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HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

「ナルニア国ものがたり」

C.S.ルイス「ナルニア国ものがたり」

「アスラン」の名前の魔力
『朝びらき丸 東の海へ』――私の最も好きな巻
長い長い冬の記憶――『ライオンと魔女』


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「アスラン」の名前の魔力 (2005.6)

 駅前の本屋さんに行って驚きました。平台がナルニアだらけ。ふだんは児童書など一握りしか置いていないのに。ディズニーの映画化って、すごいなあ。

 私は二十歳近くなって初めてナルニアを読んだせいか、やっぱりC・S・ルイスより、彼の親友(トールキン)の方が好きです。理由はずばり、ルイスの書き方が神学のお説教くさいからです。子どもの目線というより、説教壇の上から教え諭す感じがして(ルイス・ファンの方、もし読まれたらごめんなさい)。

 でも。お説教くささも忘れるほど、ナルニアにはナルニア特産の魅力がいっぱいあると思います。
 その最大のものが「アスラン」。
 子どもたちが初めてアスランの名を聞いた時の感動・心のふるえが、見事にえがかれていて、読者である私も同じように、
 「アスランとはどんなひとかということを知らなかったのですけれども、…いままでにないふしぎな感じをうけたのです。」 ――『ライオンと魔女』

 この、名前を聞くだけで起こる心の高鳴りは、そのあとも何度も出てきます。
 もちろん、アスランが実際に登場してからは、その美しさ、すさまじさ、圧倒的な超越性、たてがみの香り、などなども、すばらしいのですが、それはもう当然という感じがした私は、なぜ「アスラン」の名前がこんなにすばらしいのか、不思議でした。

 その後、大学で「トルコ民族史」という講義を聴いていたところ、ある日、
 「西ウイグル王国の北庭(ビシュバリク)は、獅子王Arslanの避暑地であり、鼓楽や舟遊びなど催され、…」(王延徳『使高昌記』982年)
というのが出てきました。

 獅子王アスラン。これだ! 中央アジア、シルクロードの遊牧民の王。ナルニアでは、確かアスランAslanとは、日が昇る東の果てに住む大帝の息子でした。
 つづりが少し違うけど、語感はきわめて似ている二つの獅子王。AslanはArslanだと、私的直感で確信しました。そして、東方の異教徒の王の名を、異世界でのキリスト役にもってくるなんて、ルイスのイメージ・センスの豊かさ・鋭さにあらためて感動しました。

 とはいえ、じつは結構使われているんですね、この名前。「アルスラーン戦記」(田中芳樹)なんて話もあったし。

 ともあれ、映画ではどんなアスランが出てくるのでしょうか!? 楽しみだけど、ちょっとこわい私でした。
 
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朝びらき丸東の海へ新版
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『朝びらき丸 東の海へ』――私の最も好きな巻
 本屋さんの壁に、ナルニア国物語のポスターが貼ってあるのを見ました(ほしい!)。欧米では物語の内容に合わせてかクリスマスに映画公開とのこと、日本でも早く観たいものです。

 と言っても、シリーズ7冊の中で私が一番好きなのは、3冊めの『朝びらき丸 東の海へ』です。英国の伝統的海洋探検小説のかおりがするうえ、東のさいはての海の不思議がすばらしいのです。

 ナルニア・シリーズ全体が、キリスト教の物語という点で、ジョン・バニヤンの『天路歴程』的である、という文をどこかで読みましたが、『朝びらき丸 東の海へ』はこれ1冊でもルイス版『天路歴程』だな、という感じがします。(ただし私は『天路歴程』は第1部しか読んだことがないのですけど)。
 カスピアン王子の一行は、東のはてめざして旅を続ける途中、いろんな島や海域でいろんな人々や事件に遭遇しますが、その一つ一つが何か深く考えさせられるものをふくんでいるからです。
 確かに、お説教臭い、かもしれません(ルイスの作品には信仰心があふれているので、大人が読むとお説教臭いのは当然、というか仕方ないです)。しかし、神の国を求める彼の信仰心が描き出した、まばゆいような異郷の風物や海の描写は、教訓や寓意めいたお説教臭さをじゅうぶん上回ると思います。

 この世の果ての海では、海水がかぐわしい真水になり、行く手から昇る太陽は2倍も大きく明るいのです。眠りも食事も要らなくなる一行は、光に包まれてじょじょにこの世から解脱し即身成仏していく修行者のようです。
 ・・・と、仏教風に表現したくなったのは、東の果ての最後の海域が、純白のスイレンに埋め尽くされているからなのです。もちろん、スイレンは西洋にもあるものですが、どうも私にはこの香りたかい一面のスイレン(蓮じゃないんですけど)に、東洋的な極楽浄土の雰囲気を感じてしまうのです。
 そしてこの世の果てへと惹かれるカスピアン王子の憧れと葛藤。まっしぐらにそこを目ざすネズミの勇者リーピチープ。あまったるい天国とか夢の国をめざすのとは違い、この世を超越した純粋でまばゆい何かに強く惹かれ、その憧れで現世的自分を燃焼し尽くす、その尋常でない浄化こそ、ファンタジーの真髄の一つであると思います。
 そんな意味では、ファンタジーって何か宗教的体験、なのかもしれません。何もキリスト教的な神でなくても、たとえば突然思いついたのですが、宮沢賢治の『ヨダカの星』で、いじめられたヨダカがひたすら天へと羽ばたき、ついには自分の現世的存在を超えて、星になる・・・昇天、浄化。

 朝びらき丸の旅は、そんな強烈な感動体験を与えてくれると思います。
 
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ライオンと魔女改版
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長い長い冬の記憶――『ライオンと魔女』 (2006.1)

 最近の大雪のニュースにはなんだか恐怖すらおぼえますが、そういえば近々公開される映画「ナルニア国物語第1章」の、別世界ナルニアの最初の場面も、深い雪に覆われた冬景色でした。

 この時、ナルニアは「白い魔女」に支配され、「いつも冬のくせに、クリスマスにはならない」(『ライオンと魔女』)状態。
 この魔女は、主人公の4兄妹の一人エドマンドのもとへ初めて現れた時、そりに乗り、白い衣装に身を包んだ、真っ白な顔の女王でした。その様子を読んで私がすぐに思い出したのは、アンデルセンの「雪の女王」です。そりに乗って男の子(カイ)をさらってゆくところ、本来は善なる男の子の心をゆがめてしまうところなどが似ているのです。

 さらにこの魔女は、子供をさらったり凍らせたりする風や雪や氷の精霊というイメージで、ゲルマン系の伝説に出てくる冬の象徴「ホレおばさん」や、宮沢賢治の「水仙月の四日」に出てくる「ゆきばんご」などをも思い起こさせます。

 ところで「いつも冬のくせに、クリスマスにはならない」というのは、意味深な言い方ですね。つまり、クリスマスとはキリストの誕生日であると同時に、古いヨーロッパの伝統では冬のさなかに命の再生を祈願するお祭という意味合いもあるそうですから。
 とすると「いつも冬のくせに、クリスマスにはならない」とは、魔女が、キリスト以前の荒ぶる自然精霊であること、そしてナルニアでのキリストに当たる偉大なるアスランの降臨を阻んでいることを示しています。
 さらに、魔女がナルニアを永遠の冬とするやり方は、気に入らない者を石にしてしまうのと同様、生命を凍結し新しい誕生を阻み、時のめぐりを停止させて自分の力を永遠化することにほかなりません。多くの専制君主や独裁者がついには王権の絶対化や不老不死を望むのと、同じです。

 これに対し、やって来ては去る、あるいは石舞台の上で死んでまたよみがえるアスランは、神という絶対者のあるべき理想を示しています。神様にしろ王様にしろ、権力の座に居続けて力をふるい続ける者は、もはや善ではいられないのです。
 そして、季節がめぐり続けてこそ、生命の循環があり、新しい誕生があります。

 それにしても、長い冬、終わらない冬の恐怖というのは、人間の記憶の根底に刻みつけられているようにも思えます。
 トールキンの「中つ国」の歴史にも「長い冬」がありますし、むかし『竜の冬』(ニール・ハンコック)なんていう動物ファンタジーもありました。中山星香の『フィアリー・ブルーの伝説』では大寒期の到来を予知した人々の運命が描かれます。
 長い長い冬、それはもしかすると太古の人類の祖先が生き抜いた氷河期の遠い残響でしょうか。
 
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