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言葉を“面白狩る”

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2007/01/22
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カテゴリ:カテゴリ未分類

「如月四日、けふハ船出すへしとて告やりけれハ、親しき限りつとひ来りて……かくするうち船子ともの来りて、はや船に乗れ日も暮ぬなといへは、けにやとて傘よ木履とひしめきて皆船迄そ送りける、といふものゝ苫おし揚て乗移れハ、人々ハ汀に立ならふ、汐時ハまた早けれとも此程の雨に水かさ増れハ、さらハとて纜を解く、声々別を告て急流にさし下せハ、時も移さす宇品のもと船に着く」(文政五年(1822)『萍日記二編』)
二月四日、「今日船出する」と知らせると親しい者が集り……そうしていると船頭が来て、「はや船に乗れ、日も暮ぬ」というので、「げにや」と「傘は」「木履は」と騒いで皆船まで見送りをしてくれる。「」という舟の苫を押し揚げて乗り移れば、人々は汀に立ち並ぶ。汐時にはまだ早いがこのところの雨で川の水かさが増しているので、「さらば」と纜を解くと、声々別れを告げる。急流に乗ってあっという間に宇品の本船に着く。

これは、広島多賀庵三世玄蛙が文政五年、吉野・橋立へ旅立ったときの『萍日記』です。先日の記事「小越船」に代って、今度は「船」が登場します。同様に、この船で川を下り、宇品で本船に乗換えています。「小越船」とは「船」のことかも知れません。

船は平底の川船です。江戸時代に、年貢米などを広島城下に大量輸送するものとして重要な役割を果たしたといいます。

平田船(『岩波日本史辞典』)
平底・薄板構造で喫水の浅い大型河船・近距離海上輸送船。近世には全国の主要河川で用いられ、船とも書かれた。就航する水系により船型や構造を異にし、同名であっても様々な差異があった。
太田川の水運と舟宿(『広島県大百科事典』)
太田川の水運は近世、県北の鉄や各地の年貢米を城下に運ぶために開けた。明治以後の主要な積み荷は木材や薪炭、竹、鉄道の枕木、各地の特産物(紙、むしろ、柿など)で、舟は大舟または木舟と呼ばれる7枚の板をはり合わせた9m余のひらた舟で、その日の水量により2~3t(最大4t)の荷を積んで広島ヘ下った。舟には前にかいを持つ表乗りが、後ろに櫓をこぐとも乗りがおり、2人で操作した。表乗りが熟練者で、とも乗りは雇人などであった。帰りは、9~3月は川端の「のぼりよ」を「すえもち」と呼ぶ竿で押してのぼり、4~8月は南風を利用して帆を張って帰った。河戸から上流はひき綱で引き上げた。〈幸田光温〉
(『大漢和』)
長く狭い舟。







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最終更新日  2007/02/01 10:46:33 PM



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