンだというヤング・ミセスも参加していた賑やかな会でした。 松本徹・館長によると、フォーラムの詳細は来年発行の『三島由紀夫研究』(鼎書房刊)に掲載されるそうです。 キーン氏が三島と歌舞伎座の前で初めて出会ったエピソードから語り起こしたスピーチのあらましを次のようにまとめてみました。(以下文中敬称略) ▲昭和29年に三島と初対面のドナルド・キーン氏 私の三島との出会いは、昭和29年三島の歌舞伎作品『鰯売恋曳網』が掛っていた歌舞伎座の前でした。昭和28年京大に留学した私は近くに引っ越してきた永井道雄と親しくなりました。 私の関心は日本の作家が日本の古典文学をいかに評価しているかにあって、それで日本の現代作家に会いたかったのです。永井道雄は一緒に上京して幼稚園時代からの友人、中央公論社の嶋中鵬二を紹介してくれました。 まず『夕鶴』がたいへんな人気を博した木下順二に会いました。この作品は能や舞踏の様式でも上演され、戦後の新しい日本文学として受け容れられました。しかし木下は民話に関心があっても平安朝文学や謡曲には関心がありませんでした。木下はそんな私に三島と会うことをすすめました。 昭和28年上演された三島初の歌舞伎作品『地獄変』が好評で、私は二番目の『鰯売恋曳網』を初めて観ました。 これは悲劇で、楽しく観ましたが、いろいろな意味でめずらしい作品でした。主役に歌右衛門が出ていて、その歌右衛門が舞台ではじめて笑ったのです。観劇後三島と食事をしてウマが合い親しくなり、それがずっと続きました。 三島は粘っこい関係が嫌いだと笑いながら言っていましたが、その約束を私は最後に破りました。それは昭和45年の夏でした。何か感じるものがあって「三島さん、何か心配なことがあったら言ってほしい」と破ってしまいました。 三島は反らして返事をしませんでした。もうその時に三ヶ月の11月25日に死ぬことにしていたのです。 三島とは歌舞伎をよく観ました。歌舞伎座の一階の奥にガラス張りの部屋があって、そこなら予約をしないで自由に観られ、三島に連れられましたが、観客席でも観ました。私は当時近松門左衛門の翻訳をしていたので、何よりも近松物を観たかったのですが、三島はその後の義経千本桜とかの歌舞伎の方がもっと親しみやすかったようです。 三島とは能もよく観ました。三島は鉄扇会の会員で一列目に席がありました。三島は能が好きでしたが、一度に観るのはいつも一つにしていました。その一つを注意深く観て聴いてそれで十分だと思っていたようでした。 江戸っ子だということを誇りに思っていた三島は、人形浄瑠璃(文楽)は地方のものだと蔑視し、子どもっぽいと無関心で、ほとんど観ていなかったようです。(操り人形なし、語り口主体の)素浄瑠璃はよろこんで観ていました。 三島は10才になってから歌舞伎を祖母とよく観て詳しくなり、俳優の動きや全体を評価でき、15歳の頃から玄人として観ることができました。 少年の頃好きだったのは戯曲だけではありませんでした。あらゆる文学を、日本の文学は原文で、外国の文学は翻訳で読んでいました。 意外なことに源氏物語や平家物語にはほとんど関心がなく、読んだでしょうが影響を受けなかったと思います。そのかわり浄瑠璃、謡曲からはすごい影響を受けました。自分自身で近代能や新しい浄瑠璃をつくれ、まったく自然に七五調の文章を書け、同時代の作家として極めてめずらしいことでした。 三島は、同じ世代の作家で古典文学を一番よく知り、その影響を最も受けていたと思います。少年の頃から、浄瑠璃、謡曲、ギリシャ悲劇あるいはラシーヌ、コルネリウスなどのフランスの古典劇を翻訳で読んでいました。ギリシャ悲劇、そしてラシーヌが好きでした。 ▲ラシーヌを尊敬していた 三島は外国の戯曲について変わった考え方を持っていました。三島はラシーヌを最高に尊敬していて、シェークスピアは嫌いだと言っていました。 きわめてめずらしい意見です。 シェークスピアの戯曲は世界中で上演されていますが、ラシーヌはフランス語の国でなければあまり知られていません。イギリスやアメリカでラシーヌが上演されたことを聞いたことがありません。両者を客観的に見ればシェークスピアの方が重要だと思われますが、三島はそう思っていませんでした。 そのラシーヌになぜ三島は惹かれたのか。三島はフランス語が全然できないと白状しています。フランス語を勉強しなかったのは、最初のフランス訪問の時にパリで自分の財布を盗ったフランス人への偏見が多少あったのでしょう。 ラシーヌを愛してもフランス語を勉強する意思は感じられず、三島は外国語としてよくドイツ語を憶えました。本の中にゲーテの言葉などドイツ語がよくあります。 三島は英語を独学で憶えました。三島の英語は特別のもので文法にまったく興味はありませんでした。 ただ人が使った言葉を、新しいものは何でも使いたがりました。日本人は外国語をしゃべる場合自信がないと小声になるのに、逆に三島は不安の感情が行動をますます大きくして、それで皆分かりました。 ▲雪を透かして見える炎の下萌え 三島は、フランス語を知らない日本人にラシーヌを観に行く時の助言をしています。いくらフランス語が分からなくてもイアホンなどで翻訳を聴きながらでは魅力が半減する。日本人の観客は翻訳や台本で事前によくスジをおさえセリフを頭に入れ、劇場ではひたすら耳を傾けセリフの美しさを愉しむことが最上の観賞法というものだという。 私はこれには疑問です。 ラシーヌのフランス語がわからずその音に夢中になる人はそうたくさんいないでしょう。しかもフランス語を知らない日本人には、ラシーヌほど偉くないつまらないフランス人の劇作家の作品を聴いても同じ効果があると思います。ラシーヌの作品の魅力は言葉の音とは別のところにあったはずです。 三島の短編小説『女方』に次のような一節があります。 増山という青年(あきらかに三島の分身)が、佐野川万菊という女方(歌右衛門の分身)の美に非常な魅力を感じ「増山はこの冷艶な人が、舞台で放つ冷たい焔のようなものを観ている。 一般の観客はおろか、新聞の劇評家たちもそれをはっきり指摘した人はいない。 ごく若い時分からこの人の舞台に揺曳していた、雪を透かして見える炎の下萌えのようなものを、指摘した人はいない」 もう一度言います。これは非常に大切です。雪を透かして見える炎の下萌えのようなもの、冷艶の美が三島の演劇の理想になります。 ラシーヌの劇は動作が少ない。シェークスピアのように舞台の上で、人が闘ったり抱き合ったりはラシーヌにありません。『ハムレット』にあるような決斗や毒杯をあおるシーンはラシーヌには無いでしょう。もしラシーヌが『ハムレット』を書いたとしたら、殺し合いや毒を呑むシーンは絶対になく、たとえば使者が見たことを物語るようにするでしょう。それも三島がラシーヌを好んだところです。 ▲戯曲『サド公爵夫人』に見られるラシーヌの方法 三島のもっとも優れた戯曲『サド侯爵夫人』では、サド侯爵の極めて不道徳なさまざまな行為は、ぜんぶ使者のような者から聞いたこととして登場人物に語らせます。 これはラシーヌから三島が学んだことだと思います。 主人公のサドは一度も登場せず、最後に妻の家のドアまで来ます。しかし夫人は女中に案内させず、その姿を訊ね、太っていて、歯抜けでみっともないと説明させます。すると夫人は今も未来もサドに会わないと伝えさせ、芝居は終わります。 これはまったくラシーヌ的だと感じています。これは歌舞伎の伝統とも違います。 一例をあげると、忠臣蔵の塩冶判官が見えないところで「今切腹しました」と説明させては迫力がなく、歌舞伎になりません。歌舞伎を誰よりもよく知っていた三島はあえて伝統を無視して、ラシーヌの悲劇のように観客の想像力に任せて成功しました。 三島は俳句にまったく関心が無く、短歌に深い関心がありました。 三島の中学や高校の頃の短歌を三島文学館で初めて見ましたが、最後の作品は短歌の辞世でした。 三島にとり短歌は大事なものでした。この中にラシーヌの悲劇にある「冷たい美」があると思います。短歌の表現にある「散る桜花」「初霜」の言葉の下に、氷を透かせて萌えている自分の悩みや悲しみを伝えています。氷の下に透かして伝える「冷たい美」が萌えているのです。 三島の戯曲の多くは新劇で、登場人物はラシーヌ劇のような王子や姫ではなく、多くは日常的な環境の中で生活していて、写実的ではないが場面は現代の日本です。 『鹿鳴館』は過去の日本、明治時代の日本を芝居の年代にしています。 しかしラシーヌを思わせる要素は全くありません。そのせいか『鹿鳴館』はおそらく三島の芝居の中で一番人気があり、何回も再上演されましたが、この芝居に余韻はまったく感じられません。 たいへん上手な人気作家が書いた非常に面白い芝居です。影山伯爵は無声映画の悪者のようで、夫人の朝子は19世紀のメロドラマに出でくるようです。 外国で一番成功した三島の芝居はおそらく『近代能』でしょう。 二三年前ニューヨークで『卒塔婆小町』と『弱法師』が蜷川演出で上演されました。絶賛され超満員でした。 │<< 前へ │次へ >> │一覧 │コメントを書く │ 一番上に戻る │ |