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不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

不可思議の海岸線が長くなる為に・・・

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2011/05/23
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カテゴリ:日本旅行記
高遠城跡へ訪れました。
高遠城の戦い(古戦場跡)
1582年2月、織田信長は信玄なき後の武田家の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。
伊那口からの嫡男・信忠率いる五万の兵は侵攻に、恐れをなした伊那谷の諸将は、城を捨てて逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。
時の城主・仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然と大軍を迎え撃った。
古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、此の城も盛信以下将兵決死の奮戦にかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。
城主・盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。
此の後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。
高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。


新城(盛信)神社・藤原神社の由来
1831年、七代藩主・内藤頼寧は家臣・中村元恒の建議により、1582年の当城において織田の大軍を引き受け、壮絶な最期を遂げた武田信玄の五男・仁科五郎盛信の霊を五郎山より場内に迎え「新城神」と称して祀り崇拝した。
以前より場内には、先代・内藤頼似が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、廃藩後の1879年に、此の神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。


「高遠閣」がありましたが、外観のみです。
昭和8年に建てられたみたいです。

高遠城は堀や曲輪などが当時の面影を残しています。
堀の下まで歩けるのは雰囲気がわかって、良かったです。
城内は「さくら名所100選の地」に選ばれているみたいです。
碑がありましたから・・・。

門では「問屋門」「伝、高遠城大手門」があります。
あまり当時の面影がないらしいです。
北西の駐車所の所は「勘助郭」の名がついています。
山本勘助が関わったらしいです。

長野高遠e1遠野城址
長野高遠e2
長野高遠e3
長野高遠e4
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長野高遠旅行は、まだ続きますスマイル





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Last updated  2011/05/23 08:01:16 PM
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