Yananimのヌンムル~オソオセヨ~

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 プロローグ 朝妃-あさひ-

     プロローグ 朝妃-あさひ-

 先程までちらついていた粉雪が積もることなくやんでしまった空を見上げて、霞(かすみ)朝(あさ)妃(ひ)は少し残念そうにため息をついた。
 新宿歌舞伎町のアスファルトは濡れることなく人の足並みが流れて行く。思えば歌舞伎町は不思議な街だ。東京の中の大都会、新宿の中の繁華街で若者が溢れているのもかかわらずどこか古くさいイメージが朝妃の中にはある。朝妃はここの独特の匂いを嗅ぐと、落ち着きを取り戻せるような気がしていた。常に得体の知れない不安につきまとわれている朝妃にとって、ここの古くさい歌舞伎町の匂いは特効薬ともいえるかもしれない。
 朝妃の父親である霞善次郎は6年前に急逝したが、精神医学の研究では現代のフロイトといわれる人物だった。
 善次郎の葬儀には、精神医学界の著名人も参列し別れを惜しんだが、その後は誰も娘の朝妃に気を配る者は皆無だった。霞善次郎博士は変わり者で通っていたが、心理学に対する研究の功績と構築された理論は誰も否定することは出来なかった。学者たちの参列はその名誉にぶら下がるためだけの参列であって、葬儀が終われば誰もが見向きもしないのは必然だと朝妃は思っている。
 元々わたしはひとりなのだ。朝妃は自分にいつもそう言い聞かせることに努めて生きてきた。
 朝妃が歌舞伎町に初めて来たのは、善次郎に手を引かれた幼い頃だった。たった一度来ただけで朝妃はこの街の匂いが気に入った。しかし、なぜ善次郎が朝妃をここに連れて来たのかは記憶が定かではない。朝妃は幼い頃の記憶を断片的にしか持っていない。
朝妃はここに自分と善次郎を繋ぐ秘密の何かが必ずある、といつしか思い込むようになっていた。もしかすると、この街の匂いが父善次郎の匂いなのかもしれない。そのふたつのイメージが重なった時から、朝妃は幾度となくこの街に足を運んでいた。
 
 朝妃は少し遅めの昼食をとる為に小さな喫茶店に入った。朝妃自身も、自分の部屋があるアパート近くの喫茶店でアルバイトをしている。今日はその店の定休日なのだが、自分の部屋に帰る気にはなれなかった。朝妃はあの部屋が、嫌いだ。時々、朝妃以外の誰かがいるような気がして仕方がない。自分の趣味とは違う買った憶えのない見知らぬ洋服やアクセサリーなどが置いてある。そして極め付けは、心理学の専門書が本棚に数冊。朝妃は部屋が嫌いなわけではなく、心理学が嫌いなのかもしれない。父善次郎が心理学の研究の為に、朝妃を顧みない日々が日常だった。それなのに、朝妃は父の面影を求めるように歌舞伎町を歩きながら、部屋にある誰の物ともつかない洋服やアクセサリーを捨てられずにいる矛盾に成す術がなかった。
 喫茶店の中はウェイトレスもいなく、マスターがひとりで店を切り盛りしていた。朝妃は窓際の席に座り、ナポリタンを注文した。
「承知致しました!」
 マスターは喫茶店という空間の雰囲気に似合わぬ、居酒屋にも似た声で威勢よく返事を返した。
小さな建物、締め切ったような解放感のない店内、痩せた風体のマスターの隠しきれない機嫌の悪さ。そして威勢のよい返事。朝妃の脳裏にひとつの光景が浮かんだ。数時間前のことかもしれない。この店にはもうひとり、多分ウェイターがいた。そのウェイターは若いおとなしい青年だった。青年は気が小さいのか、客を迎える声が小さい。マスターは怒る。その怒り方も、嫌悪感が丸見えの棘のある粘着的な怒り方だ。そして、マスターは何か外に用事を頼み、青年は店を出て行き、それきり帰って来ない。
 朝妃はどうしてそんな脈絡がない事象が思い浮かんだのか、解らずにいたが、何故かその答えに確信があった。朝妃は、試しにマスターに尋ねてみた。
「ここのウェイターさん、今日はお休みですか?」
 マスターはハッと顔をあげて朝妃を見た。その目線には、嫌悪感がありありと浮かんでいた。同時に、自分の質問がとんでもない誤解なら、店を勘違いしたと言って素直に謝ろうと朝妃は思った。
「知り合いですか?」
「いいえ、確かウェイターさんがひとりいたような気がしたから」
「ちょっと買い物頼んだら、帰って来ないんですよ。まぁ、お金は千円くらいだからあきらめはつくんですけどね。バイト代からも引けるし」
 朝妃は呆れた。従業員がひとり帰ってこないというのにお金のことしか頭にないのか。
確かに店の経営者の立場からすれば無理もないのかもしれないが、この人は始めから誰をも信用していないのだろう。
 朝妃は自分の推論が的中したそれ以上に、無意識に人の心理を暴いていることに驚いていた。自分から父親を奪った心理学を勉強した覚えはないが、気がついたら心理学を乱用していたのだ。これが門前の小僧なのだろう。怖い。朝妃の心に恐怖が不安となって襲った。

 朝妃は喫茶店を出てから、宛てもなく歌舞伎町を再び歩いた。心に甦った不安を忘れる為に、歌舞伎町の匂いに身を委ねたかった。その時、ふと誰かに声をかけられた。
「ヨー、また会ったね。元気か?」
 黒いコートを着た小太りの中年男だった。朝妃は初めて見る顔だった。
「人違いじゃないですか?」
「そんなつれない事言うなよ・・・あっ、そうか。こんな真っ昼間じゃ恥ずかしいかい」
へヘヘ・・・と、男は愛想笑いをした。その笑顔は朝妃には不快だった。
 瞬間、朝妃の意識が遠のいた。

 筑波の麓に、ある研究所がある。筑波といえば、その殆どが理工系の研究所が有名だが、そればかりではない。ある一画に、小さいながらも心理学専門の研究機関がある。
 背の高い初老の男が、小さなビルの「TMS」とプレートが貼られた一室のドアを開けて入って行った。「筑波精神医学科学研究所」がその正式な名称である。なぜ精神医学の後に科学がつくのか、背の高い男は以前にそこの所長である中島に訊ねたことがあ
った。
「中島さんよ。この科学っていうのは、もしかして心理学を心としてじゃなくて生理学的にとか生物学的に研究する機関ってことかい?」
「天崎さんは相変わらず口が悪いな。あれはただのカモフラージュさ」
 天崎と呼ばれた初老の男の問いに、所長の中島の答えは、卑猥な笑いを含みながら続けた。
「周りがこう理工の研究所ばかりだとこちらも科学くらいつけなくては片身が狭くてね」
 天崎は、中島の腹の中を探ることはしなかった。探らずとも、中島の言うことはいつも冗談半分だ。
「ところで中島さんよ。前に言っていた、何とかって博士の研究資料見つかったのかい?」
「いや、まだ調査中だが。噂では何か形として残しているらしい」
「噂の出所は?」
「噂は噂だよ。どこから派生したかはわからんよ」
 一旦はまともに話をしていたかのように見えた中島だ。が、また冗談で終わらせたと天崎は思った。こんな奴に大事な情報を黙って出してもいいものか考えたあげく、やはり中島は旧友であることを優先して一枚の写真を懐から取り出した。
「何だ、この写真は」
 写真には歌舞伎町に佇む、長身の美しい少女が写っていた。
「この顔よく覚えておけ、中島さんよ。霞朝妃だ」
「霞・・・?」
 中島の目が宙を仰いだ。

 ここは?・・・暗い・・・時計の刻む音・・・聞こえてくる方向はいつもの・・・?
 朝妃は寝ている寝床の感触を確かめた。間違いなく、自分の部屋の自分のベッドだ。いつのまに帰ってきたのか。歌舞伎町であのいやらしい男に会ってから気が遠くなり、気がついたらここに寝ていた。その間のことは何も憶えていない。
 ハッと、朝妃は何かを取り払うように枕元の灯りを点けた。まさか、あの男がこの部屋にいるのか?灯りが灯った部屋には朝妃ひとりだけだった。朝妃はホッと吐息をついてラジオを点けた。いつも聞き慣れたFM放送の「クラシックの夕べ」という番組だ。楽曲の途中からだが、ムソルグスキー組曲「展覧会の絵」だ。この曲にはまるで夢の扉を一枚一枚開けていくようなイメージを朝妃は感じるようだ。アルファ波を放出させるちょっとした音楽療法かもしれない。朝妃は、音楽を体中の隅々まで浸透させるように目を閉じその世界を堪能した。その後、朝妃は再び深い眠りに落ちて行った。それは朝妃が選んだやすらぎのある眠りだった。

 朝妃は、いつしか夢を見ていたようだ。ここが夢の中と理解していても、不思議な光景に目を見張った。
 そこは紛れも無く、朝妃の部屋だった。が、そこには四人の少女達がいた。一人は、知的そうなメガネをかけた少女だった。どことなく朝妃に似ていた。その少女は読書の最中だった。朝妃は、それをそっと、覗き込んだ。心理学の専門書だ。それもかなり本格的な専門書だ。おそらく少女が読んで理解できるようなレベルの本ではないだろう。
 父親の善次郎が読んで、どうにか理解できる程の物のように、朝妃には思えた。
 次は、ボロボロのジーンズを着た少女だった。少女の顔半分は、前髪で隠れている。
壁に寄りかかり、片膝を立ててタバコを吹かしていた。その目は、鋭い眼光だった。その鋭い眼光の少女に三歳くらいの女の子が、まとわりつくように近付いた。朝妃は瞬間、危ない!と声を出しそうになった。ジーンズの少女の手が上に上がったからだ。しかしその手は、朝妃の予想を見事に裏切り、幼い少女を優しく包むように、腰に手を回した。幼い少女は慣れているのか、膝に乗って無邪気に両手をジーンズの少女の首に回した。幼い少女は、何も言葉を発しなかった。そして、ジーンズの少女は特別、幼い子供をあやすようなことはしなかった。その目は、相変わらず鋭くどこかを見ていた。
 朝妃の鼻が良い香りを感じた。朝妃は、香りのする方を見ると、そこには小柄だが綺麗な少女がいた。小柄な少女は、年齢的には高校生くらいだろうか。今時の女子高生のようなセンスの良いファッションをしていた。その少女は、髪にブラシをあてていた。
「煙~い」
 少女は、ジーンズの少女が吹かしているタバコの煙を手で払う真似をした。
「いや~、タバコの匂いが服に移っちゃうよ~」
「やめな。そんなことすると未来に殴られるよ」
 言ったのは、専門書を読んでいる少女だった。
「大丈夫だよね~。未来は、毬藻がいるここでは絶対暴れないのわかってるもん。ねえ、毬藻~」
 と、毬藻という幼い少女に語りかけた。
 朝妃は、その光景にどことなく懐かしいような暖かさを感じながら眺めていた。いつも見ているような、不思議な雰囲気だった。
 朝妃は、ふと誰かに呼ばれたような気がして振り返った。が、そこには、誰もいない。
 朝妃は、部屋を出ようと思った。不思議なのは、自分の部屋を出るのに、その感覚は〃帰ろう〃だった。一体、何処に帰ろうというのか。朝妃は、一人心地でおかしくなってそっと笑った。
「さあ、帰ろう」
 朝妃はひとり呟いて、四人の少女達に背を向けた。
 その時、背筋に悪寒が走った。今まで感じたことのない、戦慄。鋭い視線が、朝妃の背中を貫いていた。
 朝妃は振り返った。未来という少女ではない。未来の目は確かに鋭いが、幼い少女が自然になつく程に、その目の本質には優しさがあった。しかし朝妃の背中を貫いた視線は、あきらかに憎悪に満ちていた。殺意を感じたくらいだ。一体、誰が。朝妃は、部屋の中を見渡した。この中にいるのだろうか。一人は、相変わらず本を読み、未来と呼ばれた少女は、笑わない目で幼い少女を見ている。高校生くらいの少女は、今度はペティキュアを塗っていた。
 一体、誰・・・?
 朝妃は、急いで部屋を出た。そこには、闇が存在した。




   



                 

 


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