|
|
|
|
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
hannaの日記 [全607件]
古いジャズIt's Only A Paper Moon(「ペーパー・ムーン」)という曲をこのところなぜか聞きたくて、手持ちのCD「上海バンスキング」(映画もあったけど、吉田日出子の舞台の方)を何度もかけていました。他にもYou Tubeでいろんな人が歌っているのを順番に聴いたりとか。 そしたら発売されたばかりのポール・マッカートニーのアルバムKISSES ON THE BOTTOMにこの曲が入っていることが分かって、衝動買いしてしまいました むかし新書館から「ペーパームーン」という雑誌や本が出ていたことがあって、雑誌の方は印象的な表紙をめくると私の好きな佐藤史生をはじめ竹宮恵子とか萩尾望都とかのSFやファンタジックな作品がいっぱい載っていたのでした。特集本にはトールキンなどもとりあげられていましたっけ。 そのタイトルからの連想でこの曲を知ったのでしたが、実はこの曲をテーマに?した70年代のノスタルジックな映画(画像はそのDVD)もあったりして、「ペーパー・ムーン」という言葉は何だか魔法のような響きを持っていました。 歌詞の大意は 「厚紙の海の上にただよう紙のお月様にすぎなくても、もしあなたが私を信じてくれれば、それは作り物じゃなくなるよ」 「モスリンの木に架かった帆布の空でも、私を信じてくれれば、作り物じゃなくなるよ」 「あなたの愛がなければ浮かれ騒ぎのパレードだけど・・・」 みたいな。 この歌詞から私がまた連想したのが、長野まゆみ『少年アリス』で、主人公が真夜中の学校から群青色のビロードでできた「夜空」にブリキの月と貝殻の星を取りつけにいく場面。ありえないと思っていたのに、「教師」に促されるまま空を飛んでみると夜空は本当にビロードの天幕になっており、そこへクレーンの鎖でつるされた月がのぼっていく・・・ さらに、飛浩隆『グラン・ヴァカンス』の舞台、サイバー空間の「ハリガミの海」。 それらは作り物でありながらとてもリアルで、既視感をさそうほどノスタルジックで、魅力的なんですね。 最後に、歌詞や物語に出てくる「作り物」が信頼と愛(!)によって本物よりリアルにいとおしくなるという現象については、ロマン派の詩人コールリッジの言葉「自発的に不信感を停止すること」(willing suspension of disbelief)のファンタジックな解釈なんじゃないかと思うのです。 お芝居の舞台の上で紙細工の月が本物であるためには、演じる人も観る人も、好意的に想像力を働かせてそれを信じなくてはならない。逆に言うと、想像力と愛さえあれば、作り物でもいいんですよね。それどころか、シンプルな作り物ほど、想像力と愛の注ぎようによって、どんなものにでもなれる可能性を秘めています。 CGやSFX、3Dなど技術が進んで映像世界はほんとにリアルになってきましたが、もしかするとそれは逆に、観る側の想像力(そして愛も?)を働かせる余地を奪っているのかもしれません。 いろいろ考えさせられる「ペーパー・ムーン」ですが、そんな思いもポール・マッカートニーの甘くて軽やかな声にとけていきます。いまだに、いい声ですねえ。
不思議な響きの名前?が出てくるタイトル、『ツチオーネのおんがえし』。表紙には、これまた不思議に長~い顔のお侍。いったいどんな話かな? と思いきや・・・ 作物のほとんど育たない貧乏な寒村に、旅のお坊さんが一夜の宿とそばがゆのお礼に置いていった「ツチオーネ」の種。まいてみると、どんどん育って大収穫。 って、絵をみるとこれ、ダイコンじゃないですか。カタカナで書いてあるからまるで西洋野菜のように聞こえますが、「土大根」とはダイコンの古名なのですって。 にしても、登場人物の顔、どれもなかなかインパクトがあります。背景の色合いは土っぽくていかにも田舎風なのに、うったえるようなまなざしや、影のふかい顔立ちの立体感はある意味洗練されています。 物語は、ツチオーネのおかげで豊かになった村をねたんだ隣の長者が、悪だくみをして村を襲撃! 畑や倉のツチオーネをめちゃくちゃにして主人公を殺そうとしたとき、表紙絵にあるあやしくも魅力的な白くて長~い顔のお侍たちが助けに現れるというもの。 切れ上がった目といい、ピンととがったひげといい、束ねた緑の髪の毛といい、なんて異国風な、それでも確かにお侍。これぞ、ツチオーネの化身なのです。 ダイコンは古代エジプト由来の野菜だそうで、日本には弥生時代に伝わったとか。お侍が和洋折衷なわけは、そのルーツにあるんですね。 そしてこのお話、実は兼好法師の「徒然草」にある土大根のエピソードがもとになっている、と絵本の解説に書いてありました。 さっそく調べてみると、第六七段に筑紫(福岡県)の話として紹介されています。でも、それはほんの短いエピソード。ここからこの絵本のようなすごい迫力のお話に仕立てた作者の力量に、感動します。 5年生の読み聞かせに使いました♪ 一見の価値ありです!
荻原規子の『空色勾玉』は英訳されてタイトルが“Dragon Sword and Wind Child”になっているんですが、「勾玉」に当たる語がタイトルにないとか、主人公は水の乙女である狭也なのに、稚羽矢(風の若子)のほうがタイトルになっているとか、そのへんはさておいて、「大蛇の剣(おろちのつるぎ)」がDragon Swordと訳されているのが、少し気になってしまう私でした。 この剣は物語では、輝(かぐ)の大神(=イザナギ)が火の神を切った、最強の剣と説明されていますが、剣自体が大蛇に変身することなどから、ご存じ古事記に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)のしっぽから出てきた天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙剣)のことだろうと思われます。 最強であるとともに最凶でもある恐ろしい武器ですが、力をふるうとき天を暴れ回るめしいた蛇(=雷)となったりします。大蛇はヘビであって、ドラゴンとはだいぶイメージが違うような気が・・・ 老婆心ながら、欧米の読者が東洋の小説でドラゴンと聞くと、中国風の善なる賢いドラゴンをイメージするのではないか、大蛇の剣は中国風というよりはまったく原始的・動物的な「おろち」で、むしろ西洋古代の(聖ジョージが退治したような)悪なるドラゴンなのだけれど、それならドラゴンでなくてその先祖ともいうべきワームworm(長虫)という語の方がいいのでは・・・などと。 ただこの剣の力も、代を下って『薄紅天女』(平安遷都前夜)になると、「皇(すめらぎ)の呪いのもと」として、青白い竜に変身します。ただこの時は勾玉の主である阿高(あたか)も黒い竜に変身するので、剣だから竜になるというわけではなさそうです。 とまれ、イメージとして善と悪、賢さと野蛮さのどちらをも持っているのがドラゴンだとすれば、底知れないぶん魅力的であると同時に、この言葉を使うときはどんなイメージを表したいのか、注意が必要な気がします。
辰年なので、ファンタジーを標榜するこのブログでもやっぱりドラゴンで始めなくては!と思いましたが、洋風のドラゴンの物語は掃いて捨てるほどあるので、ここは一つ「龍」の字を使っているマカヴォイの『黒龍とお茶を』で始めようと思います。マカヴォイはそのむかし、「魔法の歌3部作」の表紙絵を中山星香が描いたので買い求めたのですが、それがまあまあ面白かったので、『黒龍とお茶を』も買ってみたのです。 しかし、物語に出てくる勝ち気な新進エンジニアのリズよりもまだ少し、私の方が年下だった当時、リズの母親(50歳)と初老の中国紳士(もっと年上、じつははかりしれないほど)との、上品なラブストーリーは、どうもピンと来なかったというのが本音です。 それに、早川FT文庫の割には、なかみはコンピューター犯罪のからんだ誘拐劇で、壮麗に天を舞う龍の姿なんてものはまったく出てこないのです。 しかし、今やヒロインのマーサの年齢も近づいてきたせいでしょうか、読み返してみると、なかなか小粋でエキゾチックな、味わい深いロマンスなのでした。 コンピューターの話題は四半世紀も前なので何だか古くさく、事件のどたばたも軽いですが、そのレトロな軽さが心地よく感じられる・・・のは、やっぱり歳のせいでしょうか。 ともあれ、なんと言っても中国紳士メイランド・ロング氏が、ものすごくステキなんです。アラフィフ女性向けの白馬の王子様とでも言えそう。 ロング氏は椅子にすわったまま背を伸ばし、それによって蔭の中に消えてしまう。両手を触れ合わせ、それから開くので、まるで空中に鳥を放つかのよう・・・(後略) ロング氏は、まだ腰かけたままだ。口の前で両手の指先を合わせて、教会の尖塔のようにしているので、顔の一部が隠れている。(中略)・・・しなやかに立ち上がった。椅子の肘掛けには触れもしない。 --R.A.マカヴォイ『黒龍とお茶を』黒丸尚訳 などという描写で、裕福で上品な彼がただの金持ちの有閑老人ではなくて、神秘的な、内に力を秘めた魅力的なおじさまに仕上がっています。 サンフランシスコのホテルのスイートに滞在し、絹のスーツを着こなし、真っ白なシャツに浅黒い肌、西洋的な微笑と中国風の微笑を巧みに使い分け、コンピューターのことも理解してしまう、スーパー紳士。会話の途中でチョーサーなど古典を不意に引用し、禅やタオイズムについて語り、達磨大師を個人的に知っているなどと話しても、この人なら鼻につかず、嫌みもありません。 それもそのはず、彼の正体はブラック・ドラゴン・・・人間になったドラゴンなのでした。 ドラゴンだから超人的パワーを持っているとか、魔法を使うとかではないので、物語が佳境に入ってもいわゆるファンタジー的なミラクルはありません。しかしそれでも、圧倒的なロング氏の存在感と、おばさんながら芸術家でそれゆえにかシンプルに本質を突くマーサとが、お似合いのカップルになっていく過程はちょっとマジカルな感じもします。 年を重ねた教養の深さと威厳、ノーブルでお金持ち、しかも寝姿の描写はパワフルでセクシーという、非の打ち所のないロング氏の魅力は、極上の烏龍茶のシブかっこよさに似ています。そう、彼は烏龍(ほんとはお茶の名前にすぎず、こういうドラゴンはいないそうですが)の化身なんですね。
![]() 今年もぽつりぽつりの更新になりそうですが、何とか続けたいと思っています。恒例の年賀状イラストは、娘(ついに年女)のと私の。息子は某カードゲームのドラゴンの絵をそのままコピーしたので、省略です。 平穏無事な年になりますように・・・
直前まで雲が出ていたのですが、強い風に飛ばされて、折良く晴れ渡りました。9時45分と、10時半の2回、庭に出て見ました。 南の空を見ますと、建物の上に斜めに昇ろうとするオリオン、その上に欠け始めた月があり、右手にはアルデバラン、左手には双子座と天頂近くの御者座・・・何とも豪華な夜空でした。 画像は、長男がデジカメで撮ったものです。時刻は22時46分。 アースシャインも何となく見えて、ナイスでした
CRALAさんおすすめの『音楽の在りて』をようやく読みました♪ 短編・中編が10数編収録されていて、そのほとんどが70年代の作品です。 さすが漫画家、選び抜かれたシンプルな言葉やセリフ。 「ヘルマロッド」「エシュ」といった、硬質で西洋風な名前があるかと思うと、「春狂い」「別のもの」なんていうシンボリックで原初的な固有名詞もあり、そんな名前を読むうちにどんどん、頭の中に萩尾望都のキャラクターが勝手に現れてセリフをしゃべり、コマ割りの中の背景とナレーションが浮かびます。萩尾望都コミックスが自分で作れて楽しめちゃうわけです。 さて、タイトルになっている「音楽の在りて」という作品も素敵だし、中編(もしコミックス化したら結構長編かもしれない)「美しの神の伝え」は哲学的?に深い物語だと思いますが、私のいちばん印象に残ったのは、やはり冒頭の「ヘルマロッド殺し」とその後日譚である、末尾の「左ききのイザン」(これは唯一、小説ではなくてコミックス)でした。 (以下ネタバレ) ヒロインのヘルマロッドは、旅行で知り合った男イザンとの子供を身ごもりましたが、彼女の惑星サーサ・クーフまで追ってきたイザンに、殺されてしまいます。イザンは、彼女がサーサ・クーフの婚約者のもとへ帰り、赤ん坊を「プレゼント」すると知って、彼女を恨んだのです。 地表には酸の雨が降り、人々は地下都市に住むサーサ・クーフでは、人口が減り続けているので、 女は同ウラン分の価値がある。赤ん坊は同アイソトープ分の価値がある。 --萩尾望都『音楽の在りて』 この辺りで、ああ、サーサ・クーフって実はニッポンかなと思うこともできます。環境汚染とか少子化という言葉は、70年代ではまだSFの中の新しい言葉だったのが、今や現実の流行語ですから。 さて貴重な妊婦であるヘルマロッドが殺されたので、彼女の細胞からクローンが再生されることになります。しかし諸事情があって、再生途中で流産してしまったヘルマロッド19と、再生し直され妊娠したままのヘルマロッド18の二人のヘルマロッドが出現します。当然のように婚約者は、妊娠した方と結婚することにします。 ところが、どのヘルマロッドも夢の中でイザンを--若くて健康で単純で、捨てられたと知って追いかけて殺すほどに彼女を愛したイザンを、思い出し、彼に会いたいと望みます。そして婚約者の制止を振り切って、サーサ・クーフを離れ、彼を追うのです。サーサ・クーフ当局はすぐさま、次のクローン・ヘルマロッドの再生に取りかかります・・・ こんなストーリーをたどると、別にSFでなくても、遊び相手と別れて安定した結婚をしようとする女性が、あとになって自分の本当の気持ちに気づいて、というよくある恋愛模様のようにも読めます。 しかし、私は人口が減少するサーサ・クーフ人(あるいは未来のニッポン人)についての噂と、イザンのセリフに注目します。 「サーサ・クーフ人は子供が産めないんだ。やつらは分裂して増えるし、子供は外国から買ってくるんだ。・・・」 「〔左腕は〕昔バクテリアに食われたんだ。・・・」 「湿地へ踏み込んじゃいけない・・・オレは・・・そこでやられたんだ。爪の切り口からバクテリアが入って左腕を切り落としたんだ」 --萩尾望都『音楽の在りて』 このふたつから、私にはサーサ・クーフ人がバクテリアのようにも、思えるのです。 高度に文明化したサーサ・クーフ、死や人口低下に対して再生技術を発達させたサーサ・クーフは、一見、人類の進化の最先端で、野蛮な生存競争や低レベルの感情のもつれを超越している高尚な世界のようです。 しかし見方を変えると、クローン技術は「分裂して増える」つまりバクテリアなど原始的な生き物と同じです。子供は外国から、つまりもっと劣った弱いものを食い物にして、その生をつないでいるのです。おまけに感情も希薄というか、婚約者は種の保存のためなら相手が他の男の子供を宿しても平気なのです。 その世界は「湿地」にたとえられています。 それに比べると、粗野で感情的だが生命力あふれるイザンの方が人間的魅力があります。「あなたも好き。強いから」というヘルマロッドのせりふの通りです。彼女は無意識レベルでは最初から婚約者ではなく、イザンを愛しているのです。サーサ・クーフ人の心の底に最後に残った生命力のカケラでしょうか。 後日譚「左ききのイザン」では、殺人犯として追われるイザンが辺境の惑星でとうとう死んでしまいますが、見事な逆転があります。イザンはその惑星で発見された古代遺跡のレリーフに、ヘルマロッド(そっくりの姿)を見つけるのです。 「湿地」ではなく、乾いた砂に埋もれ風に吹かれる、ほろびた文明の遺物に描かれた、美しいヘルマロッド像。それはサーサ・クーフの未来を暗示しているのではないでしょうか。湿地でバクテリアに左腕を食われたイザンは、サーサ・クーフでヘルマロッドに心を食われ、最後には砂漠化した遺跡に埋もれて果てるのです; 「遺跡/遺跡と/オレは生きてるんだ/オレは若いんだ」 と言いながら・・・ そして、あとでその星へやってきたヘルマロッド(の一人)は、遺跡を見て、「墓標のように見えますのね」と言います。墓--もちろんイザンの墓であるとともに、サーサ・クーフの末路でもあると思います。 文明って、進化って何だろう、人類はどうなっていくのだろうと、考えさせられる作品でした。 そういえば、光瀬龍『百億の昼と千億の夜』にも、超未来の都市で、生存するために手足もなく容器に入った細胞になってしまった人類というのが出てきましたが・・・ |一覧| |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||