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カテゴリ:日本旅行記
◇高遠城跡へ訪れました。
高遠城の戦い(古戦場跡) 1582年2月、織田信長は信玄なき後の武田家の混乱に乗じて、一気呵成の攻略に転じた。 伊那口からの嫡男・信忠率いる五万の兵は侵攻に、恐れをなした伊那谷の諸将は、城を捨てて逃亡、あるいは降伏して道案内をするなど、織田軍は刃に血塗らずして高遠に迫った。 時の城主・仁科五郎盛信(信玄の五男)は、降伏を勧める僧の耳を切り落として追い返し、わずか三千の手兵をもって敢然と大軍を迎え撃った。 古来「要害は必ず兵禍を被る」と言われるが、此の城も盛信以下将兵決死の奮戦にかかわらず、雲霞の如き大軍の前には如何ともし難く、三千の兵はことごとく城頭の花と散り果てた。 城主・盛信は腹をかき切り、自らの手で腸を壁に投げつけて果てたと古書は伝えている。 此の後、武田勝頼は、諏訪上原城から新府に退き、天目山で自害した。 高遠城の戦いは、かの強大を誇った武田氏の最後を飾る戦いの場となったのである。 新城(盛信)神社・藤原神社の由来 1831年、七代藩主・内藤頼寧は家臣・中村元恒の建議により、1582年の当城において織田の大軍を引き受け、壮絶な最期を遂げた武田信玄の五男・仁科五郎盛信の霊を五郎山より場内に迎え「新城神」と称して祀り崇拝した。 以前より場内には、先代・内藤頼似が内藤家の祖神である藤原鎌足公を勧請した「藤原社」があったため、廃藩後の1879年に、此の神社を「新城神」と合祀して今日に至っている。 「高遠閣」がありましたが、外観のみです。 昭和8年に建てられたみたいです。 高遠城は堀や曲輪などが当時の面影を残しています。 堀の下まで歩けるのは雰囲気がわかって、良かったです。 城内は「さくら名所100選の地」に選ばれているみたいです。 碑がありましたから・・・。 門では「問屋門」「伝、高遠城大手門」があります。 あまり当時の面影がないらしいです。 北西の駐車所の所は「勘助郭」の名がついています。 山本勘助が関わったらしいです。 ●信州周辺旅行1静岡 ●信州周辺旅行2新潟 ●信州周辺旅行3長野 ●信州周辺旅行4信州南 長野高遠旅行は、まだ続きます。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/05/23 08:01:16 PM
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