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HANNAのファンタジー気分

HANNAのファンタジー気分

ル=グイン「ゲド戦記」他

アーシュラ・ル=グイン「ゲド戦記」他

読み返してないけど…『影との戦い』ゲド戦記1
こわいけど見たい地下迷宮――『こわれた腕環』ゲド戦記2
魔法が消えてゆく――『さいはての島へ』ゲド戦記3
熟年の二人の第二の人生――『帰還』ゲド戦記4(最後の書)
竜と人間、扇の表と裏――『帰還』ゲド戦記4(最後の書)
世界の完結――『アースシーの風』ゲド戦記5

『闇の左手』――異境で見つめる光と闇と



影との戦い改版

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読み返してないけど…『影との戦い』ゲド戦記1 (2006.1)

 今日はル・グインの『影との戦い』について書こうと思いました。ところがこの本、一度読んで以来、ほとんど読み返していないので、細かい内容が思い出せません。
 初めて読んだのはだいぶ大人になってからで、いろんなところに「『ゲド戦記』はすぐれたファンタジー」として紹介されているので、読んでみなくちゃと思ったんですね。

 第1印象は、「暗い。暗すぎる」でした。ゲドの性格が暗すぎ。はっきりいって私の嫌いなタイプ。
 若いくせに、才能も悩みもすべて自分で全部背負いこんで、自己完結しているんですもの。マジメで高尚で、その道を究めるために一途に進み続ける彼を見ていると、のんびり運まかせタイプの私なんかは、疲れてしまいます。

 そして、クライマックスが、また私好みじゃないんです。自分をおびやかす「影」を逆に追いつめたゲドが、最後に影に向かって「ゲド!」と呼びかけて、合体するところ。
 ほんとに「影」がゲドの半身だったのなら、マイナスならマイナスなりに、何かもっと彼と共鳴してくるものがあると思うのに、今の今まで完全な敵として追いつめておいて、ゲド自身の心の変化の描写もなく、いきなり名を呼んで自分に取りこんでしまうのが、どうも唐突で腑に落ちないんです。
 しかも世界の果ての何もないところで、決闘みたいに1対1で(唯一の友人カラスノエンドウが居てくれるところだけが救いですが、彼はただのお世話係のようにも思えます)。
 こんなにも自分(影)ばかりを気にして追い求めるゲドの心には、誰も近づけない!って気がして、読者としてはさびしいです。

 もっと微妙なやりとりがあって、周囲のあれこれとのからみもあって、その中で、ゲドと影が一体化してほしかったな・・・
 青春時代なのに、あまりにも孤高のゲド。
 第2巻以降の方が、はるかに人間関係が充実していますよね。
 だから映画化はこれではなく第3巻なんでしょうか。
 
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こわいけど見たい地下迷宮――『こわれた腕環』ゲド戦記2

 前回、性格の暗すぎる若きゲドをけなしてしまいましたが、第2巻『こわれた腕環』は、わりと好きです。

 まず表紙を開けたところに迷路のような地下墓地の地図があるところから、惹かれます。あとがきを読むと、この地下迷宮や古代宗教はマヤ文明に似ているそうですが、迷宮というと、ギリシャ神話のクノッソスのラビリンスや、プリデイン物語1『タランと角の王』の渦巻き城(女魔法使いが住んでいます)などが思い出されます。

 地下は闇で、息苦しく、その中で迷うなどと考えただけでも、こわがりの私はキュッとちぢこまってしまいたくなりますが、ヒロインの若き巫女アルハが恐怖と戦いながら地下迷宮を探検していくところは、なかなか面白いです。
 それにまた、そこには忘れ去られた宝物が眠っていたり、天然の水晶や宝石の鉱脈があったりもするのです。
 そして、この古くてこわくて、秘密の宝を隠した地下迷宮は、

  …ここはわたしの場所、わたしの領地ではないか。 ――『こわれた腕環』清水真砂子訳

 つまり、アルハの心そのものなのです。恐ろしい血なまぐさい闇は、彼女の心の闇、秘められた宝物は彼女の心の中にある貴重な精神や気質、だと考えることも出来そうです。

 男性であるゲドは自分自身の闇の分身(影)と追いつ追われつしながらあちこちを旅しましたが、女性であるアルハは、自分自身を探求するのにこのような閉ざされた地下迷宮をさぐらなければならない。
 さすがル・グイン、男女の心の世界をうまく描いているんだなあ、と思いながら、でも、どちらの探求も孤独で厳しいのに、私はアルハの探求の方が好ましく思えるのは、やっぱり私が女だからかなあ、などと思います。

 アルハの自己探求が1巻のゲドと違うのは、後半でこの闇の迷宮に侵入してくる男性(ゲド)の存在です。この本の表紙には杖の灯りをかざしているゲドの姿がありますが、これはユング心理学でいうところの、真理の探究のシンボルです。
 アルハの心に最初に光をともしたのは、彼女自身ではなく、外界から来た見知らぬ男性だったのです。
 そして、彼女の心は激しく揺れ動きます。このあたり、『スター・レッド』の時『白鳥異伝』の時と同様、無敵の少女を揺るがすエイリアン的男性、という図式にぴったりきます。『白鳥異伝』の遠子のように、アルハも、何度もエイリアン的男性(=ゲド)を殺そうとします。

 苦しい葛藤の末、ゲドの手を取ることでおのが暗黒の迷宮を崩壊させ、光の中へ踏み出すアルハは、迷ったり退いたり(大人の女性になった証拠?)しながらも、生き生きとしてステキです。そして、円熟したおじさんであるゲドが、この時点では彼女と結婚せずに、一歩下がって柔らかく彼女を包みこんでいるのが、なぜかほっとできて嬉しいです。
 
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さいはての島へ.jpg

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魔法が消えてゆく――『さいはての島へ』ゲド戦記3 (2006.1)

 ゲド戦記第3巻は、この世の果てへの旅です。大賢人となったゲドと若者アレンが、西の果てまで航海し、さらにこの世とあの世の境を越えて死者の国まで足を踏み入れます。
 西の果てのなまあたたかい海、大海原を漂ういかだを住処とする人々、夜ごとに輝く「終末」の文字の形の星座…など、さいはての景色は不思議に満ちて壮絶に美しいのですが、同じような果てへの航海、たとえば『朝びらき丸東の海へ』(ナルニア国ものがたり第3巻)などに比べると、ゲドとアレンの旅は、狂気と絶望にいろどられて、読んでいても胸苦しい感じです。
 おまけに、禅問答のようなむずかしいやりとりが続いて、私にはすんなり理解できないところもあります。

 そもそもこの巻は、前2巻のようにゲドや巫女アルハの個人的な戦い(成長)とはちがい、世界から魔法が消えてゆく、というスケールの大きな危機をテーマにしています。
 魔術師たちは呪文を忘れ、人々は生きる気力を失って、世界は灰色に色あせ、狂気や諍いが絶えない。…何だか“現代文明の社会的病理”と名づけても通用してしまいそうな、そんな現状。
 その原因は、不死を願う男クモがこの世とあの世の境に穴をあけたから。その穴を通ってクモは不死身となり、死者を呼び出したりしている。その穴を探求しようとする魔法使いたちは皆、魔力をなくして狂気に陥ってしまう。何とも、恐ろしい話です。

  「…やつは死を征服したんだ。おれは知っている。そのことが知りたくて、おれは魔法をゆずり渡してしまったんだから。そうさ、昔はおれも魔法使いだった」 ――『さいはての島へ』清水真砂子訳

 不死の穴に魔力が吸い取られる理屈が、もうひとつ私にはよくのみこめないのですが、ともかく、このような魔法と世界の危機というテーマは、この本の十年後に書かれたミヒャエル・エンデの『はてしない物語』を思い起こさせます。
 『はてしない物語』では、魔法の国ファンタージエンに虚無の穴が虫食い状に開き始め、住人たちがそこへ吸いこまれて「いつわり」や「妄想」となって現実界へ流出していきます。この場合、魔法と世界はより一体化していて、読者にはわかりやすくなっています。
 『さいはての島へ』でクモが呼び出す死者たちは、生前の性質にかかわりなく、無力で無意味な存在です。しかし、乱された自然の摂理が、人々の心に「いつわり」や「妄想」のようなものを生み出してしまうのかもしれません。

 ゲドとアレンは竜の助力を得、死の国へとクモを追い、彼を打ち負かして穴をふさぎます。そして、ゲドは魔力を使い果たして故郷へ、アレンは英雄として王座につくことに。難解で重苦しい旅の結末は、とてもすわりのよい大団円で、ようやく読者をほっとさせます。

 …どんな映画になるのかしら。
(ジブリのHPや新聞に載った絵の、竜、あれはちょっといただけない気がします。ハウルの城でもロボット兵器でもないんだから、あんなつくりものっぽい竜にしないでほしい!)
 
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帰還第10刷改版

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熟年の二人の第二の人生――『帰還』ゲド戦記4(最後の書) (2006.2)

 『帰還』は、前3巻から十八年後に書かれました。1巻で若き魔法使いゲドの成長、2巻で若き巫女アルハ(テナー)の成長、3巻で熟年のゲドと若き王の黄泉くだりと世界の再生、と盛り上がってきて、さてその後。
 魔力を全て失い、故郷へ戻ったゲド。子育ても終わり未亡人となったテナー。そして新たに、身心ともに痛めつけられた少女テルー。

 物語も、前3巻とちがってかなり大人向き、それも、第二の人生を歩み始める熟年の大人から見た世界を描いています。
 出版当時、私はすぐ読んだのですが、正直言ってあまりよく分かりませんでした。ところが、私自身が結婚し子供を育てている今、あらためて読み返すと、中心人物である「おばさん」テナーのいろいろな気持ちが、とてもよく分かるのです。
 たとえば、外を歩きたい時も、テナーは家で眠っている養女のテルーを置いて遠くへは出られない。そこでゲドに、家の近くにいてほしい、と頼むのですが、ゲドが快く引き受けてくれても、彼女は思います。

  なぜ男は女を束縛するさまざまな事態に無頓着でいられるんだろう。…子どもが眠っているときは、だれかがそばにいてやらなくてはいけないのに。 ――『帰還』清水真砂子訳

 こんな日常のありふれた思いを拾いあげていくだけでも、テナーに共感でき、私は第2巻『こわれた腕輪』よりももっと彼女が好きになりました。

 一方、ゲドの方を見てみると、彼は死の世界で魔力を失って生の世界へ戻ったため、すっかりからっぽになり、傷ついて、ふさぎこんでいます。若い頃から魔法を使い、大賢人までのぼりつめたゲドにとって、魔力を失うことは、自分自身のアイデンティティを失うことなのでしょう。
 とすると、これはもう、退職して肩書きのなくなったかつての企業戦士の姿そのものですよね。
 あるいは、指輪を失ったフロド・バギンズ(トールキンの『指輪物語』)。フロドはこの世ではついに癒されず、西の果てへ船出します。
 しかし、ゲドは第二の人生を、テナーとともに歩み始めます。魔法が取れて、やっとふつうの男になった終盤のゲドは、何だか生まれ変わったようにういういしく、ほほえましいです。傲慢で自己完結していた彼が、そんなふうに変わるとは、誰が想像したでしょう。
 
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竜と人間、扇の表と裏――『帰還』ゲド戦記4(最後の書) (2006.2)

 昨年読んだマキリップの『影のオンブリア』に、重要アイテムとして出てきた「扇」。これは、表に繁栄する都市の景色が描かれ、裏には「影のがわ」の都市の輪郭が切り絵で表され、光に透かすと二つの景色が二重写しに浮かび上がるというものでした。

 この美しくも象徴的な「扇」の記憶もまだ新しい先日、ゲド戦記最後の書『帰還』を読み返していて、またもや不思議な「扇」にぶつかりました(前に読んだときにこんな「扇」が出てきたことは、すっかり忘れておりました)。

 これは、テナーが訪ねた村の機織りの家に飾ってある大きな扇で、ハブナーの都(長らく王が不在だったが、昔の玉座がありそしてこの物語では新たに王が即位しようとしている)の風景と、きらびやかな人々が描かれています。
 ところが、壁に飾られた扇をおろしていったん閉じ、裏返して開くと、都のかわりに雲や山の峰が、人のかわりに竜が現れます。
 実は、太古の昔、竜と人間は同じ生き物「竜人」で、翼を持ち「真の言葉」を話していた、という伝説があるのです。そして、

  「明るいほうにすかしてごらん。」
  …テナーが言われたとおりにすると、両面のふたつの絵が絹地をすける光でひとつになり、気がつくと、雲や山の峰々は町の塔になり、男にも女にも翼がはえて、人間の目をした竜がこちらを見ていた。 ――『帰還』清水真砂子訳

 オンブリアの扇とそっくりの仕掛け! このような二重写しの扇って、本当にあるのでしょうか。
 ル・グインは東洋的な思想にも造詣の深い人らしいですから、扇などにも詳しいのかも知れません。そうでなくても、オリエンタル趣味という感じで、西洋のファンタジーに東洋的小道具が不思議なモノとして出てくることは時々あると思います。にしても、日本人である私が、そういう扇について全然知らなかったのがちょっと恥ずかしいです。

 扇は開いたり閉じたりすると絵が現れたり消えたりするし、微妙に光に透けるところも、こういう小道具にはふさわしいのでしょうね。
 こんな扇を見てみたい、いや、持ってみたいものです。
 
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アースシーの風

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世界の完結――『アースシーの風』ゲド戦記5 (2006.2)

 「最後の書」と銘打った『帰還』(5日の日記)のあと、この第5巻が出ました。とりあえず買ったのですが、長いこと読まずに置いてありました。
 正確に言うと、この巻はゲドの話ではありません。ゲドは完全に引退して故郷で余生を送っています。その意味では、「ゲド戦記」はやっぱり4で終わりです。
 『アースシーの風』は、ゲド引退後の、世界の完結といろいろな決着をつける物語で、主人公(語り手)はテナーです。
 ゲドは引退して故郷から動きませんが、第2の人生で彼の妻となったテナーは、最初の家庭生活でゴント島から動かなかったのと逆に、養女のテハヌーに付き添って王都へ行きます。そこで、竜の娘とされるテハヌーや、若い王や、王の花嫁候補である異国の王女、さらにこの巻の事件の発端となった若者ハンノキの、よき相談役として活躍します。まるで、魔法使い時代のゲドのように。

 第3巻(1月30日の日記)で、生と死の世界の扉を封印して両界のバランスを取り戻したはずなのに、第5巻では、そもそもその二つの世界のありかたの根本を問題にしています。生まれ変わりもなく、自由にもなれず、死の世界に閉じこめられてさまようという、そんな死のありようを、作者ル・グイン自身が気に入らなくなったのでしょうか。
 そこで、竜が登場します。ゲド戦記では、人間界で何かゆきづまったり変化を必要とするとき、必ず異分子として竜が登場するのです。竜が直接問題を解決をすることはないのですが、竜の登場によってゆきづまった場に新しい風が吹きこまれ、物語がレベルアップして進んでゆきます。

 生と死のこと、竜と人間のこと、テハヌーの正体、王の結婚と人間世界の統一、などさまざまな問題が解決していきます。いかにも大団円、という感じです。第1巻でいきなり出てきた多くの島々の世界は、一つにまとめあげられます。

 …ちょっとよくまとめすぎじゃないかな、とも思います。
 広大な海に散らばる無数の島々と、多様な人々、それぞれの世界観や風習、西の果てにいる竜、そのもっと果て…など、かなりばらけて空白だらけだったアースシー世界は、だからこそまだまだ広がりがあり奥行きがある、と読者に思わせる余地を持っていたのですが、この巻へきて、自由に想像しうるその空白部分を全部埋められてしまったような感もあります。

 これは、続きものの別世界ファンタジーの最終巻にありがちな「感じ」で、作者が別世界を完結させて閉じようとしているのが、読者に伝わってくるのです。それは作品が完成する喜びとともに、作者の創造行為が終わってしまう寂しさをも感じさせるのです。
 へたをすると、読者が読者なりに空想を広げて楽しんでいたその別世界が、最終巻できゅーっと小さな世界にまとめられてしまい、がっかりする羽目になりかねません。(ナンシー・スプリンガーの「アイルの書」シリーズなんかがそうでした。)

 ゲド戦記は最初の出版からかなりの年月続いてきたわけですし、ゲドもテナーも年を取ったので、終わること自体はわかりますが、ゲドやテナーとともにそれまであったアースシー世界も終わってゆくのが私は少し残念でした。
 特に、最後に家に帰ったテナーが、待っていたゲドに旅の話をするとき、
  「何から話したらいいかしら?」テナーが途方にくれて、言った。
  「順序を逆にたどってみたら?」ゲドが提案した。 ――『アースシーの風』清水真砂子訳

 過去の出来事を古い方から語れば、最後に現在に至って、さらに未来へ続く予感がしますが、テナーは逆に話すのです。話は過去へ過去へとさかのぼり、過去を思い出しながら、二人はほんとうに引退して物語を終えるのです。
 
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『闇の左手』――異境で見つめる光と闇と (2006.1)

 ル・グィンの『ゲド戦記』が映画化されるそうですが、私はこの有名なファンタジーよりも、『闇の左手』が大好きです。特に、一年でいちばん寒い1月に読むとすてきです。
 と言っても、あんまりすごい?作品なので、いまだにちゃんと理解していない、というか、私にはイメージできない部分の多い物語でもあります。

 舞台は「冬」と呼ばれる惑星ゲセン。冬の気候を表す言葉が折々に出てきたり、氷河やクレバスなどの壮大な景色の描写も美しく、シベリアとかアラスカとか、極地探検のドキュメンタリー映像を観ているような気分にひたれます。
 ところが、すばらしい舞台の登場人物たち、つまりゲセン人たちが男でも女でもない人種であるというところが、どうしても私にはイメージしきれないのです。男になったり女になったりする(両性具有)ではなく、どちらの性も持っていない、けれどちゃんと成熟した人間、というのを想像できるでしょうか。

 それに、翻訳の問題もあります。日本語には女性の言葉使いがあるので、性を持たないゲセン人のセリフはどうしても男言葉に聞こえます。
 主要なキャラクターであるゲセン人エストラーベンは、はじめ王の宰相という身分でしゃべるので、男性であるかのようにイメージしてしまいます。ところが食事する時のしぐさが女らしい、などという描写が出てくると、もうそこでエストラーベンという人物が私のイメージの中で破綻してしまいます。

 この惑星を訪れた主人公のゲンリー・アイは、この問題に非常にとまどいながらも、その後、政争に巻きこまれてエストラーベンと氷原を逃避行するうちに、男女や異邦人という差を越えて、相手を理解しようとし、ついにはテレパシーで語りあうほどになります。
 性別のある人種であるゲンリー・アイが語る二元論とその統合は、まるで象徴詩のよう。ほんとうは、性別のある人間の心にも、陰と陽、男性性と女性性がともに存在して補い合っているのでしょうね。

  「…イン(陰)とヤン(陽)。光は暗闇の左手…。これはどういう意味だろう? 光、暗闇。恐怖、勇気。寒、暖。男、女。これはあなたのことだ、セレム〔=エストラーベン〕。二人であり一人である。雪の上の影」  ――『闇の左手』小尾芙佐訳

 恋愛を越えた友情、友情を越えた愛がめばえ、育ってゆくこのあたりは、男性女性にとらわれた恋愛小説に慣れた心には、ほんとうにピュアで感動的なのですが…、いかんせん、男でなく女でない、しかしゲンリー・アイが単なる友情以上の愛を感じたエストラーベンという人物が、私には結局思い描けないのでした。

 ともあれ、物語のところどころに散りばめられたゲセンの民話・神話や、(ちょっと東洋的な)宗教などが、単なる科学的仮想を描いたSFにはないような、哲学的な深みとか象徴性をかもしだしているところが、ファンタジーの真髄にも通じるように思えて、私のお気に入りの一冊です。
 名作ですが、映像化はされていないと思います。でも、だれか名監督または凄腕の漫画家さんがこれを視覚化してくれないかしら、そして貧弱な私のイメージを補ってくれないかしら、などとも思います(実際に映像化されたら見るのが怖いかもしれないですが)。
 (本の表紙さえ、いくつか洋書の検索もしてみましたが、ここに掲げたいというほどのものがありませんでした。)
 
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