|
カテゴリ:カテゴリ未分類
「如月四日、けふハ船出すへしとて告やりけれハ、親しき限りつとひ来りて……かくするうち船子ともの来りて、はや船に乗れ日も暮ぬなといへは、けにやとて傘よ木履とひしめきて皆船迄そ送りける、 ![]() 二月四日、「今日船出する」と知らせると親しい者が集り……そうしていると船頭が来て、「はや船に乗れ、日も暮ぬ」というので、「げにや」と「傘は」「木履は」と騒いで皆船まで見送りをしてくれる。「 ![]() これは、広島多賀庵三世玄蛙が文政五年、吉野・橋立へ旅立ったときの『萍日記』です。先日の記事「小越船」に代って、今度は「 ![]() ![]() ![]() 【平田船】(『岩波日本史辞典』) 平底・薄板構造で喫水の浅い大型河船・近距離海上輸送船。近世には全国の主要河川で用いられ、 ![]() 【太田川の水運と舟宿】 (『広島県大百科事典』) 太田川の水運は近世、県北の鉄や各地の年貢米を城下に運ぶために開けた。明治以後の主要な積み荷は木材や薪炭、竹、鉄道の枕木、各地の特産物(紙、むしろ、柿など)で、舟は大舟または木舟と呼ばれる7枚の板をはり合わせた9m余のひらた舟で、その日の水量により2~3t(最大4t)の荷を積んで広島ヘ下った。舟には前にかいを持つ表乗りが、後ろに櫓をこぐとも乗りがおり、2人で操作した。表乗りが熟練者で、とも乗りは雇人などであった。帰りは、9~3月は川端の「のぼりよ」を「すえもち」と呼ぶ竿で押してのぼり、4~8月は南風を利用して帆を張って帰った。河戸から上流はひき綱で引き上げた。〈幸田光温〉 【 ![]() 長く狭い舟。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007/02/01 10:46:33 PM
|