テーマ:表現者、集まれ~(263)
カテゴリ:「二人羽織とはず語り」公演日誌
あれから1年になりまする 吾にとって6月水無月と言えば、阿佐ヶ谷の名曲喫茶・ヴィオロン そして『二十歳の原点』である 鉄道自殺しちまった、『二十歳の原点』の著者 高野悦子さんの命日が、6月の24日 今年も、その日が近づくにつれて 悦子の呼ぶ声が聞こえてきました アンコール公演のありがたいお声を頂き 今年も玲と弥々はヴィオロンで、悦子を語ります さてさて只今、脚本練り直しにどっぷりんこなり 『二十歳の原点』は相方・玲の担当 初演では、悦子の女としての思いを前面に引き出したが 今回は、家族との関係について掘り下げられたらと もう一度日記を読み返しておりまする で、吾はぁ、太宰の『葉桜と魔笛』に奮闘中 この作品、読んだことある方はご存知やろが 要するに一人称の語りスタイルなんよね だから、朗読とは違って まんま語り口調で語れるから、吾にはぴったりんこの作品なのである だけどなぁ・・・ いかんせん、ライブの時間には限りがあるでなぁ・・・ 全文全て語るわけにもいかんやろってことで さて、どうやってこのええお話を 大事に聞き手に届けられるかと言う視点に外れることなく 短縮できるかで、もう頭ん中ぐるぐるやぁ!!! さて、なぜ悦子と太宰なのか・・・ そうして吾が太宰に嵌るワケとは・・・ 『斜陽』の解説から一文を引用し 以下に一筆したためておこうかのう・・・ 脚本を書き上げる前に、自己の確認の為にも・・ 『斜陽』の解説 文:奥野健男 太宰は『斜陽』がベストセラーになったことを喜びながら 心の底ではその読まれ方に狼狽と不安とを 作家としての危機を感じていたのではなかろうか。 太宰治は処女作『晩年』以来、たえず滅びの歌を書き続けてきた。 自分は滅亡の民であり、悪徳の子であり 世の中にまともに生きて行けない廃残者であると思い定めて来た。 滅びるより価値がない、いや滅びることによって、はじめて人の為になるのだ。 自分の中の悪を徹底的にあばき、自己を告白し もっとも愚劣なかたちで自己をとだえさせること それが自分に与えられた使命なのだ。 それによってのみ今日の社会の中に潜む 偽善を、悪を、ケチ臭さを、醜いエゴイズムを撃つことができるのだ。 つまり自分の文学はキリストに対するユダのような、アンチテーゼにほかならぬ 明日の朝日を産む夕焼雲でありたい。 それが太宰治の一貫した文学の、人生の姿勢であった。 自己破滅を賭けた反逆的な下降指向の文学と言ってもよい。 そして常に世の中の正統や主流から疎外された異端者、少数者、反逆者 日陰者、弱者の立場に立って来た。 敗戦の昏迷と虚脱の中にいた青年たちが 太宰治の書くものにのみ真実と親近感をおぼえ 彼の行く道に自分のすべてを賭けようという青年も少なくなかった。 (以上、解説文の一部抜粋) 日記には、太宰に傾倒してる記述も数多くあり・・・ ろくがつ、共通の匂いのする道化に、何故だか心ヒカレル吾であり・・・ 記:2006.05.09 23:55:47:46 2005年の今日 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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